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【美術解説】金子國義「日本のインテリア・アートの先駆け」

金子國義 / Kuniyoshi Kaneko

日本のインテリア・アートの先駆け


映画「ヘルター・スケルター」で飾られている金子の絵。
映画「ヘルター・スケルター」で飾られている金子の絵。

概要


生年月日 1936年7月23日
死没月日 2015年3月16日
国籍 日本
表現形式 絵画、イラストレーション、写真、デザイン
ムーブメント 昭和アヴァンギャルド
関連人物 澁澤龍彦四谷シモン

金子國義(1936年7月23日 - 2015年3月16日)は日本の画家、イラストレーター、写真家、舞台デザイナー。

 

金子の創作の源泉は部屋の飾り付け、インテリアである。絵を描き出したきっかけは、部屋を飾るためだった。家具ではなく、絵で部屋を飾ることが目的で絵を描き始めた。

 

金子には空間恐怖症というべき日常的な不安があり、自分のまわりを自分の気に入ったもので飾り、その飾り方をあれこれ変えるのも、結局は自分のまわりの空間の落ち着きが悪く、不安だからだろう。絵を描くこともこの空間恐怖症がもとであった。

 

金子の好きなものを一言でいえば、甘酸っぱさである。懐かしいもの、優しいもの、しかし、ただそれだけでなく、その中心に悲しみのようなもの、生きることの悲しみのようなものが混じっている、そいうものが好きだという。

 

デザイン会社退社後、独学で絵を描き始める。その独特の画風が澁澤龍彦の目に留まり、『O嬢の物語』の挿絵を手がけることになる。澁澤の金子評は「プリミティブだ。いや、バルテュスだ」。翌年、澁澤の紹介により青木画廊にて「花咲く乙女たち」を開き、正式に画家としての活動を始める。

 

イタリア旅行の際にジョルジオ・ソアビとの出会いがきっかけで絵本「不思議の国のアリス」を刊行。以後、アリスは金子のイラストレーション作品の代表的なモチーフとなり、また金子自体もアリスに思い入れが大きく、死ぬまでアリスシリーズを描き続ける。

 

90年代には写真家としても活動を始める。「お遊戯」「Drink Me Eat Me」「Vamp」など挑発的な女性のポートレイト写真集を刊行。

 

 

2015年3月16日午後、虚血性心不全のため東京都品川区の自宅で死去。78歳没。

略歴


幼少期


金子國義は1936年7月23日埼玉県蕨市で、父正次郎、母富久のあいだに4人兄弟の末っ子として生まれた。兄弟に長女敏子、長男積行、次男和夫がいる。

 

金子の家は祖母たかを中心とした大家族で、父の兄弟の家族あわせて三所帯総勢13人が一緒に暮らし、祖母が織物工場を経営していた。祖父の正次郎(初代)は日本で最初のカシミア織をはじめた織物業者で、宮内省御用達にまでなったという。

 

こうして金子は幼少の頃から、いろいろな種類の反物のなかに埋もれて育った。ものごころついて最初に意識した色は、母の着物の紅絹裏の赤だった。

 

叔父に連れられた観た東京宝塚劇場で少女歌劇「ローレライ」で、生まれてはじめて西洋の薫りの洗礼を受けた。5歳のとき、夏休みを家族で房州大網で過ごすことになり、そこで滞在中のロシア大使の令嬢と仲良くなり、金子は愛らしく黄金に輝く髪にブルーの眼を持った異国の少女に影響を受けた。金子が描く少女にはどこかこのときに出会った少女が面影をひそめているという。

 

1943年、蕨第一小学校に入学。図画工作と習字が得意だった。全校習字大会で金賞も受けた。戦争が激しくなると栃木県の黒羽に疎開する。疎開先の学校にたどりつく前に渓流があり、金子はその渓流で遊んでいて溺れそうになる。そのときに助けられた見知らぬ若者の全裸の美しいプロモーションが脳裏に焼き付き、のちの少年像、青年像の原型となった。

 

小学校の高学年では、姉の買ってくる中原淳一編集の少女向け雑誌「それいゆ」や「ひまわり」に一緒に読みひたり、センスのいい服を見つけたりすると、すぐに真似て描くようになった。

 

中学生になると、母や兄弟から離れて広い部屋でひとりで寝るようになる。孤独になったことのない金子にとって、ひとりの部屋の空間は大きな変化だった。床についてからスタンドの灯りの下で、映画女優やモード雑誌のマヌカンやバレリーナの絵を、眠くなるまで描き続けた。

 

この頃はじめて金子はいつものモード誌の模写ではない。オリジナルの絵を描いた。これはある種の事件で、その後、もっと美しい想像上の人を描きたいと、気持ちはエスカレートしていった。

 

中学・高校と東京・駒込のバプティスト系ミッションスクールの聖学院に通う。ファッションにこだわりを持つようになり、制服の中に着るシャツを毎日工夫する。勉強よりも着ていく服のことばかり考えるようになった。授業中は教科書の余白にマネキンの顔やハイヒールなどのモード画を描くことに熱中する。

 

また、銀ブラの趣味がはじまり、お決まりのコースは、洋書専門のCIE図書館で外国のモード雑誌や画集を見、GI専用映画館のアニー・パイル劇場で映画の看板、特にイラストと英文字の組み合わせに見とれ、続いて白木屋百貨店の輸入雑貨売場OSSを覗き、最後は喫茶店「ガス灯」。映画にも夢中になる。

 

上野のアメ横にもよくいった。色とりどりの輸入品が並びはじめ、ビスケットの缶や虹色のキャンディーが金子の目を惹いた。そうした外国のタイポグラフィやデザインに憧れ、しげしげと眺めているうちに自然とそのセンスを自分のものにできたという。

 

1954年、「麗しのサブリナ」を観て、コスチューム・ディレクター、エーデス・ヘッドによって、コスチューム・ファッションの魅力に開眼させられる。「ハーパース・バザー」、「ヴォーグ」誌などを買って読み、スタイル画に熱中する。

 

勉強そっちのけで絵を描いていた高校時代、心配した父に「お前は何になりたいんだ」と問われ、金子は「美」の字がついているものばかりに丸をつけた。数日後、金子の父はとりわけ大切にしていた興福寺の阿修羅像と中宮寺の弥勒菩薩の写真を朱塗りの額縁に入れて、金子の部屋に掛け、美術の道に進むことを認めたという。

青年期


1955年、東京藝術大学デザイン科を受験するも失敗して浪人。新橋にある光風会デッサン研究所に通うことになった。1956年、日本大学藝術学部デザイン科に入学するが、教授と意見が合わず学校にはほとんどいかないようになる。

 

そんなとき、舞台美術家の長坂元弘に出会い、同年の1956年に弟子入りすることになる。大学の授業もそこそこに、長坂の家に通い仕事の手伝いや掃除をする日々が始まる。長坂から「いいものをそのまま模倣するところから創作が始まる」と模倣を長坂から教わったという。

 

そして、金子が当時好きな画家であり、長坂の師匠にあたる小村雪岱がおもな手本だった。金子は大学の卒業制作は雪岱の《深見草》をそのまま模写し、「JAPAN」と書き文字して提出するが、担当教授から批判され、棟方志功風にアレンジして再提出して卒業する。

 

18歳から23歳までの5年間は、美大より舞台装置という裏方の世界で大切なことをたくさん学んだ。1957年、若手の舞踊家、脚本家、舞台装置家たちの集まり「二十日会」が結成され、第一回公演が大和ホールで開催される。

 

金子はオスカー・ワイルド「わがままな巨人」に舞台美術家として参加する。その後、1958年に新橋演舞場の東をどりでは「青海波」の舞台美術を担当し、大劇場のプログラムに初めて名前が出た。

 

1959年、23歳のときに初めて生家を出て、一人暮らしをする。麹町二丁目にアパートを借りた。働かなくても生活に困ることのない家だったが、長坂のもとを離れ「じゃあ働いてみよか」という気持ちで銀座にあるデザイン会社へ入社試験を受ける。絵のことは何も言われず面接で「いい靴はいてるね」とか「服のセンスがいい」と言われただけで、金子のみ合格した。

 

入社後、金子は静まり返った職場の雰囲気にあきて、小さなプレイヤーを持参して音楽を鳴らし踊るようになる。それから昼休みはゴーゴー大会になり会社の風紀はいっきにみだれ、入社して三週間で解雇される。

 

その後、スタディオ・グラフィスに入社。ビクターレコードのソノシートのジャケット「ミュージックブック」や「女性セブン」のレイアウトを創刊号から一年手がけて、退社。退社後もデザインの仕事は続けたという。

四谷シモンや澁澤龍彦と出会う


1961年、日宣美にジャン・ジュネの「女中たち」のポスターを作り応募するが落選。当時、選者であった宇野亜喜良だけが金子作品を評価したという。

 

60年代になるとジャズ喫茶に通いはじめる。この時代に白石かずこ、川井昭一、コシノジュンコ、内藤ルネ、本間真夫、篠山紀信、江波杏子、合田佐和子、古田マリ子、栗崎昇らと知り合う。新宿のジャズ喫茶でスパニッシュ・ダンサーの中村タヌコが、16歳の美少年を金子に引き合わせる。その美少年が後の四谷シモンである。

 

1964年4月、麹町のアパートから四谷左門町のアパートへ引っ越す。アパートの先住者が忘れていったのか、押入れの上の戸棚でキャンバスを偶然見つける。閃いた金子はさっそく絵の具や筆を買ってきて、「マッコールズ・マガジン」に掲載れていたお気に入りのプリミティブな肖像画を模写しはじめる。自分流に工夫して納得のいくまで描くことに熱中した。

 

後に金子はこう言っている。「私が絵を描き始めたのは部屋を飾りたいからだった。家具ではなく、絵で部屋を飾りたかった」。金子にとって絵とは「部屋を飾る」ことだった。

 

1965年、その頃に知り合った詩人の高橋睦郎が、澁澤龍彦、矢川澄子夫妻を金子のアパートに連れてくる。澁澤は壁にびっしりかけてあった金子のプリミティブ絵画を見るなり「プリミティブだ。いや、バルテュスだ」と言ってコートも脱がずに話し始めた。この日、金子は澁澤に、父親が届けてくれた即席ラーメンをふるまった。

 

 

後日、金子は鎌倉にある澁澤宅の宴会によばれ、そのときに水玉模様の赤いドレスを着た女の子が虫取り網を持った絵を持参し、賞賛される。この絵はその後、矢上澄子が現在も所有しているという。

 

澁澤から50号の絵と『O嬢の物語』の装幀と挿絵の依頼を受ける。この澁澤からの仕事依頼が金子の転機となった。澁澤のエロティシズムの世界へ導かれ、澁澤は金子が成長するための機会をたくさん与えてくれたという。

 

また澁澤と金子の出会いがきっかけでほかの友人にも大きな刺激となり、川井昭一はレオノール・フィニの絵を巧みに模写し、四谷シモンはそれまでのぬいぐるみを捨てハンス・ベルメール風の人形を作るようになった。いわば澁澤経由で全員がシュルレアリスムの影響を受けた作風に変化していった。

初個展「花咲く乙女たち」


1966年4月、澁澤と青木画廊主人の青木外司が四谷の金子宅を訪れ個展の話になる。翌1967年に初個展「花咲く乙女たち」を開催。展覧会で澁澤は案内状に「花咲く乙女たちのスキャンダル」と題するオマージュを書く。

 

「流行の波の上でサーフィンをやりながら、“造形”だの“空間”だのと口走っている当世風の画家諸君には、私は何の興味も関心もない。ネオンやアクリルは、商業資本の丁稚小僧にまかせておけばよろしい。高貴なる種族の関知するところではなかろう。

 

「私が興味をいだくのは、あのれの城に閉じこもり、小さな壁の孔から、自分だけの光り輝く現実を眺めている、徹底的に反時代的な画家だけである。

 

 金子國義氏が眺めているのは、遠い記憶のなかにじっと静止したまま浮かんでいる、幼年時代の失われた王国である。あのプルーストやカフカが追いかけた幻影と同じ、エディプス的な禁断の快楽原則の幻影が、彼の稚拙な(幸いなるかな!)タブロオに定着されている。正面に視線を固定させたまま、生への期待と怖れから、身体を固く硬ばらせている少年と少女は、ふしぎなシンメトリックな風景のなかで、つねに子宮を夢みているナルシストの、近親相姦的共生の最も素朴なイメージである。

 

 前衛逃亡者の騒々しいスキャンダリズムに不感症になった人は、この歴史とともに古い、俗悪なほど純粋な、痴呆的なほど甘美な「花咲く乙女たち」の桃色のスキャンダリズムに腹を立てるがよい。」 

初個展「花咲く乙女たち」パンフレット。
初個展「花咲く乙女たち」パンフレット。

澁澤龍彦の『夢の宇宙誌』でバルテュスを知る。その本に掲載されていた「ギターの練習」に衝撃を受けたという。またバルテュス自身の趣味の良さと金子にあった点も大きい。

 

ローマのフランス・アカデミー館長に就任して手がけた、ヴィラ・メディチの改装、1962年に来日したときにバルテュスが骨董屋で購入していった桐の箪笥の選び方が的確だったとこと。このようなバルテュスの趣味の良さに金子は共感している。

唐十郎の状況劇場に四谷もも子として出演


1968年、肌を焼くために鎌倉海外に通ったときに、海の家でアルバイト中に日大応援団と懇意になり居候する。彼らはその後、四谷アパートに寝泊まりすることになり、そのイメージは後の写真シリーズ《寄宿舎》の源泉となった。

 

1966年に唐十郎が金子のもとを訪れ、唐が主催する状況劇場への出演の依頼をし、金子は承諾する。金子が状況劇場に出演することになり、澁澤は状況劇場発行の機関紙「SITUATION」に「麗人・金子國義」と題して寄稿した。

 

1967年2月11日「時夜無銀髪風人(ジョン・シルバー)」新宿ピット・インでの公演。金子は四谷もも子の芸名で出演する。数日後、舞台を観た寺山修司から「君を観て、君のために一晩で戯曲を書いたのだよ」という電話がくる。その戯曲とは、のちに美輪明宏が演じた「毛皮のマリー」だった。

 

寺山修司は金子を劇団に誘うが、金国は画業に専念しようと思い始めちたため、演劇は断った。同年5月、草月アートセンターで上演された「ジョン・シルバー 新宿恋しや夜鳴き篇」に四谷シモンとともに女装で出演。

ミラノ個展と「不思議の国のアリス」のイラスト


1970年3月、ミラノから来日していたナビリオ画廊主人カルロ・カルダッツォが、青木画廊での金子の個展を観て、イタリア・ミラノでの個展を依頼する。

 

1971年3月4日から16日まで個展を開催。会期中にほとんどの絵が売れ、イタリア在住の日本人美術家たちとも交流を持つようになる。展示した作品は、画家カポグロッシ、ジェンティリーニ、作家ブッツァーティ、オリベッティ社アート・ディレクターのジョルジュ・ソアビ氏らのコレクションとなった。さらにソアビ氏からオリベティ社のダイアリーにイラストレーションの仕事依頼を受けることになる。これが、金子の代表作の1つとなる絵本『不思議の国のアリス』である。

 

ミラノ在住の彫刻家、熊井和彦と知り合い、彼の家に投宿する。この頃にイタリア文化に目覚め、イタリア料理とワインに興味を持ち始める。

 

1972年に大森へ移る。絵に専念できるように外国人向けの不動産屋で物件を探し、その結果見つかったのが晩年まで居住した大森の家である。大森はドイツ人学校があったため洋館が多く町並みもお気に入りだった。

 

同年6月、金子は六本木のスナック「ジョージ」で事件を起こす。ジュークボックスの音楽にあわせて踊っているうちに、興奮して店内を飛び出し隣の防衛庁の塀の上によじ登ってそこで踊り出す。そこに機関銃を手にした隊員たちが押し寄せ金子は慌てて飛び降り、その際に靭帯を切ってしまう。

 

同年、再びミラノへ訪問。個展の影響は予想をはるかにうわまり大盛況で、開催から既に1年経っていたが、そのときにと落とした波紋がいまだに挽けていく力を失っていなかった。一日おきに貴族や富豪のサロンに招待され、そこで多くのイタリア在住の美術家にあった。また、ソアビからかねてから依頼のあったアート・ダイアリーの打ち合わせをする。そこで『不思議の国のアリス』の挿絵の依頼を受けることになった。

 

アリスの挿絵の仕事になった理由は、金子が知り合った女流画家グラッチェラ・マルキのスケッチブックにリボンをつけた彼女の少女時代の想像画を描いたことだった。金子が描いた少女像を見たグラッチェラは「アリーチェ!(アリス)」叫んだという。

 

そのグラッチェラのスケッチブックに描いた少女像をソアビは彼女から見せてもらったという。こうして、金子はイタリアの少年少女のための『不思議の国のアリス』の挿絵を描くことになった。なお、それまで金子は特に『不思議の国のアリス』に関心があったわけではなかったので、不安な思いもありりつ、この仕事を受けたという。

 

このイラストレーションの仕事は、それまで順調に運んでいた絵画作業からはともて想像できないほど難航をきわめた。物語に忠実に描かなければならないという制約があったためだ。それまで好き勝手描いてきた僕には、人の指図を受けながら作品を制作するということが、かなりプレッシャーになり、この1973年というアリス制作期はひどく気が滅入ったという。

 

二年がかりでようやく完成した。出版された『不思議の国アリス』は、オリベッティ社からイタリア全土の小・中学生に宛てたクリスマスプレゼントとなった。1974年末に金子の手元に届き、その印刷も造本も予想以上に素晴らしい出来栄えの『アリス』を受け取り、気持ちも切り替わってようやく自分自身の作品に没頭できるようになった。

 

また『アリス』をきっかけにして、青空を背景に金子はそれまでの豊満な肉体をさらけだす成熟した女性から、部屋の中を舞台に焦点の定まらない目で痴戯すに耽るあどけない少女たちへと関心を移していった

 

まもなく開かれた個展「お遊戯」では、カタログに載せるエッセイを瀧口修造に寄稿してもらう。「絵のなかの雑記帖」というタイトルだった。瀧口修造は澁澤龍彦とはまた異なる意味でダンディなセンスを持っていたという。

 

「絵が触れる、絵に触れる。気がふれる。ふれるもの、さまざまだ。このふれるものについて、触れてみたいのだが、怪しいものだ。鏡に触れても、鏡はないのと同然である。」

 

■画像元

金子國義の絵本「Alice's adventures in Wonderland」(1974) : ガレリア・イスカ通信 : http://galleriska.exblog.jp/12820721/

金子國義挿絵『不思議の国のアリス』(1974年)
金子國義挿絵『不思議の国のアリス』(1974年)

1975年、酔って階段から転落して肋骨二本骨折する。一週間後に迫った展覧会のために痛みに耐えながら必至に絵を描き上げると絵のモチーフと身体の状況が奇妙な一致を示した。これが《アリスの夢》連作後半の主要なテーマとなる。芸術家は「病気や怪我をすると作風が変わる」という噂があったが、金子はそれがピタリと当てはまった。

 

また、1975年10月、生田耕作から依頼されたジョルジュ・バタイユの『マダム・エドワルダ』の挿絵の仕事は、金子にとって画風を決定的に確立する転機となった。

青年の時代


1980年前後から、青年の肉体がキャンバスの上に多く登場するようになる。「青年の時代」シリーズである。「青年の時代」というタイトルを付けたのは澁澤龍彦だった。ギリシア時代に青年像をテーマにした彫刻時期「青年の時代」があり、そこから引用したものだという。

 

青年を描く機会が多くなった理由の1つは男性舞踏家の存在である。特にルドルフ・ヌレエフに影響を受ける。金子は幼少からバレエを学んでおり、絵画の題材にもバレエを使うことは多かったが、当時のバレエのなかの男性美復権の動きを見て、自分の仕事の上でも青年の肉体の持つ美しさを志向するようになったという。

 

金子は青年像を描くときは、アメリカの1950年代のハイスクールの放課後や少年院の教室の出来事を意識して描いた。キリスト役の少年や、セバスチャン役の少年がキャンバスに登場した。そこには、金子が通っていた聖学院の風景がダブルイメージとなって現れた。

 

女性を描いていた絵が、次第に青年像ばかりになる。そして1982年に渋谷西武で個展「青年の時代」を開催する。「花咲く乙女たち」の油絵から見続けてきた人にとって、過去の「少女」と目の前に現れた「青年」のイメージがすぐには結びつかなかったという。

 

また、並行して1980年9月にラフォーレミュージアム原宿で「アリスの夢 金子國義とバレエ・ダンサーたち」を、1981年1月に渋谷の西武劇場でそれを再構成したバレエ「アリスの夢」を公演。踊りをのぞいて、構成・演出・衣装・ヘア・メイキャップなどほとんど金子が担当し、舞台芸術家として金子は才能を発揮。三日間とも切符は売り切れ、最終日は立ち見を出して、やっと収容できるほどの混雑ぶりだったという。

《ドレッシングルーム》1981年
《ドレッシングルーム》1981年

写真作品集『Vamp(放蕩娘)』


1994年夏、のちの金子の写真作品集『Vamp(放蕩娘)』のモデルとなる和歌と出会う。石膏のように白くてかたい顔、緊張した眉間からすんなり延びきった鼻、結んんだままの唇、突き付けた切っ先のように傲慢な顎、彼女はまさに金子の理想的な顔立ちだった。

 

撮影のために自宅の一室を娼婦部屋に作り変えた。一番イメージに近かったジェーン・マンスフィールドの部屋を参考にしたという。ぬいぐるみや、ゆるいフォルムのスタンド、全体にピンクや薄いブルーの色合い。生活の随所にさりげなくかわいいセンスが光っている。それが娼婦部屋の鉄則だと金子は気づいた。

 

また金子自身が娼婦になって、彼女を娼婦の世界に非込んだ。つまり金子が娼婦のポーズをとり、モデルが同じポーズをし、金子が踊るとモデルも踊るのである。金子を真似るたびシャッターを切るという独特な撮影方法だった。こうしてできたのが処女写真集『Vamp』である。

 

第二写真集『お遊戯(Les Jeux)』姉妹の娼婦という設定だ。まず自分で短編小説「不道徳な娘たち」を書いた。お姉さんは前回に引き続き和歌で、妹役には当時高校三年生だった絵理子をモデルとして起用した。前回と同じく自宅を娼婦部屋にし、バービー人形を100体くらい用意した。その後、2人をローマへ連れていき撮影をした。メイクや衣装を撮影時のままうろうろしたので、本物の娼婦と間違われたという。

 

また同時に男性ヌードも撮影した。モデルは養子の金子修である。

略年譜


■1936年

・7月23日、埼玉県蕨市に生まれる。四人兄弟の末ッ子(兄二人、姉一人)。生家は織物業を営む裕福な家庭で、特別に可愛がられて育った。

 

■1938年

・クレヨンで夕焼けの景色を巧みに描き、母を驚かせる。

 

■1940年

・母と叔父に連れられ、東京宝塚劇場にて、少女歌劇「ローレライ」を観る。

 

■1943年

・蕨第一国民学校(現・蕨北小学校)入学。特に図画工作、習字に秀でる。華やかなものに憧れ、映画に影響をうけて衣装をつけて踊ったり、絵を描くとほとんどリボンをつけた人形だった。

 

■1947年

・学芸会で「月の砂漠」に王子の役で出演。自分のコスチュームを自分なりにデザインする。

 

■1949年

・東京・駒込のミッションスクール、聖学院中学校に入学。「門を入ると西洋だったという感じで、ポーのウィリアム・ウィルスンの世界でした。アーサー・クラークの英国怪奇映画の中にいるみたいで、学校に行くのが愉しくてしょうがなかった」

 

■1950年

・級友で幼なじみの五十嵐昌と銀座教会の日曜学校に通う。この教会に通っていたのが、おしゃれな少年少女ばかりであったのも、教会通いが続いた理由の1つ。

「春先になると誰よりも早く半ズボンを穿きシャツの裾にゴムを入れるような男の子でしたから、日曜学校通いも、おしゃれ志向の現れだったんでしょう。」(『エロスの劇場』)

 

・ソニア・アロアやノラ・ケイの来日バレエ公演を観て憧れ、ひそかにバレエのレッスンにも通う。そのかたわら、古流松濤会の花、江戸千家の茶道も習い始める。

 

■1952年

・聖学院高等学校に進学。映画狂時代。『巴里のアメリカ人』『ローマの休日』などが印象に残る。歌舞伎や新劇にも熱中する。

 

■1954年

・『麗しのサブリナ』のコスチューム・ディレクター、イーデス・ヘッドによって、コスチューム・ファッションの魅力に開眼。『ハーパース・バザー』『ヴォーグ』誌などを洋書店や古本屋で見つけては買って読み、スタイル画に熱中する。

 

■1955年

・東京芸術大学を受験するも不合格。新橋の光風会デッサン研究所に通う。

 

■1956年

・日本大学芸術学部デザイン科入学。しかし遊ぶことが好きだったから、歌舞伎や明治座、新橋演舞場をまわり芝居の稽古ばかりする。

 

■1957年

・若手舞踊家の集まり「二十日会」を結成。第一回公演「わがままな巨人」(大和ホール)で、春陽会・舞台美術部門に入選。

・草月流生け花を習い始める。

 

■1958年

・「東をどり」(新橋演舞場)、「名古屋をどり」(名古屋・御園座)で「青海波」の舞台美術を担当。

 

■1959年

・大学卒業後、東京・麹町で一人暮らしを始める。新宿のジャズ喫茶に通い、川井昭一、四谷シモン、内藤ルネ、本間真夫、白石かずこ、篠山紀信、江波杏子、コシノジュンコらを知る。

 

■1960年

・デザイン会社に入社するが、3ヶ月で解雇。なんとなく音楽が聞こえないと落ち着かないので、仕事中に踊りだし始めたのがクビの理由だった。その後、スタジオ・グラフィスでビクターのソノシートのデザインなどを手がけるも翌年退社。

 

■1964年

・東京・四谷左門町に引っ越す。独学で油絵を描き始める。自分の部屋に絵を飾るために絵を描き始めたのがきっかけ。画家・金子國義となる転機といえる年である。

 

■1965年

・この頃、高橋睦郎、澁澤龍彦らと知り合う。澁澤「プリミティブだ。いや、バルテュスだ」と金子の自室に飾られた作品を見て感想を述べる。

 

■1966年

・唐十郎を知り、その誘いで新宿のジャズ喫茶「ビットイン」公演の状況劇場「ジョン・シルバー望郷篇」の舞台美術を担当、四谷もも子の薬名で女形としても出演。澁澤龍彦の勧めにより個展の準備に入る。

 

■1967年

・状況劇場「ジョン・シルバー望郷編」(新宿ビットイン)の舞台美術・四谷シモンと共演。

・状況劇場「ジョン・シルバー新宿恋しや世鳴き篇」(草月ホール)の舞台美術/李礼仙(李麗仙)と共演。

・銀座・青木画廊にて初個展「花咲く乙女たち」を開催。

 

■1968年

・「唐十郎 愛のリサイタル」(新宿文化劇場)に出演。

・映画『うたかたの恋』の美術を担当。

・夏、鎌倉海岸で出会った日大応援団の面々との交流が、のちの写真シリーズ『寄宿舎』のエスキースとなる。

 

■1969年

・映画『新宿泥棒日記』に特別出演。

 

■1971年

・ミラノ・ナビリオ画廊にて個展開催。

・『婦人公論』1月号より表紙画を担当。

 

■1972年

・東京・大森に転居したのち、脚を骨折。占い師の勧めで、西に方違えをするため再びミラノへ行ったところ、オリベッティ社のアート・ディレクター、ジョルジオ・ソアビに出会う。

 

■1974年

・オリベッティ社より、絵本『不思議の国のアリス』刊行。

 

■1975年

・生田耕作訳『バタイユ作品集/マダム・エドワルダ』の装幀・挿絵を担当。バタイユのエロティシズム溢れる世界は、まるで合わせ鏡で見たような金子の大好きな物語で、その中にあっさりと入り込んでいったとか。

 

■1977年

・『アリスの夢』制作中の2月、自宅階段から落ちて肋骨を折る大怪我。この時に見たレントゲン写真と、主治医からもらった解剖学の書物が、『アリスの夢』に大きな影響を与える。

 

■1978年

・赤木仁が内弟子となる。

 

■1980年

・バレエ「アリスの夢-金子國義とバレエ・ダンサーたち」(原宿ラフォーレミュージアム)の構成・演出・美術を担当。

 

■1981年

・バレエ「アリスの夢」再構成版(西武劇場)を上演。

 

■1982年

・「第二回雀右衛門の会」(草月ホール)、坂口安吾作『桜の森の満開の下』の美術を担当。

 

■1983年

・バレエ「オルペウス」(西武劇場)の構成・演出・美術を担当。

・加藤和彦のアルバム『あの頃、マリー・ローランサン』のジャケットデザインを手がける。

 

■1984年

・5月〜86年9月まで、ハナエモリビル(表参道)のウィンドー・ディスプレイを手がける。

・流行通信別冊・メンズ版『X-MEN』の表紙画を担当。

・コシミハルのアルバム『パラレリズム』のジャケットデザインを手がける。

 

■1987年

・舞台「echo de MIHARU」のパンフレットとステージデザインを担当。

 

■1988年

・雑誌『ユリイカ』1月号より表紙画・装幀を担当。

・加藤和彦のアルバム『ベル・エキセントリック』のジャケットデザインを手がける。

 

■1990年

・映画『シンデレラ・エクスプレス』の宣伝美術、特別出演。

 

■1992年

・銅版画の制作を始める。

 

■1993年

・本格的に写真を撮り始める。

・松山バレエ団公演『シンデレラ』のパンフレット表紙画を手がける。

 

■1996年

・モデルを伴い、イタリアへ撮影旅行。

・「天使の妖精展」をプロデュース。

 

■1997年

・フランスに旅行。滞在中に、マダム・エドワルダをモチーフにしたドローイングを描き始める。

 

■1998年

・東京・神田神保町に「美術倶楽部ひぐらし」を開設。

・国立劇場にて日舞・長唄の「黒髪」を舞う。

・『みだらな扉』の撮影のため、モデル・濱田のり子を伴い、再度フランスへ。

 

■1999年

・NICAF'99 TOKYOに作品出展(早川画廊)。

 

■2000年

・オリジナルの訳文・挿絵による絵本「不思議の国のアリス」を刊行。「僕のアリスは、物語よりもむしろ、ルイス・キャロルが撮ったアリスの写真に触発されて生まれたもの。少女特有の、どこかエロティシズム漂う危険な世界。だから、アリスをちょっと冒険させれば『眼球譚』のシモーヌになるし、さらに大人にすれば『マダム・エドワルダ』になる。そういう具合に、僕の中で、アリス(純粋無垢)、シモーヌ(思春期少女)、エドワルダ(娼婦)は、僕が描きたいものとして自然な流れで循環していく」。

 

■2002年

・オリジナルデザイン浴衣「KUNIYOSHI KANEKO」を京呉館より発表。翌年より毎シーズン新作を発表している。

・アンビエントドラマCD『青空が傍受した少年』、『聖なる脚』のジャケット・デザインを手掛ける。

・CD発売トークイベントに制作プロデューサー・売野雅勇、中村獅童らとともに出演(タワーレコード新宿店)。

 

■2003年

・中村勘三郎からの依頼で、18代目中村勘三郎襲名披露口上の舞台美術(歌舞伎座・大阪松竹座)を担当。

 

■2006年

・『美術倶楽部ひぐらし」が佐野史郎監督の画ニメ作品『つゆのひとしずく』でロケ地として使われる。

・L'Arc~en~Cielのボーカルhydeのソロアルバム『FAITH』のジャケット・デザインを手掛ける。

 

■2007年

・NODA・MAP『ロープ』(Bunkamuraシアターコクーン)で油彩『起源史』、『よこしまな祈り』がポスターとなる。

 

■2015年

3月16日午後、虚血性心不全のため東京都品川区の自宅で死去。78歳没。


■参考文献

・「美貌帖」河出書房

・プリンツ21「金子國義」

・「金子國義の世界」コロナ・ブックス