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【美術解説】レオノール・フィニ「後世の女性芸術家に強い影響を与えた女性シュルレアリスト」

レオノール・フィニ / Leonor Fini 

後世の女性芸術家に強い影響を与えた女性シュルレアリスト


レオノール・フィニ「世界の終わり」(1948年)
レオノール・フィニ「世界の終わり」(1948年)

概要


生年月日 1907年8月30日
死没月日  1996年1月18日
国籍 アルゼンチン
表現媒体 絵画、イラストレーション、著述
ムーブメント シュルレアリスム

レオノール・フィニ(1907年ー1996年)はアルゼンチン、イタリアの画家、ファッション・デザイナー、イラストレーター、作家。力強くエロティックな女性の描写で知られている。

 

正式な美術教育は受けていない。フランスのシュルレアリストたちが彼女の作品に関心を持つようになってから、フィニ自身も芸術家の自覚を強め、シュルレアリストたちと関わるようになった。ただし、彼女自身はシュルレアリストとは考えていなかった。

 

ポートレイト作品が中心だが、身体の半分が獣になっていたり、幻想的な雰囲気で描かれている。また作品の多くは、女性性に焦点を置いた表現で、それらは現代の女性アーティストやフェミニズムにも大きな影響を与えた。

 

たとえば「世界の終わり」では、胸まで水に浸かった彼女の周囲に動物や人間の頭蓋骨が浮いている作品だが、この作品はのちにマドンナに大きな影響を与えており、彼女の2006年のビデオイメージ「Bedtime Story」の源泉となっている。

彼女の最初の主要な個展は1939年にニューヨークのジュリアン・レヴィギャラリーである。フィニは戦前世代のシュルレアリストの1人とみなされ、彼女はほかの同世代よりも長く生きた。

 

肖像作家としても知られており、作家ジャン・ジュネ、アンナ・マニャーニ、映画監督のジャック・オーディベルティ、女優ジュエリーデザイナーのアリダ・ヴァリなど多くの著名人やセレブ、富裕層の注文肖像画を描いている。

 

エルザ・スキャパレッリのもとで働いてるときは香水ボトルのプラダクト・デザイナーを担当。なかでも「Shocking」はスキャパレッリのトップセールスとなった。

フィニがデザインした香水ボトル「Shocking」
フィニがデザインした香水ボトル「Shocking」

略歴


シュルレアリスム運動まで


フィニは、アルゼンチンのブエノスアイレスで、ドイツ、イタリア、アルゼンチン系の血をひく両親の間に生まれた。2歳のときに母親の母国であるイタリアのトリエステに移り、そこで育てられた。

 

父親のエルミニオはハンサムで裕福だったが、極端な宗教観を持つ暴君で、疲れきった母親はレオノールが1歳のときに、彼女を連れてトリエステに逃げた。

 

反抗的だった彼女は、学校を退学し、ヨーロッパの美術館を訪ね、ルネサンスやマニエリスムの絵画を研究したり、叔父の大きな図書館で、ラファエル前派やオーブリー・ビアズリー、グスタフ・クリムト、フランダースのロマン派の画家たちを発見する。 

 

10代前半に目の病気にかかり、両目に包帯を巻かざるを得ななる。回復後、アーティストになることを決意。

 

17歳のとき、トリエステのグループ展で、初めて作品を展示、依頼された肖像画を描くためミラノに招かれる。17歳のときにミラノに移り、ミラノの要人から肖像画の依頼を受け、1929年にギャルリー・バルバルーで初の個展を開いた。

 

1931年から1932年に一時的にパリにも滞在。この頃フィニは、カルト・カッラやジョルジョ・で・キリコといったイタリアの前衛芸術家たちと交流を深めるようになる。

 

また、ポール・エリュアール、マックス・エルンスト、ジョルジュ・バタイユ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ピカソ、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ、サルバドール・ダリとも知り合う。 

 

マンディアルグやカルティエ=ブレッソンらと車でヨーロッパ旅行したり、カルティエ=ブレッソンとスイミングプールでヌード写真の撮影を行った。当時撮影されたフィニのヌード・ポートレイト写真は2007年にオークションで30万5000ドルで販売された。これはカルティエ=ブレッソンの作品のオークションでの最高額となった。

アンリ・カルティエ=ブレッソン「レオノールフィニ,アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ」(1932年)
アンリ・カルティエ=ブレッソン「レオノールフィニ,アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ」(1932年)
アンリ・カルティエ=ブレッソン「レオノールフィニ,トリエステ」(1933年)
アンリ・カルティエ=ブレッソン「レオノールフィニ,トリエステ」(1933年)

グループのメンバーには入らなかったもののシュルレアリスムの展覧会に参加しはじめる。1936年のロンドンの展覧会で初めてその作品をシュルレアリストたちとともに展示した。

 

続く2年間に彼女はエルンスト、ニッシュ、ポール・エリュアール、ブラウネル、ダリやその他のメンバーたちと個人的に親しくなった。1939年、ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊において最初の個展を開催する。

第二次大戦後


第二次世界大戦が勃発すると、モンテカルロやローマで過ごし、1946年に、パリに戻

1949年にフレデリック・アシュトンはフィニが概念化したバレエ「レ・レヴィ・ド・レオノール」の振り付けを担当。作曲にはベンジャミン・ブリテンが起用された。

 

1960年にロンドンのカプランギャラリーで個展を開催、また1968年にハノーヴァーギャラリーに個展を開催した。1986年の夏には、パリのルクセンブルグ美術館で回顧展を開催し、1日に5000人以上の来場者があった。この回顧展では260点以上もの作品が展示された。

 

1987年の春にフィニはロンドン・エディションズ・グラフィック・ギャラリーで個展を開催。1999年にサンフランシスコ現代美術館で開催された「女性シュルレアリストと自己表現展」でフィニはクローズアップされた。

 

フィニは多くの男性と関係を持っていたが、生涯独身だった。彼女はこういっている。

 

「結婚という文字は私になく、人生で一度も一人の男と同棲したことはない。18歳のときからずっと私は常に集団生活をするのが好きで、アトリエをかねた大きな家で、猫や友人たち、恋人ではない男性たちと過ごした。そして常に働いていた。」

 

フィニはよくバイセクシャルと記述されるが、一度だけ短期間、フェデリコ・ヴェネツィアーニと結婚している。

 

画家、舞台美術家、イラストレーターとして、活発な活動を展開。クノッケル・ツォート、カシノ・コミュナーレ、日本、モンタバン、アングル美術館、フェラーラ、パラツィオ・ディ・ディアマンティにて回顧展を開催した。