【美術解説】ジャンヌ・エビュテルヌ「モディリアーニの愛人でありモデル」

ジャンヌ・エビュテルヌ / Jeanne Hébuterne

モディリアーニ・モデル


エビュテルヌの肖像(モディリアーニ)
エビュテルヌの肖像(モディリアーニ)

概要


ジャンヌ・エビュテルヌ(1898年4月6日-1920年1月25日)はフランスの画家、よく知られているのはアメデオ・モディリアーニのモデル、愛人。


エビュテルヌは、フランスのセーヌ=エ=マルヌ県モー群の敬虔なローマ・カトリック教の家族のもとで生まれた。父のアチール・カシミール・エビュテルヌはボン・マルシェ百貨店の従業員だった。


幼少の頃から美しかったエビュテルヌは、画家を志していた兄のアンドレ・エビュテルヌに、当時のパリの前衛芸術家たちが集まるモンパルナスの芸術コミュニティに紹介される。エビュテルヌはレオナード藤田をはじめ、さまざまなモンパルナスの芸術家たちのモデルを務めた。しかしながら、エビュテルヌ自身も芸術を探求したくなり、コラロシ芸術学校に入り、ドローイングを始めるようになる。


1917年の春、ビュテルヌは彫刻家で美術学校のモデルを勤めていたチャナ・オルロフからアメデオ・モディリアーニを紹介される。エビュテルヌはすぐにこのモディリアーニの芸術性に魅了され、2人は恋に落ちる。カトリックの両親の強い反発にもかかわらず、エビュテルヌはユダヤ人のモディリアーニのもとへ移った。


作家のシャルル=ザルベール・サングリアによると、エビュテルヌは穏やかで内気で無口で繊細な女性だったので、モディリアーニの主要なモデルになったという。


1920年1月24日にモディリアーニが、結核性の髄膜炎と、薬物濫用によって惹起された合併症が原因で死ぬと、エビュテルヌの家族は彼女を自宅へ連れ帰ろうとする。しかしエビュテルヌは完全に錯乱状態に陥り、モディリアーニが死んだ次の日の25日に5階のアパートの窓から投身自殺をしてしまう。妊娠中の子どもも亡くなった。


エビュテルヌの家族は自殺の原因であるモディリアーニを非難し、彼女をモディリアーニとは別の場所に埋葬した。10年たって、エビュテルヌの家族は反省し、彼女の遺体をモディリアーニの墓の側に埋葬しなおした。彼女の墓碑には「極端な自己犠牲も辞さぬ献身的な伴侶」と書かれている。


エビュテルヌの作品


「モディリアーニの肖像」
「モディリアーニの肖像」
「セルフポートレイト」
「セルフポートレイト」
「死」
「死」
「静物画」
「静物画」