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【作品解説】バスキアとウォーホル「オリンピック」

オリンピック / Olympics

バスキアとウォーホルのコラボ作品


《オリンピック》ジャン=ミシェル・バスキア、アンディ・ウォーホル(1984年)
《オリンピック》ジャン=ミシェル・バスキア、アンディ・ウォーホル(1984年)

概要


作者 ジャン=ミシェル・バスキアアンディ・ウォーホル
制作年 1984年
メディウム キャンバスにアクリル
ムーブメント 新表現主義ポップ・アート
サイズ 192.72 cm × 310 cm

《オリンピック》は、ジャン=ミシェル・バスキアとアンディ・ウォーホルが1984年に制作した絵画。1984年にロサンゼルスで開催された夏季オリンピックを記念して制作されたものである。

 

本作品は2012年6月に開催されたフィリップスのコンテンポラリー・アート・イブニング・セールで1,050万ドルで落札され、当時、ウォーホルとバスキアのコラボレーション作品としては過去最高額を記録した。

 

オークションで落札されたウォーホルとバスキアのコラボレーション作品としては、《ゼニス》(1985年)に次いで2番目に高価な作品である。

 

アンディ・ウォーホルは、1960年代のポップ・アート・ムーブメントを代表するアーティストとして注目を集めた。彼は、映画、写真、執筆など、さまざまな芸術活動を行った。

 

ファイン・アートや主流の美学との境界線を曖昧にすることで、アメリカが生んだ最も有名な芸術家となったが、1970年代後半には人気が衰えはじめた。

 

しかし、1980年代のニューヨークのアートシーンを席巻していた多くの多作な若手アーティストたちと提携していたこともあり、1980年代に再び成功を収めた。

 

ジャン=ミシェル・バスキアは、「SAMO」という名前でストリート・アーティストとして活動を開始。また、音楽活動にも進出し、実験的なバンド「Gray」を結成。

 

1979年から、彫刻やミクストメディアの作品を制作したり、絵を描いた服を販売するようになる。ウォーホルに憧れていたバスキアは、1979年にレストランで彼と出会う。

 

その後、1982年10月にスイスのアートディーラー、ブルーノ・ビショフベルガーが仲人となって正式に紹介される。その頃、バスキアは新表現主義の絵画でアート界のセンセーションを巻き起こし絶頂期だった。

 

ウォーホルはバスキアのポラロイド写真を撮り、バスキアは《Dos Cabezas》(1982年)というウォーホルの肖像画を制作する。二人はすぐに親しくなり、コラボレーション作品を作るようになった。

 

《オリンピック》は、1983年にビショッフベルガーが3人のアーティストに作品を依頼することを決めたことから始まった。ウォーホル、バスキア、そしてイタリア人アーティストのフランチェスコ・クレメンテである。

 

最終的には、1984年にウォーホルとバスキアの双方向のコラボレーションとなった。

 

長年、シルクスクリーンや酸化絵画を行ってきたウォーホルは、バスキアとの2年間にわたる大規模な共同作品シリーズで、自ら筆を持って絵を描く作業に戻る。

 

しかし、二人の関係は次第にギクシャクしたものになり、1985年9月、ソーホーのトニー・シャフラジ・ギャラリーで開催された二人の共同展『ウォーホルとバスキア:絵画』で頂点に達する。ほとんどが展示に否定的な評価だった。

 

1987年にウォーホルが胆嚢の手術を受けて亡くなると、バスキアは悲しみと罪悪感にさいなまれる。翌年、ヘロインの過剰摂取によりバスキアは亡くなった。

 

二人がコラボレーションするときは、ウォーホルがまずベースとなるものを提供し、そこにバスキアが自分の意見を加えるというのが一般的だった。

 

バスキアは、デイヴィスとジョンストンのインタビューの中で次のように語っている。

 

「ウォーホルは、新聞の見出しや製品のロゴのような、非常に具体的で認識しやすいものを置いて、僕はそれを汚していくような感じだった」

 

ウォーホルはオリンピックの5つのリングのシンボルをオリジナルの原色で表現し、バスキアはその上に彼のアニメーションスタイルで頭部を描いた。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Olympics_(1984_painting)、2021年12月4日アクセス