ポップ・アート / Pop art
漫画や広告など大衆文化のイメージを利用したファイン・アート
概要
大衆文化の図像を使った芸術
ポップ・アートは、1950年代半ばのイギリスと1950年代後半のアメリカで発生した前衛芸術運動である。
広告や漫画、大量生産されたありふれた物など大衆文化のイメージを絵画に取り入れて、伝統的なアートに対抗した。その目的は、多くの場合、(貴族主義やエリート主義ではない)漫画や広告などの大衆文化のイメージを芸術に利用することで、あらゆる文化の平凡でキッチュな要素を皮肉的に強調することにあった。
アンディ・ウォーホルの「キャンベル・スープ缶」のラベルのように、商品のラベルやロゴはポップ・アーティストが選ぶイメージの中でも重要な位置を占めている。
初期のポップ・アーティストでは、イギリスではエドゥアルド・パオロッチやリチャード・ハミルトン、アメリカではラリー・リバーズやロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズなどが認知されている。
日本のポップ・アートシーンでは、まず1920年から1930年代に活躍した古賀春江が先駆的な画家とみなされている。彼の代表的な作品《海》は、日本における近代美術やシュルレアリスム絵画の代表的な作品としてみなされているが、最近の研究で古賀は当時の科学雑誌や絵葉書の写真図版をもとにしていることが明らかになっていることから、現在はポップ・アートの先駆けともみなされている。
ポップ・アートでは、描かれるものが視覚的に本来の文脈から切り離されて独立した状態にあったり、また、本来の文脈とは無関係なものと組み合わせられて描かれることがある。
ポップ・アートは、当時の芸術業界で支配的なスタイルであった抽象表現主義に反発するかたちで始まっている。レディ・メイドの手法を利用している点でダダイズムにも似ている。ウォーホルの「キャンベル・トマトジュース・ボックス」のように、小売用の食品が入ったダンボールと外側のロゴラベルも、ポップアートの素材として使われるためである。
ポップ・アートとミニマリズムは、ポストモダン・アートに先行する芸術運動、あるいはポストモダン・アートそのものの初期の例であると認識されている。
戦後はニューヨークでアンディ・ウォーホルらとともに活動した草間彌生が代表的な画家である。1960年代なかばには、グラフィックデザイナーの横尾忠則が最も成功したポップ・アーティストの1人となり、彼はまた世界における日本のポップ・アートシーンを伝える代表的な芸術家として認知されるようになった。
次いで国際的に知られる日本人ポップ・アーティストは田名網敬一である。その後、1990年代になると村上隆がポップ・アートの文脈を継ぐ作家として世界中に知られるようになった。
ポップ・アートのキーワードは、「ポピュラー」「はかない」「消費財的」「低コスト」「大量生産」「若さ」「洒落ていること」「セクシー」「新しがり」「魅力的」「ビッグ・ビジネス」である。
※注意
ポップ・アート(Pop art):ポピュラー・カルチャー上のイメージを使ったファイン・アート。
ポピュラー・カルチャー(popular culture):大衆文化。雑誌、新聞、マンガなど。
ファイン・アート(fine art):伝統的な絵画、彫刻などの美術。学校の美術や歴史の教科書に掲載されているような古典的作品。
重要ポイント
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代表的なポップ・アーティスト
起源と背景
ヨーロッパとアメリカのポップ・アートの違い
アメリカとイギリスのポップ・アートは異なる展開をしている。
当時のアメリカでは抽象表現主義が主流であり、これに対する反発としてポップ・アートが展開されている。ポップ・アートは抽象表現主義に対する反応であり、そのため、ハードエッジペインティング(隣り合う領域で急激な色の変化がある塗り方)と具象芸術への回帰を目的としていた。
しかし、アメリのポップ・アーティストたちは、抽象表現主義の個人的な象徴や、絵画的なゆるさを和らげるため、没個性的でクールなありふれた現実の大衆社会やアイロニー、そしてパロディの要素を利用する点で伝統的な芸術とは一線を画している。アメリカでは、ラリー・リバース、アレックス・カッツ、マン・レイなどの作品がポップ・アートを先行していた。
一方、戦後のイギリスにおけるポップ・アートの起源は、アメリカと同じくアイロニーやパロディの要素がありながらも、より伝統的でアカデミックなものだった。アメリカのような抽象表現主義に対する反発意識は少なかった。
イギリスにおけるポップ・アートはダダイズムの延長であると同時に否定でもあった。ポップ・アートとダダイズムはいくつかの同じ主題を探求していたが、ポップ・アートはダダイズムの伝統芸術に対する破壊的でネガティブな態度対して懐疑的であり、その代わりにマス・カルチャーの人工物のクールなオブジェを利用した。
また、イギリスは、アメリカのポップカルチャーのダイナミックで逆説的なイメージを、生活全体に影響を与えると同時に、社会の繁栄を向上させるための強力で操作可能な象徴的な装置として焦点を当てている。
ダダイスムは明確に反芸術だったが、ポップ・アートは積極的で、建設的でポジティブなものを見い出していた。
ポップ・アートの先駆者とされるヨーロッパのアーティストは、パブロ・ピカソ、マルセル・デュシャン、クルト・シュヴィッタース、サルバドール・ダリである。
レディ・メイドもポップ・アートの起源
マルセル・デュシャンやフランシス・ピカビア、マン・レイなどのヨーロッパの前衛芸術家は、このムーブメントに先立って活動していた。レディ・メイドはポップ・アートの原型である。
便器や自転車の車輪など、大量生産される日常的な製品を任意に選び、そこに置いただけのレディ・メイドは「これが芸術?」と首をかしげさせるに十分だったが、ポップ・アートもまた新聞、雑誌、広告、写真など身近な大衆メディアや日用品を活用したことで「これが芸術?」というような文脈から現れた。
レディ・メイドが本来の文脈(「泉」であれば男性用便器)から切り離されるのと同じように、ポップ・アートで使われる素材もまた本来の文脈から切り離される。
切り離された対象は、ほかの対象と組み合わせられることで新たな文脈を作る。これはダダイズムやシュルレアリスムで使われるコラージュと同じ手法である。
では、シュルレアリスムとポップ・アートの違いは何か。それは、シュルレアリスムは個性や内面や情緒を重視した表現である。ポップ・アートはその反対で、没個性的で即物的であり内面表現を重視しない。
また、1920年代のアメリカでは、パトリック・ヘンリー・ブルース、ジェラルド・マーフィー、チャールズ・デマス、スチュアート・デイビスらが、ポップ・カルチャーのイメージ(アメリカの商業製品や広告デザインから引用したありふれたもの)を盛り込んだ絵画を制作し、ポップアートのムーブメントをほぼ「先取り」していた。
記号社会とポップ・アート
ポップ・アートは記号社会と大きな関係がある。
現代は「記号の世界」である。記号とは機能を示すもので、記号そのものには意味はない。たとえば信号機の緑が、背後に何の実体を持たずに「進め」を意味するということである。
地図上の〒は郵便局を示す以外に背後に何の実体もない。T社のVという車は、そのスタイルやマークから「あっ、T社のVだ」と即座に判別される。
このように記号は即時的な反応であることが重要である。デュシャンが20世紀のはじめ、便器を既に「レディ・メイド」として芸術の脈絡で置くことによって現代美術の作品としたのは、つまり「あれ、便器だよね?」という既製品の持つこの記号的要素を逆手にとった表現行為だったのである。
アンディ・ウォーホルは、セクシーな女の典型としてマス・メディアによって記号化されたマリリン・モンローをそのまま作品にした。アメリカ国民は、「マリリン・モンローはセクシーである」とすでに誰もが認識しているためである。
モンローは、記号化された虚像が一人歩きすることによって人気となる。本来は虚像の背後には必ず実体があると思いがちだが、現代におけるマス・メディアの発達は、虚像の機能を異常に肥大化して、実像を上回らせた。ここに虚像・記号の時代と呼ばれることの意味があり、またそのような環境に即してポップ・アートが生まれた。
大量消費社会とポップ・アート
記号社会に加え、戦後アメリカの絶頂期の豊かな大量消費社会を反映しているのが特徴である。
アンディ・ウォーホルは人気女優マリリン・モンローや、大量生産品のキャンベルスープ缶のイメージを無限に増殖させるような反復的な絵を描いた。
さらにウォーホルは、自身のアトリエを「ファクトリー(工場)」と呼び、労働者を雇い、シルクスクリーンプリントを大量に作る。工場と同じくアートを大量生産して販売。大量生産する行為をアートにした。
「ビジネス・アートはアートの次に来るステップだ。ぼくはビジネス・アーティストとして終わりたい(アンディ・ウォーホル)」ウォーホルのビジネス・アートは、このあと村上隆やダミアン・ハーストへ受け継がれていく。
イギリス:独立グループ
1952年にロンドンで結成されたインディペンデント・グループ(IG)は、ポップ・アート・ムーブメントの先駆けとみなされている。
彼らは、それまでのモダニズム的な文化へのアプローチや伝統的な美術観に挑戦する若い画家、彫刻家、建築家、作家、批評家たちの集まりだった。彼らは、広告、映画、プロダクトデザイン、漫画、SF、テクノロジーなどの要素が絡み合うポップ・カルチャーに関する議論をしていた。
1952年の独立グループの第1回会合では、共同設立者である芸術家のエドゥアルド・パオロッツィが、1947年から1949年にかけてパリに滞在していた際に制作したコラージュ作品『Bunk!』を使って講演を行った。
広告、漫画のキャラクター、雑誌の表紙など、大量生産されたグラフィックを中心としたレディ・メイドの素材は、アメリカの大衆文化を象徴するものだった。
その中には、パオロッチの《私は金持ちの道具でした》(1947年)というコラージュ作品も含まれていた。この作品には、銃から立ち上る煙の中に「ポップ」という言葉が書かれているが、ここで初めて「ポップ」という言葉が使われた。
1952年にパオロッツィが発表して以来、IGは主にアメリカの大衆文化、特にマス広告のイメージに焦点を当ててきた。
ジョン・マクヘイルの息子によれば、「ポップ・アート」という言葉は1954年に彼の父親がフランク・コーデルとの会話の中で初めて作ったものだと話しているが、ほかにイギリスの批評家ローレンス・アロウェイにあるという説もある(どちらの説も、55年半ばにはインディペンデント・グループの議論の中でこの言葉が使われていたという点では一致している)。
その後、1955年の第2回IGセッションで議論中に「ポップ・アート」という呼称が使われ、次いで1956年にIGメンバーのアリソンとピーター・スミッソンが『Ark』誌に掲載した「But Today We Collect Ads」という記事で「ポップ・アート」という具体的な言葉が初めて出版された。
ただ、この言葉はしばしばイギリスの美術評論家・学芸員であるローレンス・アロウェイが1958年に発表した『芸術とマスメディア』というエッセイに言及されることがある。
そこでは正確には「ポップ・カルチャー」ではなく「ポピュラー・マス・カルチャー」という言葉を使われており、また、アロウェイが当時意味していたことは、現在の意味とは異なる。彼はこの言葉を、大衆文化を利用した芸術作品ではなく、マスメディアの産物を指していた。
1960年、ロンドンで開催された英国王立芸術家協会(RBA)の若手展で、最初にアメリカン・ポップの影響が見られた。
1961年1月に開催された「RBAヤング・コンテンポラリー展」では、デビッド・ホックニー、アメリカ人のR・B・キタジ、ニュージーランド人のビリー・アップル、アレン・ジョーンズ、デレク・ボシアー、ジョー・ティルソン、パトリック・コーフィールド、ピーター・フィリップス、ポーリン・ボティ、ピーター・ブレイクらが注目を集めた。
ホックニー、キタジ、ブレイクの3人は、同年にリバプールで開催された「ジョン・ムーア展」で受賞している。アップルとホックニーは、ロイヤル・カレッジの1961年の夏休みにニューヨークに行き、そこで初めてアンディ・ウォーホルに会ったという。
アメリカ
ポップ・アートは1950年代初頭に始まったが、アメリカでは1960年代に最も大きな盛り上がりを見せた。ポップ・アートという言葉が正式に紹介されたのは、1962年12月、ニューヨーク近代美術館主催の「ポップアート・シンポジウム」がきっかけだった。
この頃、アメリカの広告はモダンアートの要素を多く取り入れはじめ、非常に洗練された大衆芸術に発展していた。そうした背景から、アメリカのアーティストたちは、デザイン性の高い巧みな商業芸術とファイン・アートを区別するためのスタイルを探求する必要があった。
イギリス人は、アメリカの大衆文化のイメージをやや離れたところから眺めていたため、ロマンティックでセンチメンタル、そしてユーモラスなニュアンスが含まれていることが多かった。
対照的に、アメリカのアーティストたちは、大量生産されたイメージの多様性に日々さらされていたため、一般的にはより大胆でアグレッシブな作品を制作した。
ジャスパー・ジョーンズとロバート・ラウシェンバーグは、アメリカのポップ・アートのボキャブラリーを確立する上で重要な画家だった。
ラウシェンバーグは、クルト・シュヴィッタースをはじめとするダダの芸術家たちの初期の作品に影響を受け、「絵画は芸術と生活の両方に関係している」という彼の信念を持ち、彼の時代に支配的だったモダニズムの視点に挑戦した。
レディ・メイド(コンバイン)やポップカルチャーのイメージ(シルクスクリーン)を使って、アメリカの日常で起きている出来事を作品に反映させた。
1962-64年のシルクスクリーン絵画は、「ライフ」「ニューズウィーク」「ナショナルジオグラフィック」などの雑誌の切り抜きをシルクスクリーンで表現したもので、表現力豊かな筆致が特徴である。
なお、ジョーンズとラウシェンバーグの1950年代の作品は、ネオ・ダダと呼ばれることが多く、1960年代初頭に爆発的に広まったアメリカのポップ・アートの原型とは視覚的に一線を画している。
ロイ・リキテンスタインは、アメリカン・ポップ・アートにおいて重要な存在である。彼の作品とそのパロディの使い方は、おそらくほかの誰よりもポップ・アートの大前提を定義しているだろう。
昔ながらのコミック・ストリップを題材に選んだリキテンスタインは、ハードエッジで精密な構図でありながら、同時にソフトでありパロディ化している。
リキテンスタインの代表作である《Drowning Girl》(1963年)は、DCコミックスの「Secret Hearts」83号のリードストーリーを流用したもので、油絵具やマグナペイントが使われている。
リキテンスタインは次のように話す「(抽象表現主義者は)自身のアクションに反応するようにキャンバスに絵具を垂らして、色の位置や大きさを決定する。私のスタイルは全く違うように見えますが、線を引くという性質はほとんど同じです。私の場合、ポロックやクラインのようにカリグラフのようにはなりません」。
リキテンスタインの絵画は、アンディ・ウォーホルやトム・ウェッセルマンらの絵画と同様に、アメリカの大衆文化のありふれたイメージへの直接的な愛着を共有しているが、同時に、大量生産の理想化を明確に示すような非人間的な方法で対象を扱っている。
アンディ・ウォーホルは、ポップ・アートで最も有名な人物だろう。実際、美術評論家のアーサー・ダントーは、ウォーホルを「芸術の歴史が生み出した哲学的な天才に最も近い人物」と呼んでいる。
ウォーホルは、ポップを芸術的なスタイルを超えて生活スタイルにまで高めようとした。しかし、彼の作品には、多くのポップ・アーティストが持つ皮肉やパロディを排除した人間的なきざさの欠落がしばしば見られる。
初期アメリカ展覧会
・クレス・オルデンバーグ、ジム・ダイン、トム・ウェッセルマンは、1959年と1960年にジャドソンギャラリーで最初の展覧会を開き、その後1960年から1964年にかけて、ジェームズ・ローゼンクイスト、ジョージ・シーガルらとともに、マンハッタンの57丁目にあるグリーンギャラリーで展覧会を開いた。
・1960年には、マーサ・ジャクソンがインスタレーションやアッサンブラージュを発表し、「ニューメディア-ニューフォーム」では、ハンス・アルプ、クルト・シュビッターズ、ジャスパー・ジョーンズ、クレス・オルデンバーグ、ロバート・ラウシェンバーグ、ジム・ダイン、メイ・ウィルソンが参加した。
・1961年は、マーサ・ジャクソンの春の展覧会「Environments, Situations, Spaces」が開催された年である。
・1962年7月、アンディ・ウォーホルはロサンゼルスで初の個展をアーヴィング・ブラムのフェルス・ギャラリーで開催し、キャンペルスープの缶を味ごとに32枚描いた絵画作品を発表した。ウォーホルはこの絵画セットをブラムに1,000ドルで売却したが、1996年にニューヨーク近代美術館が入手した際には1,500万ドルの価値がついていた。
・マックス・ファクターJr.の息子であり、アートコレクターであり、前衛文芸誌『ノマド』の共同編集者であるドナルド・ファクターが、同誌の最終号『ノマド/ニューヨーク』にエッセイを寄稿した。このエッセイは、後にポップ・アートと呼ばれるようになるものに関する最初の文献のひとつであるが、当時、ファクターはこの言葉を使っていない。
「4人のアーティスト」というタイトルで、ロイ・リキテンシュタイン、ジェームズ・ローゼンクイスト、ジム・ダイン、クレス・オルデンバーグの4人を取り上げている。
・1960年代、ポップ・アート・ムーブメントと結びついたオルデンバーグは、当時のパフォーマンス・アート関連の作品であるハプニングを数多く制作した。オルデンバーグが自らの作品につけた名前は「レイガン・シアター」で、ルーカス・サマラス、トム・ウェッセルマン、キャロリー・シュネーマン、オイヴィンド・ファールストレム、リチャード・アーツシュヴァーガー、ディーラーのアンニナ・ノセイ、美術評論家のバーバラ・ローズ、脚本家のルディ・ウーリッツァーなどが、彼のパフォーマンスに参加した。
彼の最初の妻であるパティ・ミュシャは、彼の初期のソフトスカルプチャーの多くを縫っており、彼のハプニングには常に出演者として参加していた。ミュシャは、「芸術とは深遠な表現や思想を扱うもの」という一般的な考え方とは一線を画し、しばしばユーモアを交えた大胆なアプローチを行った。
・1961年12月、オルデンバーグは、マンハッタンのローワーイーストサイドにある店舗を借り、ニューヨークのマーサ・ジャクソン・ギャラリーで初めて発表した1ヵ月間のインスタレーション「The Store」では、消費財の形をした彫刻を展示した。
・1962年、ウィレム・デ・クーニングのニューヨークの画商であるシドニー・ジャニス・ギャラリーは、アメリカ、フランス、スイス、イタリアのニュー・リアリズムとイギリスのポップ・アートを交えた新機軸の芸術を打ち出した「ニューリアリスト国際展」を開催した。
展示された54人のアーティストは、リチャード・リンドナー、ウェイン・ティーボー、ロイ・リキテンスタイン、アンディ・ウォーホル、クレス・オルデンバーグ、ジェームズ・ローゼンクイスト、ジム・ダイン、ロバート・インディアナ、トム・ウェッセルマン、ジョージ・シーガル、ピーター・フィリップス、ピーター・ブレイク、オイヴィン・ファールストレム、イヴ・クライン、アルマン、ダニエル・スポエリ、クリスト、ミンモ・ロテラなどだった。
この展覧会をヨーロッパのマルシャル・レイス、ニキ・ド・サンファル、ジャン・ティンゲリーがニューヨークで鑑賞し、アメリカの作品の大きさと見た目に驚かされました。
コレクターのバートン・トレメインが開いたオープニング・ナイトにウィレム・デ・クーニングが現れたが、皮肉にもデ・クーニングの作品を多数所有していたトレメインに追い返されてしまった。
ローゼンクイストはこう振り返る。「尊敬すべき抽象芸術家を追い返したことは、1962年の時点で、ニューヨークの芸術文化をポップ・アート・ムーブメントが支配し始めていたことを証明している。
・その少し前、西海岸では、ニューヨークのロイ・リキテンシュタイン、ジム・ダイン、アンディ・ウォーホル、デトロイトのフィリップ・ヘファートン、ロバート・ダウド、オクラホマシティのエドワード・ルシェ、ジョー・グッド、そして、カリフォルニアのウェイン・ティーボーが「New Painting of Common Objects」展に出品した。このアメリカ初のポップ・アート美術館展は、パサディナ美術館のウォルター・ホップスがキュレーションしたものである。ポップ・アートが美術界を変えようとしていたのである。
・ニューヨークでは1963年にパサデナに続き、グッゲンハイム美術館でローレンス・アロウェイのキュレーションによる「6人の画家とオブジェ」を開催した。
ジム・ダイン、ジャスパー・ジョーンズ、ロイ・リキテンシュタイン、ロバート・ラウシェンバーグ、ジェームズ・ローゼンクイスト、そしてアンディ・ウォーホルが参加した。
この展覧会は、典型的な小さなスーパーマーケットの環境として提示されていたが、農産物、缶詰、肉、壁のポスターなど、そこにあるすべてのものが、アップル、ウォーホル、リキテンシュタイン、ウェッセルマン、オルデンバーグ、ジョンズなど、当時の著名なポップ・アーティストによって制作されたものであった。
このプロジェクトは、2002年にテートギャラリーの「Shopping:A Century of Art and Consumer Culture」の一環として再現された。
1962年になると、ポップ・アーティストたちは、ニューヨークやロサンゼルスのコマーシャル・ギャラリーで展示を始めた。
ロサンゼルスでは、フェラス・ギャラリーがアンディ・ウォーホルを紹介した。ニューヨークでは、グリーン・ギャラリーがローゼンクイスト、シーガル、オルデンバーグ、ウェッセルマンを展示した。
ステーブル・ギャラリーではR・インディアナとウォーホル、レオ・カステリ画廊ではラウシェンバーグ、ジョーズ、リキテンスタイン、マーサ・ジャクソンはジム・ダインを、アレン・ストーンはウェイン・ティーボーを展示した。
グリーン・ギャラリーとフェラス・ギャラリーが閉鎖された後の1966年には、レオ・カステリ画廊はローゼンクイスト、ウォーホル、ラウシェンバーグ、ジョンズ、リキテンシュタイン、ルシェを紹介した。
シドニー・ジャニス・ギャラリーはオルデンバーグ、シーガル、ダイン、ウェッセルマン、マリソルを、アレン・ストーンはティーボーを、マーサ・ジャクソンはロバート・インディアナをそれぞれ担当していた。
1968年、サンパウロで開催された「サンパウロ9展 - Environment U.S.A.: 1957-1967」でポップ・アートに焦点を置いた展覧会「Who's Who」が開催された。
この展覧会は、アメリカのポップ・アート時代の古典的な段階の集大成と考えられている。ウィリアム・サイツがキュレーションを担当した。
参加アーティストは、エドワード・ホッパー、ジェームス・ギル、ロバート・インディアナ、ジャスパー・ジョーンズ、ロイ・リキテンシュタイン、クレス・オルデンバーグ、ロバート・ラウシェンバーグ、アンディ・ウォーホル、トム・ウェッセルマン。
フランス
フランスにおけるポップ・アートやネオダダに相当するものの1つは「ヌーヴォー・リアリズム」である。
ヌーヴォー・リアリズムとは、1960年に美術評論家のピエール・レスタニーと芸術家のイヴ・クラインが、ミラノのアポリネール画廊で開催された第1回目の集団展示会で創設した芸術運動のこと。
ピエール・レスタニーは、1960年4月に「ニュー・リアリズムの構成宣言」と題したグループのオリジナル・マニフェストを書き、「ヌーヴォー・リアリズム-現実を知覚する新しい方法」を宣言した。
この共同宣言は、1960年10月27日にイヴ・クラインのアトリエで、9人によって署名された。
イヴ・クライン、アルマン、マルシャル・レイズ、ピエール・レスタニー、ダニエル・スポエリ、ジャン・ティンゲリーとウルトラ・レトリスト、フランソワ・デュフレーヌ、レイモン・ヘインズ、ジャック・ド・ラ・ヴィルグレの9人で、1961年にはセザール、ミンモ・ロテラ、さらにニキ・ド・サンファルとジェラール・デシャンが加わった。
アーティストのクリストもこのグループに参加していた。1970年に解散した。
造形言語の多様性にもかかわらず、彼らは自分たちの作品の共通の基盤を認識していた。それは、レスタニーの言葉を借りれば、「都市、産業、広告の現実の詩的な再利用」に相当する、現実を直接利用する方法である。
■参考文献