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【美術解説】ジャン=ミシェル・バスキア「アメリカで最も重要な新表現主義の画家」

ジャン=ミシェル・バスキア / Jean-Michel Basquiat

アメリカで最も重要な新表現主義の画家


※1:《無題》1982年。前澤友作所蔵作品。
※1:《無題》1982年。前澤友作所蔵作品。

世界的な美術家であるジャン・ミシェル・バスキアの作品を徹底解説します。彼の生涯、黒人としての立場、そして美術の功績を詳細に解説します。また、彼の作品を語る上で重要な考え方や芸術的な価値観についても解説します。ジャン・ミシェル・バスキアの作品をより深く理解するため、本記事をぜひお読みください。

目次

概要


生年月日 1960年12月22日
死没月日 1988年8月12日
国籍 アメリカ
表現媒体 絵画、グラフィティ、音楽
ムーブメント グラフィティストリート・アート新表現主義
関連人物 アンディ・ウォーホル前澤友作
代表作

黒人警察官の皮肉,1981年

無題(頭蓋骨),1981年

無題,1982年

ジョニー・ポンプの少年と犬,1982年

ミシェル・スチュワートの死,1983年

ハリウッド・アフリカン,1983年

バスキア作品一覧

公式サイト http://basquiat.com/
関連サイト WikiArt(作品)
※2:バスキアの肖像写真
※2:バスキアの肖像写真

ジャン・ミシェル・バスキア(1960年12月22日-1988年8月12日)は、20世紀における最も重要なアメリカ人アーティストの1人。ハイチとプエルトリコ系にルーツを持つ両親の間に生まれる。

 

バスキアは、1970年代後半に、ニューヨーク、マンハッタンのロウアー・イースト・サイドのヒップ・ホップ、ポスト・パンク、非合法なストリート・アートなどが一緒になったアンダーグラウンド・シーンで、謎めいたエピグラム(詩)の落描きをするグラフィティ・デュオ「SAMO」の1人として有名になる。

 

1980年初頭にファイン・アートへ転向する。バスキアの新表現主義の作品は、国際的に認知されるようになり、世界中のギャラリーや美術館で展示されるようになった。21歳でカッセルのドクメンタに最年少で参加。1992年にはホイットニー美術館で回顧展も開催されている。

 

バスキアの芸術観は「金持ち」と「貧乏」「分離」と「統合」「外側」と「内側」など、二分法に焦点を当てて制作する「挑発的二分法(suggestive dichotomies)と呼ばれるものである。

 

バスキアは、歴史的な事件や現代社会問題を主題として、詩、ドローイング、絵画などテキストとイメージを織り交ぜながら、抽象的あるいは具象的に描く

 

バスキアは、自身の内省のツールとして、また、当時の黒人コミュニティでの経験に共感してもらうために、権力構造や人種差別の制度を批判するための社会的メッセージを発信するため絵画を用いた。

 

1988年、27歳のときにスタジオでヘロインのオーバードーズが原因で亡くなって以来、彼の作品は着実に価値を高めている。

 

2017年5月18日のサザビーズのオークションで、実業家の前澤友作がドクロを力強く描いたバスキアの1982年作《無題》を1億1050万ドル(約123億円)で落札。バスキア作品として、またオークションでのアメリカ人アーティストとして最高落札額を更新した。

 

ほかに、バスキア作品を所有している著名人としては、デビッド・ボウイ(ミュージシャン)、マドンナ(ミュージシャン)、レオナルド・ディカプリオ(俳優)、ジョニー・デップ(俳優)、ラーズ・ウルリッヒ(ミュージシャン)、スティーヴン・コーエン(投資家)、ローレンス・グラフ(宝石商)、ジョン・マッケンロー(プロテニス選手)、デボラ・ハリー(ミュージシャン)、ジェイ・Z(ラッパー)などがいる。

重要ポイント

  • 新表現主義の代表的画家
  • 黒人差別問題や社会的問題の要素を含んでいる
  • 前澤友作が作品を1億1050万ドルで落札している

作品解説

《無題(頭蓋骨)》シリーズ


《無題(頭蓋骨)》1981年
《無題(頭蓋骨)》1981年

頭蓋骨に焦点を当てた作品は、バスキアの代表作品の中でよく見られる特徴である。 《無題(頭蓋骨)》シリーズは、バスキアが20歳ころに描いた初期キャンバス作品の一例として評価が高い。

 

ザ・ブロード美術館が所蔵する1981年の《無題(頭蓋骨)》や、前澤友作が所蔵する1982年の《無題(頭蓋骨)》の2枚が代表的な作品であるが、これは、バスキアが7歳のときに母親から渡され影響を受けた『グレイの解剖学』のイメージを基盤に描いている

 

『グレイの解剖学』のほかに、ブードゥー教から影響を受けて制作していると考えれている。頭蓋骨はブードゥー教のシンボルであり、またハイチ人であったバスキアの父が信仰していた宗教だった。

 

無題(頭蓋骨),1981年

無題,1982年

 

黒人やアフリカ系のアイデンティ


※13:《無題(黒人の歴史)》1983年
※13:《無題(黒人の歴史)》1983年

アンドレア・フローネによれば、バスキアの1983年の絵画《無題(黒人の歴史)》は、エジプト人をアフリカ人として再評価し、かつ古代エジプト文明の概念を西洋文明の発祥地であることを示唆しているという。

 

バスキアは絵画の真ん中に、エジプトの神オシリスの導きでナイル川を船でくだるエジプト人の姿を描いている。

 

絵画の右側のパネルには、「 Esclave、Slave、Esclave(奴隷)」という言葉が伏字のようにして描かれている。

 

また、「Nile」という言葉が消されているとフローネは指摘しており、「その言葉は、たぶんエジプト人が黒人で、黒人が奴隷だったことを都合よく忘れようとする歴史学者の行動を、走り書きや伏字のようにして表現している」と批評している。

 

絵画の左側のパネルには2人のヌビア人の顔が描かれている。ヌビア人は歴史的に肌が黒く、エジプト人の奴隷として扱われていたという。

 

そのほかの部分は、大西洋の奴隷貿易のイメージと何世紀も前のエジプトの奴隷貿易のイメージを並列して描いている。中央パネルに描かれいてる鎌は、アメリカの奴隷貿易やプランテーション制度における奴隷労働に対して直接的に言及したものと見なされている。

 

左側のパネルに描かれた「salt(塩)」という言葉は、当時、大西洋の貿易で奴隷とともに取引されていたもう1つの重要な商品だった塩を指している。

 

アメリカにおける黒人差別問題


※14:《黒人警察官のアイロニー》1981年
※14:《黒人警察官のアイロニー》1981年

バスキア作品は、アメリカにおける黒人差別問題を題材にしたものが多い。

 

たとえば、《黒人警察官の皮肉》(1981年)は、アフリカ系アメリカ人が白人社会によって支配されているというバスキアの考えを表現したものである。

 

バスキアはジム・クロウ法(有色人種法)の時代が終わったあと、「制度化された白人社会や腐敗した白人政権」の建設に共謀したアフリカ系アメリカン人の姿を描写しようと考えているうちに、「黒人の警官」という皮肉なコンセプトを発見したという。

 

バスキアによれば、黒人警察官は彼の黒人の友人、家族、先祖たちに同情すべきだが、いまだ警察官は白人社会によって設計された制度に従っている。つまり、バスキアは黒人の警察官に対して「黒い肌だが白い仮面を被っている」と説明している。

 

作品内でバスキアは黒人警察官を「過大な総合力」を示唆するため大きく描いているが、一方で警察官の身体は細分化され、壊れたように描かれている。

 

黒人警察官の頭部を覆うシルクハットは、当時のアフリカ系アメリカ人の白人社会における窮屈で独立した感覚や、白人社会内でにおける黒人警察官自身の窮屈な感覚を象徴している。

 

また、全身のファッションはハイチのブードゥー教において、死神「ゲーデ」を表し、バスキアのルーツであるハイチの伝統文化を引用しているという。

 

ジャズが好き


バスキアはビバップ(モダン・ジャズ)や漫画が大好きで、それらが作品に取り込まれている。

 

バスキアは、《チャールズ・ザ・ファースト》(1982年)、《お金の鳥》(1981年)、《CPRKR》(1982年)、《Discography I》(1983年)、《Horn Players》(1983年)、《Arm and Hammer II》(1984年)、《King Zulu》(1986年)など、30点以上の絵画でジャズ・ミュージシャンやレコーディングについて言及している。

 

1985年、バスキアは『ニューヨーク・タイムズ』誌にこう語っている。「17歳の頃から自分はスターになれるかもしれないと思っていた。自分のヒーロー、チャーリー・パーカーやジミ・ヘンドリックスのことを考えていた......これらの人々がどのようにして有名になったのか、ロマンを感じていたんだ」。

 

※バスキア作品一覧

 

略歴

幼少期(1960-1977)


ジャン=ミシェル・バスキアは、1960年12月22日にニューヨークのブルックリン、パークスロープで生まれた。兄のマックスが亡くなった直後に生まれたという。

 

バスキアは、母マチルダ・アンドラーデス(1934年7月28日ー2008年11月17日)と父ジェラルド・バスキア(1930年ー2013年7月7日)の間に生まれた4人兄弟の次男だった。バスキアの下には、ジーイーン(1964年生まれ)とリセイン(1967年生まれ)という二人の妹がいる。

 

父ジェラルド・バスキアはハイチのポルトープランスで生まれた。母マチルダ・バスキアはニューヨークのブルックリンでプエルトリコにルーツを持つカトリックの家庭に生まれた。

 

母マチルダは大の芸術好きだったので、バスキアは幼いころにによく彼女に美術館へ連れられ、また、ブルックリン美術館のジュニア会員にもされたという。

 

バスキアは4歳までに読み書きを覚える早熟な子どもであり、芸術家としての才能が見られた。バスキアの教師だったホセ・マチャドは、彼に芸術的才能を見い出し、母マチルダもバスキアに芸術的才能を伸ばすよう励ました。

 

1967年にバスキアは、芸術専門の私立校として名高いニューヨークの聖アンズ学校に入学する。この時代に友人マーク・プロッツォと出会い、二人で児童用の本を制作している。プロッツォがイラストを描き、7歳のバスキアが文章を書いている。

 

1968年9月、バスキアは7歳のとき、道路で遊んでいるときに交通事故にあう。腕を骨折し、内臓も破裂する大怪我で、脾臓除去手術を受けることになった。

 

療養中の間、母マチルダはヘンリー・グレイの『グレイの解剖学』をバスキアに手渡す。これがきっかけで、バスキアは解剖学に関心を持つようになる。母が手渡した『グレイの解剖学』は、バスキアの将来の芸術観に大きな影響を与えた。

※3:バスキアに影響を与えたヘンリー・グレイの『グレイの解剖学』
※3:バスキアに影響を与えたヘンリー・グレイの『グレイの解剖学』

同年、バスキアの両親が別居。バスキアと2人の妹は父親に預けられ、家族はブルックリンのボアラム・ヒルで5年間過ごしたあと、1974年にプエルトリコのサンフランへ移る。2年後の1976年に、バスキアの家族は再びニューヨークへ戻った。

 

10歳のとき、バスキアの母は精神病院に入院し、その後、施設内外で彼女は過ごすことになる。 

 

バスキアはスペイン語、フランス語、英語の本を読む多読家であり、11歳までにバスキアは、フランス語、スペイン語、英語を流暢に話すようになっている。また有能なアスリート選手でもあり、陸上競技のトラック競技に出場して活躍した。

 

 

15歳のときに自室でマリファナを吸っているところを父親に見つかり家出をする。ニューヨーク、マンハッタンにあるトンプキンス・スクエアやワシントン・スクエア・パークの公園のベンチで寝たり、LSDを吸って過ごしていたが、警察に逮捕されて父親の保護監察下となった。

 

バスキアは17歳のとき、エドワード・R・マロー高等学校10学年時に退学する。その後、退学した美学生の多くが通うマンハッタンにあるシティ・アズ高校へ転入する。

 

バスキアは友達と一緒に学校をサボったりしていたが、それでも先生に励まされ、学校の新聞に文章やイラストを書くようになる。

 

 

バスキアは偽の宗教を支持するため「SAMO」というキャラクターを作り出した。「SAMO」という言葉は、バスキアと彼の学友であるアル・ディアスとの間で、「Same old shit」という言葉の略語として、プライベートなジョークとして始まったという。彼らはSAMO©を使用して、学校新聞に漫画を連載していた。

 

グラフィティ・ユニット「SAMO」(1978-1980)


1978年、バスキアと友人のアル・ディアスは、「SAMO」というユニットを結成し、匿名下でグラフィティ作品の制作をはじめる。マンハッタンの下層地区の建物に塗装スプレーを使ったグラフィティ・アートを多数描いた。彼らは「SAMO」というペンネームで活動する。

 

このころからバスキアは、SAMOのユニット名で、政治的で詩的なグラフィティを制作するアーティストとして次第に知られるようになる

 

1978年6月、バスキアは校長にパイを投げつけたため、退学処分を受ける。 また、退学が決まったバスキアを父親が家から追い出した。

 

1978年、バスキアは昼のあいだはノーホー区のブロードウェイ718番地の芸術地区にあるユニーク・クロシング倉庫で働き、夜になると近隣の建物にグラフィティ作品を制作して過ごす。

 

ある夜、ユニーク・クロシングの社長ハーベイ・ラッサックが建物に絵を描いている途中のバスキアに偶然居合わす。それから二人は意気投合し、ハーベイはバスキアの生活費を支えるために仕事を依頼するようになる。

 

1978年12月11日、『ザ・ヴィレッジ・ボイス』誌がグラフィティ・アートに特集を組み、SAMOのグラフィティについての紹介記事を掲載した。

 

その後、バスキアとディアスの友好関係が終わると、同時にSAMOのグラフィティ活動も終了する。1979年にソーホーの建物の壁には碑文「SAMO IS DEAD」が刻まれた。

 

1980年6月、バスキアは「High Times」誌に掲載される。これが初めの全国的な出版物だった。グレン・オブライエンによる「Graffiti '80: The State of the Outlaw Art」と題された記事の一部として、バスキアが初めて全米で紹介された。

※4:1978年『『ザ・ヴィレッジ・ボイス』誌グラフィティ特集ののSAMOに関する記事。
※4:1978年『『ザ・ヴィレッジ・ボイス』誌グラフィティ特集ののSAMOに関する記事。
※5:ソーホーの建物の壁に刻まれた碑文「SAMO IS DEAD」。
※5:ソーホーの建物の壁に刻まれた碑文「SAMO IS DEAD」。

バンド活動「Gray」


1979年にバスキアはグレン・オブライエン司会の公衆TV番組「TV Party」に出演し、それがきっかけで二人は親交をはじめ、以後、バスキアは彼の番組に数年間定期的に出演するようになる。

 

やがてバスキアは、スクール・オブ・ビジュアル・アーツの周辺でグラフィティを書くようになり、学生のジョン・セックス、ケニー・シャーフ、キース・ヘリングらと親しくなる。

 

1979年4月、バスキアはカナル・ゾーン・パーティーでマイケル・ホルマンと出会い、ノイズ・ロック・バンド「テスト・パターン」(のちに「Gray」に改名)を結成し、おもにアレーン・シュロス広場で活動する。

 

Grayのほかのメンバーには、シャロン・ドーソン、ニック・テイラー、ウェイン・クリフォード、ヴィンセント・ギャロらがいた。バンドは、マックスズ・カンザス・シティやCBGB、ハレイ、ムッドクラブなどのナイトクラブで演奏をしていた。

 

バスキアは、クラブシーンで活躍していたドイツ人カウンターテナーのクラウス・ノミとも一時的に交際していた。

※6:ノイズバンドGrayで演奏するバスキア。1979年
※6:ノイズバンドGrayで演奏するバスキア。1979年

この頃、バスキアはイースト・ヴィレッジで、バーナード大学の生物学科を卒業した友人アレクシス・アドラーと暮らしていた。 バスキアはアドラーの科学の教科書から借りた化学物質の図をよくコピーしていた。

 

一方、彼女は、床、壁、ドア、家具などを作品に変えていくバスキアの創造的な探求を記録していた。

 

また、友人のジェニファー・スタインとポストカードを作成していた。ソーホーでポストカードを売っていたバスキアは、アンディ・ウォーホルが美術評論家のヘンリー・ゲルダラーと一緒にレストラン「W.P.A.」にいるのを偶然目にして、ウォーホルに「Stupid Games, Bad Ideas」というタイトルのポストカードを売ったという。

 

このときに、ウォーホルはバスキアの才能を瞬時に見抜く。2人はのちにコレボレーション活動を行うようになる。

 

1979年10月、アーリーン・シュロスのオープン・スペース「A's」で、バスキアは作品のカラー・ゼロックス・コピーを使ったSAMOのモンタージュを展示する。シュロスはバスキアがアップサイクルの衣服にペイントを施した「MAN MADE」の服を制作するためこのスペースを使うことを許可する。

 

1979年11月、衣装デザイナーのパトリシア・フィールドが、イースト・ヴィレッジの8番街にある高級ブティックでバスキアの服を取り扱い、また、店のウィンドウに彫刻作品を展示した。

 

映画やミュージックビデオに出演


1980年にバスキアはオブライエンのインディペンデント映画『ダウンタウン81』に出演する。

 

1981年にバスキアはブロンディのミュージックビデオ「Rapture」にナイトクラブのDJ役での出演する。

現代美術家として成功(1980-1985)


1980年代初頭、バスキアはグラフィティ作家から、ドローイングやペインティングを中心とした美術家として本格的に活動をはじめる。

 

バスキアが初めて公的な展示会に参加したのは、1980年にニューヨーク7番街41番地の空き家の建物で開催されたグループ展「タイム・スクエア・ショー」である

 

このグループ展ではほかに、デイビット・ハモンズ、ジェニー・ホルツァー、リー・キュノネス、ケニー・シャーフ、キキ・スミスらが参加しており、Colabやファッション・モーダが後援していた。この展覧会がさまざまな美術批評家や学芸員の目に留まるようになった。

 

ジェフリー・ダイチは『アート・イン・アメリカ』誌の1980年9月号に掲載された「タイムズ・スクエアからの報告」という記事の中でバスキアについて触れている。

 

特にイタリア人ギャラリストのエミリオ・マッツォーリがこの展覧会でバスキアの作品に感動し、バスキアの作品を10枚購入し、その後、バスキアをモデナ(イタリア)に招待して、最初の国際的な個展を開催した。この個展は1981年5月23日から1981年12月まで開催された。

 

1981年2月15日から4月5日まで、ニューヨークのロング・アイランド・シティにあるMoMA PS11で開催された『ニューヨーク・ニューウェーブ』展で、ナイトクラブ「マッド・クラブ」の創設者でアートキュレーターはディエゴ・コルテッツによって紹介された。

 

この展覧会はグループ展で、バスキアのほかにはウィリアム・S・バロウズ、キース・ヘリング、デヴィッド・バーン、ナン・ゴールディン、ロバート・メープルソープなど118人のさまざまな分野のアーティストの作品が展示された。

 

1981年12月、ルネ・リチャードが『Artforum』誌で『眩しい子ども』というタイトルでバスキアを紹介したのがきっかけで、世界中で注目を集めるようになった。この時期、バスキアは捨てられたドアなど、街中で見つけたものに多くの作品を描いていた。

※7:『Artforum』1981年12月号で「眩しい子ども」として紹介されたバスキア。
※7:『Artforum』1981年12月号で「眩しい子ども」として紹介されたバスキア。

新表現主義グループ


1981年9月に、バスキアはアニーナ・ノセイ・ギャラリーと契約を交わし、1982年3月6日から4月1日まで開催される同ギャラリーでのバスキアのアメリカの初個展に向け、ギャラリー内で制作を行う。

 

このころまでにバスキアは、ほかの新表現主義と呼ばれるアーティストらとともに作品を定期的に展示するようになっていた。当時、バスキアとともに活動していた新表現主義作家は、ジュリアン・シュナーベル、デイビット・サル、フランチェスコ・クレモント、エンツォ・クッキらである。

 

バスキアは最初の絵画《キャデラック・ムーン》(1981年)を、パンク・ロック・バンド「ブロンディ」のリードシンガーであるデビー・ハリーに、「ダウンタウン81」の映画に共演した後、200ドルで売却した。

 

また、1981年のブロンディのミュージック・ビデオ「Rapture」では、もともとはグランドマスター・フラッシュが演じるはずだったディスク・ジョッキー役として出演している。

 

当時、バスキアは恋人のスザンヌ・マルークと同棲しており、彼女はウェイトレスとして彼を経済的に支えていた。

 

1981年9月、美術商のアンニナ・ノセイは、サンドロ・チアの勧めでバスキアを自身のギャラリーに招待した。 その後すぐに、彼女のグループ展「パブリック・アドレス」に参加した。また、彼女はバスキアに画材を提供し、さらに自分のギャラリーの地下で仕事をする場所を提供した。

 

1982年、ノセイのはからいで、バスキアはソーホーの101クロスビー・ストリートにあるスタジオを兼ねたロフトに入居することになった。

 

その後、1982年3月にアンニナ・ノセイ・ギャラリーでアメリカ初の個展を開催。

 

1982年3月、バスキアは再びイタリアのモデナに滞在し、2度目の個展を開催する。

 

1982年夏には、バスキアはアンニナ・ノセイ・ギャラリーを離れ、ブルーノ・ビショフベルガーが、バスキアを世界的に売り出すためアートディーラーとなった。

 

1982年6月、21歳のバスキアは、ドイツのカッセルで開催された「ドクメンタ」に最年少で参加し、ヨーゼフ・ボイス、アンセルム・キーファー、ゲルハルト・リヒター、サイ・トゥオンブリー、アンディ・ウォーホルらとともに作品を展示した。

 

1982年9月、ビショッフベルガーはチューリッヒの自身のギャラリーでバスキアの個展を開催した。

 

1982年10月4日、ビショフベルガーはウォーホルと昼食をとる手配した。ウォホールはバスキアについて「家に帰ると2時間以内に、バスキアと私の肖像画を描いた絵を描いて、まだ濡れた状態でもどってきた」と回想してい。その絵《Dos Cabezas》(1982年)は、二人の間の友情に火をつけることになった。

 

また、バスキアは、ウォーホルの『インタビュー』誌の1983年1月号に掲載されたヘンリー・ゲルダーザラーとのインタビューのために、ジェームズ・ヴァン・デル・ジーによって撮影された。

1984年のアンディ・ウォーホル、ジャン=ミシェル・バスキア、ブルーノ・ビショフバーガー、フランチェスコ・クレメンテ
1984年のアンディ・ウォーホル、ジャン=ミシェル・バスキア、ブルーノ・ビショフバーガー、フランチェスコ・クレメンテ

1982年11月、バスキアの個展がイースト・ヴィレッジのファン・ギャラリーで開かれた。展示作品には《専門家のパネル》(1982年)、《Equals Pi》(1982年)などがあった。

 

1982年11月からラリー・ガゴシアンがヴィネツィアやカリフォルニアに建てたギャラリーの一階展示スペースで制作をはじめる。そこでは、1983年3月にウェスト・ハリウッドのガゴシアン・ギャラリーで開催される2回目の展覧会に向けて、一連の絵画作品に着手した。

 

1983年に開催された展示のための絵画シリーズがここで制作されたものだという。ほかにスイスの画商ブルーノ・ビショフベルガーを通じてヨーロッパで作品を展示、販売していた。

 

バスキアは、当時無名の野心家だった歌手マドンナと交際しており、よくギャラリーに連れ込んでいたという。マドンナは1980年代前半に交際していたジャン=ミシェル・バスキアとの写真をインスタグラムに投稿している。

ガゴシアンは当時について「すべてうまくまわっていた。バスキアは絵を描き、私はバスキアが描いた絵を売り、みんな非常に楽しんでいた」と話している。

 

また、「しかし、バスキアはある日、『ガールフレンドが泊まりに来る』と言い出したんです。それで私が「どんな人なの?話すと、彼は、『彼女の名前はマドンナだ、彼女は大物になるぞ』と言ったんだ。あの言葉は忘れられません。そのときのこと決して忘れなかった。その後、マドンナがギャラリーに現れ、数ヶ月間滞在し、私たちは幸せな大家族のように過ごした」と話している。

 

バスキアはウェスト・ハリウッドにあるジェミニ版画工房で、ロバート・ラウシェンバーグが制作していた作品に関心をもち、何度か彼を訪ねて、自身の創作におけるインスピレーションを得ていた。

 

ロサンゼルス滞在中にバスキアが描いた《ハリウッド・アフリカン》(1983年)は、グラフィティアーティストのトキシックやランメルジーと一緒に映っている。

 

バスキアは、《Portrait of A-One A.K.A. King》(1982年)、《Toxic》(1984年)、《ERO》(1984年)などの作品で見られるように、他のグラフィティアーティストの肖像を描くことが多く、ときには共同制作者もいた。

 

1982年、短期間だけバスキアはデビッド・ボウイとコラボレーション作品を制作したこともある。

 

1983年3月、22歳のバスキアは、ホイットニー・ビエンナーレの現代美術展に最年少で参加したアーティストとなった。

 

『インタビュー』誌の編集者であるペイジ・パウエルは、1983年4月にバスキアの作品展を彼女のアパートで開催した。 この頃、バスキアはパウエルと交際を始め、パウエルはウォーホルとの友情を育むのに貢献した。

 

1983年8月、バスキアはノーホーのグレート・ジョーンズ・ストリート57番地にあるウォーホル所有のロフトに入居し、スタジオとしても使用していた。

 

1983年の夏、バスキアはボブ・マーリーのバンドの元ミュージシャンであるリー・ジャッフェを誘って、アジアとヨーロッパを巡る旅に出た。

 

ニューヨークに戻った1983年9月、ダウンタウンのクラブシーンで黒人アーティストを目指していたマイケル・スチュワートが交通警察局に殺されたことに深く影響を受けた。バスキアはこの事件を受けて『改ざん (マイケル・スチュワートの死)』(1983年)を描いている。

 

バスキアはまた、1983年に残されたマイケル・スチュワートの家族のために、ニューヨークの様々なアーティストと一緒にクリスマスの慈善活動に参加している。

 

1984年5月、バスキアはソーホーのメリー・ブーン・ギャラリーで初の展覧会を開いた。

 

主要なバスキア作品の展覧会となったのは、1984年にスコットランドのエディンバラにあるフルーツマーケットギャラリーで開催された『ジャン=ミシェル・バスキア:絵画 1981-1984』で、ロンドンのイギリス現代美術館(1984年)、オランダのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館(1985年)、ドイツのケストナーゲゼルシャフト美術館(1987, 1989年)を巡遊する国際的な展覧会となった。

 

初回顧展は、バスキア死後に1992年10月から1993年2月にホイットニー美術館で開催された『ジャン=ミシェル・バスキア展』である。

 

バスキアはしばしば高価なアルマーニのスーツを着て絵を描き、同じように絵の具が飛び散った服を着て公の場に現れることもあった。

 

バスキアの急速な名声の高まりは、メディアで取り上げられ、「New Art, New Money」と題された特集で『ニューヨーク・タイムズ』誌の1985年2月10日号の表紙を飾った。

『ニューヨーク・タイムズ』誌の1985年2月10日号の表紙
『ニューヨーク・タイムズ』誌の1985年2月10日号の表紙

1980年代半ば、バスキアは年間140万ドルの収入があり、画商から4万ドルの一時金を受け取っていた。成功にもかかわらず、彼の情緒の不安定さが高まり、彼を悩ませ続けた。

 

「バスキアがお金を稼げば稼ぐほど、彼はより偏執的になり、薬物に深く関わるようになった」とジャーナリストのマイケル・シュナイアーソンは書いている。バスキアのコカイン使用は鼻中隔に穴を開けるほど過剰になった。

 

バスキアの友人は、1980年後半にバスキアがヘロインを使用していたと告白したと主張している。

 

同業者の多くは、彼の薬物使用は、新たに得た名声、アート業界の搾取的な性質、白人が支配するアート界で黒人であることのプレッシャーに対処するための手段であると推測していた。

 

音楽プロデュース


1983年にバスキアは、ヒップホップアーティストのラメルジーやK-Robに焦点を当てた12インチのシングルレコードを制作。「ラメルジー  VS K-Rob」と銘打たれたそのレコードには、同じ曲のボーカル版とインストゥルメントの2つのバージョンが収録されていた。

 

このレコードはタートゥン・レコード・カンパニーの一度限りのレーベルから限定500枚で発売された。現存しているレコードは300枚程度で、オークションで$1,500~2,000ドルの値段で取引されていたことがある。

 

カバーはバスキアが担当しており、レコード・コレクターとアート・コレクターの両方で人気を博した。

 

また、バスキアはナイトクラブ「Area」の常連で、楽しみのためにDJとしてターンテーブルの役割を担うこともあった。

※8:Rammellzee VS K-Rob / Beat Bop
※8:Rammellzee VS K-Rob / Beat Bop

アンディ・ウォーホルとのコラボレーション活動


1984年から85年の間は、あまり一般的に美術的評価がされなかったが、バスキアはアンディ・ウォーホルとのコラボレーション活動を重点を置いていた時期だった。

 

ウォーホルとバスキアのコラボレーション作品は多数存在する。 二人のコラボレーションでは、ウォーホルが非常に具体的なものや認識できるイメージから始めたあと、バスキアが彼のアニメーションスタイルでそれを改ざんしていく。

 

スイスの画商ブルーノ・ビショフバーガーの提案により、ウォーホルとバスキアは1983年から1985年にかけてコラボレーション作品を制作している。最も有名なのは1985年に制作された『オリンピック・リング』で、前年にロサンゼルスで開催された夏季オリンピックから影響を受けて制作したものである。

 

ウォーホルは元の原色をレンダリングしたオリンピック五輪のさまざまなバージョンを制作、一方のバスキアは抽象的で様式化した五輪ロゴに反発するようにドローイングを行った。

 

その他のコラボレーションとしては、「Taxi」、「45th/Broadway」(1984-85)、「ゼニス」(1985)などがある。

 

ただ、トニー・シャフラジ・ギャラリーでの共同展示「Paintings」が批評家に酷評され、バスキアがウォーホルのマスコットと呼ばれたことで、二人の友情に亀裂が生じた。

※9:《Olympic Rings》 1985
※9:《Olympic Rings》 1985

晩年(1986-1988)


1985年2月10日、バスキアは「ニューアート、ニューマネー:アメリカン・アーティスト市場」というタイトルの『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』の表紙になった。

 

バスキアはこの時代に芸術家として成功をおさめたが、一方でヘロイン中毒が悪化し、個人的な交友関係が壊れはじめていた

 

当時、バスキアはガールフレンドとしてジェニファー・グッドがいた。彼女は彼の頻繁な溜まり場であるナイトクラブ「エリア」で働いていた。二人の関係の中で、グッドは薬物が自由に使うようになり、バスキアとヘロインを吸引するようになった。

 

1986年1月、バスキアはロサンゼルスに戻り、ガゴシアン・ギャラリーで展覧会を行った。西海岸での最後の展覧会となった。

 

1986年2月、バスキアはジョージア州アトランタのフェイ・ゴールド・ギャラリーでドローイングの展覧会を開催。

 

同月、リムライトアート・アゲイニスト・アパルトヘイトのベネフィットに参加。夏には、ザルツブルグのギャラリエThaddaeus Ropacで個展を開催。秋には、パリで開催されたコム・デ・ギャルソン・オム・プラスのショーで、川久保玲のランウェイを歩いた。

 

1986年10月、バスキアはコートジボワールに飛び、アビジャンのフランス文化会館でブルーノ・ビショフベルガーが企画した作品の展示会に参加した。

 

また、1986年までにバスキアは、ソーホー区にあるアニーナ・ノセイ・ギャラリーから離れ、ソーホーのメアリー・ブーン・ギャラリーで展示するようになる。

 

1986年末、バスキアとグッドは、マンハッタンの薬物治療プログラムに取り組みはじめるが、バスキアは3週間でやめてしまう。人生の最後の1年半、バスキアは世捨て人のような存在になった。

 

1987年2月22日にアンディ・ウォーホルが亡くなると、バスキアは孤立を深め、さらにヘロインに依存するようになり、うつ状態が悪化する。

 

1987年、バスキアはパリのGalerie Daniel Templon、東京のAkira Ikeda Gallery、ニューヨークのTony Shafrazi Galleryで展覧会を開催。

 

また、1987年6月から8月にかけてハンブルグで開催されたアンドレ・ヘラーの「ルナ・ルナ」で観覧車のデザインを担当する。これは、著名な現代アーティストがデザインした遊具が設置された刹那的な遊園地である。

 

1988年1月、バスキアはイヴォン・ランベール画廊での展覧会のためにパリを訪れ、ハンス・マイヤー画廊での展覧会のためにデュッセルドルフを訪れる。 パリでは、コートジボワールのアーティスト、ウアタラ・ワットと親交を深めたという。その年の夏には、ワットの生まれ故郷であるコルホゴを旅する計画を立てる。

 

1988年4月にニューヨークのVrej Baghoomian Galleryで展覧会を開いた後、6月にマウイ島へ移る。帰国後、キース・ヘリングはバスキアと会ったことを報告しており、そのときバスキアはついに薬物依存から脱却したことを喜んで話していたという。また、グレン・オブライエンは、バスキアから電話で「すごくいい気分だよ」と言われたことを覚えている。

 

マウイに旅行している間は薬物はやめていたが、1988年8月12日にマンハッタンのノーホー地区近隣のグレート・ジョーンズ・ストリートにあるスタジオでヘロインのオーバードーズで死去。27歳だった。

 

恋人のケレ・インマンが寝室で倒れているのを発見し、カブリニ医療センターに運ばれたが、到着時には死亡が確認された。

 

バスキアはブルックリンのグリーン・ウッド墓地に埋葬された。葬儀は1988年8月17日にフランク・E・キャンベル葬儀チャペルで行われた。葬儀にはキース・ヘリング、フランチェスコ・クレメンテ、グレン・オブライエン、バスキアの元恋人ペイジ・パウエルなど、近親者や親しい友人が参列した。アートディーラーのジェフリー・ダイチが弔辞を述べた。

 

1988年11月3日、サンピエトロ教会で追悼式が行われた。ミュージシャンのジョン・ルーリーやアルト・リンゼイ、キース・ヘリング、詩人のデビッド・シャピロ、グレン・オブライエン、バスキアがかつて所属していたバンドのメンバーなど、300人のゲストが参加した。

 

キース・ヘリングは故人を偲び、ジャン=ミシェル・バスキアのために《A Pile of Crowns》という絵画を制作した。ヘリングは『ヴォーグ』に寄稿した追悼文で次のように述べている。

 

「彼は本当に10年で生涯分の作品を作った。貪欲に、彼が他にどんな作品を作っただろうか、彼の死によって騙されていた傑作があるだろうかと私たち考えますが、実際には、彼は何世代にもわたって興味をそそるだけの作品を作っています。彼の貢献の大きさは、今になってようやく人々に理解されるようになりました」。

 

バスキアの遺産は、父ジェラール・バスキアが管理している。ジェラールはまたバスキア作品を鑑定する委員会を監督し、1993年から2012年のあいだに1000以上の作品鑑定を行った。鑑定された作品の多くはドローイング作品だった。

※12:1983年から1988年までバスキアが過ごした、マンハッタン・ダウンタウンのグレート・ジョーンズ・ストリート57番地にあるスタジオ。ここではバスキアは亡くなった。2016年7月13日、グリニッジビレッジ歴史保存協会によりバスキアの人生を捧げる盾が置かれた。
※12:1983年から1988年までバスキアが過ごした、マンハッタン・ダウンタウンのグレート・ジョーンズ・ストリート57番地にあるスタジオ。ここではバスキアは亡くなった。2016年7月13日、グリニッジビレッジ歴史保存協会によりバスキアの人生を捧げる盾が置かれた。

バスキアの芸術表現


美術評論家のフランクリン・サーマンスは、バスキアが詩、ドローイング、ペインティングを使い、テキストとイメージ、抽象化と具象化、歴史的情報と現代的な批評を融合させたと分析している。

 

バスキアの社会評論は、植民地主義を批判し、階級闘争を支持するという、鋭く政治的で直接的なものだった。

 

美術史家のフレッド・ホフマンは、バスキアがアーティストを自認する根底には、「外界に対する自分の認識を本質的な部分まで抽出し、それを創造的な行為を通じて外に投影する、神託のような機能を果たす生来の能力」があったと仮説を立てている。

 

バスキアのアートは、富と貧困、統合と隔離、内面と外面の経験など、繰り返される「示唆に富む二項対立」に焦点を当てていた。

 

バスキアは、ファイン・アーティストとしてのキャリアをスタートさせる前、パンク風のポストカードを制作して路上で販売したり、SAMOという名前で政治的・詩的なグラフィティを描いたりするなどストリート・アーティストとして知られていた。

 

バスキアは、他人の服をはじめた、ランダムにいろんな物や表面に絵を描くことが多かった。さまざまなメディウムを組み合わせることは、バスキアの芸術に不可欠な要素である。

 

また、彼の絵画は、言葉、文字、数字、ピクトグラム、ロゴ、地図記号、図表など、あらゆる種類の記号体系が使われている。

 

バスキアはおもにテキストを参考資料として使用していた。彼が参考にしていた本は、『グレイズの解剖学』、ヘンリー・ドレフュスの『シンボル・ソースブック』、レイナル・アンド・カンパニー発行の『レオナルド・ダ・ヴィンチ』、バーチャード・ブレンチェスの『アフリカン・ロック・アート』、ロバート・ファリス・トンプソンの『フラッシュ・オブ・ザ・スピリット』などである。

 

1982年後半から1985年にかけての中間期には、複数のパネルで構成されたペインティングや、木枠がむき出し状態なったキャンバスが現れ、表面には書き込みやコラージュ、イメージがびっしりと描かれている。

 

また、1984年から1985年にかけては、バスキアとウォーホルのコラボレーションが活発な時期でもあった。

 

ドローイングと絵画について


短い生涯のうちにバスキアは1500枚のドローイング作品、600枚の絵画、そのほかに彫刻やさまざまなメディウムを利用した作品を制作している。

 

バスキアは絶えず絵を描いており、紙が手元にないときは、しばしば周囲にある適当なものに直接描いていた。

 

幼少期からバスキアは、ファッションデザインやスケッチなど美術趣味があった母親と一緒にマンガ風の絵を描いていたいう。

 

バスキアのドローイングは、インク、鉛筆、フェルトペン、マーカー、オイルスティックなど多くの異なるメディウムを使って制作されている。ときどき、自身のドローイング作品の断片をゼロックスコピーを使って、大きな絵画作品のキャンバスに貼り付けることもあった。

 

バスキアのペインティングとドローイングが初めて公開されたのは、1981年にMoMA PS1で開催された『New York/New Wave』展だった。

 

この展覧会を見たルネ・リカールが「輝くような子ども」と題してアートフォーラム誌に寄稿したことで、バスキアは美術界で注目されるようになった

 

バスキアは、《無題 (Axe/Rene) 》(1984年)と《René Ricard》(1984年)という2つのドローイングで、リカールに不朽の名声を与えた。

 

詩人であると同時に芸術家でもある彼のドローイングやペインティングには、人種差別奴隷制度1980年代のニューヨークの人々ストリート・シーン黒人の歴史上の人物有名なミュージシャンやアスリートなど、直接的な言葉が多く登場する。

 

バスキアのドローイングは無題であることが多いため、作品を区別するためにドローイングの中に書かれている言葉を無題の後に括弧で付け加えるのが一般的である。

 

バスキアの死後、彼の遺産は父親のジェラール・バスキアが管理している。彼は美術品の鑑定を行う委員会を監督しており、1994年から2012年まで2000点以上の作品の鑑定を行ったが、その大半はドローイングだった。

※10:《無題( (Axe/Rene) 》1984年
※10:《無題( (Axe/Rene) 》1984年

バスキアにとっての英雄や聖人


バスキアの作品では、歴史的に著名な黒人の人物を英雄や聖人として描くことが重要なテーマとなっている。初期の作品では、英雄や聖人を区別するために、王冠や光輪を描くことがよくあった。

 

彼の友人でありアーティストのフランチェスコ・クレメンテは次のように述べている。

 

「バスキアが描く王冠には3つの突起があるが、それは詩人、音楽家、偉大なボクシングチャンピオンという3つの王族の血統を表している。また、バスキアは趣味や年齢にとらわれず、自分が強いと見なしたものに対して注意を払った」。

 

ビルバオ・グッゲンハイムでのバスキアの展覧会を批評したアート・デイリーは、次のように述べている。

 

「バスキアの王冠は変化しやすいシンボルで、あるときは光輪、あるときは茨の冠となり、しばしば聖人の地位と密接に結びつく殉教を強調している。バスキアにとって、これらの英雄や聖人は戦士であり、時折、勝利のために腕を上げて勝利している姿を表現している」。

 

バスキアは特にビバップのファンで、サックス奏者のチャーリー・パーカーをヒーローとして挙げていた。

 

 バスキアは「チャールズ・ザ・ファースト」(1982年)や「ホーン・プレイヤーズ」(1983年)、「キング・ズールー」(1986年)などの作品で、パーカーや他のジャズ・ミュージシャンを頻繁に言及している。

 

 美術史家のジョルダナ・ムーア・サジェスは、「バスキアは、近代絵画の巨匠たちを参考にしたのと同じように、ジャズ音楽からインスピレーションを得ていた」と話している。

 

解剖学と頭部


バスキアは、7歳で入院していたときに母親からもらった『グレイの解剖学』という本に影響を受けている。

 

《肉体と精神》(1982-1983年)で見られるような人体解剖の描写や、イメージとテキストの混合にもこの本は影響を与えている。

 

美術史家のオリヴィエ・バーグリューンは、バスキアの解剖学的な作品『解剖学』(1982年)に関して次のような述べている。

 

「有機的な全体像が消えてしまった後の、損傷、傷、断片、不完全、引き裂かれたような身体の美学を作り出す」という脆弱性の主張を見出している。逆説的に言えば、このような表現を生み出す行為こそが、アーティストと彼の自己意識やアイデンティティとの間にポジティブな身体的価値観を呼び起こす」。

 

頭部と頭蓋骨は、バスキアの最も重要な作品の多くにおいて、重要な焦点となっている。

 

《無題 (金の上の2つの頭)》(1982年)や《フィリスティーネス》(1982年)などの作品に登場する頭部は、アフリカの仮面を彷彿とさせ、文化の再生を示唆している。

 

この頭蓋骨は、ハイチのヴードゥー教を暗示している。《レッド・スカル》(1982年)と《無題》(1982年)は、その典型的な例といえるだろう。

 

マーケット


バスキアは1981年に歌手のデビー・ハリーに最初の絵を200ドルで販売した。イタリア人アーティストのサンドロ・キアの助言を受けたギャラリストのエミリオ・マッツォーリは、バスキアの作品10点を1万ドルで購入し、1981年5月にモデナの彼のギャラリーで展覧会を開催した。

 

新表現主義美術のブームに後押しされた1982年は、バスキアの作品は大きな需要があり、彼の最も価値のある年とされている。

 

オークションで最も高く売れる絵画の大半は1982年のものである。この年を振り返って、バスキアは「お金があったから、これまでで最高の絵を描いた」と語っている。1984年には、2年間で彼の作品の価値が500%上昇したと報じられた。

 

1980年代半ば、バスキアはアーティストとして年間140万ドルの収入があった。1985年には、彼の絵画は1枚1万ドルから2万5千ドルで販売されていた。

 

国際的なアート市場で名声を得たバスキアは、1985年に『ニューヨーク・タイムズ』誌の表紙を飾ったが、これはアフリカ系アメリカ人の若手アーティストとしては前例のないことだった。

 

1988年にバスキアが亡くなって以来、彼の作品価格は美術市場全体のトレンドに沿って安定的に発展してきたが、2007年に美術市場のブームが始まると、バスキアの作品は世界的なオークションの波に乗り、落札額が1億1,500万ドルを超え、劇的なピークを迎えた。

 

クリスティーズの副会長であるブレット・ゴービーは、バスキアのマーケットについて「二層構造になっている。最も欲しがられるのはレアな作品で、一般的には最高の時期である1981年から83年に制作されたものです」と述べている。

 

2002年まで、バスキアのオリジナル作品の最高額は、1998年にクリスティーズで落札された《Self-Portrait》(1982年)の330万ドルだった。

 

2002年、バスキアの《Profit I》(1982年)がクリスティーズで、ヘビーメタルバンド「メタリカ」のドラマー、ラーズ・ウルリッヒによって550万ドルで落札された。このオークションの様子は、2004年に公開された映画『メタリカ:Some Kind of Monster』に収録されている。

 

2007年から2012年にかけて、バスキアの作品の価格は1630万ドルまで着実に上昇し続けた。2012年に「無題」(1981年)が2,010万ドルで落札されたことで、バスキアの市場は新たな成層圏に達した。

 

すぐに彼の他の作品がその記録を上回りはじめた。2012年11月には、漁師を描いた別の作品《Untitled》(1981年)が2640万ドルで落札された。2013年5月には、クリスティーズで《Dustheads》(1982年)が4880万ドルで落札された。

 

2016年5月、悪魔を描いた《無題》(1982年)がクリスティーズで日本の実業家・前澤友作に5730万ドルで落札された。

 

翌年2017年5月、前澤はバスキアの、赤と黄色のリヴューが入った黒い頭蓋骨を力強く描いた《無題》(1982年)もオークションで1億1050万ドルという記録的な価格で落札した。

 

アメリカのアート作品としては史上最高額であり、オークションで落札されたアート作品としては、2013年に1億500万ドルで落札されたアンディ・ウォーホルの《Silver Car Crash (Double Disaster)》を抜いて6番目に高額な作品となった。

 

2018年5月、《フレキシブル》(1984年)が4530万ドルで落札され、バスキアの83年以降の絵画としては初めて2000万ドルを突破した。 

 

2020年6月、《無題(頭部)》(1982年)が1520万ドルで落札されたが、これはサザビーズのオンライン・セールでの記録であり、バスキアのペーパー作品としての記録でもある。

 

2020年7月、ロイック・グーザーのアプリ「Fair Warning」は、紙に描かれた無題のドローイングが1080万ドルで落札されたと発表したが、これはアプリ内での購入としては過去最高額である。

 

同年初旬、アメリカの実業家ケン・グリフィンは、アートコレクターのピーター・ブラントから《ジョニーポンプの少年と犬》(1982年)を1億円を超える価格で購入した。

 

2021年3月、バスキアの《戦士》(1982年)が香港のクリスティーズで4180万ドルで落札されたが、これはアジアのオークションで落札された西洋美術品の中で最も高価な作品である。

 

2021年5月、バスキアの《In This Case》(1983年)がニューヨークのクリスティーズで9310万ドルで落札された。2021年12月、彼の絵画《Donut Revenge》(1982年)が香港のクリスティーズで2090万ドルで落札された。

 

批評


・バスキアの死後、すぐに『ニューヨーク・タイムズ』紙は、バスキアについて「全米で認知された少数の若い黒人アーティストの中で最も有名なアーティスト」と評価した。

 

・美術評論家のボニー・ローゼンバーグは、「批評家に受け入れられ、大衆に祝福された芸術現象」であった晩年期に良い名声を体験したと述べている。また、ローゼンバーグは、一部の人々が「彼の作品の表面的なエキゾチシズム」に焦点を当て、「表現における前身と重要なつながりがある」という事実を見逃していると発言している。

 

・従来、バスキアの作品を視覚的に解釈する際には、実際に描かれているものに比べて、表現されているものの感情的なトーンが抑えられていることが重要だった。例えば、作家のスティーブン・メトカーフが述べているように、彼の絵の中の人物は、「解剖学の教科書のように、被写界深度がほとんどなく、神経や臓器が露出した状態で正面から描かれている。この生き物は死んでいて臨床的に解剖されているのだろうか、それとも生きていて非常に苦しんでいるのだろうか」と話している。

 

・作家のオリビア・レインは、「シリアルの箱の裏や地下鉄の広告などから言葉を選んできて、その破壊的な性質や二重の意味、隠された意味に注意を払っていた」と述べている。

 

・美術史家のルイス・アルベルト・メヒア・クラビホは、バスキアの作品が人々に「子供のように絵を描こう、表面にあるものを描くのではなく、自分の中にあるものを再現しよう」というインスピレーションを与えると考えている。

 

・バスキアの作品を同時代のヒップホップの勃興と比較するものもいる。「バスキアのアートは、最高のヒップホップのように、それ以前の作品を分解して再構築している」と、美術評論家のフランクリン・シルマンスは述べている。



■参考文献

Jean-Michel Basquiat - Wikipedia 2019年1月10日アクセス

http://www.jean-michel-basquiat.org 2019年1月10日アクセス

https://nme-jp.com/news/65280/ 2019年1月10日アクセス

 

 

■画像引用

※1:https://www.theguardian.com/artanddesign/2017/may/19/jean-michel-basquiat-110m-sothebys 2019年1月10日アクセス

※2:http://basquiat.com/ 2019年1月10日アクセス

※3:https://amzn.to/2shkRDB 2019年1月10日アクセス

※4:http://upnorthtrips.com/post/82840540812/samo-graffiti-boosh-wah-or-cia-village-voice 2019年1月10日アクセス

※5:http://flavorwire.com/226300/vintage-shots-of-jean-michel-basquiats-samo-graffiti/15 2019年1月10日アクセス

※6:https://www.abc.net.au/news/2018-07-10/basquiat-playing-with-band/9968124 2019年1月10日アクセス

※7:http://culturalghosts.blogspot.com/2015/04/jean-michel-basquiat-and-joy-of.html 2019年1月10日アクセス

※8:https://www.discogs.com/ja/Rammellzee-K-Rob-Beat-Bop/release/1190926 2019年1月10日アクセス

※9:https://gagosian.com/exhibitions/2012/jean-michel-basquiat-and-andy-warhol-olympic-rings/ 2018年1月10日アクセス

※10:https://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Michel_Basquiat 2019年1月10日アクセス

※11:https://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Michel_Basquiat 2019年1月10日アクセス

※12:https://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Michel_Basquiat 2019年1月10日アクセス

※13:http://thisisniceyeah.blogspot.com/2010/07/jean-michel-basquiat-untitled-history.html 2019年1月12日アクセス

※14:http://www.jean-michel-basquiat.org/irony-of-negro-policeman/ 2019年1月12日アクセス