【美術解説】青騎士「ドイツ表現主義画家たちのグループ」

青騎士 / The Blue Rider

ドイツ表現主義画家たちのグループ


ワシリー・カンディンスキーがカバーを担当した「青騎士」の雑誌
ワシリー・カンディンスキーがカバーを担当した「青騎士」の雑誌

概要


「青騎士」はドイツ、ミュンヘンにあったミュンヘン新芸術家協会に反発して創設された芸術グループ。

 

1909年にカンディンスキーが創設したミュンヘン新芸術家協会内で亀裂が生じ、カンディンスキーやマッケが脱退して形成される。発祥は、1911年にミュンヘンに集まった、おもに表現主義の画家たちによる緩やかな芸術家の集まりである。

 

青騎士は、ワシリー・カンディンスキー、アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー、マリアンネ・フォン・ヴェレフキンなどロシア移民の芸術家と、フランツ・マルク、アウググスト・マッケ、ガブリエレ・ミュンターなどドイツ人芸術家らが中心となって構成されていた。

 

青騎士は1911年から1924にかけて活動を行い、1905年に創設されたブリュッケとともにドイツ表現主義の基礎となった。

創設と参加メンバー


1911年、ミュンヘン新芸術家協会の展示で、カンディンスキーの作品《最後の審判》が、出展を拒否されたことに反発して創設された。

 

ワシリー・カンディンスキー、フランツ・マルク、アウグスト・マッケ、アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー、マリアンネ・フォン・ヴェレフキン、ガブリエレ・ミュンター、リオネル・ファイニンガー、アルベルト・ブロッホらが、中心のメンバーとなった。

 

青騎士はほかの芸術運動と異なり、芸術的宣言がなく、カンディンスキーとマルクが中心となった芸術サークルだった。「青騎士」というはっきりした芸術家集団があったわけではなく、芸術年刊誌『青騎士』編集部と、彼らによる企画展に参加した画家たちを「青騎士」と呼んだ。のちにパウル・クレーも合流する。

 

青騎士は1911年から1912年にかけて、ドイツをツアーする形で展示企画を開催。また現代美術、プリミティブ芸術、土着芸術、子供の芸術を紹介する年鑑誌『青騎士』を発行。1913年にドイツのハーバストサロンで初めて展示を開催。

 

1914年に第一次世界大戦が勃発するとグループは崩壊。フランツ・マルクとアウグスト・マッケは戦死。ワシリー・カンディンスキー、アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー、マリアンネ・フォン・ヴェレフキンは強制的にロシアに戻らされる。実際の活動期間は1911年から1914年までとなる。

 

画商のサポートで、1923年に青騎士は一時的に再結成され、アメリカで青騎士の展示と講義が行われた。

「青騎士」という名称の由来


「青騎士」という名称は、カンディンスキーが1903年に制作した絵画のタイトルが元になっているが、実際ははっきりしていない。

 

カンディンスキーは、20年後に「青騎士」という名称について、フランツ・マルクの馬に対する情熱やカンディンスキーの騎手に対する愛、そしてマルクとカンディンスキーが好きだった青色を結合させたものだと書いている。

 

カンディンスキーにとって青色は「精神性」を表すもので、青色が暗みがかるほど不変的な人間の願望に気づくものだという。

ワシリー・カンディンスキー《青騎士》1903年
ワシリー・カンディンスキー《青騎士》1903年
フランツ・マルク《青い馬の塔》1913年
フランツ・マルク《青い馬の塔》1913年

芸術スタイル


グループ内での画家たちの芸術手段はさまざまだったが、「芸術を通して精神的な真理を表現する」という価値観は全員が共有していた。

ほかに共有されていた価値観として

  • 視覚芸術と音楽の融合
  • 精神性と色による象徴的関係
  • 絵画に対する自発的で直感的なアプローチ

などが挙げられる。

 

青騎士のメンバーは、当時フランスで流行だった非具象的な近代美術と同等に、ヨーロッパ中世の芸術やプリミティヴィスにも関心を抱いていた。キュビスム、フォーヴィスム、レイヨニスムの近代美術思想に共感しながら、独自に抽象的な方向へ向かっていった。

関係人物



 ■参考文献

Der Blaue Reiter - Wikipedia