ルネサンス / Renaissance
ローマ時代・古代ギリシア哲学の再発見
ルネサンスは近代化をつげる最初の重要な事象と見られている。この運動は新しい精神に立脚し、古いものを打破しようとする改革的な性格をもっている。しかし、歴史の流れは、決して一挙に変わるものではない。そこには古いものもなお力強く残存し、新しいものと抗争しつつ、しだいに古いものが克服され新しいものが勝利を得てゆく。絶対王政とともに、14・15世紀から18世紀末ごろまでの時期は、古いものと新しいものとが抗争しつつ、次第に近代的ヨーロッパが形成されてゆく大きな過渡期である。
概要
芸術・文化と時代の区分
ルネサンスは、日本の教科書や一般的なメディアでは簡単に「古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動」と説明されている。
しかし、本来ルネサンスという言葉はもっと複雑であり、いまだ専門家たちでもさまざまな意見・解釈がなされている。文化・芸術運動を指す場合と時代区分を指す場合でしばしば混乱が生じる。
最も共通的に受け入れられている見解としては、ルネサンスとは「中世から近代への移行の印」であり、「15世紀と16世紀を覆うヨーロッパの歴史的期間」といえる。また、ルネサンスは中世後期のヨーロッパ世界の危機の後に発生した根本的な社会変化と関連した歴史的遷移期間といえる。
伝統的な見解ではルネサンスの近代的な側面に焦点を当て、ルネサンスは過去からの脱却であると主張するが、今日では多くの歴史化たちがルネサンスの中世的な側面に焦点を当て、ルネサンスは中世の延長線上にあったと主張している。
なお、標準的に時代区分(15世紀と16世紀)だが、長期ルネサンス支持者の間には、その始まりを14世紀、終わりを17世紀と主張するものもいる。ルネサンスが近代の始まりなのか、それとも中世の範囲になるのか、という点についても論議が続いている。
古典文化と現代科学の融合
また、ルネサンスの知的基盤となったのは、ローマ時代の人間性(ヒューマニタス)の概念や、「人間は万物の尺度である」というプロタゴラスの言葉に代表される古代ギリシア哲学の再発見を由来とする「ヒューマニズム(人文主義)」であることも重要な要素である。
この新しい考え方は、芸術だけでなく、建築、政治、科学、文学などあらゆる分野で見られるようになった。ルネサンス初期の例としては、油絵における遠近法の発明やコンクリートの精製方法の再発見だった。活版印刷の発明は15世紀後半からの思想の普及に拍車をかけたが、ルネサンスの変化はヨーロッパ全土で一様とはいえなかった。
ルネサンスの最初の痕跡は13世紀後半にイタリアに現れ、14世紀にイタリアのフィレンツェで始まった。その起源や特徴を説明するために、当時のフィレンツェの社会的・市民的特殊性など様々な要因に焦点を当てて複合的に考える必要がある。
ダンテの著作やジョットの絵画に文化運動としてのルネサンスの兆候が見られる。古典的な情報源に基づく学問の復活が14世紀頃からペトラルカと同時代に名高い芸術家たちとともに始まり、ローマ帝国時代と教会で利用されていた「ラテン語」と土着文学の間で革新的な開花をもたらした。
ルネサンスは、多くの知的活動や社会的・政治的な激動の中で革命を起こしたが、なかでも芸術的発展に貢献し、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロのような多方面で活躍した人物もあらわれ、そのような人物に対しては「ルネサンス・マン」という言葉が与えられた。
他方、ルネサンスは、政治においては外交の習慣や慣習の発展をもたらし、科学においては観察と帰納的推論の発展に貢献した。
経済発展と移民社会
ルネサンスの中心地はフィレンツェだった。その政治構造、支配的な一族であるメディチ家による芸術家支援、十字軍遠征による東方貿易の発展、コンスタンティノープル陥落後のイタリアへのギリシア人学者や知識の移転など、当時のイタリアの社会的・市民的な特殊性を説明するために、これまで様々な説が提唱されてきた。
ルネサンスにおける主要な中心地は、フィレンツェ、ヴェネツィア、ジェノバ、ミラノ、ボローニャ、そしてルネサンス期の世俗主義的なローマ教皇たち統治下にあったローマのような北イタリアの都市国家であった。
広義的な意味でのルネサンスのポイント
|
ルネサンス勃興の歴史的背景
イタリアでまず発展した理由
ルネサンスは、近代初期のヨーロッパの知的生活に大きな影響を与えた文化運動である。イタリアで始まり、16世紀までにヨーロッパの残りの部分に広がり、その影響は、芸術、建築、哲学、文学、音楽、科学技術、政治、宗教、および知的探求の他の側面で感じられた。
ルネサンスは、イタリアで最も早く(14世紀ごろから16世紀ごろまで)しかも最も華々しく展開した。その理由としては次の点が挙げられる。
1:イタリア諸都市の経済的発展
ヴェネツィア・ジェノバなどの沿岸都市は、11〜12世紀ごろから東方貿易に従事し、特に十字軍時代には遠征の通路、兵員、資材、船舶の供給地となり、十字軍以後もますます東方貿易によって経済的に発展した。
また、フィレンツェ・ミラノなどの内陸都市では毛織物工業・絹織物工業が発達した。それに伴って富裕市民を中心とする自治権獲得運動などの政治活動が活発になった。イタリア=ルネサンスの支持層はおもとしてこれらの市民層だった。
ロドニー・スタークのような学者の中には、中世後期のイタリアの都市国家の初期の経済的発展を特に重視するものがいる。彼の分析では政府、キリスト教、資本主義の生誕の融合がルネサンスを生み出したという。
イタリア諸都市と異なり、フランスやスペインなどのヨーロッパの大国は当時、絶対主義的な君主制国家であり、また、そのそのほかの国は教会の直接支配下にあった。
これに対してイタリアでは、独立した各都市共和国が、メディチ家をはじめとする市民が資本主義の原理を発明し、レオ10世のようなローマ教皇が資本主義の原理に追従して世俗化し、ルネサンスの芸術文化に多額の資金を提供した。15世紀と16世紀のイタリアでは、日常生活の世俗化、合理的な貨幣信用経済の台頭した。
2:古代ギリシアとローマ共和国の古典文化が流入した
この東方貿易の発展にともなって、ギリシア・ローマの古典文化を保持していたイスラム世界やビザンツ帝国から古典文化の学問が流入した。
ポッジョ・ブラッチョリーニのようなルネサンス期の人文主義者たちは、ヨーロッパの修道院の図書館で、ラテン語で書かれた文学、歴史、古代の弁論的なテキストを研究していたが、一方でコンスタンティノープルの陥落で、ヨーロッパではわからなくなっていた多くの貴重な古代ギリシア語で書かれた古典文献の写本をギリシア人学者がイタリアに持ち込む波が発生した。
ビザンツの学者が多くイタリアに移住することによりイタリアで古典研究が盛んになり、またフィレンツェのメディチ家などの都市支配者、貴族、富裕市民、あるいはローマ教皇などが、こうした学者や芸術家を保護・奨励した。社会的流動性の大幅な増加がルネサンス発展の大きな要因である。
3:イタリアには古代文化ローマの遺跡があった
イタリアには古代ローマ帝国の遺跡や遺物が多く残存し、国民的過去として古代ローマへの関心が特に強かった。
4:競争力が高く人材の招致が盛ん
イタリアはさまざまな共和国が乱立していた。各都市国家内の平民と貴族の争い、都市国家相互間の争いなど当時のイタリア国内の内部抗争に当たり、各都市が競って有能な人材を招き、それが個性の伸長を生み出した。
世俗的価値観の復活・活版印刷の発明と国民性
ルネサンス運動の口火を切ったのは、人文主義者たちである。「ヒューマニズム」とは、もともとギリシア・ローマの古典の文献的研究をいい、その研究者が人文主義と呼ばれた。
しかも古典の研究は、単に古典の復興・模倣にとどまらないで、やがて古典を媒介として、古代人が真理や美に対して持っていた素直な人間的欲求を追求する動きにまで発展した。こうして古典研究は、やがて古典運動の学問芸術の復興から、人間性の追求・新しい人間観の確立へ進み、華やかなルネサンス運動となって展開した。
「人間性の追求」「新しい人間の確立」とは、現実的な男女の恋愛などいわば世俗的なものを研究し、改善しようとする試みである。これまではキリスト教上の神話の人物しか描いてはいけなかった。
また、イタリアでは早くから古典に熱中し、それを模倣する人文主義者が多く出たが、それとともにイタリア方言のトスカナ語など自国語を尊重する気風も起こり、国民文学が発達した。14世紀イタリア人文主義の代表的人物としては、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオの3人のフィレンツェ人を挙げることができる。
地方言語を使うことが背景には活版印刷機の発明がある。これにより多くの庶民が本、特に聖書に直接読むことが可能になり、国民文学の発展につながった。
ルネサンスの先駆者たち
ダンテ
ダンテの基本理念は正統カトリック信仰に支えられ、新しい時代の開拓者としてよりも過去の伝統の統合者としての性格が強い。しかしその初期の作品『新生』には、永遠の恋人ベアトリーチェに対する愛という、かれの個人的体験の告白による新しい人間意識が表れており、最初の近代人と呼ばれるにふさわしいものを持っている。
かれには、大作『神曲』を初めイタリア語(トスカナ方言)で書かれた作品が多く、国民文学の先駆者とされている。しかし、ダンテには彼岸的思想が強く、皇帝思想に支配され、かれの描くベアトリーチェも現実の肉体と個性を備えた女性よりも、抽象化された女性美として示されている傾向が強い。
ペトラルカとボッカチオ
真のヒューマニズムはペトラルカやボッカチオから始まるといえる。ペトラルカは、古典(ラテン語)写本の収集・古典の模倣に努めた人文主義者で、抒情詩に優れ、愛人ラウラへの恋愛をうたった『カンツォーネ』では、人間的・官能的な美しい肉体を備えた現実の女性を描いている。かれは共和制ローマを賛美し、またヴァントール山に登って自然美を讃えた。
ギリシア古典研究の道を開いたのはボッカチオである。かれの名を有名にしたのは『デカメロン』で、ここには素朴な人間性があからさまに描かれ、現実の肯定とキリスト教に対する厳しい批判が含まれている。それはまさに当時の社会の自覚的な自己解剖を見ることができ、近代小説の先駆となった。
新プラトン主義/アカデメイアの創設と教会の衰退
15世紀はイタリア=ヒューマニズムの最盛期で、ギリシア語原典への関心が始まり、プラトンの理想主義(新プラトン主義)が有力になった。これは「アカデメイア」(プラトン学園)の創設とともに進展し、人文主義者の多くは、貴族化した大市民層、宮廷化した僭主たちに寄生する「ペンを武器とする傭兵」的存在となった。
かれらの理想は古典の世界のなかに沈潜し、プラトン的な美的世界観を頼りに現実から遊離した典雅な社会生活・隠遁生活を送ることであった。
また、ロレンツォ=ヴァラのように、ローマ教会の権威の基礎となっていた『コンスタンティヌスの寄進状』が後世の偽作であることを実証して、教会に対する批判的研究の道を開いた人もあった。
ヒューマニズムのもつ現実主義を極端にまで推し進めたのがマキャヴェリである。政治的分裂と混乱を続けるイタリアの統一のために、彼はその著『君主論』のなかで、君主にとって必要なものは権力のみであり、権力を得るためには宗教・道徳にとらわれず、どんな謀略を用いてもかまわないという、現実主義的政治論(マキアヴェリズム)を主張し、政治を道徳や宗教から切り離した新しい政治学説を展開した。
ルネサンス美術とは
概要
ルネサンス美術とは、ヨーロッパの歴史の中で、哲学、文学、音楽、科学、技術の発展と並行して、1400年頃にイタリアで独自のスタイルとして出現した絵画、彫刻、装飾芸術のことである。
イタリア・ルネサンスの文化は、美術の領域で最も華やかに開花した。これまでは、教会建築をおもとした建築が中心で、彫刻や絵画はその付属物にすぎなかったが、この時代には、それぞれが独立した分野として発展した。
美術におけるルネサンス(再生の意味)とは、古代の伝統の中で最も高貴なものとして認識されており、古典的な古代の芸術を基礎としながらも、北欧の最先端芸術も吸収し、さらに現代の科学的知識を組み込むことで、その伝統を変容させた様式である。
ルネサンス美術は、ルネサンス人文主義の思想とともにヨーロッパ全土に広がり、遠近法などの新しい技法の発明や新しい芸術的感性により、芸術家とそのパトロンの双方に影響を与えた。ルネサンス美術は、中世から近世へのヨーロッパの変遷を記すものである。
ヨーロッパの多くの地域では、初期ルネサンス芸術は中世後期の芸術と並行して発展した。ルネサンス期の芸術、絵画、彫刻、建築、音楽、文学は、自然に対する意識の高まり、古典的な学問の復活、そして人間に対するより個人主義的な見方の複合的な影響下で、14世紀、15世紀、16世紀の間にヨーロッパで制作された作品である。
●建築
建築では、ゴシック様式に代わってドーリア式・イオニア式・コリント式の古典古代の3様式が復活し、それとともにルネサンス様式と呼ばれる新しい様式が出現した。
ブルネレスキが設計したフィレンツェ本寺の大ドームは、複雑な装飾はなく、単調で穏やかな、しかも力強い安定感があり、ルネサンス建築の曙を告げるものである。この時期には教会の他に、都市の繁栄にともなって市民の邸宅・宮殿・公共建造物の建築が盛んになった。
ルネサンス様式の建築は、古代ギリシア=ローマ風を取り入れ、アーチ塔・平天井・列柱を用いて、調和と均整の美を尊重し、その内部は彫刻や絵画で飾られた。ローマのサン=ピエトロ大聖堂は、この時期の末期の代表的な建築物であり、ブラマンテ・ミケランジェロなどが建築家として有名である。
●彫刻
彫刻においては、早く13世紀にピサーノ父子の作品にルネサンス的傾向が認められるが、本格的なルネサンス彫刻は、15世紀のギベルティやドナテルロの作品である。かれらには古代彫刻の影響が強く、多くの大理石像や鋳像に完全な立体が写実主義的に表現されている。
フィレンツェの礼拝堂の門扉に見られるギベルティの有名な浮彫には、静かで優美な流動の姿が感じられる。またドナテルロの『ダビデ』は、まだ十分に熟成しない青年の肉体をもつ優雅な気品が強調されている。ブルネレスキの作品にも傑作があるが、ルネサンス彫刻の完成者は『ダビデ』『モーゼ』などの大作を残したミケランジェロだろう。
●絵画
イタリア・ルネサンス文化の中心は絵画であるともいえるほど、絵画は独創的性格が強く、華やかに展開した。ダンテと同時代にチマブエやジオットーが出て、ゴシック風の生硬さを脱した新しい画風を開いた。特にジオットーは、聖フランチェスコの生涯を題材にキリスト者の深い信仰や情感を表現し、自然美に対しても関心を示した。
15世紀にはフィレンツェを中心に、マザッチョ、ギルランダイヨ、フラ=アンジェリコ、ヴェロッキオ、ゴッツォリ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチなど多くの優れた画家が出た。
彼らの作品はおもにフレスコ画であるが、そこには遠近法なども取り入れられて、写実的な人間描写の技法が見られ、人間の表情や四股の細部・筋肉の動きが豊かな色彩で描かれている。なかでもボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』は有名であるが、またかれの描くマリアは聖母よりも女性美の典型ということができる。
レオナルドの有名な『最後の晩餐』は、宗教画というよりも劇的な緊張した瞬間の人間群像であり、『モナ・リザ』には知性的な理想美が見られる。
16世紀になると中心がフィレンツェからローマやヴェネツィアへ移り、その傾向も元いつ主義・写実主義的なものから、統一・明確・気品を尊重した貴族的・理想主義的なものとなる。その代表的な画家としてラファエロがいた。かれは聖母像に優れた作品を残し、その聖母マリアは、15世紀に見られる清純な乙女よりは、堂々とした気品をもつ生熟した貴婦人の姿である。
ルネサンス美術における重要ポイント
|
ルネサンスの美術家
イタリア
・レオン・バッティスタ・アルベルティ
・フラ・アンジェリコ
・ソフォニスバ・アングイッソラ
・ビアージョ・ダントニオ
・ジョット・ディ・ボンドーネ
・ドナテルロ
・ボッティチェリ
・マサッチオ
・ドメニコ・ヴェネツィアーノ
・フィリッポ・リッピ
・アンドレア・デル・カスターニョ
・ピエロ・ディ・コジモ
・パオロ・ウッチェロ
・アントネロ・ダ・メッシーナ
・ピサネロ
・アンドレア・マンテーニャ
・ルカ・シニョレッリ
・アレッソ・バルドヴィネッティ
・ピエロ・デラ・フランチェスカ
・マソリーノ
・ティツィアーノ
・ヴェロッキオ
・ギルランダイオ
・ベノッツォ・ゴッツォリ
・カルロ・クリヴェッリ
・マルコ・カルディスコ
・ピエトロ・ネグローニ
ネーデルラント
・ジェハン・ベルガンベ
・ディルク・ボウツ
・ロベルト・カンピン
・ペトルス・クリストゥス
・ジャック・ダレー
・ヘラルト・ダヴィト
・フーベルト・ファン・エイク
・ヤン・ファン・エイク
・ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス
・フーゴー・ファン・デル・グース
・アードリアン・イーゼンブラント
・リンブルク兄弟
・クエンティン・マサイス
・ハンス・メムリンク
・ヨアヒム・パティニール
・ロヒール・ファン・デル・ウェイデン
ドイツ
・アルブレヒト・アルトドルファー
・ハンス・バルドゥング
・レオンハルト・ベック
・バーテル・ブライン・ザ・エルダー
・ハンス・ブルクマイアー
・ルーカス・クラナッハ
・ルーカス・クラナッハ (子)
・アルブレヒト・デューラー
・コンラッド・ファーバー・ボン・クロイツナッハ
・マティアス・グリューネヴァルト
・ハンス・ホルバイン (父)
・ハンス・ホルバイン
・アンブロジウス・ホルバイン
・イェルク・ラートゲープ
・ウィルヘルム・ステッター
フランス
・ジャン・フーケ
・ジャン・クルーエ
・フランソワ・クルーエ
・バーテルミー・デック
・ニコラ・フロマン
・ジャン・エイ
・シモン・マルミオン
・アンゲラン・カルトン
スペイン
・バルトロメ・ベルメホ
・ペドロ・ベルゲテ
・アイネ・ブル
・フアン・デ・フランデス
・ルイス・デ・モラレス
・ジャウマ・ユグエ
・パブロ・ダ・サン・レオカディオ
・アロンソ・サンチェス・コエリョ
・エル・グレコ
クロアチア
・フランチェスコ・ラウラーナ
・ジョルジオ・ダ・セベニコ
・ニッコロ・ディ・ジョバンニ・フィオレンティーノ
・アンドレア・アレッシ
・ニコラ・ボジダレビッチ
・ジョン・ダルメシアン
・アンドレア・スキャヴォーネ
ルネサンス美術の歴史
イタリアの黎明期ルネサンス(1280~1400年)
13世紀後半から14世紀初頭のイタリアでは、ピサ、シエナ、ピストイアで活動してたニコラ・ピサーノとその息子ジョヴァンニ・ピサーノの彫刻作品、おそらくこれらが古代ローマの石棺に精通し、それに影響を受けている。彼らの代表作はピサの洗礼堂と大聖堂の説教壇である。
また、フィレンツェの画家ジョットは、ジョヴァンニ・ピサーノと同時代の画家であり、同時代の教師だったチマーブエと比較しても、自然主義的、立体的、生命感あふれる古典主義的な具象画の技術を発明した。
ジョットの代表的な作品はパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂にある「キリストの生涯」を描いたフレスコ画である。特に『ユダの接吻』はよく紹介される。
16世紀の伝記作家ジョルジョ・ヴァザーリは、13世紀のイタリアで流行していた「粗野で伝統的なビザンチン様式」から「芸術を救い、復元した」と批評している。
初期ネーデルラント美術(1425年~1525年)
この期間のオランダの画家は、ヤン・ヴァン・エイク、彼の弟のユベール・ヴァン・エイク、ロバート・カンピン、ハンス・メムリング、ロジェ・ヴァン・デア・ウェイデン、ヒューゴ・ヴァン・デア・ゲーズらがいる。
彼らの絵画は、イタリア・ルネサンス期初期の絵画から一部独立して発展したものであり、古代文化や美学を復活させようとするイタリアの意識的な努力の影響は受けていない。
絵画のスタイルは、中世のテンペラ、パネルや装飾付きの写本、ステンドグラスのような他の形態の絵画から直接発展した。北欧ではフレスコ画はあまり一般的ではなかった。使われていたのは油絵の具で、柔軟性があり、比較的耐久性に優れていたため、古くから革製の儀式用の盾や装身具を描くのに利用された。
最初期のオランダの油絵は、テンペラ画のように緻密で詳細である。この素材は、色調の変化やテクスチャーの描写に適しているため、自然を詳細に観察することができる。
オランダの画家たちは、直線的な遠近法と正しいデッサンという枠組みで絵を描くこうとはしなかった。彼らは、自然と人工の両方の物質的な要素を現実的に描写する一方、階層的なデッサンや宗教的な象徴性のある中世哲学を維持した。
ヤン・ファン・エイクは弟のユベールと《神秘的な子羊の祭壇画》を描いている。アントネッロ・ダ・メッシーナは、ナポリかシチリアにいた時にファン・エイクの作品に親しんだと思われる。
1475年、ヒューゴ・ファン・デル・ゲーズのポルティナーリ祭壇画はフィレンツェに到着すると、多くの画家に多大な影響を与え、その後すぐにすぐにドメニコ・ギルランダイオがその要素を模倣した祭壇画を描いた。
この時代の終わりに非常に重要なオランダの画家は、ヒエロニムス・ボスである。植物や動物の形と建築的な形を組み合わせた幻想的な形の装飾を描いていたが、これらは装飾付きの写本の縁取りや文字の装飾でよく使われていた。
写本の文脈から人間の造形を取り入れると、これらの形態は、他のルネサンス期の画家の作品には見られないシュルレありスティックな質感を醸し出す。彼の代表作は、三連作の《快楽の園》である。
イタリアの初期ルネサンス(1400年-1495年)
ピサノスやジョットには弟子や信奉者がいたが、ルネサンス期の最初の芸術家がフィレンツェに現れたのは、1401年に行われたフィレンツェ大聖堂の洗礼堂のブロンズ扉の彫刻コンクールだった。
このコンクールでブルネレスキ、ドナテルロ、優勝者のロレンツォ・ジベルティを含む7人の若手彫刻家が参加している。
フィレンツェ大聖堂やサン・ロレンツォ教会のドームの建築家として最も有名なブルネレスキは、自然主義で有名なサンタ・マリア・ノヴェッラ教会内の等身大の十字架をはじめ、多くの彫刻作品を制作した。
ブルネレスキの遠近法の研究は、画家マサッチョに影響を与えたと考えられている。
ドナテルロはルネサンス初期の最大の彫刻家として有名になり、その代表作は、フィレンツェ共和国のアイコンの一つであるダビデ像の人文主義的で異様にエロティックな像や、ローマ時代以降に作られた最初の大型の馬術用ブロンズであるガッタメラータの偉大なモニュメントなどである。
ドナテルロと同時代人に活動していたマサッチョは、ジョットの系統の末裔であり、1425年にイタリア絵画の初期ルネサンスを開始し、ジョットが1世紀前に始めた形の堅固さと顔やしぐさの自然主義への傾向を発展させた。
1425年から28年にかけて、マサッチョはいくつかのパネル画を制作しているが、ブランカッチ礼拝堂で年上の画家マゾリーノと始めたフレスコ画で最もよく知られている。この作品はミケランジェロをはじめとする後の画家たちに大きな影響を与えた。
マサッチョの発展は、フラ・アンジェリコの絵画、特にフィレンツェのサン・マルコ修道院のフレスコ画にも反映されている。
絵画における遠近法と光の要素の扱いは、15世紀のフィレンツェの画家たちにとって特別な関心事だった。ウッチェッロは遠近法により外観のリアルを実現することに固執し、ジョルジョ・ヴァザーリによれば睡眠不足になるほどだったという。
ウッチェロの成果は、1460年までに完成したとされる《サン・ロマーノの戦い》という3枚組の絵画の傑作から伺うことができる。ピエロ・デッラ・フランチェスカは、光と直線的な遠近法の両方について体系的かつ科学的な研究を行い、その成果は、アレッツォのサン・フランチェスコ聖堂にあるフレスコ画《真の十字架の歴史》で見ることができる。
ナポリでは、画家アントネッロ・ダ・メッシーナが、肖像画や宗教画を描くさいに油絵具を使い始めた。これは他のイタリア人画家に先んじており、おそらく1450年頃のことだと思われる。彼はこの技法を北に伝え、ヴェネツィアの画家たちに影響を与えた。
北イタリアで最も重要な画家の一人であるアンドレア・マンテーニャは、彼のパトロンであるルドヴィコ・ゴンザーガからの依頼で、一族や宮廷の肖像画を幻想的な建築空間で彩った「カメラ・デッリ・スポシ」という部屋の内部を設計した。
イタリア美術における初期ルネッサンスの終焉は、その始まりと同様に、芸術家たちを牽引した特定の制作依頼が明らかになっている、終焉時は競争ではなく協力している。
教皇シクストゥス4世は、教皇庁礼拝堂を再建し、システィーナ礼拝堂と名付け、サンドロ・ボッティチェリ、ピエトロ・ペルージーノ、ドメニコ・ギルランダイオ、コジモ・ロッセリなどの芸術家集団に、キリストの生涯とモーゼの生涯を描いたフレスコ壁画を依頼した。
16点の大作では、それぞれがそれぞれのスタイルで制作していたにもかかわらず、画家たちは形式の原則に合意し、照明、直線的で雰囲気のある遠近法、解剖学、特徴付けなどの技法を使っていた。
フランスにおける初期ルネサンス(1375年–1528年)
フランス(ブルゴーニュ公国などの公国を含む)の芸術家はしばしば宮廷と関わりを持ち、貴族のための装飾写本や崇高な肖像画を描いたり、宗教性の高い絵画や祭壇画を提供していた。
中でも有名なのは、フランドル地方の装飾画家で『Très Riches Heures du Duc de Berry』の装飾画家の制作者でもあるリンブール兄弟である。
王宮画家ジャン・フーケは1437年にイタリアを訪れ、パオロ・ウッチェッロなどフィレンツェの画家の影響を反映した作品を制作した。フランスのシャルル7世の肖像画などで知られるフーケは、彩飾写本も制作しており、肖像画の細密画の発明者と考えられている。
この時期には、イタリアとフラマン地方の両方のスタイルとは全く異なる、有名な祭壇画を描いた多くの芸術家がいた。
たとえば、『ヴィルヌーヴ=レ=アヴィニョンのピエタ』を制作したエンゲラン・クアルトンや、最も有名なムーラン祭壇画にちなんで「ムーランの巨匠」として知られるジャン・ヘイなどが挙げられる。
これらの作品では、リアリズムと人物観察、感情、光などが、背景に金箔を使用した中世的な形式性と結びついている。
イタリア盛期ルネサンス(1495年–1520年)
「万物の天才」ことレオナルド・ダ・ヴィンチは、自然界の観察を研究し、綿密に記録し続けた生涯の中で、初期ルネサンスの芸術家たちを夢中にさせていた絵画芸術の側面(照明、透視図法、解剖学、コントラスト、心理描写など)をさらに完璧に追求することだった。
彼の主要なメディウムとして油絵の具を採用したことは、《モナ・リザ》に代表されるように、光とその風景や物体への影響を、これまでにないほど自然に、そしてより劇的な効果をもって描くことができることを意味している。
レオナルドの死体の解剖研究は、未完成作品の《荒野の聖ジェローム》に見られるように、人間の骨格と筋肉の解剖学の知識を進歩させた。1495年から1498年にかけて完成した《最後の晩餐》に描かれた人間の感情描写は、宗教画の基準となった。
レオナルドよりも年下だが同時代のミケランジェロの芸術は、全く異なる方向を向いていた。ミケランジェロは、絵画においても彫刻においても、人体以外の自然物の観察には興味を示さなかった。
ミケランジェロは20代前半の頃、ローマのサン・ピエトロ大聖堂にある巨大な大理石の『ダビデ』像と『ピエタ』像を制作し、その技術を完成させた。その後、彼は人体解剖学の表現の可能性を探求することに着手した。
教皇ユリウス2世からシスティーナ礼拝堂の天井を描くように依頼された彼の作品は、その後のヨーロッパの芸術家たちに多大な影響を与えることになった具象的な構図の最高傑作となった。
1534年から1541年にかけてシスティーナ礼拝堂の祭壇の壁に描かれたミケランジェロの作品《最後の審判》は、1520年から1530年にかけて盛期ルネサンス様式から引き継がれた、全体的に細長い身体を持つマニエリズム様式(後期ルネサンス様式とも呼ばれる)が表れている。
レオナルドとミケランジェロと並んで、盛期ルネサンスの第三の偉大な画家として活躍したラファエロは、短い生涯の間、教皇ユリウス2世とその後継者である教皇レオ10世の肖像画を含む多くの生き生きとした魅力的な肖像画を描き、また、《システィーナのマドンナ》を含む聖母とキリストの子の多くの肖像画を描いた。
1520年に37歳で亡くなった彼は、多くの美術史家によって盛期ルネサンス期の終わったと考えられているが、その後も盛期ルネサンス様式で何年も活動を続けた個人の芸術家もいる。
北スペインでの盛期ルネサンスはジョヴァンニ・ベリーニの後期の作品、特に宗教画に代表され、その中には《聖なる会話》と呼ばれるタイプの大きな祭壇画が代表的である。
同時代のジョルジョーネは1510年に32歳で死去したが、《テンペスト》をはじめとする謎の多い作品を残しており、その主題は未だに憶測の域を出ない。
ティツィアーノの最も初期の作品で、壮大な色と雰囲気で人間の行動とドラマを組み合わせた大規模な祭壇画《聖母の被昇天》は盛期ルネサンスにあたる。
ティツィアーノは、1570年代のキャリアの終わり近くまで、一般的な盛期ルネサンス様式で描き続けたが、人物を際立たせるために色と光を線の上に重ねることが多くなっていった。
ドイツ・ルネサンス美術
ドイツのルネサンス芸術は、北欧ルネサンス、また、北方ルネサンスと呼ばれ、より広範囲のカテゴリをカバーしている。ルネサンスの影響は15世紀にドイツの芸術に現れ始めたが、このトレンドはあまり広がらなかった。
ガードナーの『アート・スルー・ザ・エイジ』では、画家であり彫刻家でもあるミヒャエル・パッカーが、イタリア・ルネサンスの影響を受け始めた最初のドイツ人アーティストと特定している。パッカーの絵《聖ヴォルフガングが悪魔に祈祷書を持たせる(c.1481)》は後期ゴシック様式であるが、イタリアの画家マンテーニャの影響も見て取れる。
彫金師などの職人たちは、技術の完成度よりも美意識を重視するようになった。ドイツには、1400年代後半にマルチン・ショーンガウアーのような名工がいた。
ガードナーは、ドイツで起こった印刷技術の進歩とグラフィックアートの発展を関連づけ、ルネサンス期には木版画に代わって金属彫刻が始まったと述べている。
しかし、アルブレヒト・デューラーのような何人かの芸術家は、木版画で絵を制作し続けた。ガードナーとラッセルは両者とも、デューラーの木版画の質の高さを説明し、ラッセルは『デューラーの世界』の中で、デューラーは木版画を「高い芸術作品に昇格させた」と述べている。
ガードナーによれば、1500年代になると、ドイツのルネサンス美術はより一般的になったという。「16世紀の北欧の芸術は、イタリア・ルネサンスの進歩を突然認識し、この新しい様式をできるだけ早く同化させようとしたことが特徴である」と書いている。
ドイツのルネサンス芸術の最もよく知られている芸術家はアルブレヒト・デューラーである。古典思想に魅了されたデューラーは、芸術を研究するためにイタリアに関心を抱いた。
ガードナーもラッセルも、イタリアのルネサンス様式や思想をドイツにもたらしたデューラーのドイツ美術への貢献の重要性を認識した。重要なことは、デューラーは南方ルネサンスの基本的な概念を完全に理解した最初の北方の芸術家だったことである。ただし、デューラー自身の作風は必ずしも南方ルネサンスのスタイルを反映していたわけではない。
ハンス・ホルバイン・ザ・ヤングは、北方の伝統的な写実主義を維持しながら、イタリアの思想をうまく同化させている。
ドイツ・ルネサンスの他の重要な芸術家には、グリューネヴァルト、アルブレヒト・アルトドルファー、ルーカス・クラナッハ長老などがいる。
ルネサンスの技術
●比率(プロポーション)の使用
空間に対する領域が絵画に表れたのは、14世紀の初め、ジョット-ディ-ボンドーネの作品である。真の直線的な遠近法は、ブルネレスキとアルベルティによって定式化された。芸術のより写実的表現の接近に加え、それはより多くの絵画を構成するためにルネサンスの画家たちに影響を与えた。
●透視投影
透視投影という用語は、奥行きがあるような錯覚を作り出すために、図面の線を短くする芸術的な効果を指す。3次元の物体を見たとおりに2次元平面に描画するための図法(レンダリング手法)。
●スフマート
深み、ボリュームや形状の認識を造り出すため、色彩の透明な層を上塗りする絵画の技法。特に、色彩の移り変わりが認識できない程に僅かな色の混合を指す。レオナルド・ダ・ヴィンチほか16世紀の画家が創始したとされる。
●キアロスクーロ
キアロスクーロとは、明と暗の強いコントラストを利用して奥行きや立体感を演出する絵画のモデリング効果を指す。これは、イタリア語で明(chiaro)と暗(scuro)を意味する言葉に由来しており、バロック時代に広く使われるようになった技法である。
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Renaissance、2020年7月17日アクセス
・https://en.wikipedia.org/wiki/Renaissance_art、2020年7月19日アクセス
・高校の学習と大学受験「新制 新世界史」(数研出版)