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【美術解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「美術史において最も偉大なルネサンス芸術家」

レオナルド・ダ・ヴィンチ / Leonardo da Vinci

美術史において最も偉大なルネサンス芸術家


《モナリザ》1503–05/07
《モナリザ》1503–05/07

イタリアのルネッサンス期の人物、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯と作品に興味はありませんか?この記事では、彼の業績の完全な概要を説明します。彼の芸術的な出来事、発明、そして意外な事実まで取り上げていきます。モナリザのファンも、ダ・ヴィンチ・コード・ファンクラブのメンバーも、私たちと一緒にこの歴史上の人物についてもっと知りましょう!

目次

概要


 

生年月日 1452年4月15日
死没月日 1519年5月2日
国籍 イタリア
表現形式 芸術、科学
ムーブメント ルネサンス、盛期ルネサンス
代表作

《モナリザ》

《最後の晩餐》

《サルバトール・ムンディ》

その他作品一覧はこちら

フランチェスコ・メルツィによる晩年の肖像画。
フランチェスコ・メルツィによる晩年の肖像画。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年4月15日-1519年5月2日)は、盛期ルネサンス期イタリアの博学者。

 

彼が関心を持っていた分野は発明、絵画、彫刻、建築、科学、音楽、数学、工学、文学、解剖学、地質学、天文学、植物学、筆記学、歴史学、地図学など。

 

古生物学、痕跡化石、建築学などさまざまな学問のジャンルで創始者であり、美術史において最も偉大なルネサンスの芸術家の1人とみなされている。パラシュート、ヘリコプター、戦車を発明において功績があると言われることもある。

 

彼自身が、ルネサンス・ヒューマニズムの理想を具現化した存在である。

 

多くの歴史家や学者はレオナルドに対して、"万能の天才"または"ルネサンス・マン"の模範的な人物であり、人類史において最もさまざまな分野の才能を発揮した個人と見なしている。歴史家のヘレン・ガードナーによれば、彼の興味範囲とその興味対象への深い知識という点で、人類史上先例がなく、「彼の精神や性格は人間離れしており、また同時に神秘的で遠い世界の人に思える」と評している。

 

マルコ・ロシィは、彼の生涯や性格においては多くの憶測がなされているが、彼の世界観は神秘的や宗教的なものではなく、論理的なものであり、彼が採用したさまざまな実証的方法は、当時は異端視されていたものだった。

 

自然界の観察を研究し、綿密に記録し続けた生涯の中で、レオナルドは初期ルネサンスの芸術家たちを夢中にさせていた絵画芸術の側面(照明、空気遠近、解剖学、短縮遠近法、心理描写)をさらに完成させることだった。

 

また、主要なメディウムとしてこれまでのフレスコ画だけでなく油絵の具を採用したことは、《モナ・リザ》に代表されるように、光とその風景や物体への影響を、これまでにないほど自然にそしてより劇的な効果をもって描くことができることを示した。

 

レオナルドの死体の解剖研究は、未完成作品の《荒野の聖ジェローム》に見られるように、人間の骨格と筋肉の解剖学の知識を進歩させた。1495年から1498年にかけて完成した《最後の晩餐》に描かれた人間の心理描写は、宗教画の基準となった。

 

2017年11月15日にニューヨークのクリスティーズで、彼の作品《サルバトール・ムンディ》が競売にかけられ、一般市場で流通している作品において史上最高額となる4億5000万ドルで落札され、話題となった。

 

レオナルドはフィレンツェ地方のヴィンチに住む公証人の父ピエロ・ダ・ヴィンチと農民の母カテリーナのあいだに生まれた。幼少期はフィレンツェに住んでいたアンドレア・デル・ヴェロッキオのアトリエで絵を学んだ。

 

ダ・ヴィンチの初期作品の多くはミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァがパトロンとなり、彼の依頼で制作されたものである。のちに、ローマ、ボローニャ、ヴェネツィアへ移って制作を行い、フランシス1世から贈られた住居で晩年を過ごした。

重要ポイント


  • あらゆる学問の分野で才能を発揮した
  • ルネサンスで発明された絵画技術(照明、遠近法、心理描写、解剖学)を完成させた
  • ルネサンス・ヒューマニズム(人文主義)の理想を具現化させた

作品解説


現存している作品では約20枚の作品が、全体または大部分がレオナルド自身の手による真作として認知されている。しかし、実際にはもっと多くの作品を制作していると考えられているが、消失したり、保存先が不明の状態になっている。レオナルドの作品にはサインはない。

現存しているレオナルドによる有名作品

※クリックして作品解説を読む

《受胎告知》
《受胎告知》
《キリストの洗礼》
《キリストの洗礼》
《カーネーションを持つ聖母》
《カーネーションを持つ聖母》
《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》
《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》

《サルバトール・ムンディ》
《サルバトール・ムンディ》
《ブノアの聖母》
《ブノアの聖母》
《東方三博士の礼拝》
《東方三博士の礼拝》
《荒野の聖ヒエロニムス》
《荒野の聖ヒエロニムス》

《リッタの聖母》
《リッタの聖母》
《岩窟の聖母》ルーブル版
《岩窟の聖母》ルーブル版
《音楽家の肖像》
《音楽家の肖像》
《白貂を抱く貴婦人》
《白貂を抱く貴婦人》

《岩窟の聖母》ロンドン版
《岩窟の聖母》ロンドン版
《最後の晩餐》
《最後の晩餐》
《ミラノの貴婦人の肖像》
《ミラノの貴婦人の肖像》
《Sala delle Asse》
《Sala delle Asse》

《聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ》
《聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ》
《イザベラ・デステの肖像》
《イザベラ・デステの肖像》
《糸車の聖母(バクルーの聖母)》
《糸車の聖母(バクルーの聖母)》
《糸車の聖母(ランズタウンの聖母)》
《糸車の聖母(ランズタウンの聖母)》

《モナ・リザ》
《モナ・リザ》
《女性の頭部》
《女性の頭部》
《洗礼者ヨハネ》
《洗礼者ヨハネ》

略歴

幼少期


レオナルドは、1452年4月14日から15日にかけて、メディチ家統治下にあるフィレンツェ共和国の領地内にあるアルノ川下流の渓谷、トスカーナの丘の町ヴィンチで生まれた。より正確にいうと、土曜日の夜の第三時(現在の午後10時から11時の間)である。ここまで詳しくわかっているのは、一家に代々受け継がれた帳簿に祖父が綴った記録が残っているからである。

 

レオナルドは裕福で社会的地位が高いフィレンツェの法定公証人の父セル・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチと農民の娘だった母カテリーナ・ブチ・デル・ベッカとの子どもである。

 

婚姻状態でできた子どもだと見なされいるが、最近の研究では歴史家のマーティン・ケンプによれば婚外子だという。母親はもともと外国出身の奴隷か、そうでなければ貧しい環境で育った地元の若い女性などさまざまな推測がされている。レオナルドが生まれたあともカテリーナは結婚しておらず、持参金をもたしてほかの男に嫁がされている。

 

レオナルドには現代のような姓はなかった。ヴィンチという土地で生まれたため、単純にレオナルド・ダ・ヴィンチと呼ばれている。そのため日本ではよく「ダ・ヴィンチ」と下の名前で呼ばれるが、海外では「レオナルド」と示すのが一般的である。

 

なお、フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチであり、ヴィンチ出身のセル・ピエロの息子レオナルドを意味する。

 

レオナルドの幼少期についてはほとんどわからない。生まれてから5年間を母親の実家とされるアンキアノの集落で過ごしたあと、1457年からヴィンチの小さな町に住んでいた父方の祖父オボや叔父と継母のもとで暮らしていた。

 

父親はアルビエーラ・ディ・ジョヴァニ・アマドーリという16歳の娘と結婚しており、彼女はレオナルドをかわいがってくれたが、父親との間には子どもはなく1465年に若くして亡くなっている。

 

1468年、レオナルドが16歳のとき父親は20歳のフランチェスカ・ランフレディーにと結婚したが、またも夫婦の間には子どもなく亡くなった。

 

ピエロの正式な相続人となる子どもたちは、3番目の妻マルゲリータ・ディ・グリエルモとの間に生まれた6人の子ども(アントニオ、ジュリアン、マッダレーナ、ロレンツォ、ヴィオランテ、ドメニコ)と、4番目の最後の妻となるルクレツィア・コルジアーニとの間に生まれた6人子ども(マルゲリータ、ベネデット、パンドルフ、グリエルモ、バルトロメオ、ジョヴァンニ)である。

 

レオナルドには腹違いの12人の兄弟がおり、レオナルドは長男だった。兄弟たちはレオナルドよりもずっと若く(末の子とレオナルドには40歳の差がある)、また、レオナルドは婚外子のため遺産を相続する権利がなかったが、父の死後、兄弟たちは相続争いを起こしている。

 

レオナルドは非公式でラテン語、幾何学、数学の教育を受けた。その後の人生でレオナルドは2つだけの幼年期の事件を記録している。1つはトビに関することで、これは後年彼のおもな研究主題の1つとなった。

 

もう1つは山の探検に関することだった。レオナルドは洞窟を発見し、何か偉大な怪物がそこに潜んでいるのではないかと恐怖を感じると同時に、中にあるものを見る好奇心にかりたてられたという。

 

レオナルドの初期人生は歴史的推測がおもな主題だった。16世紀の画家で芸術家の評伝を書く伝記作家だったジョルジョ・ヴァザーリは若齢期のレオナルドの物語を書いている。

 

地元の農民が自身で丸い盾を作り、セル・ピエロに盾に絵を描いてもらうよう頼んだことがあった。セル・ピエロの要請にこたえてレオナルドは火を吐くモンスターの絵を描いたが、非常におそろしいものだったので、セル・ピエロはフィレンツェの画商に売り、画商はミラノ公爵に売り払ったという。

 

売り払って得たお金でセル・ピエロは心臓に矢が突き刺さった絵で装飾された盾を購入し、その盾を農民にゆずったという。

アンキアノにある幼少期のレオナルドが過ごした家。
アンキアノにある幼少期のレオナルドが過ごした家。

ヴェロッキオの工房


1460年代なかば、レオナルドの家族はフィレンツェへ移った。当時レオナルドは14歳くらいで、当時のフィレンツェの人気画家で彫刻家のヴェロッキオの工房に見習いとして通っていた。

 

1464年に父のセル・ピエロの妻(レオナルドの継母)が無くなり、やがて彼は再婚する。相手に選んだのがフィレンツェの公証人の娘だったため、家族はフィレンツェに移り住むことになったという。

 

レオナルドは17歳までに見習いで7年間訓練を積んだ。工房に見習いとして参加、また関与していたほかの有名な画家にドメニコ・ギルランダイオ、ペルジーノ、ボッティチェッリ、ロレンツォ・ディ・クレディがいた。

 

レオナルドは理論訓練と技術能力の両方の領域において幅広い関心を持った。 絵画、彫刻、モデリングなどの古典的美術的能力と同様に製図、化学、冶金、金属加工、石膏、皮革加工、機械工、木工などの幅広い技術能力を習得した。

 

また、ヴェロッキオは人間の身体を絵にしたり像にする際には内側から構築せよと、指導した。後にレオナルドは解剖学に没頭することになるが、非常に適切な師匠に巡り合ったといえるだろう。

 

ヴェロッキオの工房における絵画の多くは弟子たちによって制作された。伝記作家のヴァザーリによれば、レオナルドはヴェロッキオと《キリストの洗礼》をほぼ2人で制作したという。これは作り話だろうがレオナルドは師匠であるヴェロッキオよりもはるかに優れた技術で左のキリストのローブを手に持つ天使を描いてあので、師であるヴェロッキオは筆を折り、その後2度と絵を描くことはなかったという。

《キリストの洗礼》レオナルドとヴェロッキオの協働作品。
《キリストの洗礼》レオナルドとヴェロッキオの協働作品。

ソロ・デビュー作《受胎告知》


《受胎告知》
《受胎告知》

また、レオナルドはヴェロッキオの美術作品2点のモデルになったとも言われている。フィレンツェのバルジェロ美術館が所蔵するブロンズ彫刻《ダヴィデ》と、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する《トビアスと天使》に描かれている大天使ラファエルはレオナルドがモデルであるとされている。

 

1472年までに、20歳のとき、レオナルドは芸術家と医者の組合として知られる「聖ルカ組合」で親方の資格を得た。しかし、レオナルドの父親がレオナルドのために工房を設立したあとでさえも、レオナルドはヴェロッキオへ愛着を持ち続け、彼とともに生活や協働制作を続けた。

 

レオナルドが《受胎告知》を描いたのは1472年頃。1472年はレオナルドがサン・ルカ画家組合に加入した年でもある。すなわち、この《受胎告知》で事実上のデビューを果たしたともいえる。そして、デビュー作と同時にレオナルドが残した数少ない油彩画のうち、最大の大きさを誇る絵画でもある。

 

1476年頃から、レオナルドにもちらほら単独の注文が増え始める。それはもっぱら個人から受注で、そのほとんどが聖母子像だ。現在する油彩画の聖母子像には次のものなどがある。《ブノワの聖母》《カーネーションの聖母》《糸巻きの聖母》《リッタの聖母》《聖アンナと聖母子》《岩窟の聖母》である。

 

ほかに、レオナルドの初期の有名作品は、1473年のペンとインクのドローイングによるアルノ渓谷の風景画の習作である。この作品は西洋における最初の"純粋な”風景画として紹介されることがある。

 

ヴァザーリによれば、青年期のレオナルドはアルノ川をフィレンツェとピサ間の航行を可能な水路に改造させることを最初に提案した人物だったという。

 

プロフェッショナルとして活動開始


レオナルドは1478年にヴェロッキオの工房を出る。ある美術研究家は、その後レオナルドは1480年にメディチ家のもとへ行き、フィレンツェのサンマルコ広場にあるメディチ家が設立した詩人や哲学家、芸術家たちのアカデミー「ネオ・プラトン」で働いていたと主張している。

 

1478年1月、レオナルドはヴェッキオ宮殿で聖バーナード礼拝堂に飾る祭壇画の制作依頼を受けた。また、1481年3月にはサン・ドナート・ア・スコペト修道士のための絵画《東方三博士の礼拝》の制作依頼を受けている。しかし、どちらの仕事も未完成で、後者はレオナルドがミラノへ行ったときに中断された。

《東方三博士の礼拝》未完成。1481年
《東方三博士の礼拝》未完成。1481年

ミラノへ


1482年、30歳にしてレオナルドはミラノへ旅立つ。フィレンツェのロレンツォ・デ・メディチはミラノ公爵ルドヴィコ・スフォルツァと平和友好を築くため、レオナルドに贈り物として竪琴を持たせたミラノへ派遣したという。

 

ヴァサリによればレオナルドは音楽家としても才能を発揮していたころで、馬の頭蓋骨とラムホーンから銀製の竪琴を制作していたという、画家ではなく音楽家としてミラノへ派遣されている。

 

ミラノに着くとレオナルドは、ルドヴィコ公爵に工学や武器のデザインで成し遂げた素晴らしいさまざまな事を説明し、また自身がそれらを描くことができるとも述べた手紙を書いてイル・モーロに送っていた。

 

この手紙は現在でもよく紹介されるレオナルド文章であるが、何を意味していた手紙かというと、職探しのための自己推薦状のようなものである。以下のサイトでレオナルドがルドヴィコに送った手紙が公開されている。

http://www.lettersofnote.com/2012/03/skills-of-da-vinci.html

 

自薦状の内容ではまず、自身の土木・軍事技術の知識について列挙している。頑丈で携帯可能な橋、堅牢で敵に攻撃されにくく、あげおろしが容易な橋、上陸用の船、大砲や散弾による攻撃や防御、壕や川の下のトンネル、攻撃不可能な戦車、従来のものとは違う大砲や火器、投石機などをつくることができると書いていた。

 

レオナルドは1482年から1499年までミラノで働いた。そこではアンブロージョ、エヴァンジェリスタのデ・プレディス兄弟による工房と協働体制をとる。彼は処女懐胎組合の依頼で《岩窟の聖母》の制作依頼を受ける。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の男子修道院の依頼で《最後の晩餐》の作品の制作をしていた。

 

1485年の春、レオナルドはルドヴィコの代理としてハンガリーへ旅行し、マーチャーシュ1世と面会し、《聖母子像》画の制作依頼を受ける。1493年から1495年の間、レオナルドは課税書類で彼の扶養家族としてカテリーナと呼ばれる女性の名前を記載している。彼女が1495年に亡くなったとき、葬儀費支出帳で彼女がレオナルドの母親であったことが示されていたという。

レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》1490s
レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》1490s

ペストから生まれた公衆衛生都市デザイン


レオナルドは建築にも大きな関心を示していたが、単体の建築だけでなく都市計画にも興味深い提案をしている

 

レオナルドが都市計画について考えるようになったのはミラノ時代のこと。中世ヨーロッパでは疫病の流行が大きな惨禍を巻き起こし、ミラノでも1484年のペスト流行によって人口の三分の一を失っている。この当時ペストの原因はまだ解明されていなかったが、レオナルドは風と水の流れが蔓延のきっかけになっていることに気づき、清潔な街を造ることが第一と考え、三層になった都市デザインを考えた

 

スラムをなくし、運河と下水路を整備することや、都市を地上と地下に分ける多層化を提案した。一番下に貨物船なども通れる運河を造る。その上に馬車などが通る幅の広い道路を載せる。さらにその上に貴人のための歩道を造る。生活排水や道路を洗った水は運河から流れていく。住居と思われる最上階にはたくさんの窓が開けられていて、通風・採光にも配慮されている。

 

「この街は海とかそのほか大河の付近に建設すべきである、都市の汚物が水によって運び去られるように」とレオナルドは書いている。

 

ほかにも、レオナルドは特別な日に使用する山車とパレードの準備、ミラノ大聖堂のドームのデザイン、ルドヴィコの前身であるフランチェスコ・スフォルツァの巨大な馬術碑のモデルなど、ルドヴィコのさまざまなプロジェクトに携わった。

《運河計画》『パリ手稿B』より 1485-88年。
《運河計画》『パリ手稿B』より 1485-88年。

軍事技師として活躍


1494年からミラノに侵攻したフランス軍は99年、第二次イタリア戦争を始める。攻め込んでくるフランス軍は『レオナルドの馬』の等身大の粘土モデルを標的演習として使用した。

 

ルドヴィーコ・スフォルツァがとらわれ、パトロンを失ったレオナルドと弟子のサライや友人で数学者のルカ・パチョーリらは、ミラノを脱出しヴェネツィアへ逃亡した。ミラノからの旅立ちは、晩年まで続いた放浪暮らしの始まりでもあった。2月にマントヴァ、3月にヴェネツィアに滞在し、4月になるとヴェネツィアに戻った。

 

マンドヴァでレオナルドをもてなしたのが、マントヴァ候フランチェスコ二世・ゴンザーガ夫人であるイザベラ・デステだ。彼女はマントヴァをルネサンスの一大拠点に成長させた立役者でもあり、芸術家の保護者だった。レオナルドがこの地に立ち寄ったとしって彼女が放っておくはずがなく、積極的にアプローチしてみずからの肖像の依頼をした。それは《イザベラ・デステの肖像》である。

《イザベラ・デステの肖像》1500年
《イザベラ・デステの肖像》1500年

ヴェネツィアでレオナルドは軍隊から建築家やエンジニアとして雇われることになり、海上攻撃から街を守るための方法を考案する仕事を任されることになった。

 

1500年にフィレンツェに戻ると、レオナルドと家族はサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会の修道院に客として迎えられ、また工房を貸し出され、ヴァザーリによればそこで《聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ》を制作したという。

 

1502年チェゼーナでレオナルドは教皇アレクサンドル6世の息子であるチェーザレ・ボルジアのもとに仕え、軍の建築家およびエンジニアとして活動したり、パトロンたちとイタリア中を旅をしていた。

 

レオナルドは生活支援を受けるためチェザーレ・ボルジアのために、イモラの町を要塞化するための地図を製作した。

 

当時、地図は非常に稀なものであり、新しい概念のように思えたのだろう、チェザーレはレオナルドが製作した地図を見て感嘆し、軍のエンジニアと建築家のチーフとしてレオナルドを雇用することにした。その年の後半、レオナルドは戦略的地位が優位になるためのトスカナのキアナ渓谷の一部の地形を緻密に描いた地図を製作し、パトロンに提供した。

チェザーレ・ボルジアのために製作したイモラ要塞化計画地図。
チェザーレ・ボルジアのために製作したイモラ要塞化計画地図。

フィレンツェとミラノの往復


レオナルドはフィレンツェに戻り、1503年10月18日に聖ルカ組合に再び加入した。同月までにレオナルドは、《モナ・リザ》のモデルとして知られるリザ・デル・ジョコンドの肖像画に取り組みはじめた。レオナルドは晩年期までこの作品の制作を続けた。

 

1504年1月、レオナルドはミケランジェロのダビデ像を設置する場所を推薦するために設立された委員会の一員となった。

 

その後、フィレンツェで2年間過ごし、シニョーリアの依頼で《アンギアーリの戦い》の壁画をデザインし、描いた。また、フィレンツィ滞在中にレオナルドによる手記『アトランティコ手稿』を書いた。

 

1506年、レオナルドはミラノへ戻る。ベルナルディーノ・ルイーニ、ジョバンニ・アントニオ・ボルトラッフィオ、マルコ・オッジョーのなど彼の最も有名な弟子やファンの多くがミラノの工房でダ・ヴィンチとともに働いていた。

 

当時レオナルドはミラノのフランス総督チャールズ・2世・ダンボワーズの騎馬像制作プロジェクトをはじめたかもしれない。この騎馬像のワックスモデルは現存しており、本物ならば現存するレオナルドの唯一の彫刻作品となる。

 

レオナルドの父親が1504年に死去したためミラノには長い間おらず、1507年に父親の遺産に関する兄弟間で発生したトラブルを解決するためフィレンツェに戻った。

 

1508年までにレオナルドはミラノに戻り、サンタ・バビラ教区のポルタ・オリエンターレにある自身の家に住んでいた。

晩年


1513年から1516年までの間、レオ10世教皇のもとレオナルドは、ローマのヴァチカンにあるベルヴェデーレの中庭で多くの時間を過ごした。

 

そこではラファエロやミケランジェロの2人も活動していた。1515年10月、フランス王フランソワ1世がミラノを奪還。12月19日、レオナルドはボローニャで開催されたフランソワ1世とレオ10世の会合に出席した。

 

レオナルドはフランソワから百合の束が詰まっており開閉可能な胸構造を持つ機械ライオンの制作を依頼した。1516年、レオナルドはフランソワに庇護されることになり、ロイヤル・シャトー・アンボアーズで王の住居近くにある邸宅クロ・リュセ城の使用を認められた。

 

レオナルドは人生の最後の3年を、友人や弟子のフランチェスコ・メルツィらとそこで過ごし、総計1万スクードの年金を受給され日々の生活を過ごすことになった。

 

ある時点でメルツィはレオナルドの最晩年期の肖像画を描きはじめた。レオナルドの生涯を知るほかの人物は、レオナルドの習作(1517年作)の1つの背景の無名のアシスタントによるスケッチと、ジョヴァンニ・アンブロージョ・フィジーノによって絵が書かれた右腕を布で覆っている老年のレオナルドのドローイングだけだった。

 

後者の絵は65歳のレオナルドで右手が麻痺している状態を描いたものだという。これは、《モナ・リザ》が未完成のまま残っている根拠を示す可能性がある。レオナルドは晩年、病気で数ヶ月間寝たきり状態になるまでいくらか制作する能力はまだあったという。

 

1519年5月2日にクロ・ルーセでレオナルドは67歳で死去。死因は脳卒中と見られている。ヴァサリによれば、レオナルドは最後の日々になると司祭をよびよせ懺悔を行い、聖なる秘跡を受けたという。この話は事実ではなく作り話かもしれないが、ヴァザリによればフランソワ1世の腕に頭を抱えられて状態でレオナルドが亡くなった記録している。

 

レオナルドの遺言に従い、小ろうそくを持った60人の乞食たちがレオナルドの葬列に参加し、棺の後に続いて歩いた。

 

ランチェスコ・メルツィがレオナルドの主たる相続人兼遺言執行者で、メルツィはレオナルドの金銭的遺産だけでなく、絵画、道具、蔵書、私物なども相続した。レオナルドの遺体は、アンボワーズ城のサン=ユベール礼拝堂に埋葬された。

略年譜


■1452年

4月15日、公証人セル・ピエロの私生児としてフィレンツェ郊外のヴィンチ村に生まれる。母の名はカテリーナ。

 

■1456年頃(13歳)

父がフィレンツェに事務所をかまえる。レオナルドもこの頃ヴェロッキオの工房に入る。

 

■1469年(17歳)

父の税申告書に17枚のレオナルドの記載あり。

 

■1471年頃(19歳)

ヴェロッキオの工房でフィレンツェ大聖堂に直径2.4メートルの球体を制作・設置する仕事に関わる。

 

■1472〜75年頃(20〜23歳)

《受胎告知》、《カーネーションの聖母》の制作を開始。《風景素描(雪のサンタ・マリア)》を制作。

 

■1476年頃(24歳)

同性愛の嫌疑をかけられる(サルタレッリ事件)。

 

■1478年(26歳)

素描に「二点の聖母子像に着手」と記す。《ブノワの聖母》、《猫の聖母》か。この頃《ジネヴラ・デ・ベンチの肖像》を制作。

 

■1479年(27歳)

バッツィの乱の首謀者の1人として絞首刑に処せられたバロンチェッリの様子をスケッチする。

 

■1481年(29歳)

《東方三博士の礼拝》の依頼を受ける。

 

■1482年(30歳)

フィレンツェを出てミラノに移り、ルドヴィコ・スフォルツァに使える。

 

■1483年(31歳)

デ・プレディス兄弟とともに《岩窟の聖母》に着手。

 

■1484〜90年(32〜38歳)

この頃、工房で《音楽家の肖像》を制作。

 

■1485年(33歳)

この頃《スフォルツァ騎馬像》の制作にとりかかる。

 

■1487年(35歳)

ミラノ大聖堂ティブーリオ(クーポラの上部構造)の模型を制作。

 

■1489年(37歳)

イル・モーロから《スフォルツァの騎馬像》の制作の要請を受ける。

 

■1490年(38歳)

ミラノ公ジャンガレアッツォ・マリーア・スフォルツァとナポリ王の娘イザベッラ・ダラゴーナの結婚祝宴で演劇『天国の祝祭(イル・パラディーゾ)』を演出。この頃《白貂を抱く貴婦人》《ラ・ベル・フェロ二エール》を制作。サライがレオナルドの工房に入る。

 

■1491年(39歳)

イル・モーロとベアトリーチェ・デステの結婚祝典で一連の行事を手掛ける。

 

■1493年(41歳)

神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世とミラノのビアンカ・マリーア・スフォルツァの結婚式で、《スフォルツァ騎馬像》の粘土原型を公開する。

 

■1494年(42歳)

ルドヴィコ・スフォルツァが《最後の晩餐》を依頼。フランス軍がミラノ侵攻、《スフォルツァ騎馬像のために用意されたブロンズ約70トンが大砲に転用される。

 

■1495年頃(43歳)

ミラノの公文書に技師・画家として記載される。

 

■1496年(44歳)

数学者ルカ・パチョーリとの共同執筆を開始、1498年ルドヴィコ・スフォルツァに献呈される。

 

■1498年(46歳)

《最後の晩餐》が完成。

 

■1499年(47歳)

フランス軍がミラノを占領、イル・モーロは敗走。

 

■1500年(48歳)

ミラノを経ち、2月マントヴァ、3月にヴェネツィアに滞在、4月にフィレンツェに戻る。マントヴァで《イザベッラ・デステの肖像》の素描を制作(着彩画は制作せず)。

 

■1501年(49歳)

ローマに初めて旅行。その後フィレンツェに戻り、《聖アンナと聖母子、洗礼者ヨハネ》のカルトンを公開(現存せず)。

 

■1502年(50歳)

チェザーレ・ボルジアに軍事技師として雇われる。

 

■1503年(51歳)

チェザーレのもとを離れ、フィレンツェに戻る。フィレンツェ政庁からパラッツォ・ヴェロッキオ「五百人広間」の壁画制作をミケランジェロとともに依頼される(《アンギアーリの戦い》未完)。《モナ・リザ》の制作を開始。

 

■1506年(54歳)

《岩窟の聖母》裁判結審。フランスのミラノ総督シャルル・ダンボワーズの招聘でミラノに戻る。

 

■1507年(55歳)

この頃、最愛の弟子となるフランチェスコ・メルツィが入門してくる。

 

■1508年(56歳)

この頃、出版をめざして手稿の整理を開始。ミラノに移る。解剖学の研究を進める。

 

■1513年(61歳)

ジュリアーノ・デ・メディチの支援でローマのベルヴェデール宮殿に住む。《洗礼者ヨハネ》の制作を開始。

 

■1516年(64歳)

フランソワ一世によってフランスのアンボワーズに招かねる。

 

■1519年(67歳)

4月23日、遺言書を作成。

5月2日、アンボワーズで死去。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Leonardo_da_Vinci

・別冊太陽「レオナルド・ダ・ヴィンチを旅する」