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【Artpedia】レオナルド・ダ・ヴィンチ「美術史において最も偉大なルネサンス芸術家」

レオナルド・ダ・ヴィンチ / Leonardo da Vinci

美術史において最も偉大なルネサンス芸術家


《モナリザ》1503–05/07
《モナリザ》1503–05/07

概要


 

生年月日 1452年4月15日
死没月日 1519年5月2日
国籍 イタリア
表現形式 芸術、科学
ムーブメント 盛期ルネサンス
代表作

・《モナリザ》

・《最後の晩餐》

《サルバトール・ムンディ》

フランチェスコ・メルツィによる晩年の肖像画。
フランチェスコ・メルツィによる晩年の肖像画。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年4月15日-1519年5月2日)は、ルネサンス期イタリアの博学者。

 

彼が関心を持っていた分野は発明、絵画、彫刻、建築、科学、音楽、数学、工学、文学、解剖学、地質学、天文学、植物学、筆記学、歴史学、地図学など。

 

古生物学、痕跡化石、建築学などさまざまな学問のジャンルで創始者であり、美術史において最も偉大なルネサンスの芸術家の1人とみなされている。パラシュート、ヘリコプター、戦車を発明において功績があると言われることもある。

 

彼自身が、ルネサンス・ヒューマニズムの理想を具現化した存在である。

 

多くの歴史家や学者はレオナルドに対して、"万能の天才"または"ルネサンス・マン"の模範的な人物であり、人類史において最もさまざまな分野の才能を発揮した個人と見なしている。歴史家のヘレン・ガードナーによれば、彼の興味範囲とその興味対象への深い知識という点で、人類史上先例がなく、「彼の精神や性格は人間離れしており、また同時に神秘的で遠い世界の人に思える」と評している。

 

マルコ・ロシィは、彼の生涯や性格においては多くの憶測がなされているが、彼の世界観は神秘的や宗教的なものではなく、論理的なものであり、彼が採用したさまざまな実証的方法は、当時は異端視されていたものだった。

 

2017年11月15日にニューヨークのクリスティーズで、彼の作品《サルバトール・ムンディ》が競売にかけられ、一般市場で流通している作品において史上最高額となる4億5000万ドルで落札され、話題となった。

 

レオナルドはフィレンツェ地方のヴィンチに住む公証人の父ピエロ・ダ・ヴィンチと農民の母カテリーナのあいだに生まれた。幼少期はフィレンツェに住んでいたアンドレア・デル・ヴェロッキオのアトリエで絵を学んだ。ダ・ヴィンチの初期作品の多くはミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァがパトロンとなり、彼の依頼で制作されたものである。のちに、ローマ、ボローニャ、ヴェネツィアへ移って制作を行い、フランシス1世から贈られた住居で晩年を過ごした。

作品解説


現存している作品では約20枚の作品が、全体または大部分がレオナルド自身の手による真作として認知されている。しかし、実際にはもっと多くの作品を制作していると考えられているが、消失したり、保存先が不明の状態になっている。レオナルドの作品にはサインはない。

現存しているレオナルドによる有名作品

《受胎告知》
《受胎告知》
《キリストの洗礼》
《キリストの洗礼》
《カーネーションを持つ聖母》
《カーネーションを持つ聖母》
《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》
《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》

《サルバトール・ムンディ》
《サルバトール・ムンディ》
《ブノアの聖母》
《ブノアの聖母》
《東方三博士の礼拝》
《東方三博士の礼拝》
《荒野の聖ヒエロニムス》
《荒野の聖ヒエロニムス》

《リッタの聖母》
《リッタの聖母》
《岩窟の聖母》ルーブル版
《岩窟の聖母》ルーブル版
《音楽家の肖像》
《音楽家の肖像》
《白貂を抱く貴婦人》
《白貂を抱く貴婦人》

《岩窟の聖母》ロンドン版
《岩窟の聖母》ロンドン版
《最後の晩餐》
《最後の晩餐》
《ミラノの貴婦人の肖像》
《ミラノの貴婦人の肖像》
《Sala delle Asse》
《Sala delle Asse》

《聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ》
《聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ》
《イザベラ・デステの肖像》
《イザベラ・デステの肖像》
《糸車の聖母(バクルーの聖母)》
《糸車の聖母(バクルーの聖母)》
《糸車の聖母(ランズタウンの聖母)》
《糸車の聖母(ランズタウンの聖母)》

《モナ・リザ》
《モナ・リザ》
《女性の頭部》
《女性の頭部》
《洗礼者ヨハネ》
《洗礼者ヨハネ》

略歴


幼少期


レオナルドは、1452年4月14日から15日にかけて、メディチ家統治下にあるフィレンツェ共和国の領地内にあるアルノ川下流の渓谷、トスカーナの丘の町ヴィンチで生まれた。

 

レオナルドは裕福なフィレンツェの法定公証人の父セル・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチと農民の娘だった母カテリーナ・ブチ・デル・ベッカのあいだに生まれた。

 

婚姻状態でできた子どもだと見なされいるが、最近の研究では歴史家のマーティン・ケンプによれば婚外子だという。母親はもともと外国出身の奴隷か、そうでなければ貧しい環境で育った地元の若い女性などさまざまな推測がされている。

 

レオナルドには現代のような姓はなかった。ヴィンチという土地で生まれたため、単純にレオナルド・ダ・ヴィンチと呼ばれている。そのため日本ではよく「ダ・ヴィンチ」と下の名前で呼ばれるが、海外では「レオナルド」と示すのが一般的である。

 

なお、フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチであり、ヴィンチ出身のセル・ピエロの息子レオナルドを意味する。

 

レオナルドの幼少期についてはほとんどわからない。生まれてから5年間を母親の実家とされるアンキアノの集落で過ごしたあと、1457年からヴィンチの小さな町に住んでいた父方の祖父オボや叔父のもとで暮らしていた。

 

父親はアルビエーラ・ディ・ジョヴァニ・アマドーリという16歳の娘と結婚しており、彼女はレオナルドをかわいがってくれたが、父親との間には子どもはなく1465年に若くして亡くなっている。

 

1468年、レオナルドが16歳のとき父親は20歳のフランチェスカ・ランフレディーにと結婚したが、またも夫婦の間には子どもなく亡くなった。

 

ピエロの正式な相続人となる子どもたちは、3番目の妻マルゲリータ・ディ・グリエルモとの間に生まれた6人の子ども(アントニオ、ジュリアン、マッダレーナ、ロレンツォ、ヴィオランテ、ドメニコ)と、4番目の最後の妻となるルクレツィア・コルジアーニとの間に生まれた6人子ども(マルゲリータ、ベネデット、パンドルフ、グリエルモ、バルトロメオ、ジョヴァンニ)である。

 

全体としてレオナルドには腹違いの12人の兄弟がおり、レオナルドは長男にあたる。兄弟たちはレオナルドよりもずっと若く(末の子とレオナルドには40歳の差がある)、レオナルドは婚外子のため兄弟たちと会うことはほとんどなかったが、父の死後、兄弟たちは相続争いを起こしていた。

 

レオナルドは非公式でラテン語、幾何学、数学の教育を受けた。その後の人生でレオナルドは2つだけの幼年期の事件を記録している。1つはトビに関することで、これは後年彼のおもな研究主題の1つとなった。

 

もう1つは山の探検に関することだった。レオナルドは洞窟を発見し、何か偉大な怪物がそこに潜んでいるのではないかと恐怖を感じると同時に、中にあるものを見る好奇心にかりたてられたという。

 

レオナルドの初期人生は歴史的推測がおもな主題だった。16世紀の画家で芸術家の評伝を書く伝記作家だったジョルジョ・ヴァザーリは若齢期のレオナルドの物語を書いている。

 

地元の農民が自身で丸い盾を作り、セル・ピエロに盾に絵を描いてもらうよう頼んだことがあった。セル・ピエロの要請にこたえてレオナルドは火を吐くモンスターの絵を描いたが、非常におそろしいものだったので、セル・ピエロはフィレンツェの画商に売り、画商はミラノ公爵に売り払ったという。

 

売り払って得たお金でセル・ピエロは心臓に矢が突き刺さった絵で装飾された盾を購入し、その盾を農民にゆずったという。

アンキアノにある幼少期のレオナルドが過ごした家。
アンキアノにある幼少期のレオナルドが過ごした家。

ヴェロッキオの工房


1460年代なかば、レオナルドの家族はフィレンツェへ移った。当時レオナルドは14歳くらいで、当時のフィレンツェの人気画家で彫刻家のヴェロッキオのワークショップに見習いとして通っていた。

 

レオナルドは17歳までに見習いで7年間トレーニングを積んだ。ワークショップに見習いとして参加、または関与していたほかの有名な画家にドメニコ・ギルランダイオ、ペルジーノ、ボッティチェッリ、ロレンツォ・ディ・クレディがいた。

 

レオナルドは理論訓練と技術能力の両方の領域において幅広い関心を持った。 絵画、彫刻、モデリングなどの古典的美術的能力と同様に製図、化学、冶金、金属加工、石膏キャスティング、皮革加工、機械工、木工などの幅広い技術能力を習得した。

 

ヴェロッキオのワークショップにおける絵画の多くは弟子たちによって制作された。伝記作家のヴァザーリによれば、レオナルドはヴェロッキオと《キリストの洗礼》をほぼ2人で制作したという。これは作り話だろうがレオナルドは師匠であるヴェロッキオよりもはるかに優れた技術で左のキリストのローブを手に持つ天使を描いたので、師であるヴェロッキオは筆を折り、その後2度と絵を描くことはなかったという。

《キリストの洗礼》レオナルドとヴェロッキオの協働作品。
《キリストの洗礼》レオナルドとヴェロッキオの協働作品。

また、レオナルドはヴェロッキオの美術作品2点のモデルになったとも言われている。フィレンツェのバルジェロ美術館が所蔵するブロンズ彫刻《ダヴィデ》と、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する《トビアスと天使》に描かれている大天使ラファエルはレオナルドがモデルであるとされている。

 

1472年までに、20歳のとき、レオナルドは芸術家と医者の組合として知られる「聖ルカ組合」で親方の資格を得た。しかし、レオナルドの父親がレオナルドのためにワークショップを設立したあとでさえも、レオナルドはヴェロッキオへ愛着を持ち続け、彼とともに生活や協働制作を続けた。

 

レオナルドの初期の有名作品は、1473年のペンとインクのドローイングによるアルノ渓谷の風景画の習作である。この作品は西洋における最初の"純粋な”風景画として紹介されることがある。

 

ヴァザーリによれば、青年期のレオナルドはアルノ川をフィレンツェとピサ間の航行を可能な水路に改造させることを最初に提案した人物だったという。

プロフェッショナルとして活動開始


レオナルドは1478年にヴェロッキオのスタジオを後にする。ある美術研究家は、その後レオナルドは1480年にメディチ家のもとへ行き、フィレンツェのサンマルコ広場にあるメディチ家が設立した詩人や哲学家、芸術家たちのアカデミー「ネオ・プラトン」で働いていたと主張している。

 

1478年1月、レオナルドはヴェッキオ宮殿で聖バーナード礼拝堂に飾る祭壇画の制作依頼を受けた。また、1481年3月にはサン・ドナート・ア・スコペト修道士のための絵画《東方三博士の礼拝》の制作依頼を受けている。しかし、どちらの仕事も未完成で、後者はレオナルドがミラノへ行ったときに中断された。

《東方三博士の礼拝》未完成。1481年
《東方三博士の礼拝》未完成。1481年

1482年、ヴァサリによればレオナルドは音楽家としても才能を発揮していたころで、馬の頭蓋骨とラムホーンから銀製の竪琴を制作したという。ロレンツォ・デ・メディチはミラノ公爵ルドヴィコ・スフォルツァと平和友好を築くため、レオナルドに贈り物として竪琴を持たせたミラノへ派遣した。

 

レオナルドはルドヴィコ公爵に工学や武器のデザインで成し遂げた素晴らしいさまざまな事を説明し、また自身がそれらを描くことができるとも述べた手紙を書いて送っていた。この手紙は現在でもよく紹介されるレオナルド文章であるが、何を意味していた手紙かというと、職探しのための自己推薦状のようなものである。以下のサイトでレオナルドがルドヴィコに送った手紙が公開されている。

http://www.lettersofnote.com/2012/03/skills-of-da-vinci.html

 

レオナルドは1482年から1499年までミラノで働いていた。彼は処女懐胎組合の依頼で《岩窟の聖母》やサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の男子修道院の依頼で《最後の晩餐》の作品の制作をしていた。

 

1485年の春、レオナルドはルドヴィコの代理としてハンガリーへ旅行し、マーチャーシュ1世と面会し、《聖母子像》画の制作依頼を受ける。1493年から1495年の間、レオナルドは課税書類で彼の扶養家族としてカテリーナと呼ばれる女性の名前を記載している。彼女が1495年に亡くなったとき、葬儀費支出帳で彼女がレオナルドの母親であったことが示されていたという。

レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》1490s
レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》1490s

レオナルドは特別な日に使用する山車とパレードの準備、ミラノ大聖堂のドームのデザイン、ルドヴィコの前身であるフランチェスコ・スフォルツァの巨大な馬術碑のモデルなど、ルドヴィコのさまざまなプロジェクトに携わった。

 

1499年に第二次イタリア戦争がはじまり、攻め込んでくるフランス軍は『レオナルドの馬』の等身大の粘土モデルを標的演習として使用した。ルドヴィーコ・スフォルツァの滅亡とともにレオナルドと弟子のサライや友人で数学者のルカ・パチョーリらは、ミラノを脱出しヴェネツィアへ逃亡した。

 

ヴェネツィアでレオナルドは軍隊から建築家やエンジニアとして雇われることになり、海上攻撃から街を守るための方法を考案する仕事を任されることになった。

 

1500年にフィレンツェに戻ると、レオナルドと家族はサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会の修道院に客として迎えられ、また工房を貸し出され、ヴァザーリによればそこで《聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ》を制作したという。

 

1502年チェゼーナでレオナルドは教皇アレクサンドル6世の息子であるチェーザレ・ボルジアのもとに仕え、軍の建築家およびエンジニアとして活動したり、パトロンたちとイタリア中を旅をしていた。

 

レオナルドは生活支援を受けるためチェザーレ・ボルジアのために、イモラの町を要塞化するための地図を製作した。

 

当時、地図は非常に稀なものであり、新しい概念のように思えたのだろう、チェザーレはレオナルドが製作した地図を見て感嘆し、軍のエンジニアと建築家のチーフとしてレオナルドを雇用することにした。その年の後半、レオナルドは戦略的地位が優位になるためのトスカナのキアナ渓谷の一部の地形を緻密に描いた地図を製作し、パトロンに提供した。

チェザーレ・ボルジアのために製作したイモラ要塞化計画地図。
チェザーレ・ボルジアのために製作したイモラ要塞化計画地図。

レオナルドはフィレンツェに戻り、1503年10月18日に聖ルカ組合に再び加入した。同月までにレオナルドは、《モナリザ》のモデルとして知られるリサ・デル・ジオコンドの肖像画に取り組みはじめた。レオナルドは晩年期までこの作品の制作を続けた。

 

1504年1月、レオナルドはミケランジェロのダビデ像を設置する場所を推薦するために設立された委員会の一員となった。

 

その後、フィレンツェで2年間過ごし、シニョーリアの依頼で《アンギアーリの戦い》の壁画をデザインし、描いた。また、フィレンツィ滞在中にレオナルドによる手記『アトランティコ手稿』を書いた。

 

1506年、レオナルドはミラノへ戻る。ベルナルディーノ・ルイーニ、ジョバンニ・アントニオ・ボルトラッフィオ、マルコ・オッジョーのなど彼の最も有名な弟子やファンの多くがミラノの工房でダ・ヴィンチとともに働いていた。

 

当時レオナルドはミラノのフランス総督チャールズ・2世・ダンボワーズの騎馬像制作プロジェクトをはじめたかもしれない。この騎馬像のワックスモデルは現存しており、本物ならば現存するレオナルドの唯一の彫刻作品となる。

 

レオナルドの父親が1504年に死去したためミラノには長い間おらず、1507年に父親の遺産に関する兄弟間で発生したトラブルを解決するためフィレンツェに戻った。

 

1508年までにレオナルドはミラノに戻り、サンタ・バビラ教区のポルタ・オリエンターレにある自身の家に住んでいた。

晩年


1513年から1516年までの間、レオ10世教皇のもとレオナルドは、ローマのヴァチカンにあるベルヴェデーレの中庭で多くの時間を過ごした。

 

そこではラファエロやミケランジェロの2人も活動していた。1515年10月、フランス王フランソワ1世がミラノを奪還。12月19日、レオナルドはボローニャで開催されたフランソワ1世とレオ10世の会合に出席した。

 

レオナルドはフランソワから百合の束が詰まっており開閉可能な胸構造を持つ機械ライオンの制作を依頼した。1516年、レオナルドはフランソワに庇護されることになり、ロイヤル・シャトー・アンボアーズで王の住居近くにある邸宅クロ・リュセ城の使用を認められた。

 

レオナルドは人生の最後の3年を、友人や弟子のフランチェスコ・メルツィらとそこで過ごし、総計1万スクードの年金を受給され日々の生活を過ごすことになった。

 

ある時点でメルツィはレオナルドの最晩年期の肖像画を描きはじめた。レオナルドの生涯を知るほかの人物は、レオナルドの習作(1517年作)の1つの背景の無名のアシスタントによるスケッチと、ジョヴァンニ・アンブロージョ・フィジーノによって絵が書かれた右腕を布で覆っている老年のレオナルドのドローイングだけだった。

 

後者の絵は65歳のレオナルドで右手が麻痺している状態を描いたものだという。これは、《モナリザ》が未完成のまま残っている根拠を示す可能性がある。レオナルドは晩年、病気で数ヶ月間寝たきり状態になるまでいくらか制作する能力はまだあったという。

 

1519年5月2日にクロ・ルーセでレオナルドは67歳で死去。死因は脳卒中と見られている。ヴァサリによれば、レオナルドは最後の日々になると司祭をよびよせ懺悔を行い、聖なる秘跡を受けたという。この話は事実ではなく作り話かもしれないが、ヴァザリによればフランソワ1世の腕に頭を抱えられて状態でレオナルドが亡くなった記録している。

 

レオナルドの遺言に従い、小ろうそくを持った60人の乞食たちがレオナルドの葬列に参加し、棺の後に続いて歩いた。

 

ランチェスコ・メルツィがレオナルドの主たる相続人兼遺言執行者で、メルツィはレオナルドの金銭的遺産だけでなく、絵画、道具、蔵書、私物なども相続した。レオナルドの遺体は、アンボワーズ城のサン=ユベール礼拝堂に埋葬された。