アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック / Henri de Toulouse-Lautrec
19世紀後半のパリを表現した後期印象派画家
概要
生年月日 | 1864年11月24日 |
死没月日 | 1901年9月9日 |
国籍 | フランス |
表現形式 | 絵画、イラストレーション、版画 |
ムーブメント | 後期印象派 |
関連人物 | フィンセント・ファン・ゴッホ |
関連サイト |
・The Art Story(略歴) |
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864年11月24日-1901年9月9日)は、フランスの画家、版画家、イラストレーター。一般的に「ロートレック」と呼ばれることが多い。
カラフルな色彩が特徴で、ポール・セザンヌ、ファン・ゴッホ、ゴーギャンとならんで後期印象派の代表的な作家の一人として知られている。また、アール・ヌーヴォーのイラストレーターであり、リトグラフ作家として活躍。19世紀後半のパリにおけるボヘミアン・ライフスタイルの様子を描写した。
2005年のクリスティーズ・オークションで、ロートレックの初期作品である「洗濯屋」は、2200万ドルで落札された。ロートレックは14歳で足の成長が止まる遺伝的障害を抱えていた。
略歴
幼少期
トゥールーズ・ロートレックは、フランスのミディ=ピレネー地域圏のタルヌ県アルビで、父シャルル・ド・トゥールーズ・ロートレック・モンファ・アルフォンセ伯爵と妻アデール・ゾー・タピエ・ド・セレーンランのあいだに長男として生まれた。名前の最後の部分は、ロートレックが貴族出身であることを示している。1867年に弟が生まれているが、翌年亡くなった。
弟の死後、両親は別れて暮らしはじめることになったので、アンリはナニーに育てられることになった。8歳のときアンリはパリで母と暮らしはじめ、そこでスケッチを始める。スケッチブックには人の似顔絵がたくさん描かれていた。家族はすぐにアンリの絵の才能に気づき、父親の友人である画家のルネ・プリンセトーがときどきアンリの元に訪れては個人的レッスンをしていた。アンリの初期作品は、馬やプリンセトーやサーカスを主題としたものが多かった。
1875年にロートレックは健康問題でアルビに戻る。母は医者にアンリの身体の成長を改善する方法を医者に相談していた。
1878年5月、13歳のときロートレックは右大腿骨を骨折。椅子から立ち上がろうとして転んだだけであるが、骨折が治るのはずいぶん遅かった。14歳のときに今度は右足の大腿骨の上部を折った。そしてロートレックは、15歳のときから下半身の成長が止まる。
骨が弱くなった理由は近親結婚、つまり、彼の両親が大衆嫌いの貴族のいとこ同士であることが原因だとされている。フランスではよくあることである。彼の骨は遺伝的な障害、おそらく結腸直腸癌症である。このときから、彼の両足の成長は止まり、足が非常に短く身長は140cmだった。足の長さは子どものままで上半身は成長し、その一方でペニスは一般的な男性よりも大きな性器となり、非常にグロテスクな身体だったという。
一般的な同じ年齢の男性が楽しむ活動の多くにロートレックは参加することができず、ロートレックは芸術活動に没頭するようになった。彼はのちに、退廃的なキャバレーやカフェ、売春宿に日夜入り浸るようになるが、性的能力の並外れた自分を「大きな注ぎ口のついたコーヒーポット」と形容し、キャバレー及びその周辺で生きる女たちと頻繁に肉体的交渉をもったという。
パリのモンマルトルへ
フランスのニースに滞在している間、ロートレックの絵画やドローイングの進歩にプリンセトーは驚嘆する。プリンセトーは両親を説得し、彼をパリのアカデミズム肖像画家であるレアン・ボナットのもとで学ぶよう勧める。ロートレックの母親は高い志しを持ち、息子が流行りの尊敬される画家になるよう、ボナットのもとで学ばせることにした。
パリへ移るとトゥールズ・ロートレックはボヘミン・ライフスタイルを送るさまざまな芸術家や知識人たちが集まるモンマルトルの風景を描いた。ボナットのもとで学ぶためロートレックは、モンマルトルの中心に移り、以後生涯そこからほとんど離れることはなかったという。
ボナットが新しい仕事に移ったため、ロートレックは、1882年にフェルナン・コルモンのアトリエに移る。ここで5年間ほど学び、友人たちとグループを結成する。このとき、ロートレックはエミール・ベルナールやフィンセント・ファン・ゴッホと知りあう。
コルモンの指導はボナットより穏やかだったので、生徒たちはパリの町を歩き回って、描く主題となるものを自由に選択することが許されていた。この時期、ロートレックは売春婦とはじめて出会い、マリー・チャレットと思われるモンマルトルの売春婦の絵をよく描いていた。
画家として独立
1887年に学業を終えると、ロートレックはトゥールーズの博覧会に参加する。このとき「ロートレック」という部分を「トレクラー」に名前を変えて出品している。その後、ファン・ゴッホやルイ・アンクタンらとパリで展示を行う。
ベルギー批評家のオクターブ・マウスは、2月ブリュッセルで開催する展覧会「20人展」から招待を受け、ロートレックは11作品を出品。ファン・ゴッホの弟のテオが、150フランでロートレックの作品《テーブルにかける若い女性》を購入した。
1889年から1894年まで、トゥールーズ・ロートレックはアンデパンダン展に定期的に参加。さまざまなモンマルトルの風景画を出品している。このころ、1888年制作の「洗濯女」で描かれているロートレックお気に入りの赤髪のモデルでのちに画家となるシュザンヌ・ヴァラドンのポートレイトシリーズを描いている。彼女は1885年から彼の「カルメン・ゴーダン」という連作絵画で、何度もモデルとして描かれている。
キャバレー「ムーラン・ルージュ」とポスター画家
パリにキャバレー「ムーラン・ルージュ」がオープンすると、トゥールーズ・ロートレックは店からポスター制作の依頼を受ける。当時、パリの画家たちの間ではポスター制作のような商業絵画の仕事は見下されていたが、ロートレックは無視していた。
ムーラン・ルージュから便宜をはかられるようになったこともあり、このころからロートレックはキャバレーに入り浸る。また、彼自身が身体障害者として差別を受けていたこともあってか、娼婦、踊り子のような夜の世界のマイノリティで差別をされている女たちに共感するようになる。そして、彼女らを愛情のこもった筆致で描いた。
ムーラン・ルージュやほかのナイトクラブのために制作した作品は、非常に人気が高くなり、このころの作品が一般的にロートレックの代表作として認知されるようになった。
描かれた女性としては、キャバレー歌手で女優のイヴェット・ギルベール、フレンチ・カンカンのダンサーであるラ・グリュ、同じくフレンチ・カンカンのダンサーであるジャンヌ・アヴリルなどがいる。
ロンドン滞在
ロートレックの一家はアングロフィンだったので、流暢ではないもののロンドン旅行するには十分な英会話力を持っていた。彼はJ.&E. Bella社からの依頼で広告ポスターやシンプソン・チェアの自転車広告をよく制作した。ロンドンにいる間、彼はオスカー・ワイルドと出会い親交を深める。イギリスでワイルドが逮捕されたとき、ロートレックは彼の支援者となった。
アルコール依存や梅毒
ロートレックは、自分の身長が低く醜い肉体で嘲笑されることが多かったため、アルコールへ逃避するようになった。当初はビールとワインしか飲まなかったが、蒸留酒やアブサンなど度数の高い酒へ拡大していった。
常に酒から身を話さず、杖の先をくりぬいて酒を詰め込んでもいたという。アルコール依存に加えて、売春婦依存もひどくなった。彼は「都市の下層階級」である彼女たちのライフスタイルに魅了されるようになり、彼女たちを絵画に描いた。ロートレックは自分の身体の畸形性と売春婦との間に親和性を見出していた。
1899年2月までに、ロートレックのアルコール依存は重症になり、身体を壊すようになった。家族は3ヶ月間、ノイリリーにあるセント・ジェームズ療養所に彼を預けることにした。入院している間、彼は39枚のサーカスのポートレイトを描いた。退院するとパリに戻り、フランス全土を旅することにした。しかし、心身ともにロートレックの状態はアルコール依存や梅毒が原因で急速に悪化していった。
1901年8月20日にパリを引き払って母親のもとへ行き、同年9月9日、ジロンド県のサンアンドレ=ドゥ=ボワ近郊にある母親の邸宅、マルロメ城で両親に看取られ脳出血で死去した。
最期の言葉は彼が障害を持つようになってから、彼を蔑み、金品は与えたが彼の描く絵を決して認めなかった父親に対して発した「Le vieux con!(馬鹿な年寄りめ!という意)」だった。36歳没。城の近くのヴェルドレに埋葬された。
■参考文献