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【ディープ解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「後期印象派の代表で近代美術の父」

フィンセント・ファン・ゴッホ / Vincent van Gogh

後期印象派の代表かつ近代美術の父


フィンセント・ヴァン・ゴッホ《星月夜》(1889年)
フィンセント・ヴァン・ゴッホ《星月夜》(1889年)

目次


概要


生年月日 1853年3月30日 オランダ、ズンデルト
死没月日 1890年7月29日(37歳)フランス オーヴェル・シュル・オワーズ
死因 拳銃による自殺
国籍 オランダ
学歴 アントワープ王立美術アカデミー、ウィレムⅡカレッジ、アカデミー・オブ・ファインアーツ(ブリュッセル)
表現形式 絵画、ドローイング、肖像画、静物画、風景画
代表作品

星月夜

ひまわり

医師ガシェの肖像

カラスのいる麦畑

オーヴァーズの教会

小麦畑

アルルの寝室

タンギー爺さんの肖像

ムーブメント

後期印象派表現主義

関連人物

ポール・ゴーギャンアンリ・マティスジャン・フランソワ・ミレー

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ゴッホ作品一覧

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年3月30日-1890年7月29日)はオランダの画家。

 

後期印象派運動の中心人物西洋美術史において最も有名で影響力のある芸術家の1人、そして近代美術の代表の一人とみなされており、20世紀初頭に出現した前衛芸術家たちに大きな影響を与えた。

 

わずか10年の創作期間のうちに約2100点以上の作品を制作。そのうち約860点は油彩作品であり、また、作品の大半は37歳で自殺するまでの約2年間に制作された。

 

風景画、静物画、肖像画、自画像などを大胆な色使いと劇的で衝動的、表現主義的な激しい筆致で描くのがゴッホ作品の特徴で、近代美術の基礎に貢献した。

 

ただし、ゴッホは生存中に商業的にはまったく成功しておらず、深刻なうつ病と貧困に苦しみ、37歳で自殺した。

 

上層中産階級の家庭で生まれたゴッホの子ども時代は、幼少期から絵を描き始める。真面目で、大人しく、神経質な性格だった。

 

青年期にゴッホは画商として働き、しばしば旅をしていたが、ロンドン赴任時に現地で失恋を経験し、その後、急速にうつ病を患い、画商の仕事をやめる。

 

宗教に関心を移し、ベルギー南部でプロテスタント宣教師として活動を始めるも、その後も精神状態はよくならず、しだいに体調不良と孤独に苛まれていく。

 

不健康と孤独の中を漂い、1881年、実家に戻ると絵を描き始めた。また、両親や弟のテオとともに暮らすようになる。

 

このころから弟のテオが経済的にも精神的にもゴッホの生活を支援することになり、二人は手紙で頻繁にコミュニケーションを行うようになる。

 

ゴッホの初期作品の大半は静物画か貧しい農民の生活を描いたものが多かったが、このころは後期作品で見られるような鮮やかな色使いはほとんど見られず、古風で薄暗い作風だった。

 

色彩に変化が現れたのはパリで当時の印象派画家たちと出会ってから。1886年にパリに移り、そこで前期印象派に反発するエミール・ベルナールやポール・ゴーギャンジョルジュ・スーラポール・シニャックらの新印象派と出会い大きな影響を受ける

 

彼らと出会ったことでゴッホの作品に新しい手法が取り入れられ、晩年の傑作で見られる鮮やかで大胆で明るい色使いと筆致に変化した。またこの頃に、日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っている 。

 

1888年にフランス南部のアルルに滞在しているころに、ゴッホの代表的な絵画で見られる鮮やかな作風に変化する。またこの時期にゴッホは主題を「オリーブの木」「糸杉」「小麦畑」「ひまわり」などへ関心を広げる。

 

しかし、ゴッホの精神状態は悪化、精神病や妄想で苦しみ始める。ゴッホは健康を無視し、過剰なアルコールの摂取や不摂生な食生活をしていたという。

 

アルルの「黄色い家」で共同生活をしていた友人のゴーギャンとの喧嘩で、ゴッホはカミソリでゴーギャンを切りつけようとするが、自分の左耳の一部を切り落とし、サン・レミの精神病院に入院

 

退院後は、パリ近郊のオーヴェシュール・オーワーにあるオーベルジュ・ラヴォーに移り、画家でホメオパシー医者のポール・ガシェのもとで治療を受ける。

 

しかし、ゴッホのうつ病は深刻化していき、1890年7月27日拳銃で自分の胸を撃ち、2日後にその傷で死亡。

 

ゴッホが生存中は、ほぼ無名のままで芸術家として成功することはなかった。自殺後にゴッホは「狂気と想像力が芸術を養う」といった典型的に誤解されたキャッチで公に宣伝され知られるようになる。

 

ゴッホが美術史の文脈で評価されるようになるのは20世紀初頭で、彼の画風はアンリ・マティスを中心としたフォーヴィズムやドイツの表現主義に直接大きな影響を与えた。

 

今日、ゴッホの作品はこれまでに販売された中で世界で最も高価な絵画の一つとしてみなされており、彼の遺産は彼の名を冠した美術館、アムステルダムのゴッホ美術館によって称えられており、彼の絵画とドローイングの世界最大のコレクションを所蔵している。

 

1987年3月30日、ロンドンで行なわれたオークションにて、ゴッホの《ひまわり》」を安田火災海上(現・損害保険ジャパン日本興亜)が58億円で落札した。

 

 

重要ポイント

  • 後期印象派の代表的な作家
  • フォービズムやドイツ表現主義などその後の前衛芸術運動に影響を与えた
  • 生前はまったく売れず死後評価が高まった代表的な作家

作品解説


●詳細は「ゴッホの作品とスタイル」へ

 

初期のオランダ時代に見られる暗い作品と、フランスに移ってから描かれた前衛的な作品との間には大きな違いがある。

 

農民への敬意

ゴッホの絵画スタイルの発展は、通常、彼がヨーロッパ各地で暮らした期間と関連している。その土地の文化や光の状況に没頭する傾向があったが、終始、極めて個性的な視覚観を持ち続けていた。

 

特に、農村の生活や自然を描く画家になろうと努め、アルルでの最初の夏には、新しいパレットを使って風景や伝統的な農村生活を描いた。

 

自然の背後に力が存在するという彼の信念は、その力の感覚や自然の本質を、時には象徴を用いることによって芸術で捉えるようになった。

 

たとえば、花の絵は象徴性に満ちているが、伝統的なキリスト教の図像を使うのではなく、太陽の下で人生を生き、農村仕事は人生の寓意であるという独自の価値観を作り上げた。

 

ミレーの《種をまく人》を模倣した絵は、ゴッホの宗教的信念を反映しており、種をまく人々こそが炎天下に生命を蒔くキリストなのである。

 

■黄色

《夜のカフェ》の派手な赤と緑に例示されるように、色を「心理的、道徳的重み」を持つものとして認識していた。非常に重要とされたのは、可能な限りコントラストを生む補色(黄と紫、オレンジと青、赤と緑)を使うことだった。

 

また、ゴッホにとって黄色は感情的真実を象徴するので、彼にとって最も重要であった。彼は黄色を、日光、生命、神の象徴として用いた。

 

■アルルでの生活

アルルでの制作は、彼の作品に大きな影響を与えた。この時制作した作品の中で最も重要だと彼が考えたのは、《種をまく人》、《夜のカフェ》、《エッテンの庭の記憶》、《星降る夜》であった。広い筆致、独創的な視点、色彩、輪郭、デザインなど、これらの絵は、彼が求めていたスタイルを象徴している。

 

ゴッホは、彼が「現実の装い」と呼ぶものの中にとどまり、過度に演出されたような作品には批判的であった。そのため、一般的には傑作とみなされている《星月夜》は、ゴッホにとっては抽象化が行き過ぎたため、失敗作と見なしていた。ゴッホは「現実があまりにも背景に後退してしまった」と書いている。

 

星月夜

《星月夜》は、1889年6月にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された後期印象派の油彩作品。月と星でいっぱいの夜空と画面の4分3を覆っている大きな渦巻きが表現主義風に描かれている。ゴッホの最も優れた作品の1つとして評価されており、また世界で最もよく知られている西洋美術絵画の1つである。(続きを読む

 

ひまわり

《ひまわり》はフィンセント・ファン・ゴッホの静物絵画シリーズ。ひまわりシリーズは2つある。ゴッホにとってひまわりとはユートピアの象徴であったとされている。しかし、ほかの静物画作品に比べるとゴッホの主観や感情を作品に投影させることに関心がなかったと見られている。ひまわりシリーズの制作は、ゴッホの友人だったゴーギャンと関わりの深い作品で、特に後期は自身の絵画技術や制作方法を披露することを目的に制作されていたという。(続きを読む

 

 

そのほかの作品

ゴッホの手紙と名声


弟でアート・ディーラーのテオ
弟でアート・ディーラーのテオ

ゴッホの生涯に関する最も信頼のある情報源は彼と弟テオとの間でのやり取りである。

 

ゴッホの名声は、第一次世界大戦前のオーストリアとドイツで最初のピークを迎え、1914年に3巻からなる書簡集が出版されたことが後押しとなった。

 

ゴッホの手紙は表現豊かで文学的であり、19世紀を代表する著作のひとつと評されている。

 

手紙は、ゴッホが熱心な画家であり、芸術のために苦しみ、若くして亡くなったという、説得力のある神話を生み出した。

 

兄弟の生涯にわたる友情やゴッホの思想や芸術理論の大部分は、1872年から1890年にかけて交わされていた数百枚の手紙に記録されている。

 

弟のテオは画商で、彼は経済面や精神面でゴッホを支援し続け、またテオは現代美術の影響力のある人達にゴッホを紹介していた

 

ゴッホが死去して約1年後にテオも追うように死去するが、テオの妻のヨハンナは二人の間で交わされた手紙を整理し、1906年と1913年に手紙の一部が公表したのち、1914年にオランダ語で出版した書簡集で大半を公表した。ゴッホの手紙は達筆で表現豊かで「日記のような親しみ」があり、自伝のように読むことができる。

 

翻訳者のアーノルド・ポメランスは二人の手紙について「二人の手紙には、ゴッホの芸術的偉業を理解をするための新鮮な価値観があり、事実上のほかのどの画家も世の中にゴッホのように理解されたことはないだろう。」と話している。

 

ゴッホからテオに送られた手紙は600通以上残っており、テオからゴッホに送られた手紙は約40通ほど残っている。テオはゴッホから送られてきた手紙はすべて保管していたが、ゴッホはテオから送られてきた手紙のほとんどは保存していなかった。

 

ほかに妹のウィルに宛てた手紙が22通、画家のアントン・ファン・ラッパルトに宛てた手紙が58通、エミール・ベルナールに宛てた手紙が22通、ほかにポール・シニャック、ポール・ゴーギャン、批評家のアルベール・オーリエに宛てた手紙が残っている。

 

いくつかの手紙にはスケッチ画が添付されている。多くは日付が書かれていないが、美術史家は多くは年代順に整理することが可能だという。

 

1934年、小説家アーヴィング・ストーンは、ゴッホがテオに宛てた手紙を基に、『Lust for Life』というゴッホの伝記小説を書いた。この小説と1956年の映画によって、ゴッホの知名度をさらに高めることになった。

 

フランシス・ベーコンはゴッホの芸術論に共感し、テオに宛てた手紙を引用している。「真の画家は物事をあるがままに描かない。真の画家は物事をありのままに描くのではなく、自分自身がそう感じるように描くのだ」

650通以上あるゴッホのスケッチ付き手紙を弟のテオはすべて保管していた。写真は初期作品の傑作「ジャガイモを食べる人々」についての解説手紙。
650通以上あるゴッホのスケッチ付き手紙を弟のテオはすべて保管していた。写真は初期作品の傑作「ジャガイモを食べる人々」についての解説手紙。

略歴

1.憂鬱に満ちた幼少期


13歳のときのゴッホの写真。(テオの写真と最近判明されました)
13歳のときのゴッホの写真。(テオの写真と最近判明されました)

参照:芸術におけるゴッホの家族

 

 フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、カトリック教徒が多いオランダ南部の北ブラバント州のグロート=ズンデルトの村で生まれた。

 

オランダ改革派の牧師の父テオドルス・ファン・ゴッホ(1822〜1885)と母アンナ・コーネリア・カルベントス(1819〜1907)の間に生まれて生き延びた子どもの中で一番年上で、実質的に長男だった。ゴッホは祖父の名前と、自身が生まれる一年前に死産した兄の名前から由来している。

 

"フィンセント"というのはゴッホ家では一般的な共通した名前だった。1811年にライデン大学で神学の学位を取得していたゴッホの祖父のフィンセント(1789-1874)は、6人の子どもをもうけ、そのうちの3人は画商だった。このフィンセントという名前は偉大な叔父で彫刻家(1729-1802)にちなんで名付けられたという。

 

ゴッホの母親はハーグの裕福な家庭の出身で、父親は牧師の子だったという。父と母の二人はアンナの妹コーネリアとテオドルスの兄フィンセントの結婚式のときに出会ったという。

 

2人は1851年5月に結婚し、ズンデルトへ移る。ゴッホが生まれて4年後の1857年5月1日にゴッホの生涯の理解者であった弟のテオが1857年5月1日に生まれた。

 

ほかにゴッホには弟のコル、それにエリザベート、アンナ、ヴィレミーナ(通称"ウィル")の3人の妹がいる。のちにゴッホは兄弟のなかでテオとウィルのみ、手紙などでやり取りしていた。

 

ゴッホの母親は極めて厳格で信仰心の篤い女性だった。テオドルスの給料は少なかったが、教会が家族に家、メイド、料理人、庭師、馬車と馬を提供し、アンナは子どもたちに高い社会的地位を授ける教育に情熱を注いだ。

 

ゴッホは真面目で思慮深い子どもだった。幼少のころのゴッホは母親と家庭教師によって家庭で育てられ、1860年に村の学校に入学する。

 

1864年にゼーフェンベルゲンにある寄宿学校に移るが、そこでゴッホはホームシックにかかり、自宅に帰りたいと騒ぐ。代わりに1866年に両親はティルブルフの中学校に進学させたが、ゴッホは非常に惨めな学校生活を送ったといわれる。

 

芸術に対する関心は若いころからあり、母親からドローイングの才能を励まされた。ゴッホの初期ドローイングは表現主義的だったが、のちの作品で見られるような激しさはまだ見られない

 

ゴッホが中学生のときは、パリで成功を収めていた画家のコンスタンチ・コルネリス・へイスマンスがディルブルフの学生に美術を教えていた。フイスマンスの美術哲学は物事の印象を捉えるのを重視し、特に写実的な技術は重要視しないことだったという。なかでも自然風景や一般的な静物画を拒否していた。

 

なお、ゴッホは在学中にドローイングや水彩画を描いたりしており、いくつかの作品が残っているものの作者性が問われている。成人後に美術を始めたときは、初歩的なレベルから始めている。

 

ゴッホの憂鬱は美術の授業でやわらぐとおもっていたが、ほとんど効果は見られなかったという。1868年3月にゴッホは突然帰宅する。のちにゴッホは思春期について「厳しく冷たく不毛なものだった」と書いている。

 

1869年7月、16歳のとき、ゴッホの叔父のセントはハーグの美術商会社グーピル商会の職をゴッホのために用意する。この当時は、ゴッホにとって非常に幸せな時期だったという。

 

ゴッホは仕事で成功し、16歳のときから4年を画商で楽しく過ごし、20歳のときには父親よりも多くの収入を得るようになった。テオの妻はのちにゴッホの生涯でこのころが一番幸せな時期だと話している。

 

1873年に画商のため研修教育を終えると、ゴッホはロンドンのサザンプトン通りにあるグーピル商会ロンドン支部に移り、ストックウェルにあるハックフォード・ロード87番地で下宿することになった。

 

ロンドンに転任した実際の理由は、ハーグ支店の経営者であるセント伯父との関係がうまく行っていなかったからだと見られている。

 

2.画商をやめて聖職者へ転身するも挫折する


19歳のときのゴッホの写真。
19歳のときのゴッホの写真。

1873年5月、ゴッホはロンドン支店に転勤することになったが、下宿先の娘のユージ二・ローヤーに恋をし、告白するもふられる。

 

彼女は前の下宿人と秘密裏に婚約していたという。失恋にゴッホは落ち込み、孤独感を募らせ、宗教へ関心を寄せるようになるゴッホの精神的退廃はこの時期から始まる

 

ゴッホの父と叔父は、1875年にゴッホをロンドンからパリへ転勤させる。しかし過度に商業主義的なアートビジネスを追求するグーピル商会の仕事にゴッホはしだいに反感を募らせるようになる。翌1876年1月、彼はグーピル商会から解雇するとの通告を受け、4月に退社する。

 

退社後、1876年4月にゴッホはイギリスに戻り、ラムズゲートにある小さな寄宿舎学校で臨時教師の職を得る。

 

同年6月、寄宿学校はロンドン郊外のアイズルワースに移ることになったのでゴッホも一緒に移る。しかし、仕事はうまくいかずゴッホは教職を辞め、かねてから関心があったソジスト牧師の見習いとして再出発することになる。

 

ゴッホの両親はこのころにエッテン=ルールへ移る。1876年のクリスマスにゴッホはエッテンの両親のもとに戻り、聖職者になるため勉学に励みつつ、またドルトレヒトにある書店ブリュッセ&ファン・ブラームで働く。

 

しかし仕事に不満をいだき、本に悪戯書きをしたり、聖書を英語やフランス語やドイツ語に翻訳するなどして時間を潰して過ごしたという。

 

ゴッホはますます宗教に没頭するようになる。当時の同居人だったパウルス・ファン・ゲルリッツによると、ゴッホは質素で、肉は口にしなかったという。

 

宗教的信念と牧師になりたいという要望を支援するため、1877年にゴッホの家族は彼をアムステルダムで著名な神学者であった叔父のヨハネス・ストリッケルに預けることにした。

 

ゴッホはアムステルダム大学の神学部への入学準備をしていたが、入学試験に失敗してしまう。結果、1878年7月に叔父のもとを出ていくことになった。その後、ブリュッセル近郊のラーケンにあるプロテスタント宣教師学校で3月のコースを受講したがこれも挫折してしまう。

 

1879年1月、ゴッホはベルギーの炭鉱地帯ボリナージュ地方のプチナムで勝手に伝道を始める。貧しい人々への支援を示すため、ゴッホは当時下宿していたパン屋の快適な施設で生活するのを諦め、小さなみすぼらしい小屋に移り、藁の上で寝た。

 

1879年1月から、信仰の熱意が認められて、半年の間は伝道師としての仮免許と月額50フランの俸給が与えられることになった。

 

しかし、彼の自罰的な貧しい生活の中に神の癒しを見出すという信念は、苛酷な労働条件で労働者が死に、抑圧され、労働争議が巻き起こっていた炭鉱の町において人を惹きつけることはなかった。

 

むしろ伝道師の威厳を損なうものとして教会からゴッホの自罰的な貧しい生活を否定されることになり、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られることになった。

 

 

同年(1879年)8月、同じくボリナージュ地方のクウェム(モンス南西の郊外)の伝道師フランクと坑夫シャルル・ドゥクリュクの家に移り住む。

 

ゴッホはそこで1880年3月ごろまで滞在し、その後、北フランスへ放浪の旅に出るも、金も食べるものも泊まるところもなくほぼ乞食状態でエッテンの実家へ戻る。

 

ゴッホの両親は不満を抱き、特に父親はゴッホの現状の生活態度に対して不満が募り、ベルギーのヘールにある精神病院に入院させようとした。

 

1880年8月にクウェムに戻り、テオから生活資金をサポートされながら10月まで鉱夫として働く。このころからゴッホは周囲の人物や景色に関心を持つようになり、また、芸術で生計を立ててはどうかというテオの提案と生活支援が始まり人々や風景のドローイングを描きはじめたゴッホが画家として活動を始めるのはこのころからである。

 

その年の末にブリュッセルを旅行し、テオのすすめでオランダの画家ウィレム・ルーロフスのもとで絵を学ぶ。さらに1880年11月にはブリュッセル王立美術アカデミーに入学し、解剖学や一点透視図法といった基本的な美術技術を学んだ。

3.エッテンとハーグ時代


ケー・フォス・ストリッケルと、その息子ヤン。
ケー・フォス・ストリッケルと、その息子ヤン。

参照:フィンセント・ファン・ゴッホの初期作品

 

1881年4月にゴッホは、経済的事情もあってブリュッセルからエッテンの自宅に戻り、両親と暮らしはじめる。

 

自宅でゴッホはドローイングをはじめ、このころは田園風景や近くの農夫たちなど身近な人々を主題として絵を描いていた。

 

1881年8月、夫を亡くして未亡人となったいとこのケー・フォス・ストリッケル(母の姉のウィレミニアとヨハネス・ストリッケル牧師の娘)が、ゴッホの父からの招きでゴッホ邸に滞在する。そのときにゴッホは彼女に恋をする。

 

ケーはゴッホより7歳年上で8歳になる息子がいた。それにも関わらずゴッホは彼女に求婚をして周囲を驚かせた。彼女はゴッホからの求婚を断った。

 

ケーがアムステルに戻ったあと、ゴッホはハーグへ向かい、これまで制作した絵画を売り払い、義理のいとこで画家として成功しているアントン・モーヴに会う。

 

モーブはゴッホが憧れていた画家の1人だった。モーブは数ヶ月後に戻るよう呼びかけ、暇なときに木炭やパステルで絵画を描いてみるようアドバイスをした。ゴッホはエッテンに戻るとモーブのアドバイスに従うことにした。

 

1881年11月末、ケーを諦めきれないゴッホはアムステルダムへ向かい、ケーに面会しようとしたが、彼女はゴッホとの面会を拒否。裏口から彼女は逃げ出した。またケーの両親は「ゴッホの執着気質に困っている」とゴッホの家族に手紙で書いて伝えている。

 

ゴッホは絶望すると、ランプの炎の中に左手の指を入れて「私が苦痛に耐えられている間だけ、彼女に会わせてください。」と迫ったが、夫妻は、あわててランプの炎を吹き消し、会うことはできないと断った。ゴッホが自活できないことも大きな理由であった。

 

その後、ゴッホはハーグのモーブのもとで水彩画を教学ぶことになる。クリスマス前にいったんエッテンの実家に帰郷するが、ゴッホは彼が教会に行くか行かないかで父親と激しく口論し、結局再びハーグへ発ってしまう。

 

1882年1月、ゴッホはモーブを頼り、モーブはゴッホに油絵と水彩画の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸し出すなど、親身になって面倒を見てくれた。しかし数ヶ月でモーブとゴッホは仲違いを始める。

 

モーブは石膏像のデッサンをするよう助言したが、ゴッホは実際のモデルを使ったデッサンに固執しており、二人の間に美術教育における意見の不一致があった。

 

1882年6月、ゴッホは淋病にかかり3週間入院。退院するとテオから借りたお金で買った油絵の具で初めて油彩絵画に取り組みはじめる。

 

ゴッホは油彩のメディウムを好み、自由にメディウムを広げ、キャンバスから削り落として、筆で作業をやり直した。ゴッホはのちに手紙で油彩が自分にとって一番良いと書いている。

 

 

4.娼婦シーンと連れ子たちとの生活


シーンを描いた「悲しみ」(1882年)
シーンを描いた「悲しみ」(1882年)

参照:フィンセント・ファン・ゴッホの初期作品

 

1882年3月までにモーブは意見があわないゴッホに冷たい態度を取るようになり、彼の手紙に返信するのを止めてしまう。(アントン・モーブのページも参照

 

美術的価値観のほかに、ゴッホがアルコール依存症の娼婦クラシーナ・マリア・ホールニク(通称シーン)(1850–1904)に入れ込み彼女と同棲しはじめたのが、関係悪化の直接的な原因だったともいわれている。

 

ゴッホは1882年1月末にシーンと出会った。彼女には5歳の娘がおり、また妊娠中だった。彼女は以前に2人の死んだ子どもがいたらしいが、ゴッホはこのことは知らなかった。

 

7月2日、シーンは男の子ウィレムを産み、ゴッホはウィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と一緒に暮らしはじめる。

 

ゴッホの父は息子とシーンの関係を知るやいなや、彼女と二人の子どもと絶縁するよう迫った。ゴッホは当初父親に抵抗したが、同棲生活を続けているうちにゴッホは、自分の貧困生活はシーンを売春の仕事に押し戻すことになるかもしれないと感じはじめる。

 

また同棲生活をしてみると二人とのあいだに喧嘩が絶えなかったため、ゴッホにとって家族の生活はあまり幸せと感じられず、家庭生活と芸術的発展は相容れないと感じはじめたという。

 

結局、シーンは娘を母親に預け、息子ウィレムを兄に預けることになった。息子ウィレムは12歳のときに、ゴッホが息子を合法的に子どもにするためシーンと結婚しようとロッテルダムを訪れたのを覚えているという。

 

ウィレムはゴッホを本当の父親と思っていたが、出生日付から見てゴッホが父親ということはありえなかった。その後、1883年なかばまでにゴッホとシーンと家族たちは別れる。なお、シーンは1904年にスヘルデ川で入水自殺をした。

 

1883年9月にゴッホは、オランダ北部のドレンテ州に移る。12月に孤独に苛まれるようになり両親とともに暮らす。その後、北ブラバントのヌエーネンに移る。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「ハーグのアトリエからの風景」(1882年)
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「ハーグのアトリエからの風景」(1882年)

5.本格的な絵画制作


参照:フィンセント・ファン・ゴッホの初期作品

 

ヌエネンではゴッホは絵画とドローイングに焦点を当てた。戸外で素早く織物職人や小屋のスケッチをしたあと、屋内で絵画を完成させた。

 

1884年8月から近所の10歳年上のマルガレータ・ベーヘマンと恋に落ち、彼女の家を往復するようになる。二人は結婚を考えていたが、両方の家族とも二人の結婚に好意的ではなかったため、マルガレータは気を乱して興奮剤のオーバードーズで自殺未遂をする。ゴッホが彼女を近くの病院に搬送して危うく一命はとりとめた。

 

1885年3月26日、ゴッホの父は心臓病で亡くなった。

 

ゴッホは1885年に複数の静物画を描いている。ヌエネンでの2年間の滞在で、ゴッホは膨大な数のドローイング作品や水彩画、約200点の油絵を完成させている。ゴッホのパレットはおもに暗い色調、特に濃い茶色で構成されており、この当時はまだのちの作品で見られる鮮やかな色彩の兆候は見られなかった

 

1885年初頭にはパリの画商からゴッホは少しずつ関心を持たれはじめる。1885年の春には、数年間にわたって描きつづけた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる《ジャガイモを食べる人々》を完成させた。

 

テオはゴッホに5月に個展開催の準備を提案し、ゴッホはこの個展で《ジャガイモを食べる人々》や農夫のポートレイトシリーズの作品を展示した。この個展はこれまでのゴッホの画業の集大成というべきものになった。

 

ヌエネンで、ゴッホはいくつかの大きな絵の制作に取りかかるが、そのほとんどを破棄してしまっており、《ジャガイモを食べる人たち》とその関連作品は、現存する唯一の作品である。

 

しかし、パリでゴッホの作品はまったく売れなかった。このことに対してゴッホが不満を述べたとき、テオは作品の色味がかなり暗めで、印象主義のように明るめではないからだと売れない原因を分析した。

 

8月にゴッホの作品は、ハーグにある画廊のウインドウに初めて公衆に公開された。また農夫のポートレイト絵画でモデルになった女性が9月に妊娠した件で、女性からゴッホのせいであると非難される事件が起き、村の教会からは村人にゴッホの絵のモデルにならないよう命じられた。

フィンセント・ファン・ゴッホ「ジャガイモを食べる人々」(1885年)
フィンセント・ファン・ゴッホ「ジャガイモを食べる人々」(1885年)

6.アントワープ時代


ゴッホは1885年11月にハーグからアントワープに移り、イメージ・ストリートにある絵画商の店の上に二部屋を借りた。当時のゴッホの生活は非常に貧しく、テオから仕送りされるお金のみが頼りで、それで画材を購入したり、モデルにお金を支払っていた。

 

あまりに貧乏なためパン、コーヒー、タバコを節約するようになる。1886年2月のゴッホは手紙では「前年5月以降、6度しか、暖かい食事を食べたことを覚えている」と書いている。また歯も悪くなり、緩み、痛みを発するようになった。

 

アントワープでゴッホは色彩理論の研究に没頭し、美術館で過ごす時間が多くなる。

 

特にピーテル・パウル・ルーベンスの研究に没頭するようになり、その結果、ゴッホのパレットにはカルミン、コバルトブルー、エメラルドグリーンなどの色が使われるようになった。

 

また、日本の浮世絵に影響を受け、コレクションを始める。のちに絵画の背景に日本の浮世絵の影響が見られるようになった。

 

ゴッホは再びアルコール中毒に陥り、さらに梅毒を患い、1886年2月から3月にかけて治療で入院する。

 

回復後、アカデミズム教育への反感を持っていたにもかかわらず、ゴッホはアントワープにある美術大学の高等科の入学試験を受け、1886年1月に絵画とドローイングのクラスに入学する。しかし、過労と食生活の乱れ、過度の喫煙で体調を崩す。

 

1886年1月18日からアントワープ・アカデミーで石膏模型の授業の後、ドローイングクラスに通い始める。彼は、その型破りな画風から、すぐにアカデミーの理事であり絵画教室の教師でもあったシャルル・フェルラットとトラブルになった。

 

ドローイングクラスに在籍しているさいにミロのヴィーナスを描く指示を受けたゴッホは、フランドルの農民女性の肢体不自由の裸体を描いた。

 

当時の教師であったユーゲン・シベルドは、ゴッホの描いたドローイングを芸術教育に対する侮辱的な行為であるとみなし、クレヨンで激しい校正指示を入れた上で紙を引き裂いた。ゴッホは激しく怒り、シベルドに向かって叫んだ。

 

「あなたは若い女性がどのようなものであるかはっきりと知らない。神よ!女性は赤ちゃんを支えるためにしっかりした腰、尻、骨盤を持っている必要がある」と。

 

この後、ゴッホはたった一ヶ月ほどで学校を退学して、アントワープからパリへ移ることになった。

 

シベルトとのトラブルから約1ヶ月後の1886年3月31日、アカデミーの教師たちはゴッホを含む17人の生徒を1年留年にすることを決定した。したがって、ゴッホがシベルトによってアカデミーを追放されたという話は根拠のないものである。

「悲しむ老人」(1882年)
「悲しむ老人」(1882年)
「火の付いたタバコをくわえた骸骨 」(1885-1886年)
「火の付いたタバコをくわえた骸骨 」(1885-1886年)
「開かれた聖書の静物」(1885年)
「開かれた聖書の静物」(1885年)
「耕す農夫の女性」(1885年)
「耕す農夫の女性」(1885年)

7.後期印象派作家たちとの交流


ロートレックが描いたゴッホの肖像。1887年。
ロートレックが描いたゴッホの肖像。1887年。

ゴッホは1886年3月にパリへ移り、モンマルトルのルーブル通りにあるアパートで弟と共同生活を始め、フェルナン・コルモンのもとで絵を学びはじめる。また、6月にはルペック通り54番地のより大きな部屋へ移った。

 

このパリ時代には、兄弟が同居していたため手紙のやり取りがなく、ゴッホの生活について分かっていないことが多い。

 

パリでゴッホは、カフェ・タンブランの女、友人たちのポートレイト、静物画、ル・ムーラン・ド・ラ・ギャレット、モンマルトルの風景、セーヌ川沿いのアニエールの風景などのシリーズを制作している。

 

1885年にアントワープでゴッホは日本の浮世絵に関心を持ったのをきっかけに、パリで浮世絵の本格的な蒐集をはじめ、それらをアトリエの壁に掛けた。パリにいる間にゴッホは浮世絵を数百枚も収集したという。なお、1887年に制作した《花魁》は渓斎英泉の浮世絵を油絵で模写した作品である。

 

デラリーバレット画廊でアドルフ・モンティセリのポートレイト作品を見たあと、ゴッホは明るめの色と大胆に簡略化した形の絵を描きはじめるようになる。1888年の《サント=マリーの海辺》などが代表的な作品である。

 

その2年後、フィンセントとテオはモンティセリの絵画に関する本の出版費用を負担し、フィンセントはモンティチェリの作品を購入して自分のコレクションに加えた。

 

1886年の春ごろ、ゴッホはフェルナン・コルモンの画塾の同僚だったオーストラリアの画家ジョン・ピーター・ラッセルのサークルに参加し、そこでエミール・ベルナール、ルイ・アンクタン、ロートレックらと出会う。

 

また、このころに《タンギー爺さんの肖像》で知られる絵具屋のジュリアン・ペレ・タンギーと出会う。当時、彼の店ではポール・セザンヌの絵画が飾られていた。

 

1886年に点描主義と新印象主義の2つの大きな展覧会がそこで行われ、ジョルジュ・スーラポール・シニャックが当時注目を集めた。

 

当時のパリでは、今までの印象派画家とは異なり、純色の微細な色点を敷き詰めて表現するジョルジュ・スーラ、ポール・シニャックといった新印象派・分割主義と呼ばれる一派が台頭してきた時期、いわゆる後期印象派が興隆してきた時期だった。同展にはゴーギャンも出品しており、ゴッホはこのとき初めて彼の作品を見たと推測されている。

 

パリ時代はこうした印象派の画家たち親しく交流する。

 

テオはモンマルトル大通りにある自身の画廊で新傾向の印象派の作品を扱っていたが、ゴッホはこの印象派の芸術運動の新しい展開を理解するのに時間がかかったという。

 

また、シャルル・ブランの色彩に関する論文に大きな関心を持ち、補色を使った作品を手がけるようになった。ゴッホは、色彩の効果は説明的なものを超えていると考えるようになり、「色彩はそれ自体で何かを表現している」と思ったという。

 

1886年末、テオとゴッホは衝突し、テオはゴッホとの生活が耐えられなくなり、1887年初頭にはゴッホは北西郊外にあるアス二エールへ移ることになった。ゴッホはそこでシニャックを知り、点描画法を制作に導入しはじめる。

 

アニエール滞在中、ゴッホは公園、レストラン、セーヌ川などの風景画をおもに描いた。《アニエールのセーヌ川を横切る橋》が代表的作品である。

 

1887年11月、テオとゴッホはパリにやってきたポール・ゴーギャンと親交を深める。

 

その年の終わりに、ゴッホはモントマルトにあるレストランでバーナード、アンクタン、ロートレックらと作品の展示を行う準備をした。バーナードはこの展覧会についてパリで開催されているどの展覧会よりも先行したものであったという。そこでバーナードとアンクタンは初めて絵画を売り、ゴッホはゴーギャンと作品を交換した。

 

またこの展覧会では、アート、アーティスト、政治や社会についてのディスカッションが行われ、カミーユ・ピサロや彼の息子のリュシアン・ピサロ、シニャック、スーラなどが展示に訪れた。

 

1888年2月にパリの生活に疲れたゴッホは、休暇も兼ねてアルルへ移ることに決める。なお、このパリ時代の2年で200以上の絵画を制作している。

「高級売春婦」(1887年)
「高級売春婦」(1887年)
「タンギー爺さんの肖像」(1887年)
「タンギー爺さんの肖像」(1887年)
「梅の開花」(1887年)
「梅の開花」(1887年)
「静物画」(1887年)
「静物画」(1887年)

8.アルルの黄色い家へ


アルコール依存症やニコチン中毒から逃れるため、1882年2月にゴッホはアルルへ移ることにした。また、ゴッホは以前から計画していた芸術家たちの共同アトリエ「芸術コロニー」をアルルで創設するつもりでもあった。

 

デンマークの画家クリスチャン・ムーリエ=ピーターセンが2ヶ月間の同行者となったが、当初、アルルはエキゾチックに見えたという。彼は手紙の中で、この地を異国の地と表現している。

 

「ズアーブ、売春宿、初聖体に向かう愛らしいアルルジェンヌ、危険なサイのような聖職者、アブサンを飲む人々、すべてが私には別世界の生き物のように思われる」。

 

アルル滞在時のゴッホは、生涯において非常に生産的な時期だった。ここでゴッホは、200点の絵画、100点以上のドローイングや水彩絵画を残している。

 

ゴッホはアルルの街の風景や光に魅了させられたこの時代の作品では豊かな黄色、ウルトラマリン、藤色などの色彩に富んでおり、モチーフとしては、収穫物、小麦畑、一般的な田園風景などが描かれている。

 

また、《夜のカフェ》の派手な赤と緑に例示されるように、を「心理的、道徳的重み」を持つものとして認識していた。

 

黄色は、感情的真実を象徴するので、彼にとって最も重要であった。彼は黄色を、日光、生命、神の象徴として用いた。

 

アルル時代を代表するものとして、小麦畑に接する美しい構造の水車小屋を描いた1888年の「古水車小屋」がある。この作品はポール・ゴーギャンやエミール・バーナード、チャールズ・ラベルらと作品の交換をするために、1888年10月4日にポン=タヴァンに送付された7作品の1つである。

 

アルル村の風景画はゴッホのオランダの生い立ちを反映させてもいた。畑や並木道のパッチワークは平面的で遠近感に欠けるが、色彩の使い方に優れている。

 

1888年3月、ゴッホはグリッドを使った遠近法で描いた風景画を制作。これらの作品はサロン・ド・アンデパンダンで展示された。

 

4月には、近くのフォンヴィエイユに住んでいたアメリカ人画家ドッジ・マックナイトの訪問を受けた。

 

1888年5月1日、月に15フランで、ゴッホは「黄色い家」というアトリエを借りる。この家は未完成のままで何ヶ月も無人だったという。ゴッホはこの黄色い家を芸術コロニーの拠点にしようとしていた。

 

5月7日、ゴッホはホテル・キャレルからカフェ・デ・ラ・ガールへ移り、そこでオーナーのジョゼフ・ミシェルとその妻マリー・ジヌーと出会う。

 

この夫妻が経営したカフェが題材になっている作品が《夜のカフェ》である。ゴッホは「黄色い家」に家具や寝具を揃えるまで、ホテルとカフェに数か月寝泊まりしていた。黄色い家は入居する以前に家具を整えなければならなかったが、スタジオとして利用することは可能だった。

 

ゴッホは黄色い家でさまざまなシリーズ作品を制作しはじめた。アルル時代に制作した名画として1888年制作《ファン・ゴッホの椅子》《ファンゴッホの寝室》《夜のカフェ》《夜のカフェテラス》《ローヌ川の星月夜》《ひまわり》などがある。これらの作品は、黄色い家のインテリア用の絵画でもあった。

「ひまわり」(1888年)
「ひまわり」(1888年)
「夜のカフェテラス」(1888年)
「夜のカフェテラス」(1888年)
「ローヌ川の星月夜」(1888年)
「ローヌ川の星月夜」(1888年)

9.黄色い家でのゴーギャンとの共同生活


ゴーギャンは1888年にゴッホの希望もあってアルルを訪れ、ゴッホが考えた芸術家たちの集団的な活動企画に理解を示す。アルルの《黄色い家》で集団で制作するというものだった。

 

企画に賛同したゴーギャンは、アルルに移る準備をはじめる。このころにゴッホは《ひまわり》シリーズの絵を描いているが、これは、黄色い家の壁にかけるインテリア用絵画として制作されたものとされている。

 

ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、ゴッホは郵便局員のジョゼフ・ルーランの助言で2つのベッドを購入する。9月17日にゴッホは黄色い家へ、まだまばらだったが家具類を運び込みんで、初めて寝泊まりをする。同年9月中旬に《夜のカフェテラス》を描き上げた。

 

おそらくこのころが、ゴッホにとって最も野心的で絵画制作に対して真摯に取り組んでいた時期だったと思われる。ゴーギャンがアルルで共同生活することに承諾すると、ゴッホは黄色い家の装飾にとりかかかる。おそらくこれまで手がけた中で最も意欲的な仕事となった。

 

また、この頃にゴッホは《ファン・ゴッホの椅子》や《ゴーギャンの椅子》を描きあげた。ゴッホの懇願に応え、10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった。

 

11月から二人は共同で制作を始める。ゴーギャンは《ひまわりの画家》でゴッホのポートレイト絵画を描いている。

 

また、このころからゴーギャンの提案により、ゴッホは記憶を頼りに絵を描きはじめる。代表作として1888年の《エッテンの庭の記憶(アルルの女性)》が挙げられる。その後の《星月夜》も記憶を頼りにコラージュして描いた作品である。

 

二人の初めての戸外での合同制作はアリスカンで、ペンダント『レ・アリキャン』を制作した。

 

1888年12月、ゴッホとゴーギャンの二人はモンペリエを訪問。ファーブル美術館で二人はクールベやドラクロワの作品を鑑賞する。

 

しかし、共同生活から2ヶ月も経ったころ、二人の関係は悪化し始める。ゴッホはゴーギャンを賛美し、彼と同じレベルで扱ってほしかったが、ゴーギャンは傲慢で支配的だったため、ゴッホが精神的に挫折する原因となった。

 

二人はしばしば口論し、ゴッホは次第にゴーギャンから見捨てられることに恐れを抱いた。二人の関係は急速に危機的状況に向かっていった。

「ファン・ゴッホの寝室」(1888年)
「ファン・ゴッホの寝室」(1888年)
「夜のカフェ」(1888年)
「夜のカフェ」(1888年)
「ファン・ゴッホの椅子」(1888年)
「ファン・ゴッホの椅子」(1888年)
「赤いブドウ園」(1888年)
「赤いブドウ園」(1888年)

10.ゴッホの耳切断事件


1888年12月23日、ゴッホが自ら耳たぶを切断する事件が発生。ゴッホが耳を切断した正確な事情については分かっていない。事件の15年後、ゴーギャンが事件当日の夜のことを振り返ってはいる。

 

ゴーギャンの話では、事件の当日、ゴーギャン自身が身の危険を感じさせるふるまいをゴッホはしていたという。当時の二人の関係は複雑で、テオはゴーギャンからお金を借りており、ゴーギャンはこの兄弟が自分からお金を搾取していると疑いを持ち、ゴーギャンは黄色い家を出ていく素振りを見せていた。

 

そして、ゴッホはゴーギャンが出ていくことに感づいており、またテオが結婚する予定だったので、二人から見捨てられてしまうという強い不安に襲われていたという。

 

事件当日、ゴーギャンが家を出ていくと、慌てたゴッホが剃刀を持ってあとを追ってくる。口論した後、身の危険を感じたゴーギャンは黄色い家に戻らず、市中のホテルに泊まった。

 

その後、ゴッホは黄色い家の自分の部屋に戻り、幻聴に襲われ、自らの左耳たぶを切り落としたといわれる。

 

ゴッホは自ら耳を包帯で巻いて止血し、切断した耳たぶを紙にくるんで、ゴッホとゴーギャンともに馴染みだった売春婦の女性に届け、黄色い家に帰ってくると意識不明で倒れこむ。翌朝、警官が部屋で意識不明状態で倒れているゴッホを発見し、病院へ搬送された。

 

切断した耳は病院に届けられたが、切断後かなりの時間が経過していたため接合手術はできなかったという。

 

ゴッホの研究者で美術史家のベルナデット・マーフィーは、1952年に80歳でアルルで亡くなったガブリエルという女性の正体を突き止め、その子孫は今もアルル郊外に住んでいるという。ガブリエルは若い頃「ギャビー」と呼ばれ、ゴッホが耳を贈った当時、売春宿など地元の店で17歳の掃除婦をしていた。

 

ゴッホ自身は耳を切り落としたことに関して記憶がなく、不安が原因で急性的な幻聴を伴うなど精神障害を患ったと見られている。医者の診断によれば急性精神錯乱だという。

 

事件後、ゴーギャンは翌日24日に結婚したばかりのテオに連絡。その夜、テオは大急ぎで電車に乗ってアルルに向かった。

 

クリスマスに到着し、ゴッホの健康を確認してすぐにパリへ戻った。ゴーギャンはアルルを去り、二度とゴッホに会うことはなかったが、手紙でやり取りはしていたという。

 

その後、ゴッホは回復し、1889年1月7日に「黄色い家」に戻ってきた。1ヶ月間は病院と自宅を行き来して、幻覚や毒殺の妄想に悩まされたという。

 

1889年3月、30人の町民がゴッホを「赤毛の狂人(le fou roux)」と呼んだため、警察が家を閉鎖した。

 

ゴッホは病院に戻る。3月にはポール・シニャックが2度訪れ、4月には自宅の絵画が洪水で被害を受けたため、レイ博士の部屋に移った。2ヵ月後、アルルを離れ、サン=レミ=ド=プロヴァンスの精神病院に自主的に入所する。

 

この頃、「時には筆舌に尽くしがたい苦悩の気分、時には時間のヴェールや運命的な状況が一瞬引き裂かれるような瞬間がある」と書いている。

 

ゴッホは1889年の『医師フェリックス・レイの肖像』をレイ博士に贈った。医師はこの絵を気に入らず、鶏小屋の修理に使い、その後手放した。 2016年、この肖像画はプーシキン美術館に収蔵され、5千万ドル以上の価値があると推定された

『パイプをくわえ耳に包帯をした自画像』,1889年
『パイプをくわえ耳に包帯をした自画像』,1889年
『フェリックス・レイの肖像』1889年1月、レイ博士が小説家アーヴィング・ストーンのために書いたメモとゴッホの耳の傷のスケッチ。
『フェリックス・レイの肖像』1889年1月、レイ博士が小説家アーヴィング・ストーンのために書いたメモとゴッホの耳の傷のスケッチ。

11.サン・レミの精神病院に入院


ゴッホは1889年5月8日に世話人のプロテスタント牧師フレデリック・サーレスの紹介で、サン・ポール・ド・マウソロス病院に入院することになった。サン・ポールはアルルから30キロメートルほど離れたサン・レミにある元修道院で、以前は海軍医だったテオフィル・ペイロンが経営していた。

 

ゴッホは格子の付いた窓がある2つの独房部屋を与えられた。片方の部屋は昼にアトリエとして利用することができた。

 

病院と窓から見える景色はゴッホの絵画の主題となった。この時代の代表作は《星月夜》である。彼は短時間の監督下にある散歩を許され、そのときに見た糸杉やオリーブの木が絵の要素にあられるようになった。

 

ゴッホは、《オリーブ畑》、《星月夜》、《キヅタ》などの作品について、「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自由な自発的デッサンによって田舎の自然の純粋な姿を表出しようとする仕事だ」と述べている。

 

診療所外の生活へのアクセスが制限されていたため、題材が不足していた。ゴッホは、ミレーの『種まく人』や『真昼の休息』など、他の画家の絵画の解釈や、自身の初期の作品のバリエーションに取り組んだ。

 

《刑務所の中庭》(ギュスターヴ・ドレ以後)(1890)は、ギュスターヴ・ドレ(1832-1883)の版画に倣って描かれた作品である。トラルボーは、絵の中央で鑑賞者の方を向いている囚人の顔はゴッホ自身であると示唆している。

 

ゴッホはジュール・ブルトン、ギュスターヴ・クールベ、ミレーらの写実主義を賞賛し、自分の模倣作をベートーベンを解釈する音楽家と比較していた。

 

ゴッホの病状は改善しつつあったが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなくの同年1889年7月半ば、再び発作が起きた。1889年のクリスマスのころ、再び発作が起き、1890年1月下旬、アルルへ旅行して戻ってきた直後にも、発作に襲われた。

 

ペイロン院長による記録では「発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の灯油を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識清明であり、熱心に画業に没頭していた。」と記載されている。

 

一方、ゴッホの絵画は少しずつ評価されはじめた。1890年1月、評論家のアルベール・オーリエが『メルキュール・ド・フランス』誌1月号にファン・ゴッホを高く評価する評論を載せる。

 

また、2月にブリュッセルで開かれた20人展にゴッホは参加し、出品作品の1つであった《赤い葡萄畑》が初めて400フランで売れた。3月には、パリで開かれたアンデパンダン展に《渓谷》など10点がテオにより出品され、ゴーギャンやモネなど多くの画家から高い評価を受けた。

 

1890年2月から4月にかけて、ゴッホは深刻な再発に見舞われた。鬱病になり、書く気にもなれなかったが、この時期にはまだ少し絵を描くことができた。後にテオに、「記憶から...北方の思い出を」いくつかの小さなキャンバスを作ったと書いている。

 

その中に《夕暮れの雪原で掘る二人の農民の女性》という作品がある。ハルスカーは、この小さな絵画群が、この時期にゴッホが取り組んだ風景や人物を描いた多くのデッサンや習作シートの核になったと見ている。

 

ゴッホは母親と兄に頼んで、1880年代初頭に描いた絵や下絵を送ってもらい、古いスケッチから新しい絵画を制作するようになった。

フィンセント・ファン・ゴッホ《刑務所の中庭》(ギュスターヴ・ドレ以後),1890年
フィンセント・ファン・ゴッホ《刑務所の中庭》(ギュスターヴ・ドレ以後),1890年
フィンセント・ファン・ゴッホ「星月夜」(1889年)
フィンセント・ファン・ゴッホ「星月夜」(1889年)

12.オーヴェル・シュル・オワーズ


1890年5月、ゴッホはサンレミの診療所を離れ、パリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズにあるポール・ガシェ医師とテオの近くに移り住むことになる。

 

 

ガシェはアマチュア画家で、何人かの画家を治療した経験があった。カミーユ・ピサロの推薦により、ゴッホは診てもらうことになった。ゴッホにとってガシェの第一印象は「私よりも病んでいる、私にはそう見えた、あるいは同じくらいとでも言おうか」

 

また、「非常に神経質で、とても変わった人だが、体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と妹ヴィルに書いている。

 

ここでゴッホはガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。6月初めにはオーヴェルの教会を描いた。

 

サン=レミでの最後の数週間、ゴッホの思考は「北の記憶」に戻っており、オーヴェル=シュル=オワーズで何日もかけて描かれた約70点の油絵のうちいくつかは、北の風景を思い起こさせる。

 

1890年6月には、《ガシェ博士の肖像》や唯一のエッチングなど、博士の肖像画を数点描いている。いずれもガシェのメランコリックな性格が強調されている。

その他、《丘のそばの茅葺きコテージ》など、おそらく未完成の絵がある。

 

1890年7月、ゴッホはドービニーの庭を描いた2枚の絵を完成させたが、そのうちの1枚が彼の最後の作品となったようである。

 

7月、ゴッホは「海のように果てしなく広がる丘陵を背にした広大な平原、繊細な黄色」に夢中になった、と書いている。5月にゴッホは小麦が若々しく青々としている野原に魅せられ始めた。そして7月には、テオに「荒れ狂う空の下にある広大な麦畑」と述べている。

 

ゴッホは、それらがゴッホの「悲しみと極度の孤独」を表しており、「キャンバスは、私が言葉で言えないこと、つまり、私が田舎をいかに健康で活気のあるものと感じているかを教えてくれるだろう」と書いている。

 

《カラスのいる麦畑》は最後の油彩画ではないが、1890年7月の最晩年の作品で、ハルスカーはこの作品が「憂鬱と極度の孤独」に関連していると論じている

フィンセント・ファン・ゴッホ《ガシェ博士の肖像》,1890年
フィンセント・ファン・ゴッホ《ガシェ博士の肖像》,1890年
フィンセント・ファン・ゴッホ《カラスと麦畑》,1890年
フィンセント・ファン・ゴッホ《カラスと麦畑》,1890年

美術館の上級研究員ルイス・ファン・ティルボルクとテイオー・ミーデンドルプが2020年に発表した研究では、ゴッホの遺作『木の根』が描かれた正確な場所は、彼が滞在していたオーベルジュ・ラヴーの宿から150mほど離れた丘の中腹で、ニョロニョロの根が絡み合った木々が生えていたと「極めて妥当」である結論が出されている。

 

ヴァン・デル・ヴィーンは、ゴッホが死の数時間前にこの絵に取り組んでいたのではないかと考えている。

フィンセント・ファン・ゴッホ《木の根》,1890年
フィンセント・ファン・ゴッホ《木の根》,1890年

13.ゴッホの死と死後


参照:フィンセント・ファン・ゴッホの健康状態 

 

1890年7月6日、ゴッホはパリを訪れる。アルベール・オーリエや、トゥールーズ=ロートレックなど多くの友人がゴッホを訪ねた。

 

7月10日ごろ、テオに手紙で大作3点(「荒れ模様の空の麦畑」、「カラスのいる麦畑」、「ドービニーの庭」)を描き上げたことを伝えている。7月23日に最後の手紙を書く。

 

1890年7月27日、37歳のファン・ゴッホは、7mmのルフォシューのピンファイヤーリボルバーで胸を撃ったと考えられている。

 

目撃者はなく、事件から30時間後に死亡した。自殺した場所は、ゴッホが絵を描いていた麦畑か、地元の納屋であったと思われる。

 

弾丸は肋骨に当たり、内臓に損傷を与えることなく胸を貫通し、おそらく背骨で止められた。彼は怪我したまま歩いてオーベルジュ・ラヴーに帰り、そこで二人の医者ガシェとマズリの診察を受けたが、外科医がいないため弾丸を摘出することができなかった。医師たちは、できる限りの手当てをした後、パイプを吸いながら部屋に一人残された。

 

ガシェは、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書いた。

 

翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行した。彼が着いた時点ではファン・ゴッホはまだ意識があり話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡した。テオによると、ヴィンセントの最後の言葉はこうだった。「この悲しみは永遠に続くだろう」。

 

ファン・ゴッホは7月30日にオーヴェル・シュル・オワーズの市営墓地に埋葬された。

 

葬儀にはテオ・ファン・ゴッホ、アンドリース・ボンジェ、シャルル・ラヴァル、リュシアン・ピサロ、エミール・ベルナール、ジュリアン・タンギー、ポール・ガシェをはじめ、家族や友人、地元の人たち20人が参列した。テオは病気がちで、兄の死後にさらに体調が悪化した。

 

9月12日ごろ、テオはめまいがするなどと体調不良を訴え、同月のある日、突然麻痺の発作に襲われて入院した。10月14日、精神病院に移り、そこでは梅毒の最終段階、麻痺性痴呆と診断されている。11月18日、ユトレヒト近郊の診療所に移送され療養を続けたが、1891年1月25日、兄のあとを追うように亡くなり、ユトレヒトの市営墓地に埋葬された。

 

1914年、ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルはテオの遺体を発掘し、ユトレヒトから移動させ、オーヴェル・シュル・オワーズでフィンセントの遺体と一緒に埋葬した。

 

ゴッホの病気の性質や作品への影響については多くの議論があり、多くの回顧的診断が提案されてきた。ゴッホは、正常な機能を持つ時期もあるエピソード性疾患であったというのがコンセンサスである。

 

1947年にペリーが初めてゴッホは双極性障害であったことを示唆し、精神科医のヘンフィルとブルマーも双極性障害説を支持している。生化学者のウィルフレッド・アーノルドは、この症状は急性間欠性ポルフィリン症とより一致し、双極性障害と創造性の間の人気のある関連は偽りかもしれないと指摘して反論している。

 

また、うつ病の発作を伴う側頭葉てんかんも示唆されている。いずれの診断にせよ、栄養不良、過労、不眠、アルコールによって病状が悪化した可能性が高い。

 

ゴッホの死後、ブリュッセル、パリ、ハーグ、アントワープで追悼展が開催された。1891年にはブリュッセルで回顧展が開催され、レ・ゼクスでの6点の作品を含む、いくつかの注目すべき展覧会で彼の作品が展示された。

 

1892年、オクターヴ・ミルボーは、ゴッホの自殺について「芸術にとって限りなく悲しい損失である。民衆が豪華な葬儀に詰めかけたわけではないが、その終焉は天才の美しい炎の消滅を意味し、彼が生きたのと同様に無名で無視されて死に行く、哀れなフィンセント・ファン・ゴッホ」と書いている。

 

弟テオも1891年1月に亡くなり、ゴッホの最も声高でコネのある擁護者はいなくなった。テオの未亡人ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルは20代のオランダ女性で、夫とも義兄ともあまり長い付き合いはなかったが、突然数百点の絵画、手紙、素描、そして乳児の息子、フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホを管理しなければならないことになった。

 

ゴーギャンはゴッホの評判を上げるための援助をする気がなく、ヨハンナの弟のアンドリース・ボンゲルもゴッホの作品には冷淡な様子だった。

 

ゴッホの評論家の中で最も早い時期に支持していたオーリエは1892年にチフス熱で27歳の若さで亡くなっている。

 

1892年、エミール・ベルナールはパリでゴッホの絵画の小さな個展を企画し、また、ジュリアン・タンギーはヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンジェから委託されたいくつかの作品とともにゴッホの絵画を展示した。

 

1894年4月、パリのデュラン=リュエル画廊はゴッホの遺産から10点の絵画を委託されることに同意する。

 

1896年、当時無名の画学生だったフォーヴィスムの画家アンリ・マティスは、ブルターニュのベルイユにジョン・ラッセルを訪ねた。

 

ラッセルはゴッホと親交があり、マティスにゴッホの作品を紹介し、ゴッホのドローイングをプレゼントした。ゴッホの影響を受けたマティスは、土の色を使ったパレットを捨て、明るい色を使うようになる。

 

1901年、パリではベルナハイム・ジューヌ画廊でゴッホの大回顧展が開催され、アンドレ・ドランやモーリス・ド・ヴラマンクが興奮し、フォーヴィスムの出現に貢献する。

 

1912年にはケルン、1913年にはニューヨークのアーモリーショー、1914年にはベルリンで、分離同盟の芸術家たちによる重要なグループ展が開催された。

 

ヘンク・ブレマーはゴッホについて語り、ヘレネ・クレラー=ミュラーにゴッホの芸術を紹介し、彼女はゴッホの作品の熱心なコレクターとなった。

 

年譜表


■1850年(1.憂鬱に満ちた幼少期

・11月6日:ヴィンセント・ファン・ゴッホ(アンクル・セント)がハーグでコーネリア・カルベントゥスと結婚。

 

■1851年

・5月21日:父テオドロス・ファン・ゴッホが兄のセントの義理の妹であるアンナ・コルネリア・カルベントゥスと結婚。

 

■1852年

・3月3日:セオドロスとアンナ・コーネリアにはヴィンセントと呼ばれる最初の子ども、息子が出産するが、出生時に死亡。

 

■1853年

・3月30日:ヴィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホがズンデルトで生まれる。

 

■1855年:

・2月17日:妹アンナ・コルネリア・ヴァン・ゴッホが生まれる。

 

■1857年

・5月1日:テオと呼ばれる弟テオドルス・ファン・ゴッホが生まれる。

 

■1859年

・5月16日:リズと呼ばれる妹エリザベス・フベルタ・ファン・ゴッホが生まれる。

 

■1861年

・3月26日:アンクル・セントがグーピル商会のパートナーになる。

 

■1862年

・3月16日:ウィルと呼ばれる妹ウィレミナ・ヤコバ・ファン・ゴッホが生まれる。

 

■1864年

・10月1日:ゼーフェンベルゲンでジャン・プロヴィリーの学校に通う。

 

■1866年

・8月ゼーフェンベルゲンを出発。

・9月3日:ティルブルフの中等学校に入学:コーニングウィレム2世学校。

 

■1867年

・5月17日:コルと呼ばれるコーネリアス・フィンセント・ファン・ゴッホが生まれる。

 

■1868年

・3月:ティルブルフを離れ、ズンデルトの実家に戻る。

 

■1869年

・7月30日:フィンセントはハーグのグーピル商会で見習いを始める。

 

■1871年

・1月:ゴッホの家族がヘルヴォイルトへ移る。

 

■1872年

・1月29日:グーピル商会の3人の株主のうちの1人であるセントおじは、事業を辞めたが、6/30株式を保有し続ける。アドルフとアルベール・グーピルはそれぞれ7/30を保持し、レオン・グーピルは10/30を保持。

 

■1873年

・1月1日:テオがブリュッセルのグーピル商会で見習いを開始。

・2月19日:フィンセントは兵役に落ちるが、これは父親が買収したと思わえる。弟のテオとコーネリアスも。

・5月12日:フィンセントはパリへ旅行。グーピル商会のパリ支部、毎年恒例のサロン、ルクセンブルグ美術館を訪れる。

・1週間後:グーピル商会のロンドン支部で仕事を始める。最初にどこに泊まったかは不明。

・8月:ブリクストン、87ハックフォードロードにあるウルスラロイヤーの娘のユージェニーの家に移る。

 

■1874年

・6月27日-7月15日:ヘルヴォイルトで家族と夏休み。

・8月:ケニントン(アイビーコテージ、395ケニントンロード)に移る。

・11月:セントおじさんの要求に応じて、フィンセントはグーピル商会パリに移る。

・11月26日:いとこのジェット・カーペンタスがアントン・モーブと結婚。

・クリスマス:ヘルヴォイルトで家族と過ごす。

 

■1875年

・1月2日:ロンドンに戻る。

・5月24日:グーピルズロンドンが最初の展示会を開く。

・5月末:ヴィンセントはパリ本社に再移管。

・10月18日:ゴッホの家族がエッテンに移る。

・クリスマス:エッテンで家族と過ごす。

・12月30日:ハーグの叔父を訪問し、将来について話す。

・12月31日:ヴィンセントの父親はヴィンセントにグーピル商会を辞任するように忠告。

 

■1876年(2.失恋そして聖職者へ

・1月4日:パリに戻り、レオン・ブソッドとの会談は、ゴッホがグーピル商会を辞任したことで終了する 。

・2月19日:おそらく教職に応募した後、「スカボローからのニュースはまだない」と述べた手紙をテオに送る。

・3月30日:グーピルでの彼の最後の日。

・3月31日:2週間エッテンに戻る。

・4月7日:テオもエッテンを訪問中。

・4月14日:ヴィンセントはイギリスに向けて出発。

・4月16日:ラムズゲートに到着し、ロイヤルロード6番地のウィリアムストークスの学校で教職に就く。近くの11スペンサースクエアに泊まる。

・6月:ストークスは彼の学校をアイルワースのトゥイキナムロード183番地のリンクフィールドハウスに移す。

・7月3日:ゴッホは、アイルワースのトゥイキナムロード158番地のホルムコートにあるトーマススレードジョーンズ牧師(1829–1883)の学校に移動。

・9月26日:テオは重病になり、仕事を休む。

・10月23日:テオはまだ病気。母親はエッテンに旅行。

・10月29日:リッチモンドメソジスト教会でのヴィンセントの最初の説教。

・11月16日:テオはついにエッテンを離れるのに十分なほど元気になる。

・クリスマス:ヴィンセントがエッテンに戻る。

 

■1877年

・1月から5月:ドルドレヒトで書店でアルバイト。

・5月14日:大学へ入学するためにアムステルダムに移動。

 

■1878年

・7月5日:ヴィンセントは学業を放棄し、エッテンに戻る。

・7月16〜17日:父親は、ジョーンズ牧師を伴って、ブリュッセル近郊のラーケンにある福音大学の知事にヴィンセントを紹介。

・8月24日:妹のアンナの結婚式を手伝うために出発を延期した後(8月21日)、ラーケンに移動。

・12月:大学試験に不合格。

・12月26日:福音大学の委員会に向かい、ボリナージュでのポストの受け入れを求める。

 

■1879年

・1月:裁判で6か月間、ヴィンセントはボリナージュで福音主義の仕事をすることを認められた。

・6月下旬:ヴィンセントは、一時的な契約が更新されないことを知る。何か他のものを見つけるために3ヶ月猶予。

・7月31日:契約終了。

・8月1日:翌日、ヴィンセントはボリナージュを越えて北に至るまで、就職先を探す。最後にマリア・フーレビーケのアブラハム・ファン・デル・ウェーエン・ピエテルセン牧師を訪ねまる。日曜日の午後(8月3日)に到着したが、ピエテルセンはブリュッセルに数日間出かけていて、月曜日に会う。朝(8月4日)。

・8月5日:モンス近郊に滞在。テオが電車でモンスを通過すると聞き、ヴィンセントはテオとそこで会う約束をする。

・8月?:テオと1日を過ごし、夕方にワスメスに向けて出発。

・8月15日:ヴィンセントは両親と一緒に暮らすためにエッテンに戻る。

 

■1880年

・春 :エッテンに家族と滞在。

・3月11日:まだ両親と暮らしている。

・3月中旬 :父がフィンセントを精神病院に送ろうとしたが、クウェムに逃げる。

・3月末 :ヴィンセントはボリナージュで就職先を探す。結局、彼はクリエールに歩いて行き、ジュール・ブルトンを訪ねるが、敷地に入る勇気はなかった。

・4月16日:アブラハム・ファン・デル・ヴァイエン・ピーテルゼンがマリア・ホレベックで死去する。

・7月の最初の日:クウェムに戻ってしばらくして、ヴィンセントは両親から最近送金されたお金が実際にはテオからのものであることを知る。ヴィンセントは弟の支援に感謝し、自身の現在の状況を説明する。

・8月20日:テオとの通信を再開。

9月、ハーグのグーピル商会の社長テルスティグから借りたシャルル・バルグの版画(Cours de dessin)をもとに制作を始める。

・10月:ブリュッセルに移り、ウィレム・ルーロフのアドバイスを受け、アカデミーの初心者向けアートコースに入学。テオが示唆したように、彼はアントン・ファン・ラッパールと出会う。

 

■1881年(3.エッテンとハーグ時代

・4月: エッテンに戻り、ドローイングを行う。

・4月17日:テオに会う。

・6月中旬 ラパードがエッテンを訪問する。

・夏。キー・フォス・ストリッカーはヴィンセントの両親とエッテンで過ごす。ヴィンセントは彼女に恋をする。

・アントン・モーヴとテオフィル・ド・ボックを訪ね、いくつかの展覧会と最近オープンしたばかりのパノラマ・メスダックを見学する。

・11月下旬:ストリッカー叔父さんに手紙を書き、2、3日のうちに自らアムステルダムに行く。

?:アムステルダムに到着し、キーに会うことを要求するが、避けられる。ストリッカー叔父叔母は彼を安くて良い宿に同行し、数日滞在する。

・11月27日または12月4日:「日曜日の夕方」7時頃、ハーグに到着し、しばらくアントン・モーヴのもとに滞在する。モーヴェは彼に油絵や水彩画を描くように勧める。

・12月19日: ヴィンセントはまだハーグにいるが、お金がなくて帰れない。数日後、エッテンに戻り、最近(明らかに生まれて初めて)裏通りの女の子に世話になったことを告白する。

・12月25日。クリスマスの日、フィンセントはクリスマス礼拝の手伝いを強要した父と喧嘩し、ハーグへ向けて出発する。

 

■1882年(4.娼婦と連れ子たちとの生活

・1月:小さなスタジオ、シェンクウェグ138番地に引っ越す。

・1月中旬から下旬にかけて、娼婦のクラシナ・マリア・ホーリック(「シエン」)と出会い、同棲するようになる。

・6月7日、淋病の治療のため市立病院に入院する。

・7月1日:退院。翌日、隣のシェンクウェフ136番地(1884年以降はシェンクストラート13番地)のより大きなアトリエに引っ越す。

・7月2日:シエンは男児を出産し、ウィレムと名付けられる。

・8月:色彩のための資金を提供してくれたテオの訪問を受け、ゴッホはシェベニンゲンの海辺で油絵を描き始める。

・11月:6枚のリトグラフの試し刷りをする。

 

■1883年

・9月 シエンを捨て、ドレンテに移動する。

・9月11日:夜遅くにホーヘフェーンに到着し、アルベルトゥス・ハーツイカー(Groote Kerkstraat)に宿泊する。

・10月2日:ホーヘフェーンを牽引船で離れ、ニーウアムステルダム/フェーンアードへ向かう。ゴッホは兄に最初の場所に滞在していると書き、ヘンドリック・ショルテとの下宿は確かに近くの後者の村の一部であった。

・11月1日:ツヴィールーを訪れる。

・12月4日: ヌエネン行きの列車に乗るため、VeenoordからHoogeveenまで歩いて下る。

・12月5日: ヴィンセント、ヌエネンに到着し、両親のもとに滞在する。

・12月7日: テオがヌエネンに到着したことを知らせるペン画(F.1237)の裏の消印の日付。

 

■1884年(5.本格的な絵画制作

 ・グーピル一族が引退し、会社は再び姿を変え、Boussod, Valadon & Cie, successeurs de Goupil & Cieと改名される。

・1月17日:列車から降りてきたゴッホの母が足を骨折する、フィンセントは療養中の母の世話をする。

・3月末 テオがピサロの絵を手始めに印象派の画家の売買を始める。

・8月 マルゴー・ベゲマンが自殺を図る。

 

■1885年

・3月26日: ヴィンセントの父親が亡くなる。

・3月27日:テオが葬儀のためにヌエネンに向かう。

・3月30日: 父の葬儀。

・5月 ヴィンセントが母の家を出る。

6月:両親と休暇を過ごすためにオランダに帰る途中、テオとアンドリース・ボンゲルは、リール、ブルージュ、ゲント、アントワープの美術館を訪れる。

・ 7 月 28 日~8 月 7 日:テオはヌエネンに滞在する。

・8月7日:テオはアムステルダムのボンガーを訪れ、妹のヨハンナに初めて会う。

・8月:ハーグの画商ルルスのウィンドウにゴッホの作品が初めて公開される。

・10月6日~8日:アムステルダムと国立美術館を訪れる。

・11月24日:アントワープに向けて出発。

 

■1886年(6.アントワープ時代 7.後期印象派作家たちとの出会い

・1月18日 アントワープ美術アカデミーに1885-1886年の冬学期、アンティーククラスに入学する。

・3月初旬:パリに到着し、テオにルーブル美術館で会うよう頼む。テオとともにラヴァル通りのアパートに住む。

・3月~6月:フェルナン・コーモンのアトリエで3ヶ月間学ぶ。

・4月3日:アントワープ・アカデミーの評議会によって、入学コースに降格される。

・5月15日:第8回印象派展が開幕、6月15日まで開催される。

フィンセントとテオ・ファン・ゴッホが住んでいた家。パリ、レピック通り54番地

・6月:ゴッホ兄弟がラヴァル通りからレピック通り54番地の大きなアパートに引っ越す。

・8月 :テオはオランダで休暇を過ごし、家族や叔父たちと自分の画廊を設立する計画を話し合う。一方、フィンセントが病気になり、アンドリース・ボンジェがフィンセントとテオの愛人Sを介護するため、しばらくの間アパートをシェアすることになる。

・8月19日か26日。テオがパリに戻る。

・8月21日:第2回アーティスト・アンデパンダン展が開催される。

・10月25日 ゴッホ、シャルル・アングランに作品の交換を申し出る。

 

■1887年

・1月:フィンセントは初めてタンギーの肖像画にサインし、この年の終わりにはタンギーの肖像画と彼らの友人の一人の肖像画にサインする。

・3月11日: テオはフィンセントと仲良くすることは不可能であると述べる。

・3月26日:第3回アーティスト・アンデパンダン展が開催される。

・4月26日:ヴィンセントとテオは和解する。

・春。ヴァンサンはアスニエールで絵を描く。

・11月14日: ポール・ゴーギャンがマルティニークから帰国し、パリに到着する。

・12月 ゴーギャンはテオに絵画を託す。

・12月26日 テオがゴーギャンの絵を初めて販売する。

・12月、1月(?) モンマルトルのクリシー通り43番地のレストラン・デュ・シャレーで、ヴァンサン、ベルナール、アンケタン、トゥールーズ=ロートレック(おそらく)の絵画展を企画する。ベルナールとアンケタンは最初の絵を売り、ヴァンサンはゴーギャンと作品を交換する。

 

■1888年(8.アルルの黄色い家 9.黄色い家でのゴーギャンとの生活 10.ゴッホの耳切断事件

・1月1日: テオ、二人目(ヴィンセントではなく、おそらくマンジ)を伴ってゴーギャンのアトリエを訪れ、ブッソー&ヴァラドンのために3点の絵を手に入れる。

・1月4日 テオは、ゴーギャンの「ネグレス」とマンジの海景を個人的に入手する。

・1月12日: テオ、トゥールーズ=ロートレックの「Poudre de riz」を個人的に入手する。

・2月5日: アントン・モーヴが死去。

・2月19日: ゴッホ、パリを出発する。

・2月20日 アルルに到着。

・3月22日: 第4回アンデパンダン芸術家協会展が開かれ、ゴッホが3点を寄贈する。

・5月1日、「黄色い家」の賃貸契約を結ぶ。

・6月、サント・マリー・ド・ラ・メールで1週間働く。

・9月8日:「黄色い家」のためにベッドを2台購入する。

・9月17日:「黄色い家」で最初の夜を過ごす。

・10月23日:ポール・ゴーギャンがゴッホのもとにやってくる。

・11月:ゴーギャンは1889年の春にレ・XXから展覧会への招待を受ける。

・12月:ゴーギャンとゴッホは、モンペリエへの旅行でファーブル美術館を訪れ、ブルヤス・コレクションを鑑賞する。

・12月22日:ゴーギャンはゴッホに自分の肖像画を見せる。ゴッホは、"It's me gone mad "と言って反応する。その夜、地元のカフェで2人は口論となり、ゴッホはゴーギャンにグラスを投げつける。

・12月23日。ゴッホは朝目覚めると、前夜の出来事を思い出せず、ただゴーギャンを怒らせてしまったという曖昧な記憶しかなく、それを謝罪する。ゴッホはテオから手紙を受け取り、テオはヨハンナ・ボンジェとの婚約を発表する。夜、ゴッホとゴーギャンは再び口論になる。ゴッホは自分の左耳を切り落とし、それを紙に包んで地元の売春宿に持ち込み、レイチェルという女性にその耳を渡して、自分のために世話をしてくれるよう頼む。ゴーギャンは地元のホテルで一夜を過ごす。

・12月24日:早朝、ゴッホが血まみれで死んでいるところを地元警察に発見される。ゴーギャンが「黄色い家」に到着すると、外には人だかりができており、すぐにゴッホ殺害の容疑で逮捕される。ゴーギャンと警察署長は一緒に家に入り、ゴッホの寝室に上がる。ゴッホはゴーギャンに触られ、話しかけられるとそれに応じる。ゴーギャンは釈放され、一刻も早くアルルを離れようとする。ゴッホはアルルの旧病院に収容される[63]。

・12月25日。その夜、テオとゴーギャンはパリに向かう。

 

■1889年(11.サン・レミの精神病院に入院

・1月5日: テオ、アムステルダムへ行く。

・1月8日 :退院。

・1月9日: テオとヨハンナ・ボンガーの婚約パーティ(アムステルダム)。

・1月14日: テオ、パリに戻る。

・2月7日: ゴッホ、2度目の精神衰弱で再び病院に収容される。

・2月17日 :再び退院。

・2月18日: ゴッホに対する市民の請願書が提出される。

・2月26日 :警察の命令で病院に収容される。

・3月23-24日:テオの依頼で、ポール・シニャックが入院中のゴッホを見舞う。

・3月31日: テオ、アムステルダムへ出発。

・4月18日 テオ、ヨハンナ・ボンガーと結婚する。

・5月8日: ゴッホはサン=レミ=ド=プロヴァンスの保護施設に自らを収容する。

・6月初旬 ゴーギャンと友人たちはカフェ・ヴォルピーニで作品展を開催する(Exposition des ・Peintures du Groupe impressioniste et synthétiste, faite dans le local de M. Volpini au Champ-de-Mars 1889)、ゴッホは招待されるがテオは不適当と考える。

・7月8日:アルルを訪れる。

・7月15日、アルルの最後の絵がパリに送られる。

・7月18日:ゴッホは再び精神的に衰弱し、8月の終わりまで続く。

・9月:ゴッホ、再び制作に取りかかる。

・9月3日:第5回アンデパンダン芸術家展(10月4日まで)開催、ファン・ゴッホは2点を出品。

・11月15日: レ・ゼクス書記長のオクターヴ・モーが、1890年2月に開催される第7回展への参加をゴッホに呼びかけ、ゴッホはこれを受諾する。

 

■1890年(12.オーヴェル・シュル・オワーズ 13.ゴッホの死

・1月18日: ブリュッセルのレ・ゼクスの第7回展が開幕(2月23日まで)。ゴッホは6点の絵を寄贈し、そのうちの1点はアンナ・ボッホに売却される。晩餐会でアンリ・ド・グルーはゴッホの絵を侮辱し、自分の作品がゴッホの絵と並べられることを拒否。トゥールーズ=ロートレックはゴッホを守るためにド・グルーに決闘を申し込み、シニャックはロートレックが殺されるなら自分はゴッホを弁護し続けると宣言する。その後、ド・グルーは追放される。

・1月31日:テオの息子ヴィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホが誕生する。

・2月22日~23日:アルルを訪れていたゴッホが病に倒れ、馬車でサン=レミーに連れ戻されることになる。この危機は4月の末日まで約9週間続き、記録上最長のものとなる。

・3月20日:第6回アンデパンダン芸術家展(4月27日まで)開催。ゴッホは10点を出品するが、そのうちの5点はすでにブリュッセルのレ・ゼクスで発表されたものだった。ゴーギャン、アルマン・ギヨミンらが作品交換を提案、モネが祝辞を送る。

・5月1日:回復し、再び仕事を始める。

・5月3日: ゴッホはテオに手紙を書き、パリに戻ることを提案するテオを受け入れる。

・5月初旬 友人たちにサン・レミーを離れることを連絡し、その準備のために絵を贈り始める。

・5月16日 サン・レミーを退院し、パリに移動、17日朝10時に到着する。

・5月17日-20日: パリのテオのもとに滞在する。

・5月20日、オーヴェル・シュル・オワーズに移る。

・6月8日 テオと家族が来訪。

・7月初旬 テオとジョーの息子が病気になる。

・7月6日: テオ、ジョー、病気の甥に会うためパリに日帰り旅行。

・7月15日: テオは妻と息子を伴い、アントワープ経由でオランダに向かう。

・7月19日: テオが一人パリに戻り、妻と子供をオランダに残して休暇を過ごす。

・7月23日: 仕事の都合でテオはアントワープで一日過ごすことになる。ゴッホが最後の手紙を書く(テオ宛)。

・7月27日 日曜日の夕方。ゴッホが銃で自殺をする。午後9時にガシェ博士が呼ばれる。

・7月28日、月曜日の朝。テオが弟のベッドサイドに到着する。

・7月29日、午前1時半、ゴッホ死去。"このように終わらせたかった"。

・7月30日:葬儀、テオ、ガシェ、タンギー、ベルナール、ラヴァル、リュシアン・ピサロ、ローゼらが弔う。

・8月7日:毎週木曜日発行の週刊誌『レコポントワイアン』がゴッホの自殺未遂とその死を報道する。

・9月14日:テオと彼の若い家族が隣に引っ越してくる。

・9月20日: テオはエミール・ベルナールの協力を得て、テオのアパートで兄の作品の即席の回顧展を開催する。

・10月9日:テオは心身ともに衰弱し、サン・ドニのメゾン・デュボア病院に入院、その後パッシーのクリニックに入院する。

・11月18日、テオはユトレヒトのウィレム・アルントスクリニークに移される。

 

■1891年

1月25日: テオが死去し、デ・ビルトに埋葬される。1914年、テオの遺体は掘り起こされ、弟と共にオーヴェル・シュル・オワーズに再埋葬される。


 ■参考文献

Vincent van Gogh - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Vincent_van_Gogh_chronology、2022年6月25日アクセス