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【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」

モナ・リザ / Mona Lisa

世界で最も有名で価値のあるレオナルドの絵画


レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》1503-1506年ころ。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》1503-1506年ころ。Wikipediaより。

ルネサンス芸術を学ぶ上で、「モナリザ」を抜きにしては語れない。世界で最も有名で、最も広く賞賛されている絵画として、その人気は何世紀を経ても衰えることがない。今回は、なぜ 「モナリザ 」が優れているのか、その有名なモデルの背景から、世界で最も高価な絵画として騒がれていること、そしてその興味深い事実について解説していきます。それでは早速、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」の謎に迫ってみましょう。

目次

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1503-1506年頃 
メディア 油彩、ポプラパネル
サイズ 77 cm × 53 cm
ムーブメント 盛期ルネサンス
所蔵者 ルーブル美術館

《モナ・リザ》、または別名《ラ・ジャコンダ(La Joconde)》はレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された上半身が描かれた半身肖像画。77 cm × 53 cm。パリのルーブル美術館が所蔵している。

 

盛期イタリア・ルネサンスの傑作の1つと評価されている。モデルは、多くの批評家たちによりフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻であるリザ・デル・ジョコンドとみなされている。

 

1503年から1506年の間に描かれたと考えられていたが、現在は1517年まで作業を続けていた可能性がある。

 

レオナルドはこの絵をジョコンド家にわたしておらず、死ぬまで所有していた。死後に弟子のサライにわたり、その後、フランスのフランソワ1世が購入し、フランス共和国の所有物となり、1797年から現在までパリのルーブル美術館に常設展示されている。

 

スマーフート技法が生み出す不可解な表現、畏怖の念を抱かせる配置、複雑なデザイン、視覚的なイリュージョンなど、このユニークな傑作は多くの人々を魅了し、今日まで徹底した研究の対象とされてきた。

 

「世界で最も有名で、多くの人に鑑賞され、書かれ、歌にされ、パロディ化された」芸術作品と言われている。

 

《モナ・リザ》は世界で最も高額の絵画である。1962年1億ドルという史上最高の保険金が設定されている(ルーブルは実際には保険を購入してはいない)。これを現在の価格(2020年)に換算すると約6億5000万ドル相当の保険価格に相当する。

 

《モナ・リザ》が世界的に知れわたるようになったのは盗難事件や破壊行為事件である。この作品はこの100年間で盗難にあったり、世界中で観客から傷をつけられてきた。2022年にも気候変動プロテストから被害を受けた。

 

重要ポイント


  • 盛期イタリア・ルネサンスの傑作の1つ
  • 世界で最も高額な絵画の1つ(約6億5000万ドル相当)
  • 盗難されたり世界中で何度も損傷を受けてきた

タイトルと主題


「モナ・リザ」とは「リザ奥さん」


この絵のタイトルは、英語では「モナ・リザ」イタリア語では「ラ・ジョコンダ」として知られているが、これはルネサンスの美術史家ジョルジオ・ヴァサリが記載した名称が由来となっている。レオナルドが自分で付けたタイトルではない

 

 

ヴァサリによればレオナルドはイタリアの富裕層フランチェスコ・デル・ジョコンドの依頼で、彼の妻リザ・デル・ジョコンドの肖像を描いたとだけ記している。

 

イタリア語の「モナ(Monna)」は、英語の「My Lady」「Ma'am」「Madam」に相当する言葉であり、「マドンナ(ma donna)」の丁寧語である。「モナ・リザ」は日本語だと「リザ奥さん」である。

 

リザ・デル・ジョコンドは、フィレンツェとトスカーナに起源を持つゲラルディーニ家の1人で、裕福なフィレンツェの絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻だった。この作品は2人の新居祝いに依頼を受けたもので、また2人の次男アンドレアの誕生を祝祭記念に描かれたと考えられている。

 

イタリア語の「La Gioconda」は、「jocund」(「幸せな」「陽気な」)という意味で、文字通り「陽気な人」という意味で、リザの結婚相手の名前「Giocondo」の女性形にかけた洒落である。 フランス語の「La Joconde」も同じ意味を持つタイトルである。

 

《モナ・リザ》に関するヴァサリの記述は、レオナルドの死後31年経った1550年に出版された彼の伝記に由来している。この伝記は、作品の出所や作者の身元を知る上で最も有名な情報源となっている。

 

レオナルドの助手であったサライは、1524年に亡くなったとき、レオナルドから遺された肖像画を所有しており、彼の私文書では《ラ・ジョコンダ》と名付けられていた。

 

1503年10月に古代ローマの哲学者キケロの著作の1477年の印刷物に書かれたアゴスティーノ・ヴェスプッチの注釈は、レオナルド・ダ・ヴィンチが《モナ・リザ》を実際に制作したことの裏付けとなるものであった。

 

ヴェスプッチは、ギリシャの有名な画家アペレスとレオナルドを比較して、レオナルドの技量を説明し、レオナルドが当時リザ・デル・ジョコンドの制作を監督していたことを本に記載している。

 

これを根拠にリザ・デル・ジョコンドがモナリザのモデルであったと考える人もいるが、このメモには絵や図面に関する記述はないため、当時の女性の肖像画であればどれでもリザにあてはまってしまう

 

 

モデルは本当にリザ・デル・ジョコンドか?


ハイデルベルク大学の本で発見されたアゴスティーノ・ヴェスプッチによる注釈ノート
ハイデルベルク大学の本で発見されたアゴスティーノ・ヴェスプッチによる注釈ノート

なお、この注釈は、2005年にハイデルベルク大学で発見されたばかりである。この注釈の発見の告知に対してルーブル美術館の代表であるフィンセント・デリウビンは、

 

レオナルド・ダ・ヴィンチは1503年にリザ・デル・ジョコンドという名前のフィレンツェの女性の肖像画を描いていた。これについては確実ですしかし 残念ながら、ここに記載されいてるリザ・デル・ジョコンドの肖像画のことがルーヴル美術館にある絵画のことであると完全に証明することはできません」と述べた。

 

現代では、美術専門家の間では、様々な見解があるものの、作品に描かれている人物はリサ・デル・ジョコンドであるという考え方が定着しているが、リザ・デル・ジョコンド以外にも、《モナ・リザ》のモデルになったとされる女性は多い。

 

たとえば、イザベラ・ダラゴナ、チェチーリア・ガッレラーニ、フランカヴィッラ公爵夫人のコスタンツァ・ダヴァロス、イザベラ・エステ、イザベラ・グアランダ、カテリーナ・スフォルツァ、ビアンカ・ジョヴァンナ・スフォルツァなどである。また、弟子のサライやレオナルド自身が絵画の肖像画のモデルという説もある。

 

さらに、ヴァサリが言及している《モナ・リザ》作品は、ほかに少なくとも4点候補がある。

技術・構図


レオナルド特有の輪郭を描かないスフマート方法


《モナ・リザ》は、女性美の象徴とされたルネサンス期の典型的な聖母マリア像を強く想起させるものである。女性は「ポツェット」と呼ばれるアームチェアに座り、両手を組み、鑑賞者の目を直視するような、高貴で保守的な姿勢で描かれている。

 

また、レオナルド・ダ・ヴィンチの輪郭線を描かないスフマート技法は、唇と目のスモーキーでぼやけたエッジの組み合わせによって、この絵に生き生きとした生命力を加えるのに役立っている。

 

モデルの描写は、15世紀後半のロレンツォ・ディ・クレディアニョーロ・ディ・ドメニコ・デル・マッツィエールが制作した美術作品と何らかの相関性を持っている。

 

美術史家のフランク・ツェルナーによれば、モデルの構図はフランドル絵画までさかのぼることができる。特にパネルの両側に円柱の柱の切り込みはフランドルの肖像画において前例があるという。

 

ウッズ・マースデンは、ハンス・メムリンクの《ベネデット・ポルティナリ三連画》(1487年)、または、ロッジアを使用して描かれたセバスティーノ・マイナルディのペンダント肖像画のようなイタリアの模倣品をあげている。

 

これは柱が人物像と遠景を結びつけているのが特徴的である。レオナルドの以前の作品《ジネヴラ・デ・ベンチの肖像》には見られない要素である。

 

この絵は、空気遠近法を初めて導入した画家の一人であるレオナルドが、工夫された背景の前にモデルを配した初期の肖像画の例である。

 

険しい柱で飾られた応接間のような場所に女性が描かれ、周囲には雪をかぶった山並みが広がっている。遥か彼方の小道は廃道と化し、空の縁を結ぶ橋が架かっているのみである。

 

レオナルドは、《ジネヴラ・デ・ベンチの肖像》の肖像と同じように、水平線と目の位置が一致するように配置をした。それゆえ、人物と風景が結び付けられ、絵画全体にの神秘的な性質を与えている。

 

幾度も修正されている


《モナ・リザ》には眉毛やまつげが強調されていない。この時代、裕福な家庭では毛は見栄えが悪いされ、一般的に手入れされていたことが学者によって認識されている。

 

2007年、フランス人エンジニアのパスカル・コットは、「モナリザ」について詳細な調査を行い、絵画をスキャンした結果、この作品にはもともと眉毛とまつ毛が描かれていたが、長年の定期的な修復により、それらが失われていることが示唆されたとしている。

 

また、顔の輪郭や視線にも変化が見られ、「モナリザ」は実は様々なレイヤーを組み合わせて再現されたものであることを指摘した。例えば、ある層の下に、覆い隠されていた優雅な頭飾りを発見することができたのである。

 

パスカル・コットはデジタル技術でオリジナルの《モナ・リザ》を再現してみせた。オリジナルの《モナ・リザ》は顧客の夫に受け入れらなかったため、修復されたのか、それとも別のユニークな作品が存在するのか、どちらかだと言われている。

 

また、ある層に多数のヘアピンと真珠で装飾された頭飾りを身に着けて描かれ、のちに消され重ね塗りしている部分があることも発見した。

ルーブルにある《モナ・リザ》はオリジナルではないかもしれない証拠。

モナ・リザ絵画を徹底研究したドキュメンタリー番組「モナ・リザの謎」,2015年12月配信。

作品に描かれた人物と背景の情景をめぐっては、さまざまな考察がなされてきた。例えば、ルネサンス時代(現在もそうかもしれないが)、モデルの美しさは特に評価されていなかったが、だからこそ、レオナルドは彼女を正確に描いたのだろう。

 

矢代幸雄をはじめ東洋美術専門家の中には、背景の風景は中国の山水画から影響を受けていると主張するものも多いが、諸説あるものの、決定的な証拠に乏しく、この絵の風景は東洋美術の影響を受けている。

 

ハーバード大学のマーガレット・リビングストン教授は、2003年にモナリザの謎の微笑みの正体を報告した。真正面から見ると微笑みは感じられないが、視点を口元からほかの部分へ移したり絵全体に視野を移すと、途端に微笑みが目立つようになるのである。

 

2008年、ウルビーノ大学の地形学教授と写真家の検証で、モナリザの風景がイタリアのペザロ、ウルビーノ、リミニに位置するモンテフェルトロ地域に似ていることが明らかになった。

背景


レオナルド・ダ・ヴィンチは、《モナ・リザ》のモデルであるリザ・デル・ジョコンドの肖像画の制作を1503年10月頃に開始したと考えられている。フィレンツェでは1503年もしくは1504年に始まったと主張するものもいる。

 

1503年の春、レオナルドは収入源があまりなく、個人の注文肖像画を受注したはじめたと思われる。しかし、同年末、レオナルドは『アンギアーリの戦い』の前金を受け取ったため、《モナ・リザ》の作業を延期せざるをえなくなった。『アンギアーリの戦い』の締切は1505年だった。

 

 

1505年頃、ラファエロはレオナルドの《モナ・リザ》を参考にしたと思われる下絵をペンとインクで描いている。主題の側面には円柱がよりはっきり描かれている。

 

1506年、レオナルドは《モナ・リザ》はいまだ未完成のままで、また、作品に対する報酬も受け取っていなかったので、依頼主に作品をわたすことなく生涯自身が保持することになった。 

 

ルーヴル美術館は、この絵が1503年から1506年の間に制作されたことは間違いないと発表しているが、美術史家のマーティン・ケンプは、正確な時期を特定することは困難であると述べている。

 

一方、カルロ・ペドレッティやアレッサンドロ・ヴェッツォシのような多くのレオナルドの専門家たちは、この絵画は1513年以降の晩年のレオナルドのスタイルの特徴であると主張している。

 

これは、未完成のままで結局、依頼主にわたせなかったので、1506年以降は晩年まで個人的に加筆していた可能性がある。そのため、晩年期のレオナルドのスタイルの特徴が残っているのである。

 

他の研究者は、レオナルドは事前の資料を熟考した上で、1513年にこの絵を描き始めたと主張している。ヴァザーリによれば、「レオナルドは4年間この作品に取り組んだが、結論は手つかずのままであった」。

 

1516年、レオナルドはフランシスコ1世に招待され、アンボワーズ城近くのクロルセで作業をしていた。レオナルドはフランスに《モナ・リザ》の作品を持ち込み、フランスに移ったあとも作品制作を続けていたと考えられている。

 

美術分野の専門家であるカルメン・C・バンバッハは、レオナルドは1516年か1517年まで作品に手を加え続けていたのではないかと推測している。しかし、1517年に右腕の麻痺が起こり、絵が描けなくなった。このことが、《モナ・リザ》が未完成であることの原因として推測されている。

 

オスロ国立美術館やウォルターズ美術館にあるほかの《モナ・リザ》の模倣作品には側面に大きな円柱が描かれている。そうしたことから、レオナルドの《モナ・リザ》も当初は円柱が描かれていたが最終的にトリミングされと考えられていた。

 

しかし、1993年までに、美術史家のフランク・ツェルナーはレオナルドの《モナ・リザ》は決してトリミングされていないと主張した。この主張は2004年の一連の検証で確認された。

 

トリミングされていない事実を考慮して、ルーブルの16世紀イタリア絵画のキュレーターのバンサン・ドリュバンは、ラファエロのスケッチ画やほかの模倣作品は、別のレオナルドの《モナ・リザ》作品に触発されたにちがいないと述べた。

 

1517年10月のルイ・ダラゴンの記帳によると、モナリザは、レオナルドのパトロンであったジュリアーノ・デ・メディチの依頼で、1513年から1516年にかけてベルヴェデーレ宮殿で制作されたことが明らかにされている。しかし、この考え方は正確ではない。ヴァサリによると、《モナ・リザ》を依頼したいのはモデルの配偶者であるフランチェスコ・デル・ジョコンドである。

 

多くの専門家たちは、日付、依頼人に関する不確定さ、1519年のレオナルド死後の行方、ラファエルの下絵の微細な違いなどから、レオナルドが2つのバージョンの《モナ・リザ》を制作していると主張している。

 

柱を取り入れた架空の最初の《モナ・リザ》は、1503年にジョコンドから依頼され、未完成のままレオナルドの弟子であり、死ぬまで助手だったサライの手元にあった。これが、ラファエルの下絵で同じものが描かれ、ほかの画家の模倣作品となった。

 

1513年頃、ジュリアーノ・メディチの依頼により制作された2つ目の《モナ・リザ》は、1518年にサライからフランシス1世に売却された。これが今日、ルーブル美術館に展示されている作品である。

 

この有名な絵画は、フォンテーヌブロー宮殿に保管され、その後、ルイ14世がベルサイユ宮殿に移し、フランス革命まで保管されていた。フランス革命が勃発すると1797年に、ルーヴル美術館に常設展示されるようになった。

ラファエルによる下絵(1505年頃)。両端に大きな円柱が描かれており、《モナ・リザ》の失われしオリジナルバージョンを基盤にしたものとみなされている。
ラファエルによる下絵(1505年頃)。両端に大きな円柱が描かれており、《モナ・リザ》の失われしオリジナルバージョンを基盤にしたものとみなされている。

避難、盗難、破壊行為


戦禍からの避難


フランス革命後、絵画はルーブル美術館に移されたが、一時的に、チュイルリー宮殿のナポレオン1世の寝室に架けられていた。《モナ・リザ》は、それまでアート・ワールドの外部ではあまり知られていなかったが、1860年代にフランスの知識人の一部がルネサンス絵画の傑作として評価を始めるようになった。

 

普仏戦争(1870-1871)の間、戦禍を避けるため絵画は一時ルーブル美術館からブレスト・アーセナルに移された。第二次世界大戦中もルーブル美術館から再び撤去され、最初にアンボワーズ城、ロクデュー修道院、シャンボール城、最後にモントーバンのアングル美術館に運ばれた。

 

1911年まで、この作品は一部の知識人のみで一般大衆の間にはまだ人気がなかった。

 

ピカソも巻き込まれた盗難事件


 1911年8月21日、ルーブル美術館から絵画が盗まれた。絵が盗まれたことは、翌日、画家ルイ・ペローが最初に気づいたことだった。絵画が館内のどこかで撮影されているかどうか調査した後、ルーブル美術館は調査のために1週間閉鎖した。

 

その後、フランスの詩人ギヨーム・アポリネールが疑われ逮捕された。アポリネールは尋問のために連れてこられた友人のパブロ・ピカソを事件に巻き込んだ。

 

結局、二人とも免罪され、真の犯人には、ルーブル美術館の従業員のヴィンチェンツォ・ペルッジャであり、彼は絵画のガラスケースの組み立てを手伝っていた。

 

彼は開館時間に建物に入り、清掃器具のクローゼットの中に隠れ、美術館が閉館したあと、コートの下に絵を隠して歩いて持ち出したという。

 

ペルッジャは、レオナルドの絵画はイタリアの美術館に戻されるべきであると考えていたイタリア愛国者だった。ペルッジャは、絵画の盗難後にオリジナルの模倣作品の価値が大幅に上昇すると同僚に話をもちかけられた可能性がある。《モナ・リザ》を自宅のアパートに2年間保管した後、イライラしてフィレンツェのウフィツィ美術館の館長であるジョヴァンニ・ポッジに売却しようとして捕まった。

 

ウフィツィ美術館で2週間以上展示されたあと、1914年1月4日にルーヴル美術館に返却された。ペルッジャは6か月間投獄されたあと、イタリアでその愛国心を讃えられ、歓迎された。

 

盗難事件から1年後、サタデー・イブニング・ポストのジャーナリスト、カール・デッカーは、盗難を首謀したと主張するエドゥアルド・デ・フィエルノという共犯者と出会っている。オリジナル作品を隠しながら、贋作作家イブス・ショードロンと共同で、米国で《モナ・リザ》の贋作を販売するため6点の贋作を制作したという。デッカーは、1932年にこの盗難事件の報告を発表した。

1911年の盗難事件時、ルーブル美術館の《モナ・リザ》が架けられていた壁。
1911年の盗難事件時、ルーブル美術館の《モナ・リザ》が架けられていた壁。
1913年にイタリアのウフィツィ美術館で展示された盗難された《モナ・リザ》
1913年にイタリアのウフィツィ美術館で展示された盗難された《モナ・リザ》
1913年12月13日、《モナ・リザ》が発見されたときの新聞記事。
1913年12月13日、《モナ・リザ》が発見されたときの新聞記事。

破壊行為事件


1956年には観客から酸を浴びせられ、画面下部に大きな損傷を受けたことがあった。また、同年12月30日、ボリビア人の男ウゴ・ウンガザ・ビルガスは、ルーブル美術館に展示されていた《モナ・リザ》に岩を投げつけた。ガラスケースが粉砕され、左肘近くの顔料が少し破損した。

 

絵がガラスケースで保護されはじめたのは、数年前、絵に恋をしたと訴える男がカミソリの刃で切り抜いて盗もうとしたためである。

 

損壊事件が相次いだことから、『モナ・リザ』は防弾ガラスのケースに収められた。1974年4月21日には、東京国立博物館に貸し出し展示されていた『モナ・リザ』が、美術館の身体障害者への対応に憤った「足の不自由な女性」に赤色のスプレー塗料を吹き付けられたが、『モナ・リザ』は無事だった。

 

2009年8月2日、フランス市民権を否定されたことに対して取り乱したロシア人女性が、ルーブル美術館で購入したセラミックティーカップを投げつけたが、損傷はうけなかった。

 

ここ数十年、絵画は、1992年から1995年の間、2001年から2005年の間、そして再び2019年の3回、ルーブル美術館の改修に対応するため一時的に移動されている。2019年に導入された新しいキューシステムにより、訪問者が絵を鑑賞するために待つ時間が短縮されるようになった。現在は順番待ちを終えると、訪問グループは約30秒だけ絵を鑑賞することができる。

 

2019年10月に絵画を保護する防弾のガラスケースが新調された。

新調された防弾ガラスケース。
新調された防弾ガラスケース。

評価


19世紀半ばからフランス知識人で評価が高まる


今日、《モナ・リザ》は世界で最も有名な絵画としてみなされているが、20世紀までは単純に多くの高評価を得た作品群の1枚だった。かつて、フランスののフランシス1世のコレクションの一部であった《モナ・リザ》は、フランス革命後に国立博物館となったルーヴル美術館に展示された最初の作品の1つだった。

 

フランス革命後、19世紀半ばごろからレオナルドの天才性がフランスの知識人たちの話題になり、神秘的でファム・ファタールの代表的な美術作品として評価が高まっていった。

 

1878年のベデカーガイドでは、「ルーブル美術館が所蔵するレオナルド作品で最も有名な作品」とキャッチを付けていたが、当時は一般大衆よりも知識人によく知られていた。

 

1911年のモナ・リザ盗難事件が世界中で報じられると、絵画に対する関心が一般大衆の間でも大幅に高まりはじめた。それ以前は、単なるレオナルドの作品の1つとしてみなされていた。それ以前は《最後の晩餐》のほうが有名だった。

 

20世紀には大量のレプリカ作品、グッズ、モナ・リザを使った風刺作品、憶測が行われ「300の絵画と2000の広告」が複製されたと言われている。

 

1962年12月から1963年3月まで、フランス政府は《モナ・リザ》を米国に貸し出し、ニューヨークのメトロポリタン美術館とワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーで展示した。1961年に就航したフランス (SS France)号で運ばれた。ニューヨークでは、推定170万人が「モナ・リザを20秒ぐらい見つめるためだけに」列に並んだという。

 

1974年には東京とモスクワでも公開されている。2014年には930万人がルーヴル美術館を訪れた。元ディレクターのアンリ・ロイレットは、「80%の人々はルーブル美術館にモナリザを見たいだけに来ている」と述べた。

 

現在、ツーリストがあまりにも増えたこと。国連世界観光機関(UNWTO)によると、世界各地への国際観光客(その国に最低でも1泊する訪問者)の数は2018年に14億人に達した。フランスは外国人訪問者が多い国のリストの最上位に再び躍り出た。ルーブル美術館が1月に発表したところによると、同館への昨年の訪問者はどこの美術館よりも多く、1020万人と記録的な数字になった。

《モナ・リザ》を鑑賞するために並ぶ人々。1963年メトロポリタン美術館の外。
《モナ・リザ》を鑑賞するために並ぶ人々。1963年メトロポリタン美術館の外。

1962年から1963年の海外巡遊の前に、絵画は1億ドル(2018年で6億5,000万ドルに相当)の保険評価がされ、事実上世界で最も価値のある絵画になった。なお、ルーブルは保険に入っていない。代わりにセキュリティ費に保険以上の負担を行っているという。

 

2014年、『France 24』は記事で《モナ・リザ》の販売は国債を緩和するだろうと示唆したが、現在、《モナ・リザ》をはじめ他の国宝級の芸術作品はフランスの遺産法で販売が禁止されており、また、公共団体に属する美術館で展示されるものは公共財産とみなされ、それ以外の目的で利用できない。

 

影響


《モナ・リザ》は、完成する前からフィレンツェの現代絵画に影響を与えはじめた。レオナルドの工房に何度かおもむいたラファエロは、《ユニコーンと若い女性》や《マッダレーナドニの肖像》といった作品で何度か、レオナルドの肖像画の構図や形式の要素を真似ている。また、《ラベレタ》や《バルダッサー・カスティリオーネの肖像》のようなラファエルの後の作品にもレオナルドの絵画の影響が見て取れる。

 

美術史家のゾナーは「モナ・リザよりもジャンルの発展に大きな影響を与えたレオナルドの作品はないだろう。ルネサンス肖像画の決定的な代表作となり、おそらくその理由のため、実在の人物の肖像画だけでなく、理想の具現化した絵としても見られるようになった」と話している。

 

初期作品とコピー版


マドリードのプラド美術館で開催された「レオナルド・ダ・ヴィンチの手による女性」展で展示されたモナ・リザ作品は、何世紀にもわたってレオナルドの作品と見なされていた。

 

しかし、2012年の修復時を機にレオナルドの工房内の弟子の誰かが描いたものではないかと見なされるようになった。プラド美術館はおそらくサライかメルツィによる作品であるという見解を出したが、他の多くの専門家から疑問視されている。

 

復元された絵画はオリジナルのモナ・リザとは少し異なる視点で、世界初の3次元映像的な作品の一部と推測された。オリジナルのモナ・リザと並べ、2つの絵画を左右の目から見たモナ・リザと見立てて像を結ぶと、なんと立体的な画像が浮かび上がってくるという。さらに研究者たちは「このふたつ(の絵画)を合体させると、世界の歴史において初めての立体像になるかもしれない」と指摘している。

 

しかし、最近の報告では、この3次元的作品は実際には信頼できる立体視深度がともなってないことが実証されている。

 

《アイルワースのモナ・リザ》、また《初期モナ・リザ》として有名なバージョンは、1778年に英国の貴族がはじめて購入し、1913年に美術愛好家のヒュー・ブレイカーが再発見した。この作品は2012年にモナ・リザ財団によってメディアに発表された。レオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザと同じ主題の絵画である。本作品は、多くの専門家たちが16世紀初頭のレオナルドのオリジナル作品であると主張しているが、フランク・ツェルナーやマーティン・ケンプなど否定する専門家も多い。

《プラド美術館のモナ・リザ》
《プラド美術館のモナ・リザ》
《アイルワースのモナ・リザ》
《アイルワースのモナ・リザ》