【アートモデル】アリス・プラン「モンパルナスのキキ」

アリス・プラン / Alice Prin

モンパルナスのキキ


概要


生年月日 1901年10月2日
死没月日 1953年3月23日
国籍 フランス
ムーブメント エコール・ド・パリ、シュルレアリスム
表現媒体 女優、ヌードモデル、画家、歌手、ダンサー、ファッションモデル

アリス・プラン(1901年10月2日-1953年4月29日)は、フランスの芸術モデル、ナイトクラブ・シンガー、女優、画家。「モンパルナスの女王」「モンパルナスのキキ」の愛称で知られる。

 

キキというのはギリシャ語のアリスに相当する名前である。いつも陽気で開放的だったキキは、1920年代初頭のパリの自由で開放的な文化を引率。藤田嗣治やマン・レイ、モイズ・キスリングなど多くの芸術家のモデルをつとめた。

 

モンパルナスの時代が終わると、キキの仕事はほとんどなくなっていく。戦後はドラッグと酒に溺れ、極貧の中でアルコール依存症や薬物依存からくる合併症で死去。

略歴


幼少期


アリス・プランは、フランスのブルゴーニュ地方コート=ドール県・シャティヨン=シュル=セーヌで生まれた。非嫡出子のため、祖母の下、貧困な環境で育った。母はパリへ出稼ぎに出ていた。

 

12歳になって働くためにパリの母のもとへ移動する。はじめはパン屋で働いていたが、14歳になる頃には、ある彫刻家のためにヌードモデルの仕事をしていた。そのため母親と仲が悪くなり、家を飛び出し、以後、第一次世界大戦中はパリの画家・彫刻家の住居を転々と渡り歩きながら過ごすことから。

モデルとして有名に


モンパルナスに移住してきた頃から「キキ」というニックネームを使い始める。

 

さほど美人ではなくスタイルも良いといえなかったものの根っから陽気で開放的だったキキは、モンパルナスの空気とマッチ。

 

彼女はモンパルナスですぐに有名になり、カイム・スーティン、ジュリアン・マンデル、藤田嗣治、コンスタント・ディトレ、フランシス・ピカビア、ジャン・コクトー、アルノ・ブレカー、アレキサンダー·カルダーなど、1ダース以上のアーティストのヌード・モデルとして活躍した。

 

キキを有名にしたのが、藤田嗣治だった。藤田が描いたプランの裸婦『寝室の裸婦キキ』(1922年)が、サロン・ドートンヌで大評判となり、その日のうちに8千フランで売れた。それ以来、藤田とキキのふたりはモンパルナスの有名人となった。

 

またキキは、ポーランド人の画家、キスリングをはじめとする、”エコール・ド・パリ”とよばれる時代の外国から集まってきた画家たちのモデルとなった。

キキをモデルにして絵を描く藤田嗣治。Wikipediaより。
キキをモデルにして絵を描く藤田嗣治。Wikipediaより。

黄金期の1920年代


マン・レイ《ベールをかぶったキキ》
マン・レイ《ベールをかぶったキキ》

1920年代においてプリンと最も仕事した芸術家はマン・レイだった。1921年から29年にかけての8年間はキキの黄金時代だったが、それは写真家マン・レイとの恋愛関係がそのまま並行していた。

 

マン・レイは彼女のポートレイトを数百枚以上撮影しており、一番有名な作品は「アングルのヴァイオリン」「ベールをかぶったキキ」である。

 

その後もマン・レイとキキは化学反応を起し続け、キキのブロマイドは三十万枚売れる。1929年5月にモンパルナスのカフェで行われた芸術家たちによる美人投票で「女王」に選ばれた。

 

モンパルナスに新しくできたナイトクラブ「ル・ジョッケー」で歌手・女優として、劇場、映画界、作家や画家の名士たちに評判となる。1927年には画家として、キキはパリのル・サクレ・デュ・プランタン画廊で個展を開催し、作品を完売した。歌手活動をする際は常に「キキ」という名前を使っていた。

 

また1929年に記者のアーネスト・ヘミングウェイや藤田嗣治が協力して、自叙伝『Kiki's Memoirs』を出版。1930年に本はアメリカで翻訳・出版されたものの、すぐに米国政府によって出版禁止にされた。

 

アメリカで出版された初版本は1970年代を通じてニューヨーク公立図書館における禁止書籍リストに入れられたが、本は「1950〜60年代のモデルセレクション」という改題で再販された。

世界大恐慌から始まる転落期


1929年、芸術家として才能を伸ばしたキキが新聞記者アンリ・ブロカとNYへ駆け落ちしマン・レイと別れる。

 

しかし、その後は転落人生。キキが自叙伝を出版した1929年からニューヨークで世界恐慌がはじまった。「狂騒の時代:レ・ザンネ・フォル」と呼ばれた1920年代のパリの黄金時代はは終わりの時を迎え、またキキの人生の転落期へ入っていった。

 

若かった肉体も30歳を控えて衰えを見せ始める。また、神経過敏を隠し、陽気さを保つための麻薬や酒は、しだいに彼女をむしばんでいく。

若かった画家たちも、モンパルナスの地から巣立っていく。そして、いつか「神話のなかの彼女」だけが一人歩きを始め、彼女自身から栄光は去っていった。その後の仕事はまったく振るわずパリの場末のナイト・クラブで唄を歌い、メーヌ通りのクリーニング屋に勤めている姿を発見されている。

 

第二次世界大戦の間、ナチス抗議運動をしていたプランは、ドイツ軍に捕まることを恐れてパリを去り、故郷のブルゴーニュへ帰る。フランス解放により1945年にはパリへ戻るが、麻薬の密売で逮捕され、執行猶予付きで懲役2か月・罰金300フランの判決を受けた。

 

内蔵を病んでいたキキは吐血し、その血の中に倒れ込む。1953年、51歳で死去。アルコール依存症や薬物依存からくる合併症が死因だった。

 

●参考文献

Alice Prin - Wikipedia