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【美術解説】ロベール・ドローネー「オルフィスムの創始者」

ロベール・ドローネー / Robert Delaunay

フランス純粋抽象絵画の創始者


ロベール・ドローネー「ポルトガルの女性」(1916年)
ロベール・ドローネー「ポルトガルの女性」(1916年)

もしあなたが抽象絵画を理解することに興味があったり、オルフィスム運動という言葉を聞いたことがあるなら、ロベール・ドローネーを目にしたことがあるでしょう。オルフィスム運動の共同創設者である彼は、抽象絵画を発展させ、制限の多いキュビズム運動を敬遠したことで有名です。今回は、ロベール・ドローネーの芸術をより深く掘り下げ、制作に用いた作品や構成方法、ダイナミックな原色を活用した作風などをご紹介します。では、さっそく本題に入りましょう。

概要


生年月日 1885年4月12日
死没月日 1941年10月25日
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント 分割主義、キュビスム、オルフィスム、抽象
関連人物 ジャン・メッツァンジェワシリー・カンディンスキー

ロベール・ドローネー(1885年4月12日-1941年10月25日)はフランスの画家。妻のソニャ・ドローネーらとともに、ダイナミックな色彩と幾何学的模様が特徴のオルフィスム運動の共同創立者として知られる。

 

オルフィスムとは、1911年末から1914年初めにかけてパリに現れた純粋絵画の傾向で、ドローネーはワシリー・カンディンスキーピエト・モンドリアンとともに抽象絵画の先駆者の一人として知られている。オルフィスムという言葉は1912年の「セクション・ドール」展で詩人ギヨーム・アポリネールによって紹介されたが、それを実践し、その技法を完成させたのはドローネーであった。

 

ドローネーの抽象絵画では原色系のダイナミックな色彩が使われており、フォーヴィスムに通じるところがある。装飾的なパターンとしての性格が強いことなどを理由にキュビスムから離脱し、オルフィスムを打ち立てた。


略歴


若齢期


ロベール・ドローネーはパリで、ジョージ・ドローネーとフェルティ・ド・ローズ伯爵夫人のあいだに生まれた。幼い頃にドローネーの両親が別れることになり、ブールジュ近郊のラ・ロシェールで、母方の叔母マリーとその夫チャールズ・ダムールに育てられた。

 

卒業試験に失敗した後、ドローネーは画家になるため1902年にパリのベルヴィル地区に移り住み、叔父のロンサンのもとで装飾美術を学ぶ。19歳になる頃にはロンサンのもとを離れ、絵画に専念するようになったドロネーは、1904年にサロン・ド・アンデパンダンで6枚の作品を展示し、画壇デビュー。

 

その後、ブルターニュを旅してポン=タヴァン派に影響を受け、1906年、第22回サロン・ド・アンデパンダンでブルターニュで描いた作品を出品する。ここでアンリ・マティスに出会う。

 

また、フランスの化学者で色彩理論家のミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの色彩の同時対照に関する理論を読んで影響を受け、スーラらの新印象派の影響を受ける。

 

1907年初頭にベルテ・ウェイルが運営する画廊でジャン・メッツァンジェと展示を行い、親睦を深めるようになる。2人は1907年に美術批評家のルイス・ヴォクセルからモザイク状の立方体で構成される分割主義の画家とみなされるようになった。

ロベール・ドローネー「Paysage au disque」(1906−1907)
ロベール・ドローネー「Paysage au disque」(1906−1907)

キュビスムからオルフィスム(1908-1913)


1908年に連合軍の司書として軍隊に勤務したのち、未来派として活動していたウクライナ人作家のソニア・タークと出会う。当時、彼女はドイツの画商と結婚していたが離婚。

 

1909年にキュビスム運動に参加。ドローネーはパリの風景とエッフェル塔の習作シリーズを描き始め、翌年、ドローネーはソニアと結婚し、2人はパリのワンルームのアパートで暮らすようになる。1911年に息子チャールズが誕生。

 

ワシリー・カンディンスキーの招きで、ドローネーはミュンヘンを中心に活動する前衛運動青騎士に参加する。1911年頃からドローネーの作風は抽象傾向が進み、ドイツ、スイス、ロシアなどで評価されるようになった。

 

ミュンヘンで最初のブラン・レイターの展示に参加し、4作品を販売。ドローネーの絵画は特に青騎士から熱狂的に受け入れられた。1912年の「青騎士年鑑」では“ロベール・ドローネーの構成法”という記事名でドローネーが紹介された。

 

当時、フランスではキュビスムが大きな力を持っていたが、ドローネーはキュビスムにおける色彩の排除や動的要素のなさに対して批判的だった。一方キュビスム側からドローネーは印象派や装飾絵画に回帰していると批判され、キュビスムの異端者と扱われたものの、ドローネー自身は逆に自身芸術性の方向性を見出したという。

 

1912年はドローネーのターニングポイントだった。3月13日にパリで最初な大規模な個展がギャラリー・バルバザンゲスで開催された。この個展では初期の印象派の作品から1901年から1911年までのキュビスム時代の「エッフェル塔」シリーズの作品46点が展示された。ギヨーム・アポリネールは個展を絶賛し、「ドローネー:世界の偉大なビジョンを持つアーティスト」と紹介する。

 

1912年3月23日、『L'Assiette au Beurre』誌上でドローネーはキュビスムから脱退したことが明らかになった。ジェームズ・バークレイによるその年のサロン・ド・アンデパンダンのレビュー記事によれば「キュビズムが大半で占められていた。彼らのリーダーのピカソやブラックは参加しておらず、キュビスムと考えられていたドローネーは孤立した状態となり、メッツァンジェやルフォコニエとよくにた立ち位置だった」という。

 

その後、ギヨーム・アポリネールの後押しもあり、ドローネーはオルフィズム運動の作家として知られるようになる。1912年から1914年まで、ドローネーはダイナミックで鮮やかな色の光学的特性に基いて、非具象的で非自然的で非形態的な絵を描いた。ドローネーの理論はおもに光と色に関連したもので、のちにパウル・クレーやフランツ・マルク、オーガスト・マルケなど多くの画家に影響を与えている。

 

ギヨーム・アポリネールは、ドローネーの色彩理論に強く影響を受けて、オルフィスムを説明する際にドローネーの理論をよく引きあいに出した。ドローネーの表現力豊かな構造手段としての色彩の固定は、彼の色彩の確かなる研究を裏打ちするものだった。

 

科学者や理論家の影響を受けたドローネーの色彩は直感的であり、色はそれ自体が力強い表現と形態を持つものであるという信念のもと、ときどき無作為に表現されることがあった。絵画は知的要素に準ずる純粋絵画であり、知覚は色の付いた光の影響を受けていると考えていた。

 

ドローネーの初期絵画は新印象派と深いかかわりがあり、たとえば「夜景」では、暗い背景に対して明るい色で大胆なブラシストロークを使って描かれている。しかし、新印象派のスペクトラル色はのちに放棄され、「エッフェル塔」シリーズでは建物固体が断片化されていき、背景の空間との融合されるようになった。

 

このシリーズでドローネーはポール・スザンヌ、分析的キュビスム、未来主義の影響を受けており、「エッフェル塔」では有形物と周囲空間の相互干渉が行われ、キュビスム形式における静的均衡よりも、よりダイナミックに幾何学的に描かれた。

ロベール・ドローネー「エッフェル塔」(1911年)
ロベール・ドローネー「エッフェル塔」(1911年)
ロベール・ドローネー「同時のコントラスト:太陽と星」(1912-1913年)
ロベール・ドローネー「同時のコントラスト:太陽と星」(1912-1913年)

第一次世界大戦勃発から晩年まで


1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ソニアとロベールはスペインのフォンタラビーへ避難する。その後、2人はフランス戻らずマドリードに留まって生活する。

 

1915年8月に、2人はポルトガルに移動し、サミュエル・ハルパートとエドアルド・ヴィアナと家を共有した。しかし、ロベールは1916年6月13日にビーゴにあるフランス領事館で兵役義務の通達を受けるも無視。

 

ロシア革命が発生すると、ロシアのソニアの家族が受けていた財政的支援が打ち切られ、2人は別の収入口を探し始める。1917年に、ドローネーはマドリードでセルゲイ・ディアゲルフと出会い、舞台「クレオパトラ」の舞台デザインの仕事を受ける。

 

1920年代にはアンドレ・ブルトン、トリスタン・ツァラなどシュルレアリスムやダダイスムとも交流をもつ。 

 

1921年にパリへ戻り、 ドローネーはおもに抽象スタイルで絵を描き続けた。1937年のパリ万博でドローネーは鉄道や航空旅行の関するパビリオンのデザインに参加する。

 

第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツの侵攻から身を守るためオーヴェルニュに移動。しかし、癌に苦しみ、ドローネーは動き回ることができず、徐々に健康が悪化。 1941年10月25日にモンペリエで56歳で死去。彼の遺体は1952年にガンビアに埋葬された。

ロベール・ドローネー「エッフェル塔」(1926年)
ロベール・ドローネー「エッフェル塔」(1926年)
ロベール・ドローネー「リズム n°1」(1938年)
ロベール・ドローネー「リズム n°1」(1938年)

■参考文献

Robert Delaunay - Wikipedia



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