【芸術運動】エコール・ド・パリ「20世紀前半にパリで活動した外国人芸術家」

エコール・ド・パリ / École de Paris

20世紀前半にパリで活動した外国人芸術家


概要


パリに滞在している外国人芸術家


「エコール・ド・パリ」は、20世紀前半にパリで活動していた芸術界隈の総称だが、当時パリに滞在して活動していた非フランス人芸術家たちの総称として使われるケースが一般的である。1900年から1940年まではパリがアート・ワールドの中心地で、世界中から芸術家が集まっていたため「パリの学校(エコール・ド・パリ)」と呼ばれた。英語では「スクール・オブ・パリ」と呼ばれる。

 

エコール・ド・パリは、芸術運動を指す言葉ではなく、学校のような芸術機関でもない。日本語に訳せば“パリ派”が近いが、実際は“派”というほどのまとまりも、明確な主義主張もあるわけでもなく、シュルレアリスムや未来派のような「宣言」を出してもいない。

 

エコール・ド・パリとは、モンマルトルやモンパルナスに集まってきた芸術関係者たちの緩やかなネットワークで、カフェ、サロン、アトリエ、ギャラリーの集積地だった。彼らの活動の中心は初期はモンマルトルだったが、1910年頃からモンパルナスへ移った。どちらも貧しい芸術家たちが居住していた地区で、モンマルトルにあった「洗濯船」が芸術家たちが住んでいたボロアパートとしてよく知られている。

 

洗濯船はパブロ・ピカソが恋人のフェルナンド・オリビエと共にここに住んでいたアパートである。ほかに、藤田嗣治アメデオ・モディリアーニギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトー、アンリ・マティス、画商ではカーンワイラーらも出入りし、活発な芸術活動の拠点となった。

 

しかし、エコール・ド・パリという言葉は、1920年代になると、フランス芸術の純粋性に対する驚異的存在とみなされたユダヤ人芸術家たちのことを指す言葉として、美術批評家たちから侮蔑的な意味で使われはじめる。「ジューイッシュ・エコール・ド・パリ」または「スクール・オブ・モンパルナス」と呼ぶこともあった。

重要ポイント


  • 1900年から1940年までパリに集まった外国人芸術家たちの総称
  • 後期になるとユダヤ系芸術家たちに対して批判的な意味で使われた
  • 活動場所はモンマルトル、のちにモンパルナス

エコール・ド・パリの画家


代表的な作家は、パブロ・ピカソ(スペイン人)、マルク・シャガール(ロシア人)、アメディオ・モディリアーニ(イタリア人)、ピート・モンドリアン(オランダ人)である。マルク・シャガール(ポーランド系ユダヤ人)、モイズ・キスリング(ポーランド系ユダヤ人)

 

フランス人ではピエール・ボナーレアンリ・マティスジャン・メッツァンジェアルベール・グレーズで、ピカソとマティスがエコール・ド・パリの二大リーダー的な存在だった。

 

さらに、日本人の藤田嗣治、フランス人であるがモーリス・ユトリロマリー・ローランサンなどを加えることもある。

マルク・シャガール《私の村》1911年
マルク・シャガール《私の村》1911年
マリー・ローランサン《扇子を持つ女性》1912年
マリー・ローランサン《扇子を持つ女性》1912年

初期エコール・ド・パリ


1847年1月20日、アルザスで生まれ、1870年に政治的および宗教的な理由でパリに定住したラザーマイヤーは、エコール・ド・パリの先駆者の1人と見なさているフランスの画家である。彼はモンマルトルに定住した最初の画家だった。

 

エコール・ド・パリは、第一次世界大戦前、後期印象派キュビズムフォーヴィズムのスタイルで芸術制作をしていたパリの外国人の集まりで、パブロ・ピカソマルク・シャガールアメディオ・モディリアーニピエト・モンドリアンなどがこの時期の中心的なメンバーだった。

 

彼ら外国人画家たちは、ピエール・ボナールアンリ・マティスジャン・メッツァンジェアルベール・グレーズなどのフランス人画家たちと関わるようになり、その後、ピカソとマティスが戦前のエコール・ド・パリの二大リーダーとなった。

ボロアパート「洗濯船」で共同生活


エコール・ド・パリの画家たちは「洗濯船」というボロアパートで共同生活していた。洗濯船は、パリ18区のモンマルトル地区にあったアパートのニックネームである。

 

正しい住所はラビナン通り13番地。20世紀初頭の美術史においてたびたび現れる有名なアパートで、パリへ上京してきたさまざまな外国人文化人が洗濯船を住居にしたり、また会合の場所として利用した

 

ここには、作家、演劇関係者、画家、画商などが集まった。ここに住んでいた有名な画家はパブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、アメデオ・モディリアーニ、ギヨーム・アポリネールなどが挙げられる。1970年5月にアパートの大半が火事で全焼したが、1978年に完全に再建された。

 

「洗濯船」という名前は詩人のマックス・ジャコブが名付けた。建物が暗くて汚く、住居というよりもほとんど瓦礫のようなかんじで、嵐の日になると、アパートは揺れ動き、軋み、その外観はセーヌ川沿いで船を掃除している人々を想起させたことから「洗濯船」と呼んだ。建物の構造から19世紀に製造工場の施設として使われていたと思われる。

 

洗濯船に住んでいた芸術家で初めて有名になったのは1890年頃に住んでいたマキシム・モーフラである。その後1900年から1904年の間にキース・ヴァン・ドンゲンやパブロ・ピカソが入居して、芸術家たちの注目を集め、多くの貧しい芸術家が入居するようになった。

 

1904年以後は、洗濯船は非公式のクラブのような場所になり、アンリ・マティス、ジョルジュ・ブラック、アンドレ・ドラン、マリー・ローランサンなど多くの芸術家が立ち寄るようになった。作家ではギヨーム・アポリネール、アルフレド・ジャリ、ジャン・コクトー、画商ではカーンワイラーなどが訪れた。

アメディオ・モディリアーニ《子供とジプシー女》(1912年)
アメディオ・モディリアーニ《子供とジプシー女》(1912年)
貧乏芸術家たちが集まった「洗濯船」
貧乏芸術家たちが集まった「洗濯船」

1910〜1920年代前半


第一次世界大戦と第二次世界大戦間でパリで活動していた芸術家たちは、キュビスム、オルフィズム、シュルレアリスム、ダダなどさまざまなスタイルの実験を行った。

 

この時期に、パリで活動していた外国人芸術家やフランスの芸術家といえば、ジャン・アルプ、ジョアン・ミロ、コンスタンティン・ブランクーシ、ラウル・デュフィ、藤田嗣治、ミシェル・キコイーヌ、ピンクス・クレメーニュ、ジャック・リプシッツ、マレク・シュワルツ、モーリス・リプシ、アレクシス・ポール・アラポフなどが挙げられる。

 

1913年にパリに到着していた藤田嗣治は、エキゾティックな風貌と社交的な性格、そして乳白色の独特の半油性の下地に細い墨線で描く手法により、モンパルナスの喧噪に欠かせない存在となった。

 

白人女性の肌の美しさを際立たせる下地と、平面的で浮世絵を連想させる人物表現は、日本美術の伝統とパリのモダニズムを融合させた独自のスタイルとして高い評価を集め、市場の人気も急速に高まっていく。

 

また、モンパルナスのキキを有名にしたのが、藤田嗣治だった。藤田が描いたキキの裸婦《寝室の裸婦キキ》(1922年)が、サロン・ドートンヌで大評判となり、その日のうちに8千フランで売れた。

 

それ以来、藤田とプランのふたりはモンパルナスの有名人となった。またキキは、ポーランド人の画家、モイズ・キスリングをはじめとするエコール・ド・パリの画家たちのモデルとなった。

モンパルナスのキキ
モンパルナスのキキ
藤田嗣治
藤田嗣治

1920〜1930年代 ユダヤ人芸術家たちの台頭


「エコール・ド・パリ」という言葉は、パリに移住してきた多くの外国人芸術家を指すためにアンドレ・ウォーノッドが文芸誌で1925年に初めて使った

 

この言葉はすぐに流行したが、ユダヤ人外国人芸術家たちをフランス芸術の純粋性に対する脅威と見なした批評家により、侮蔑的な意味で使われるようになった。

 

エコール・ド・パリの中でも、ユダヤ人芸術家たちの集団「ジューイッシュ・エコール・ド・パリ」または「スクール・オブ・モンパルナス」と呼ぶようになった。中心となるメンバーのほとんどはユダヤ人で、1930年代になるとフランス人批評家から彼らに対して批判的な声が挙げられ、反ユダヤ主義を加速させる源となった。

 

マン=カッツ、シャイム・スーティン、アドルフ・フェダー、イツハク・フレンケル、モイス・キスリング、マクサ・ノルダウ、シムション・ホルツマンなどが代表的なジューイッシュ・エコール・ド・パリの芸術家として挙げられる。彼らはロシア、ポーランド、ドイツ、ブルガリア、チェコスロバキア、ルーマニア、ハンガリーなど東方出身のユダヤ人だった。

 

ジューイッシュ・エコール・ド・パリの芸術家たちのスタイルはさまざまだった。ルイ・マルクーシのようなキュビスムのスタイルで制作するものもいたが、多くはフォルム構造を重視するよりムードを表現するスタイルを採用していた。太くけばがあり、こてによる厚塗りも絵画の特徴だった。

 

「フォービズム」や「キュビズム」という用語を作り出した美術批評家のルイ・ヴォクセルは、彼ら移民芸術家に対して「フランス美術の代表者に変装したスラブ人」と軽蔑的な姿勢を示している。

 

また、フランスのユダヤ人だったウォルデマール・ジョージは、1931年にエコール・ド・パリという名前について「どの芸術家も自身がフランス人であるふりをすることを許容している。本来はフランスの伝統を指す言葉であるが、彼らのせいでこの言葉は台無しだ」と嘆いている。

 

しかし1930年代のナチスの台頭とともにマルク・シャガールやモイズ・キスリングといったユダヤ人の彼ら多くは、安閑としてはいられず、その多くは亡命を余儀なくされた。

 

画家ではないが、ピカソやエコール・ド・パリの面々とも親しかった詩人マックス・ジャコブが、ユダヤ人なるがゆえに強制収容所送りとなり、そこで悲惨な最期を迎えたことは、これらユダヤ人の画家たちが直面した過酷な運命を暗示しているといえよう。

第二次世界大戦後


戦争の余波で、ナショナリズムと反ユダヤ主義の思想は信用されなくなり、「エコール・ド・パリ」という言葉は、パリ在住の外国人芸術家とフランス人芸術家の両方を意味するのが一般的な使用法になった。戦前と異なり、美術批評家たちはこの言葉の使用時に民族的区別の意味を含ませないように注意するようになった。

 

20世紀初頭のフランスの美術批評家たちは、エコール・ド・パリとエコール・ド・フランスを対比していたが、第二次世界大戦後、この問題はエコール・ド・パリはニューヨーク・スクールとの対比で使うようになった。

 

第二次世界大戦後(アプレゲレール)、「エコール・ド・パリ」という用語は、しばしばタシスムや叙情的抽象、アメリカの抽象表現主義とヨーロッパの類似性を指ししめすときに使われた。また、これらの芸術家は前衛芸術集団「コブラ」にも関わっている。

 

この時代の重要な芸術家は、ジャン・デビュッフェ、ピエール・スーラージュ、ジーン・ミシェル・クロン、ニコラ・ド・スタール、ハンス・アルトゥング、セルジュ・ポリアコフ、ブラン・ヴァン・ヴェルデ、ジョルジュ・マテュー、ジャン・メサジェ、ゾラン・ミュージックなどが挙げられる。

 

彼らの展覧会の多くは、パリのギャラリー・ド・フランスで開催され、その後、サロン・ド・マイで1970年代まで彼らのグループの展覧会が開催された。 


■参考文献

・すぐわかる20世紀び美術 フォーヴィスムからコンセプチュアル・アートまで

School of Paris - Wikipedia


あわせて読みたい