ダダイズム / Dadaism
反芸術運動
概要
ダダイズムの発生と理論
「ダダ(Dada)」または「ダダイズム(Dadaism)」は、20世紀初頭のヨーロッパの前衛芸術運動。1916年にスイスのチューリヒにあるキャバレー・ヴォルテールで始まり、その後1915年にニューヨーク・ダダ、1920年にパリで開花、ほかに、ベルリン、ケルン、ハノーヴァーなど世界中の都市で流行した。
その表現形式は、視覚美術、文学、詩、宣言、論理、映画、グラフィックデザインなど幅広く含まれる。コラージュ、音詩、カットアップ、彫刻などの視覚的、文学的、音響的メディアを横断して行われた。
ダダイスムは第一次世界大戦下の鬱屈した現実の反動として発生した。おもに伝統的な芸術を拒絶し、政治的には反戦を主張する運動だった。
ダダイズムは、現代資本主義の論理、理性、美学を否定し、無意味、不合理、反ブルジョア的な要素を含む表現をする芸術家たちが中心になって展開された。暴力、戦争、ナショナリズムに対して不満を表現し、急進的な極左との政治的親和が高かった。
ダダイスムがほかの前衛芸術と異なるのは「これは捨てるが、あれは取る」の部分否定ではなく、ハンス・リヒターによれば、ダダイスムは芸術ではなく「反芸術(Anti-art)」だという。これまでの伝統的な美術様式に沿った美学をダダイスムは無視した。
「ダダ」という運動名の由来に対する明確な意見の合意はない。よくある話では、ドイツ人芸術家のリヒャルト・ヒュルゼンベックがペーパーナイフを辞書に無造作に挿入したときに現れた言葉が「ダダ(木馬のフランス口語)」だったというものである。
また、「ダダ」という言葉は、子どもが最初に発する言葉のように思えるため、子どもらしさと不条理さを呼び起こす芸術性として付けられたと論じるものもいる。
ほかには、世界的な運動の広がりを反映して、どの言語においても似たような意味(あるいは全く意味がない)を想起させることを目的として、「ダダ」という言葉が使われたのではないかと推測するものもいる。
ダダのルーツとなっているのは第一次世界大戦前の前衛芸術である。視覚芸術においては、キュビスムから発展したコラージュ技法やワシリー・カンディンスキーの抽象理論を融合させ、現実や既存の慣習の制約から逸脱することに成功した。
そこには「作者」の創造力や技術を否定し、作品のなかに日常生活の雑多な要素を持ち込み、芸術を特権的な地位から引きずりおろそうという意図があった。言語芸術においては、フランスの詩やドイツ表現主義の文章を融合させて、言葉と意味の親密な相関性を破壊した。
ただし、デュシャンやピカビア率いるニューヨーク・ダダは、1915年から活動しており、スイスで発生したダダ運動を起源としておらず、個別のムーブメントとみなすのが一般的である。
ダダの先駆的な芸術運動である「反芸術(Anti-art)」という言葉は、1913年頃にマルセル・デュシャンが作った言葉で、この言葉をもって最初のレディ・メイド作品を制作した。また、ニューヨーク・ダダはほかのダダイズムと異なり政治的問題と関連した動きは見られなかった。
ほかに、アルフレッド・ジャリの演劇『ユビュ王』やエリック・サティのバレエ『パラード』は、ダダイズムの先駆体とみなされている。ダダ運動の信念は1916年にフーゴー・バルのダダ宣言に最初に集約された。
重要人物は、トリスタン・ツァラ、フーゴー・バル、エミー・ヘニングス、ハンス・アルプ、ラウル・ハウスマン、ハンナ・ヘッヒ、ヨハネス・バーダー、フランシス・ピカビア、リヒャルト・ヒュルゼンベック、ジョージ・グロッス、ジョン・ハートフィールド、マルセル・デュシャン、クルト・シュヴィッタース、ベアトリス・ウッド、マックス・エルンストである。
この運動は後の前衛芸術やダウンタウン・ミュージック運動、シュルレアリスム、ヌーボー・リアリズム、ポップ・アート、フルクサスのなどのグループに影響を与えた。
重要ポイント
- 伝統的な芸術を拒絶し、政治的には反戦を主張する運動
- 視覚的、文学的、音響的メディアを横断して行われた
- 世界中の都市で同時流行した
おもな芸術家
・ドラガン・アレクシッチ
・ルイ・アラゴン
・ジャン・アルプ
・ゾフィー・トイバー=アルプ
・ヨハンズ・バーダー
・ヒューゴ・バル
・ジョン・コバート
・ジーン・クロッティ
・オットー・ディクス
・テオ・ファン・ドゥースブルフ
・スザンヌ・デュシャン
・ポール・エリュアール
・ユリウス・エヴォラ
・ジョージ・グロス
・ジョン・ハートフィールド
・リチャード・ヒューゼンベルク
・ジョルジュ・ユニエ
・マルセル・ジャンコ
・エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェン
・クレメント・パンサーズ
・ジョルジュ・リブモン=デセーニュ
・ハンス・リヒター
・ジュリエット・ロッチ
・ヴァルター・ゼルナー
・フィリップ・スーポー
・ベアトリス・ウッド
背景
ダダはヨーロッパと北米で発生した非公式的な国際的な芸術運動だった。ダダの始まりは第一次世界大戦の勃発と関わりが深い。
多くの参加者にとって、この運動は戦争の根本的な原因であると考えられていたブルジョア民族主義や植民地主義の利益に対する抗議であり、また文化的および知的適合性、集団的な抑圧に対する個人の自由を主張する抗議活動だったという。
フランス国外の前衛的なサークルは、戦前のパリの芸術芸術の発展を知り、各国で前衛芸術を取り入れはじめた。バルセロナでは1912年にギャラリー・ダルマウでキュビズムの展覧会が開催されている。
また、ベルリンでは1912年にギャラリー・デル・シュトゥルムで、ニューヨークでは1913年にアーモリーショーで、プラハでは1914年にSVUマネスでそれぞれ前衛芸術の展覧会が開催されている。モスクワやアムステルダムでは1911年から1915年にかけて前衛集団「ダイヤのジャック」の展示が開催されている。
イタリアの未来派はさまざまな芸術家の作品に影響して発展した。その後、ダダはこれらさまざまな前衛芸術家たちの実験を融合させていった。
多くのダダイストたちは、ブルジョア資本主義社会の「理性」と「論理」が人々を戦争に導いたと考え、芸術表現においてそうしたイデオロギーを拒否し、また論理を拒否し、カオスと非合理性を受け入れていった。
ジョージ・グロスはのちに、ダダイストたちの芸術について「相互破壊の世界に対する」抗議運動としての意図があったと話している。ハンス・リヒターは「ダダは芸術ではなく、反芸術である」と話している。ダダはこれまで芸術が肯定してきたものすべてに反対する表現だった。そして、芸術が感性に訴えるものだとしたら、「ダダは人を不快させることを目的」としていた。
ヒューゴ・バルはダダについて「私たちにとって、芸術はそれ自体が目的ではありません。しかし、私たちが行きている時代に対して真に認識するものであり批判する機会です」と話している。
『アメリカン・アート・ニュース』の批評家は当時について、「ダダの哲学は、人間の脳から生まれた最も病的で、最も麻痺した、最も破壊的なものである」と述べている。
また、美術史家たちはダダの大半は 「これらの芸術家の多くが集団殺人の狂気の見世物以外の何物でもないと見たことへの反応 "と表現している。
数年後、ダダイストたちはこの運動について「戦後の経済的、道徳的危機の真っ只中で生まれた現象であり、救世主であり、怪物であり、その道を行くすべてのものを荒廃させたものだった」と話している。
ドナ・バッドの『芸術辞典』によれば以下のように定義されている。
ダダは第一次世界大戦の恐怖に対するネガティブな感情から生まれた。この国際的な運動は、チューリヒのキャバレー・ヴォルテールと関連のある芸術家や詩人たちのグループから始まった。ダダは理性や論理を拒否し、ナンセンス、非合理性、直感を重視した。ダダという名前の由来は不明である。ルーマニアの芸術家トリスタン・ツァラとマルセル・ヤンコが、ルーマニア語で「はい、はい」を意味する「ダ、ダ」という言葉を頻繁に使っていたことに由来するという説があります。別の説では、ダダという言葉はグループの会議中に、フランス・ドイツ語の辞書にペーパーナイフを挿入したら、そこにたまたま「木馬」を意味するフランス語の「ダダ」が書かれていたことが由来だともいう。 |
1915年から1917年にかけてのデュシャン、ピカビア、マン・レイらの作品は、もともとダダイズム的だったが、当時まだダダイズムは発生しておらず、「ニューヨーク・ダダ」という言葉はデュシャンとピカビアらが自身の活動を事後的にダダの歴史の位置づけたとされている。
1920年代に入るとヨーロッパではニューヨークから帰国したデュシャンやピカビアの協力を得てダダイズムが花開いた。しかし、ツァラやリヒターらダダイストたちは、チューリヒやベルリンでのダダ活動の優位性を主張していた。
歴史
ダダはおもにイタリア、フランス、ドイツを中心に、未来派、キュビスム、表現主義などの芸術・文学運動興隆期に生まれた。しかし、それ以前の地域主義的な前衛運動と異なり、ダダの芸術家は戦争の勃発とともに各国を移動したことと積極的に出版物を流通させたため、かつてないほどの国際的な運動と多様性を持つ運動に発展した。
ダダイズムの中心人物はニューヨーク、チューリヒ、ベルリン、パリなど世界中の都市を拠点に活動していた。ただし、チューリヒでは文学が重視され、ベルリンでは政治的抗議が重視されるなど地域的な違いがあった。
もっとも政治色が薄いと見られてきたニューヨークのダダも、運動の本格的な開始は17年のアメリカの参戦と時期を同じくしており、アメリカの愛国主義と反ドイツの風潮に対するドイツ系の芸術家たちや支援者たちの忌避感が背景にあったことが近年指摘されている。
著名なダダイストたちがマニュフェストを発表したが、運動は緩やかに組織されたもので、ヒエラルヒー的な運動ではなかった。1916年7月14日、ボールはマニュフェストを暗唱した。1917年にツァラは最も重要なダダの著作の1つとみなされている『第二ダダ宣言』を書き、1918年に出版した。
トリスタン・ツァラのマニュフェストは「ダダイストの嫌悪感」という概念を明確にしている。それは、前衛的な作品に内在するモダニズム的現実の批判と肯定の間に生じる矛盾である。
ダダイストの視点では、現代の芸術や文化は、(哲学や道徳のような思考の組織化されたシステム含む)消費対象が、ケーキやチェリー好きのように、空虚を埋めるために選択された選ばれたフィティシゼーションの一種であると考えている。
この運動の衝撃やスキャンダルは意図的なものだった。ダダイストの雑誌は発禁になり、展示は閉鎖された。芸術家の中には投獄されたものもいた。これらの挑発はエンターテイメントの一部だったが、時が経つにつれ、観客の期待は最終的に予想以上のものとなった。
芸術家たちのよく知られた「皮肉な笑い」が観客のほうから聞こえてくるようになると、ダダイストたちの挑発は影響力を失い始めた。
技術の発展
ダダイズムは文学と視覚芸術の境界線を曖昧にした。
ダダは抽象芸術や音詩の基礎であり、パフォーマンス・アートの出発点であり、ポストモダニズムの前奏曲であり、ポップアートへ影響を与え、後の1960年代で利用されたアナーキズムの政治的利用で採用された反芸術の祭典であり、シュルレアリスムの基礎を築いた運動である。
キュビズム運動で発展した紙片を貼り付ける技法を真似て、交通機関の切符や地図、プラスチックの包装紙など、これまでの静物ではなく生活の一面を表すものをダダイストたちは制作に取り入れた。また、大きなシート上に破った紙片を落として作る「偶然のコラージュ」という技法も発明した。
●カットアップ
カットアップはテキストをランダムに切り刻んで新しいテキストに作り直す、偶然性の文学技法のこと。コラージュの延長線上にあるもので、トリスタン・ツァラは新聞記事から切り出した言葉を袋の中に入れ、ランダムに取り出した言葉を使って詩を作ることを実践した。
●フォトモンタージュ
コラージュ技法から派生したもので、マスコミに掲載された実写真や複製を利用したコラージュ作品。ベルリンではハンナ・へーヒやラウル・ハウスマンがヴァイマール政権を批判するために利用し、ケルンではマックス・エルンストが第一次世界大戦の写真を使用して、戦争の破壊のメッセージを表現した。
●アッサンブラージュ
コラージュを立体化させたもの。日常的なものを組み合わせ、意味のある、もしくは無意味なオブジェを作り上げる。オブジェは釘で打ち付けられていたり、ネジで留められていたりさまざまな方法で固定されていた。あらゆる角度から見ることができ、壁にかけられる作品でもあった。
マルセル・デュシャンは既成品のオブジェを「レディ・メイド」と呼び、アートのオブジェとして提示した。作品の中には署名やタイトルが付け加えられ、それらを「修正レディメイド」と呼んでアートに昇華させた。
ダダ・グループ
チューリヒ・ダダ
ダダの起源について意見が分かれている。運動は一般的には、詩人でキャバレー歌手のエミー・ヘニングスとヒューゴ・バルが共同設立したキャバレー・ヴォルテール(チューリヒのHolländische Meiereiバー内にあった)で生まれたと認知されている。
ルーマニアを起源する説もあるが、ダダはトリスタン・ツァラ、マルセル・ヤンコ、アーサー・セガールなどユダヤ家近代美術家のグループたちがチューリヒに移り住んだ際にスイスに伝わった活気に満ちた伝統的な芸術から派生したものだった。
第一次世界大戦前に、ブカレストや他の東欧の都市でもダダイズムと似たような芸術が存在していたと言われているが、ダダ発生のきっかけは、ツァラやヤンコのような芸術家がチューリヒに移ったときだと思われる。
1916年、フーゴー・バル、エミリー・ヘンリング、トリスタン・ツァラ、ジャン・アルプ、ミハエル・ジャンコ、リヒャル・ヒュルゼンベック、ハンス・リヒターとその周辺の仲間たちは、スイス・チューリッヒにあるキャバレー・ヴォルテールに集合して、美術の議論や戦争とそれに影響を与えたさまざまな事象に対する嫌悪を表現するための芸術パフォーマンスを行った。
キャバレー・ヴォルテールという名前は、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールのことを指し、彼の小説『カンディード』は当時の宗教的および哲学的教義を茶化していた。
第一次世界大戦中にドイツとルーマニアを離れた芸術家たちは、政治的な中立なスイスへ移った。彼らは当時の社会的、政治的、文化的な思想に対抗するため抽象表現を利用した。
当初、ダダは宣言するほどの理論や思想はもっておらず、第一次世界大戦の嫌悪と既成の価値観への不信から発生し、それはただの乱痴気騒ぎに近いものだった。
彼らが使ったショック・アートや扇動やヴォードヴィル表現のテクニックはすべて、第一次世界大戦を引き起こしたと考えられていた伝統的な習慣を覆すための表現手段だった。ダダイストたちは、これらのアイデアはブルジョア社会の副産物であり、現実に対抗するというよりもむしろ副産物の無気力に対して戦っていたという。
「当時、私たちは私たちの作り上げた文化に自信を失っていた。すべて解体する必要があった。私たちはタブラ・ラーサ(白紙状態)の後に再び始めようとしていたのです。キャバレー・ヴォルテールでは、常識、世論、教育、制度、博物館、趣味、ようするにすべての一般的な秩序に衝撃を与えることから始めた」(マルセル・ヤンコ)
バルは、ルーマニアのフォークアートに影響を受けたヤンコの仮面と衣装のデザインは、「現代の恐怖、出来後の麻痺した背景」を視覚化したものであると述べた。バルによれば、パフォーマンスは「楽しいフォークソングを演奏するバラライカオーケストラ」の伴奏だったという。アフリカ音楽に影響を受けたダダの集まりでは、アリズムのドラムやジャズが一般的だった。
1916年の春には、キャバレーに参加したメンバーが編集・発行する雑誌の名称として「ダダ」が採用される。ダダという名称の発見者はフーゴ・バルであるといわれている。ルーマニア語では二重の否定、フランス語では木馬を意味し、ドイツ人にとっては、ばかげた単純さのしるしだった「ダダ」は、キャバレーの総称となった。
しかし、バルは16年7月にキャバレーを閉店し、17年春にチューリヒに「ギャラリー・ダダ」を開設し、カンディンスキーの「総合芸術」の理念を実践することをめざすが、経営難で画廊はすぐに閉鎖し、ダダから離脱。その後、バルに変わって運動を主導したのがツァラだった。ツァラは同年7月に雑誌『ダダ』を創刊し、運動の方向を「あらゆるものの否定」へと転換させた。
1918年末発行の『ダダ』誌第三号に掲載されたツァラの「ダダ宣言1918」(第二ダダ宣言)は理性と良識を徹底的に否定するダダの主張を国外に広く伝えた。
キャバレー・ヴォルテールは再オープンし、現在もニーデルドルフのシュピーゲルガッセ1番地に同じ場所にある。
アンドレ・ブルトンやフィリップ・スーポーなどのフランスの芸術家たちは、「ダダの影響力を拡大するための文学グループ」を設立した。
1918年11月の休戦で第一次世界大戦が終結した後、チューリッヒのダダイストのほとんどは母国に戻り、他の国の都市でダダの活動を始めた者もいた。スイス出身のソフィー・タオウバーのように、1920年代になってもチューリッヒに残って活動していたものもいた。
チューリヒ・ダダの重要ポイント
- 第一次世界大戦の戦禍を逃れた芸術家たちがスイスで旗揚げをした
- 当初は明確なマニフェストはなく厭世的な乱痴気騒ぎだった
- ツァラが先導してから明確な方向性「全否定」が現れた
ニューヨーク・ダダ
ダダイスム運動のなかで最もよく知られているのが、マルセル・デュシャン率いるニューヨーク・ダダの活動だ。チューリヒと同じくニューヨークは、第一次世界大戦から逃れた作家や芸術家たちの避難場所だった。
1915年にデュシャンやピカビアがフランスからニューヨークへ移住するとすぐにアメリカの芸術家マン・レイに会った。1916年までに彼ら3人はアメリカにおける急進的な反芸術活動の中心になっていった。
フランスで学んだアメリカ人のベアトリス・ウッドは、エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェンやらとともに、3人の活動に加わった。また、フランスの徴兵制から逃れたアーサー・クラヴァンも一時期ニューヨークに滞在していた。
ニューヨーク・ダダの活動の多くは、アルフレッド・スティーグリッツが運営するギャラリー291と、ウォルター&ルイーズ・アレンスバーグの自宅で行われていた。
「ダダ」という名称を旗印に掲げた活動がニューヨークの美術界で最初に行われるのは、一号だけで終わったデュシャンとマン・レイが発行した雑誌『ニューヨーク・ダダ』が刊行された1921年4月である。
ここでは女装したデュシャンの写真によって「ローズ・セラヴィ」という名の架空の女性像を作り出し、大戦後のアメリカで急速に発展する商業広告のパロディによって、消費社会の価値観を批判した。
デュシャンたちは、当初、特に自分たちの集まりを「ダダ」と認識していなかったものの、その反発的な姿勢がヨーロッパで発生したダダと相通じるところがあったため、周囲から「ダダ」と呼ばれるようになった。また、ニューヨーク・ダダの芸術は、戦禍を逃れていたこともありヨーロッパのダダのような幻滅感はなく、皮肉とユーモアの感覚があふれていた。
デュシャンがのちの現代美術に残した最大の遺産ともいうべきものはボトルラックや自転車の車輪といった日用品などのレディ・メイド(既製品)である。レディ・メイドでデュシャンがしたことといえば、独立美術協会に参加して、どこにでもある大量生産された製品のどれかを選び、なんら手を加えることなく、これを展覧会場に置いたことだった。
1917年、彼は「R.Mutt」というサイン入り小便器「泉」を独立芸術家協会の展覧会に出品したが、却下された。当初は芸術界から軽蔑の対象とされていたが、それ以来、この作品はモダニズム彫刻の中で最も有名な作品の一つとして、ほぼ美術史において評価されている。
ただ、最近の学術論文によれば、この作品はまだ論争の的になっている。デュシャンは1917年に妹に宛てた手紙の中で、女性の友人がこの作品の構想に中心的に関わっていたことが書かれており、具体的な名称は書かれてないが、エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェンがその女性ではないかと推測されている。
「ダダの精神に敬意を表する」という試みとして、ピエール・ピノンチェリというパフォーマンス・アーティストが2006年1月にハンマーで「泉」のレプリカに亀裂を入れ破損させている。彼は1993年にも「泉」に放尿する事件を起こしている。
ピカビアの往来は、ヨーロッパのダダイズム全盛期にニューヨーク、チューリッヒ、パリのグループを結びつける役割を果たしている。また、彼は1917年から1924年までの7年間、バルセロナ、ニューヨーク、チューリッヒ、パリでダダの定期刊行物『391』を発行した。
1921年までに、ニューヨーク・ダダの初期メンバーのほとんどは、ダダの最後の活発な活動地域だったパリへ移った。
ニューヨーク・ダダの重要ポイント
- デュシャン、ピカビア、マン・レイが中心人物
- ダダ発生以前からダダ的な活動をしていた
- デュシャンの「泉」が代表的な作品
ベルリン・ダダ
ベルリンのダダグループは、ほかのダダ運動ほど「反芸術」の主張はなく、彼らの行動と芸術はおもに政治性・社会性と密接なものだった。
政治的主張が極めて高く、辛辣なマニフェストやプロパガンダ、風刺、公共での実演など政治的表現が中心だった。これはヨーロッパから距離が離れていたため戦争の影響が少なかったニューヨークでダダ運動と政治との関わりが薄かったことと真逆の理由であると考えられる。
1918年2月、第一次世界大戦が終息に向かう頃、キャバレー・ヴォルテールの活動に参加していたリヒャルト・ヒュルゼンベックはベルリンのノイマン画廊で「ドイツにおける最初のダダに関する講演」を行い、4月に「クラブ・ダダ」を結成してドイツにおけるダダ宣言を行った。この宣言にはツァラ、アルプ、ヤンコ、バルらも署名している。
ロシア革命が起こると、ハンナ・ヘーヒやゲオルゲ・グロッスはダダを第一世界大戦後の共産主義の共鳴表現として利用した。メンバーの何人かは18年末に結成されたドイツ共産党に加入し、ヴァイマール共和国政府の無力で日和見的な体質を攻撃した。
また、この時期にグロスはジョン・ハートフィールドやラウル・ハウスマン、ハンナ・ヘーヒらとフォトモンタージュを開発した。ベルリンのフォトモンタージュは、当時の新聞・雑誌から取られた写真図版と文字を素材とすること自体によって、同時代の社会と新しいメディア文化に対する批判的態度を示した。
「ベルリンは胃が締め付けられる街であり、飢餓感に襲われる街であり、抑圧された怒りが金銭欲に変わり、男たちの心はますますむき出しにになっていた。恐怖は誰にでも存在していた」(リチャード・ヘルセンベック)
また、ラウル・ハウスマンはベルリンでダダ運動設立に一役買い、1918年に表現主義とそれを評価する評論家を攻撃したマニュフェスト『Synthethic Cino of Painting』を出版する。
ここでハウスマンは、ダダは表現主義のように鑑賞者の感情に訴えかける芸術形態とは対照的であると示している。ハウスマンのダダにおけるコンセプトは、芸術を創造する新しい技術は、新しい芸術的衝動を探求するための扉を開くこと、それはその技術と効果を利用して「今ここで起きていること」を取り上げることだった。
戦後、芸術家たちは短期間、政治雑誌を発行し、その後、「第1回国際ダダ展」を開催。このフェアでは、グロス、ラウル・ハウスマン、ハンナ・ヘッヒ、ヨハネス・ベアダー、ユエルセンベック、ハートフィールドなどベルリンダダの主要メンバーが多数参加した。
ほかに、オットー・ディックス、フランシス・ピカビア、ジャン・アルプ、マックス・エルンスト、ルドルフ・シュタイナー、ヨハネス・セオドア・バーゲルドの巨大アッサンブラージュ作品も展示された。また、フォトモンタージュの実物が多数公開された。
合計200を超える作品が扇動するようなスローガンに囲まれて展示されたが、そのうちのいくつかは1937年のナチスによる退廃芸術展の壁にも書かれた。高額なチケットにも関わらず、展覧会は赤字となり、売れた作品はたった1つだけだったという。この展覧会を頂点としてベルリン・ダダは分裂へ向かう。
ベルリン・ダダの重要ポイント
- 政治色が強く抗議活動の要素が強かった
- フォトモンタージュが使われた
- 初めての国際的なダダ展を開催した
この作品には構成に関する意識はほとんどなく、大都会の喧騒と同時代の混乱を反映した無秩序で騒々しいイメージが提示されている。
革命により退位、亡命したドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の肖像とアルベルト・アインシュタインの肖像が画面上部の左右に並び、画面の下部では群衆のいる光景とダダイストたちの世界が対比され、さらに歯車、車輪、ベアリングなど回転する機械の部品と、「dada」、「anti-dada」などの活字が全体にちりばめられている。
ハノーファー・ダダ
ドイツのハノーファーでは、同地出身の芸術家クルト・シュヴィッタースが、「メルツ」という名称による独自のダダ運動を展開した。
シュヴィッタースは表現主義とキュビスムの影響のもと作品を制作していたが、1918年にハンス・アルプやベルリンのダダイストたちとの出会いを通じてダダの運動を知り、同年末から、印刷物の断片、包装紙、市電の切符などを用いたコラージュと、身辺のさまざまな廃物によるコンストラクションの制作を始めた。
当初、シュヴィッタースはベルリン・ダダへの参加を望んでいたが、表現主義のデア・シュトゥルム画廊と関係が深いことから、表現主義を嫌悪するヒュルゼンベックの反感を買い、参加を拒まれた。また、ベルリン・ダダの政治性とも相性が悪かった。
彼の主張は反ブルジョワ・反伝統の立場を取りつつも芸術を称揚する、チューリヒ・ダダに近いものであり、ダダイストのなかでは、ツァラやアルプ、ベルリン・ダダ分裂後のハウスマンやへーヒと交流を行った。
その後、シュヴィッタースはファン・ドゥースブルフとともにオランダの諸都市をめぐるダダ・ツアーを開催。ベルリン・ダダとは意識的に異なる方向性をとり、抽象的様式による社会改革というデ・ステイルの理念や、エル・リシツキーがドイツにもたらした構成主義の造形思考に共鳴しながら、総合芸術をめざした。
ケルン・ダダ
ケルンでは1920年に、マックス・エルンストやヨハネス・バールゲルト、ハンス・アルプが物議をかもすダダの展示を行い、そこでは反中産階級的な感情やナンセンスに焦点をあてられた。
バールゲルトは、19年初めに左翼的傾向の政治・芸術評論誌『換気扇』を創刊し、ケルン在住の前衛芸術家たちのグループを形成した。そこに加わったエルンストは、19年夏に出会ったフーゴ・バルを通じてダダの運動を知り、『換気扇』のグループをダダの方向へ導いた。
当初は応用美術館の入口ホールで行われる予定だったが、バールゲルトとエルンストの作品が美術館の館長によってはずされた。そこで彼らはパブの裏庭、男子便所の先に作品を展示した。
参加者は、聖衣で身を包んだ女性が猥褻な詩を朗読している間に男子便所前を通過して展示場所の中庭に進むことが要求され、進んだ先の中庭にはエルンストの作品である大きな丸太がおかれており、参加者は一緒に用意された斧で丸太を叩くことが求められた。
またバールゲルトは、血のような赤い水の入った水槽のなかに目覚まし時計が入った作品を展示したが、その水面には女性の髪の毛が浮かんでいた。警官は過激なその展示を中止させたが、何度か再開した。
エルンストはこの時期にコラージュを開発している。19年末から翌年にかけて、ケルンの学校で使用される教材カタログなどを素材にして、彼の最初のコラージュ作品群が生み出されている。エルンストのコラージュは、ダダイストたちの国際的な交流のなかで、きわめて重要な役割を果たした。アンドレ・ブルトンはエルンストに手紙で連絡をとり、21年春にオー・サン・パレイユ書店でエルンストのコラージュ展を開催した。
エルンストとバーゲルトの活動は、20年の秋から国外のダダイストたちの連携に重点を移し、22年夏にエルンストがパリへ移住することによって終了した。
パリ・ダダ
フランスの前衛芸術は、ギョーム・アポリネールやアンドレ・ブルトン、マックス・ジャコブ、クレメント・パンサー、そのほかのフランス文学批評家や詩人たちが定期的にトリスタン・ツァラと手紙で交流していたので、基本的にチューリッヒ・ダダと並行していたといっていい。
むしろ、チューリッヒ・ダダがブルトンをはじめパリの芸術家たちと交流していなかったらダダはチューリッヒという小さな都市で起こった芸術運動でおわり、世界的な広がりをもつことはなかっただろう。チューリッヒ・ダダは、パリを再び活気づかせ、世界的な芸術の潮流に大きな影響を及ぼすことになった。
1919年以後、チューリッヒ・ダダがマンネリ化して衰退しはじめると、ツァラはブルトンやピカビアの誘いに応じてパリへ移る。1920年1月にツァラが住み込んだピカビアのアパートがパリにおけるダダの拠点となった。ツァラはすぐにブルトンとパリ・ダダを開始。さまざまなパフォーマンスを行なった。
ツァラに影響を受けたパリ・ダダはすぐにマニフェストを発表し、運動を組織化し、パフォーマンスを上演し、多くの雑誌を発行した。ダダの作品がパリで初めて紹介されたのは、1921年のサロン・デ・アンデパンダンだった。ジャン・クロッティが、「タブー」という言葉を冠した「Explicatif」と題した作品など、ダダと関連した作品を展示した。
しかし、パリ・ダダはベルリン・ダダのような政治的な姿勢はなく、チューリッヒと異なってアナーキストと両輪になるような試みもなく、本質的には文学的で理性的な側面があったためツァラとは相性がよくなかった。ツァラは伝統的なダダの姿勢でナンセンス的に道化風の方向を提示していたが、ブルトンは本質的に真面目だったため、ツァラの感覚的で道化的な方法に挑発されることに疲れてしまった。
1921年、ツァラはダダイストの戯曲『ガスの心臓』を上演したが、観客から嘲笑の声を浴びた。1923年7月6日に「ひげの生えた心臓の夕べ」が開かれ、『ガス心臓』の再演、そしてマン・レイの短編映画『理性への回帰』の上演中にブルトンのグループが妨害し、シュルレアリスムを生み出す運動の分裂のきっかけとなった。
そしてブルトンとツァラが決別すると、ブルトンはダダを合理的で無意識の解放する芸術手段へと応用し、シュルレアリスム運動を始めることになった。
オランダ・ダダ
オランダのダダ運動はおもにテオ·ファン·ドースブルフが活動の中心だった。彼は前衛集団「デ・ステイル」の創始者や雑誌「デ・ステイル」の編集長としてもよく知られている。
ファン・ドースブルフはダダ活動の焦点をおもに詩にあて、デ・ステイルにデ・ステイルフーゴ・バル、ハンス・アルプ、カート・シュヴィッタースといった有名ダダ作家を紹介し、オランダとチューリッヒ・ダダの橋渡しをした。
ドースブルはシュヴィッタースと知り合いになり、1923年、一緒に「オランダ・ダダ・キャンペーン」を開催した。そこれでドースブルフはダダに関する小冊子を発行し、シュヴィッタースは詩を朗読し、Vilmos Huszárは「メカニカル・ダンシング・ドール」を展示し、テオ・ファン・ドースブルフはピアノで前衛的な演奏を行った。
イタリアのダダ
マンチュアを拠点としたイタリアのダダイズムは、嫌悪感を持たれ、美術界に大きな影響を与えることはできなかった。一時期雑誌を発行し、ローマで展覧会を開催し、絵画やツァラの言葉の引用、「真のダダはダダに反対する」などの独自のエピグラムを発表した。イタリアのダダで最も有名な芸術家はユリウス・エヴォラである。彼はオカルト研究家や右翼哲学者としても活躍した。
ユーゴスラビアのダダ
ユーゴスラビアでは、1920年から1922年にかけて重要なダダイズム運動があった。おもにドラガン・アレクシッチが中心になって活動し、「ユーゴダダ」という言葉を使い、ラウル・ハウスマン、クルト・シュビターズ、トリスタン・ツァラと交流していた。
グルジアのダダ
グルジアでは少なくとも1920年までダダイズムは伝わっていなかったが、1917年から1921年にかけて、詩人のグループが自分たちを「41度」(グルジアのティビリシの緯度と最高温度の両方を意味する)と呼び、ダダイズム的な前衛運動を行っていた。
このグループで重要な人物は、急進的なタイポグラフィ・デザインで視覚的にダダイズム的な出版物を発行していたイリア・ミハイロヴィチ・ズダネビッチだった。1921年にパリに逃亡した後、彼は出版物やイベントでダダイストたちと協力して行動した。
日本のダダイズム
ダダイズムの影響を受けた日本における重要な芸術集団は「マヴォ」である。マヴォは1923年7月に村山知義、門脇晋郎、大浦周蔵、尾形亀之助、柳瀬正夢らが結成。7月28日から8月3日まで、マヴォ第一回展覧会が浅草の伝法院にて行われる。7月機関誌「Mavo」創刊。
ほかに重要なダダイストとしては、辻潤、吉行エイスケ、高橋新吉、北園克衛がいる。
円谷プロダクションのウルトラマンシリーズで、ダダイズムから影響を受けたダダという名前の宇宙人がいる。ダダは1966年の『ウルトラマン』シリーズの28話で初登場した。キャラクターデザイナーは成田亨で彼はダダイズムやシュルレアリスムなどの前衛芸術から影響を受けている。
ダダのデザインはおもに白黒で、シャープな線が多く、黒と白のストライプが交互に入っているのが特徴で、特にチェス盤や囲碁のパターンを参考にしているという。
また、1959年に誕生した日本の前衛舞踊の「舞踏」は、創設者の土方巽が「早くからダダイズムの影響を受けていた」と話しており、ダダイズムの精神と直接的に関係していると見られている。
ロシアのダダイズム
ロシアではダダイズムはあまり知られていなかったが、ボリシェビキの革命的なアジェンダにより前衛芸術は広まっていた。
ダダイズムの理想を共有する文学グループのニチェヴォキのメンバーのウラジミール・マヤコフスキーがロシア文学を浄化すると宣言した後、ウラジーミル・マヤコフスキーが「トゥヴェルスコイ大通りにある「パンプシュカ」(プーシキン記念碑)に行って、靴磨きをする提案を行い悪評を招いた。
ロシア正教の司祭セラフィム・ローズは、ダダイズムを20世紀のニヒリズムの一因であるとみなしていた。
関連項目
・芸術介入
・世界革命のためのダダ中央会議
・ダダグローブ
・エパテ・ラ・ブルジョアジー
・ハプニング
・矛盾
・ショック・アート
・違反行為
略年譜
年 | |
1912年 | ・アルチュール・クラヴァンがパリで雑誌『メントナン』を発行。 |
1913年 | ・マルセル・デュシャンがアーモリー・ショーに『階段を降りる裸体No.2』を出品。 |
1915年 |
・3月に、マン・レイが雑誌『リッジフィールド・ガズーク』を発行。 |
1916年 | ・2月5日、ドイツからの亡命詩人フーゴ・バル夫妻を中心とするチューリッヒの若い知識人たちが、文芸カフェ「キャバレー・ヴォルテール」を開店。 |
1917年 |
・1月、スペインのバルセロナで、フランシス・ピカビアが雑誌『391』を創刊。 ・7月と12月に、アルプ、ヤンコ、ファン・レースの作品が掲載された雑誌『ダダ』が発行される。 ・マルセル・デュシャン編集による雑誌『ブラインド・マン』で「リチャード・マット事件」に関する論説が掲載。 |
1918年 |
・4月、最初の大規模な「ダダの夕べ」がベルリンで開かれ、リヒャルト・ヒュルゼンベックが『ダダイズム宣言』を発表。のちにヒュルゼンベックによりクラブ・ダダが設立され、雑誌『デア・ダダ』が発行される。 ・7月23日、ダダの集会でツァラが「ダダ宣言1918」を発表し、ダダ運動の本格的な活動を開始。 ・11月9日、フランスのアヴァンギャルドの指導者だった詩人ギヨーム・アポリネールが死去。 |
1919年 |
・クルト・シュヴィッタースが、ハノーファーで詩集『アンナ・ブルーメ(花のアンナ)』を出版。 |
1920年 |
・『ダダ大全』がベルリンで出版。 ・5月26日、ガヴォー・ホールでフェスティバル・ダダが開催される。 ・6月、ベルリン・ダダが「第一回国際ダダ見本市」を開催。 |
1921年 |
・4月、デュシャンとマン・レイが1号だけで終わった『ニューヨーク・ダダ』を刊行。 ・5月2日、マックス・エルンストの展覧会がパリのサン・パレイユ書店で開かれる。 ・5月、ダダがアカデミー・フランセーズ会員で代議士の作家モーリス・バレスを「精神の安全の侵害の罪」で模擬裁判にかける。 ・6月、クラヴァンがニューヨークでの講演中に騒動を起こし、投獄される。 ・9月、シュヴィッタースがハンナ・へーヒとラウール・ハウスマンと共にチェコのプラハでアンチ=ダダ・メルツの夕べを開催。 |
1922年 |
・2月、ブルトンがパリ会議を計画し、モダニズムのさまざまな流派の代表者を集めた委員会を発足。 ・9月、ドイツのイェーナとヴァイマールで「ダダに関する会議」が開かれる。 ・シュヴィッタースが雑誌『メルツ』を創刊。 ・マン・レイがレイヨグラフ作品『甘美なる場』を発表。 ・ハンス・アルプとゾフィー・トイバーが結婚。 |
1923年 |
・7月6日に、「ひげの生えた心臓の夕べ」が開かれたが、『ガス心臓』そしてマン・レイの短編映画『理性への回帰』の上演中にブルトンのグループが妨害。パリ・ダダの事実上の終焉を迎える。 ・村山和義が日本で「マヴォ」というグループを結成し、同名の雑誌を創刊。 |
1924年 |
・7月に、ツァラがそれまでさまざまな雑誌で発表していた宣言をひとつにまとめ、『7つのダダ宣言』として出版。 ・ブルトンが新しいグループを結成し、雑誌『シュルレアリスム革命』を創刊し、その後11月に『シュルレアリスム宣言』を出版。 |
1943年 |
・ゾフィー・トイバーが死去。 |
1948年 |
・クルト・シュヴィッタースが死去。 |
1963年 |
・トリスタン・ツァラが死去。 |