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【美術解説】バルビゾン派「バルビゾンに集まった写実主義派」

バルビゾン派 / Barbizon school

バルビゾンに集まった写実主義派


ジャン=フランソワ・ミレー《落穂拾い》1857年
ジャン=フランソワ・ミレー《落穂拾い》1857年

概要


「バルビゾン」派は、美術史において写実主義運動の1グループ。当時の主流派だったロマン主義運動の文脈の中から発生した。

 

バルビゾン派運動の活動時期はおおよそ1830年から1870年までとされている。名前はフランスのバルビゾン村に由来する。

 

バルビゾン村近くにあるフォンテーヌブローの森に多くの芸術家が集まった。バルビゾン派の最も顕著な特徴として、全体的な質感、色、ゆるやかなブラシトーク、形態の柔軟性が見られる。

 

バルビゾン派のリーダー格は、テオドール・ルソー、ジャン=フランソワ・ミレー、シャルル=フランソワ・ドービニー、ジュール・デュプレ、コンスタント・トロワイヨン、シャルル・ジャック、ナルシス・ヴィルジリオ・ディアスだった。

 

ジャン・フランソワ・ミレーは、コレラを避けて1849年からバルビゾンに住んでいたが、風景を背景にした人物像への関心は、ほかの作家と一線を画す。

 

カミーユ・コローは、1829年に初めてフォンテーヌの森の中で絵を描いた最も初期の人物であるが、英国の美術史家ハロルド・オズボーンは、「彼の作品には詩的で文学的な性質があり、彼を幾分際立たせている」と批評している。

 

版画家も多く、そのほとんどがエッチングであったが、半光沢のクリシェ・ヴェール技法を用いる作家もこのグループが中心であった。フランスのエッチングの復興は、1850年代にこのグループから始まった。

歴史


1824年、サロン・ド・パリにイギリスの画家ジョン・コンスタブルの作品が展示された。彼の田舎の風景画は当時の若い芸術家の一部に影響を与え、形式主義を放棄して自然から直接インスピレーションを得て制作する動機付けとなった。

 

自然の風景は、これまでのような単なる劇的な歴史画における背景ではなく、自然そのものが絵画の主題となった。1848年革命が発生していたころ、芸術家たちはバルビゾンへ集まり、コンスタブルの技法を取り入れ、自然を主題として絵画制作を始めた。フランスの風景バルビゾン派の主要な主題となった。

 

1829年の春、カミーユ・コローはバルビゾンにやってきて、フォンテーヌブローの森で絵を描いた。彼は1822年にシャイーの森で初めて絵を描いている。1830年の秋と1831年の夏にもバルビゾンに戻り、デッサンや油絵の習作を描き、それをもとに1830年のサロンに出展するための絵を描いた。

 

《フォンテーヌブローの森の眺め》(現在、ワシントンのナショナル・ギャラリーに展示)と、1831年のサロンのための《フォンテーヌブローの森の眺め》である。

 

コローは、バルビゾン派の画家たちとは、このサロンで出会った。バルビゾン派のテオドール・ルソー、ポール・ユエ、コンスタン・トロワイヨン、ジャン=フランソワ・ミレー、そして若きシャルル=フランソワ・ドービニーらと出会った。

 

ミレーは風景画から人物画へ主題を広げて、農民、農民の生活風景、畑で働く姿を描くようになった。1857年の《落穂拾い》が、代表的な作品で、3人の農村の女性が小麦畑で労働している姿を描いたものである。

 

落穂拾いとは土地の所有者が小麦の刈り入れを終えた後に、畑に残っている麦の穂を拾い集めることを許された貧しい人々のことである。絵の背景には、前景の影のある貧しい農村の女性とは対象的に裕福に描かれた土地所有者と労働者の姿がうっすらと描かれている。

 

ミレーはこれまでの富裕層や著名なものから社会的身分が低い主題や出来事へ焦点を移し変えた。彼らの匿名性と疎外性を強調するため、顔は隠している。女性の曲がった身体は毎日反復的に行う重労働をあらわしている。

カミーユ・コロー《フォンテーヌブローの森の眺め》1830年
カミーユ・コロー《フォンテーヌブローの森の眺め》1830年

1860年代、バルビゾンの画家たちはパリに滞在しているフランスの若手画家たちに注目を集めはじめた。

 

パリの若手画家の中にはフォンテーヌブローの森にやってきて風景画を描いたものもいた。クロード・モネピエール=オーギュスタ・ルノワールアルフレッド・シスレーフレデリック・バジールなどである。

 

1870年代に彼らはバルビゾン派で使われていた技法「印象」を発展させて、戸外制作を中心に自身が知覚した一瞬の風景を描きとる印象主義運動を開始した。

 

後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホもバルビゾンの画家たちを研究し、模写しており、その中にはミレーの絵の模写が21点含まれている。ミレーの模写は他のどの画家よりも多い。

 

テオドール・ルソーとジャン=フランソワーズ・ミレーはバルビゾンで死去。

ヨーロッパでの影響


また、他国の画家たちもこの芸術の影響を受けていた。19世紀後半から、オーストリア・ハンガリーから多くの画家がパリにやってきて、新しいムーブメントを学んだ。

 

例えば、ハンガリーの画家ヤーノシュ・トルマは若い頃、パリに留学していた。1896年、現在のルーマニアのバイアマーレにあるナギーバーニャという芸術家コロニーの創設者の一人となり、ハンガリーに印象派を持ち込んだ。

 

2013年にはハンガリー国立美術館で彼の作品の大回顧展「ヤーノシュ・トルマ、ハンガリー・バルビゾンの画家」(2013年2月8日~5月19日、ハンガリー国立美術館)が開催されている。

 

カール・ボドマーはもともとスイス人で、1849年にバルビゾンに居を構えた。同じくハンガリー人のラースロー・パールは、1870年代にバルビゾンに住んでいた。

アメリカでの影響


バルビゾン派の画家たちは、アメリカの風景画にも大きな影響を与えた。これには、ウィリアム・モリス・ハントによるアメリカのバルビゾン派の発展も含まれる。

 

ハドソンリバー派にも、あるいはそれと同時代の画家たちが、その緩やかな筆致と感情的なインパクトからバルビゾン派の絵画を研究した。

 

ルソーの作品を模倣しようとしたジョージ・イネスがその代表的な例である。バルビゾン派の絵画は、カリフォルニアの風景画にも影響を与えた。

 

画家のパーシー・グレイは、巡回展で見たルソーや他の画家の作品を丹念に研究し、カリフォルニアの丘や海岸線を描いた自身の作品に生かした。

 

ルイジアナで育ち、アカデミー・ジュリアンで学んだパーシヴァル・ロッソー(1859-1937)のスポーツ犬の絵には、バルビゾン派の画家の影響が見て取れる。

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Barbizon_school、2022年10月20日アクセス