【アートモデル】エセル・ハッチ「キャロルが撮影したハッチ三姉妹の次女」

エセル・ハッチ / Ethel Hatch

キャロルが撮影したハッチ三姉妹の次女


ルイス・キャロル撮影「エセル・ハッチ」1872年
ルイス・キャロル撮影「エセル・ハッチ」1872年

概要


生年月日 1869年
死没月日 1975年
国籍 イギリス
関わりのある芸術家 ルイス・キャロル

エセル・ハッチ(1869-1975年)はイギリスの美術家。チャールズ・ドジソンと写真モデルとしても知られている。

 

彼女はイギリスの上層階級に属する女性で、エドウィン・ハッチ牧師の娘であり、ベアトリス・シェード・ハッチエブリン・モッド・ハッチとは姉妹にあたる。

 

成人後は美術家として活動している。絵画サークル「ニューイングランド・アート・クラブ」の会員で、花が特徴の水彩画をたくさん制作した。彼女の絵はクリスティーズでも何度か競売にかけられている。

概要


幼少期


エセル・シャーロット・C・ハッチは、1869年父エドウィン・ハッチと母エブリン・ハッチのあいだに次女として生まれた。姉がベアトリスで、妹はエブリンである。またアーサー・ハーバート・ハッチという兄がおり、彼はモルバーン大学の学寮長になった。

 

ハッチの一家はエドワード・バーン=ジョーンズやアルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン、ウィリアム・モリスといった一流芸術家と交流のあるサークルに入っていた。

 

家族は1867年に北オックスフォードのノアハム・ガーデンズのバーブリー・ロード沿いにゴシック様式の邸宅を建てて生活をしていた。近隣には生物学者のトマス・ヘンリー・ハクスリー一家や著作家家オルダス・ハクスリー一家が住んでいた。

 

エセルはオックスフォードシャーにあるオックスフォード女子高校に進学した。17歳で卒業し、母と3ヶ月間セント・レオナルズへ休養した。休養中、母親は自らエセルに個人教育を続けた。

ルイス・キャロルとの関係


姉らと同じくエセルもまたドジソンの「小さなお友だち」となり、ドジソンと親密関係を深め、ドジソンは彼女を撮影した。

 

なお、ドジソンはつねに上流階級の家族の子どもに限ってのみ関心を示し、決して下流階級の子どもとは親しくなろうとしなかった。エセル一家は中流の上の階級で、家族ぐるみでドジソンと付き合っていた。

 

ドジソンは姉妹のなかでも、エセルやエブリンよりも長女のベアトリスが長いお気に入りだったといわれている。しかし、エセルもまたドジソンとは長く付き合っていた。

 

着衣で写真撮影にくわえて、ドジソンはエセルのヌードも撮影している。彼女はドジソンのミューズの1人と見られていた。

Beggar-children, Beatrice and Ethel Hatch , 1872
Beggar-children, Beatrice and Ethel Hatch , 1872

芸術活動


ドジソンはエセルを画家のフーベルト・フォン・ヘルコマーのもとで絵を学ぶようすすめる。結局、ドジソンのすすめ通りにはいかなかったが、ロンドンのスレード美術学校に通いはじめる。

 

在学中、彼女はおもに外国の風景や花に焦点を当てた絵画制作をしていた。スレードで、エセルはヘンリー・トンクス、フィリップ・ウィルソン・スティア、フレドリック・ブラウンのもとで学んだ。1896年から1897年にかけてブラウンの絵画クラスに入り、そこで優秀証書を得ている。

 

エセルの絵はほとんど水彩画で、彼女の絵はギャラリーで展示された。オークション会社のクリスティーズは何度かエセルの作品を競売にかけており、エセルの水彩画作品の1つ『On the Sand, Midsummer』は352ポンドで落札されている。

 

エセルの作品はおもに、自身が加入していたニューイングランド・アート・クラブで展示された。

《floral still life with teapot》1920年
《floral still life with teapot》1920年

晩年


1889年11月10日、エセルの父が死去。エセルは当時20歳だった。エセルは木版画やイラストレーションでおもに活動してした芸術家ジョン・ハッサルと友好関係を結んでいた。

 

1959年に刊行された『スウィンバーンの手紙,1854-1869,vol.1』に、エセルは詩人スウィンバーンと父エドウィンとの手紙のやり取りやほか父が雑誌に書いたスウィンバーンの批評文をコピーしてを寄稿した。

 

1920年9月20んち位、51歳でエセルは神学者のウィリアム・サンデイの葬儀で喪主をつとめた。1975年に105歳で死去。