【美術解説】ポール・デルヴォー「一人の女性を描き続けた画家」

ポール・デルヴォー / Paul Delvaux

同一の女性をひたすら描き続けた画家


ポール・デルヴォー「人魚の村」(1942年)
ポール・デルヴォー「人魚の村」(1942年)

概要


生年月日 1897年9月23日
死没月日 1994年7月20日
国籍 ベルギー
スタイル シュルレアリスム
表現媒体 絵画
関連サイト WikiArt(作品)

ポール・デルヴォー(1897年9月23日-1994年7月20日)はベルギーの画家。シュルレアリスティックな女性ヌード画でよく知られている。

 

ジョルジュ・デ・キリコの形而上絵画やルネ・マグリットのデペイズマンなどの絵画表現に影響を受け、シュルレアリスム運動に参加。パリやアムステルダムで開かれた『国際シュルレアリスム展』に参加する頃から、一般的にシュルレアリスムの作家として知られていくようになる。

 

ただしデルヴォーは、当時政治色の強かったシュルレアリスムグループと、同じ政治運動を推進する熱烈な同士として積極的な関わりをもつことはなかった。デルヴォーは極めて私的に表現を楽しんだ。

 

デルヴォーの絵の中に描かれるいつも同じ顔女性は、母親によって強引に引き離されたタムである。デルヴォーは母親の呪縛に苦しみながら、タムの亡霊をひたすら描き続けていた。

 

そして絵画表現を通じた「タムの王国」の創造が目的だったのである。

重要ポイント

  • ベルギーを代表するシュルレアリスム画派
  • 描かれている女性はすべてタム
  • 死や虚無感、女性に対する魅惑と恐れといった内面が描かれている

作品解説


人魚の村
人魚の村
「月の位相」と「森の目覚め」
「月の位相」と「森の目覚め」
森
ジュール・ベルヌへのオマージュ
ジュール・ベルヌへのオマージュ


略歴


若齢期


ポール・デルヴォーは1897年にベルギーのリエージュ州アンティに生まれた。父は弁護士で厳格、母のロール・ジャモットは厳しいブルジョア出身の女性。7つ下の弟はきわめて優秀だった。デルヴォーは幼少の頃から内気で夢想家抑圧だった。

 

母親の外部の危険や悪い女性からの誘惑を排除しようとする態度は、彼の思春期に大きな影を落とすことになった。その一方で母親はポールを非常に可愛がった。それは溺愛といえるほどで、子どもにとっても少々やりきれないほどだった。

 

この母親のポールへの抑圧と溺愛は、後年、ポールのコンプレックスとなり、のちの「タムの王国」の扉を開くことになる。初期のデルヴォーの女性像は、目が落ち窪んで影を作り、その表情を確認することができないが、母親の女性への抑圧に対する影響だと思われる。

 

幼少期のデルボーは、芸術では絵画よりも音楽を学び、語学ではギリシャ語、ラテン語を身につけ、ジュール・ヴェルヌの小説やホメロスの詩に影響を受けた。

 

デルヴォーの絵画作品はこれらの本の影響が大きく、初期のドローイングにおいてはホメロスの神話の場面がよく見られる。ジュール・ヴェルヌの文学『地底旅行』で登場する地質学者のオットー・リーデンブロックは、自身を投影する形で頻繁に作品中に現れる。

 

デルヴォーは、ブリュッセルにある美術学校アカデミー・ロワイヤル・デ・ボザールに通う。ただ、両親の反対から建築科に進むことになった。

 

それにもかかわらずデルヴォーは、画家で教師のコンスタント・モンタルドやベルギーの象徴派画家のジャン・デルヴィの絵画教室に通って、絵描きになることを目指した。

ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』原著に掲載されたリーデンブロック博士の挿絵。
ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』原著に掲載されたリーデンブロック博士の挿絵。
『大きな裸婦』(1929年)
『大きな裸婦』(1929年)

タムの王国の始まり


 1929年、デルヴォーは人生を決定づける女性と出会う。アントンウェルペン出身の、アンヌ=マリー、愛称「タム」との出会いだった。

 

二人は会った瞬間から強く惹かれ合ったが、デルヴォーの両親から交際を強く反対されて別離させられることになった。

 

その反動からかデルヴォーは、1930年から32年にかけて、彼女の不在を埋め合わせるかのようにおびただしい数のタムの絵を描いて、それに類する作品を手がけた。「タムの王国」の始まりである。 

 

1920年代後半から1930年代前半のデルヴォーの絵画は、風景のなかに佇む裸体の女性画が特徴で、それらの絵画はコンスタント・ペルメケやグスタフ・デ・スメットといったフランドルの印象派画家から強く影響を受けていた。また、この頃はベルギー表現主義が流行していた。

 

この表現主義的な様式は1934年頃まで見られるが、その後、こうした要素は、彼の奥底にある欲望と詩的要素を絵画に定着させる重要な役割を担った。 

『海』(1934年)
『海』(1934年)
『レディーローズ』(1934年)
『レディーローズ』(1934年)

シュルレアリスム


1933年ごろに、ジョルジュ・デ・キリコ形而上絵画に影響を受けた絵画スタイルに変更。なお、キリコの影響は1926年か1927年ごろから見られる。

 

1930年代にデルヴォーはブリュセルフェアへ訪れ、スピッツナー博物館の医療博物館のブースへいく。そこで、赤いベルベットのカーテン内にあるウインドウに陳列された骸骨の模型や機械的なビーナス像といった医療器具に強い影響を受ける。このときの体験は、彼のその後の作品を通じて現れるモチーフである。

 

その3ヶ月後に母が死去。彼は愛と尊敬と恐れの対象であった母の死と直面し、さらにその4年後には父の死も続いた。それは彼にとって「死」そのものを内在させたオブセッションとなり、それ以降は『眠れるヴィーナス』をはじめ多数の横たわった人物や骸骨を描くことになる。

 

1930年代中ごろ、デルヴォーは友人のベルギーの画家ルネ・マグリットのスタイル、デペイズマン表現を自分でも利用するようになる。

 

1934年にブリュッセルで開かれた『ミノトール展』に参加し、シュルレアリスム絵画にさらに影響を受け、38年にパリやアムステルダムで開かれた『シュルレアリスム国際展』に参加。この頃から一般的にシュルレアリスム作家としてデルヴォーは知られていく。

 

デルヴォーはシュルレアリスムと接触することによって合理性という束縛から解き放たれ、内部にあるイメージを日常の意味から切り離して絵画の中に配置させることによって、非日常へと転化していった。

 

しかし、デルヴォーは当時政治色の強かったシュルレアリスムグループと、同じ政治運動を推進する熱烈な同士としての積極的な関わりをもたなかった。

 

デルヴォーは、ジョルジュ・デ・キリコの形而上絵画やルネ・マグリットのデペイズマンなどの絵画表現、そして絵画表現を通じた「タムの王国」の創造が目的だったのである。

 

この時代の代表作品は《人魚の森》

 

山高帽の黒服男が一人、左右に待機する黒服の女性の間を通過していく。

山高帽の男の先に見えるビーチを見てみよう。

ビーチには通りの女性たちとよく似た人魚の集団が見える。

人魚は次々と海へ飛び込もうとしている。

山高帽の男はビーチへ向かう。

 

デルヴォーは言う。

「自分のビジョンを見つけるには長い時間がかかった」

『人魚の森』(1942年)
『人魚の森』(1942年)
『The Musee Spitzner』(1934年)
『The Musee Spitzner』(1934年)

タムとの再会


1947年、デルヴォーは煙草を買いに入った商店で、18年前に両親によって引き離された恋人のタムと偶然の再会をする。まだ愛し合っていた二人は一緒に暮らすようになる。それによって、彼のオブセッションとなっていた女性に対する魅惑と虚無感といったものが薄れ、彼の作品の根幹にあった性的な緊張は消滅し、この頃からデルヴォーの作品は光彩に満ちてくる。

 

タムと再会したときの作品が1948年の《森》である。

 

「作品を生み出す芸術家の心は、周囲の人々や生活の仕方、人間関係、その他の変化に関わっている。さらには、様々な出来事、私の場合なら劇的な出来事、のはっきりした影響も考慮しなければならない」

 

1930年から40年代までが最もデルヴォーらしいといわれる理由はここにある。新たなるデルヴォーの旅はここから再起動するのである。

ポール・デルヴォー《森》1948年
ポール・デルヴォー《森》1948年

骸骨の時代


1950年代になるとデルヴォーは、裸婦をほとんど描かなくなる、代わりにそれまで脇役のように登場していた骸骨が絵の主役となる。デルヴォーにとって骸骨は「自身の過去」であるという。

 

デルヴォーは骸骨を描くことで、両親や過去から決別しようとする意志があったという。骸骨についてデルヴォーは、アンソールを通して「死のバロック」と呼ばれた、ネーデルラントの北方の歴史、ボスやブリューゲルの骸骨表現の伝統にまで彼の意識はつながっている。

 

また50年代なかばになると、場面が古典建築から次第に駅舎へと移行してゆく。列車や路面電車も骸骨と同じく過去のデルヴォーの作品に登場していたが、今までのように裸婦の背景などにではなく、単独で、背景自体が絵の中心になり始める。

 

これまでの後ろ向きの少女が夜の静かな駅舎に立っており、月光がホームを照らすという構図が増えた。列車はデルヴォーが幼少の頃にブリュッセルで初めて見た時から不思議な感覚を持っていたもので、決して関心がなくならないモチーフだという。

『磔』(1952年)
『磔』(1952年)
『聖夜』(1956年)
『聖夜』(1956年)
『駅と森』(1960年)
『駅と森』(1960年)

晩年


晩年になると、デルヴォーはシュルレアリスムから生じる不調和を排除し、それに代わって神秘的な雰囲気をたたえた絵を描くようになる。

 

「私はたぶんこれまで不安を描いてきたのだと思う。今では美を描きたい。それも神秘的な美を」とデルヴォーはいう。

 

裸婦をはじめとする、過去のモチーフが大集合してくるが、輝くような光が神秘的に降り注ぐようになる。

 

また、1966年からは痩せ型の学生モデル、ダニエル・カネールを描くようになったことで、それまでのタムの豊穣な女性像から雰囲気を一変させることになった。

 

1959年にデルヴォーはブリュッセルにあるコングレスパレスで壁画を制作。1965年にブリュッセル王立美術アカデミーのディレクターに就任。1982年にベルギーでポール・デルヴォー美術館が設立。1994年に死去。

『ダニエルの習作』(1982年)
『ダニエルの習作』(1982年)
『トンネル』(1978年)
『トンネル』(1978年)

略年譜


■1897年 0歳

9月23日、ベルギーのリエージュ州ユイ近郊のアンテイで、父ジャン・デルヴォーと母ロール・ジャモットの子として生まれる。父はブリュッセル控訴院付きの弁護士。

 

■1901年 4歳

一家はブリュッセルのエコス通り15番地に転居。

 

■1904年 7歳

弟アンドレ生まれる。のちに弁護士となる。サン=ジル小学校に入学。学校の博物教室で音楽の授業が行われ、人体標本と、人や猿の骨格標本に惹きつけられる。

 

■1907年 10歳

ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』を読む。

 

■1910年 13歳

サン=ジル高等学校に入学。ホメーロスの『オデュッセイア』に出会い、読みひたる。神話を題材にした素描を多数制作。

 

■1912年 15歳

この頃、トラムの模型を自作する。飛行機にも夢中になる。

 

■1913年 16歳

ブリュッセルのモネ劇場でリヒャルト・ワグナーのオペラ『パルシファル』を観る。絵や素描も多く描いたが、音楽にも傾倒。母からはグランドピアノを贈られる。

 

■1916年 19歳

ブリュッセルの美術アカデミー建築学科に入学するが、学年末試験で数学を落第し、建築の勉強を放棄する。

 

■1919年 22歳

夏に家族とともにゼーブリュージュに滞在する。そこで著名な画家で男爵位を持つフランツ・クルテンスと出会い、画家になるよう励まされる。クルテンスの助言により、両親も

アカデミーで装飾絵画の勉強をすることを認める。ブリュッセルの美術アカデミーに入学。象徴主義の画家コンスタン・モンタルドに師事する。そこでロベール・ジロンと終生変わらぬ友情を結ぶ。

 

■1920年 23歳

兵役につく。夜はブリュッセルの美術アカデミーでジャン・デルヴィルの授業を受ける。

 

■1921年 24歳

ブリュッセル近郊のソワーニュの森のはずれで、画家のアルフレッド・バスティアンと出会う。

 

■1923年 26歳

両親の自宅の一室を改装し、アトリエを構える。

 

■1925年 28歳

ブリュッセルのブレクポット画廊、ロワイヤル画廊でロベール・ジロンとの二人展を開催。ある弁護士が購入した『家族の肖像』以外は後に画家の手によって処分された。以降、ほぼ年一回のペースで展覧会を開催する。

 

■1926年 29歳

この頃、アンソールの影響を受ける。

 

■1927年 30歳

パリで初めてデ・キリコの作品を見て、圧倒される。

 

■1928年 31歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展を開催。この頃から級友だったポール=アンリ・スパークの弟で、詩人・作家のクロード・スパークとの交友が始まる。

 

■1929年 32歳

のちに生涯の伴侶となるアントウェルペン出身のアンヌ=マリー・ド・マルトラールとの結婚を望むが、両親に反対され、いったん関係を断つ。

 

■1930年 33歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展。

 

■1931年 34歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展。

 

■1932年 35歳

ブリュッセルの見本市でスピッツネル博物館に陳列されていた蝋人形に触発される。

 

■1933年 36歳

母、脳内出血により急死。ブリュッセルで個展。『眠れるヴィーナス』が酷評される。

 

■1935年 38歳

ブリュッセルのマグリットの自宅も訪ね、シュルレアリストたちを紹介される。

 

■1936年 39歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展。

 

■1937年 40歳

父ジャンが死去。7月、シュザンヌ・ピュルナルと結婚。デルヴォーの芸術に理解を示す知的な女性で、41年にはパレ・デ・ボザール館長となっていたロベール・ジロンの秘書になる。

アントンウェルペン、ロンドン等で展覧会に出品。ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展。前年に制作した『陵辱』がミノトール誌に掲載される。

 

■1938年 41歳

「国際シュルレアリスム展」に出展。ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで開催された「ベルギー現代美術」展に出品。この時出品した12点全てをメザンスが購入。またロンドンの画廊で個展を開催し、ローランド・ペンローズとペギー・グッゲンハイムが作品を購入。

 

■1940年 43歳

メキシコで開催された「国際シュルレアリスム展」に参加。

 

■1941年 44歳

ブリュッセルの自然史博物館に通って骸骨の素描に励む。ニューヨークでのシュルレアリストの展覧会に出品。

 

■1942年 45歳

ニューヨークで開催された「シュルレアリスム国際展」に出品。

 

■1944年 47歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで大規模な回顧展。

 

■1946年 49歳

ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊で個展。

 

■1947年 50歳

サンティデスバルドに滞在中にタムと偶然再会する。その後も定期的に会い、文通を続ける。

 

■1948年 51歳

ポール・エリュアールと共作した詩画集『詩・絵画・素描』がジュネーブとパリで刊行される。ヴィネツィア・ビエンナーレに出品。ロンドンの「現代絵画の40年 1907-1947」展、ブエノスアイレスの「ベルギー現代美術」展に出品。

 

■1949年 52歳

ニューヨーク、ブリュッセル、パリで相次いで個展が開催される。デルヴォーとタム、ブリュッセルのボワフォールの友人宅に部屋を借りる。

 

■1950年 53歳

ブリュッセルの国立美術建築学校の絵画部門教授に任命される。パリでのクロード・スパークの2つの舞台作品の舞台装置を担当する。

 

■1951年 54歳

この年に始まったサンパウロ・ビエンナーレにベルギーより出品。アントウェルペンの「現代芸術サロン」展に以降55年まで毎年出品。

 

■1952年 55歳

キリストの受難のテーマを骸骨で描く作品をさかんに制作する。オステンドにある保養所の娯楽室の壁画を制作。クノックのカジノでマグリットと展覧会を開催。10月にタムと正式に結婚。

 

■1989年 92歳

すでに寝たきりであったタム夫人なくなる。この日を境にデルヴォーは筆を置き、再び制作することはなかった。

 

■1994年 96歳

7月20日、フェルヌの自宅にて死去。


■参考文献

・ポール・デルヴォー展 夢をめぐる旅図録

https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Delvaux、2020年5月20日アクセス