【美術解説】エドゥアール・マネ「近代美術の父」

エドゥアール・マネ / Édouard Manet

近代美術の創始者


《草上の昼食》1863年
《草上の昼食》1863年

概要


生年月日 1832年1月23日
死没月日 1883年4月30日
国籍 フランス
表現媒体 絵画
ムーブメント 写実主義印象派近代美術
代表的作品

・《草上の昼食》1863年

・《オランピア》1865年

・《フォリー・ベルジェールのバー》1882年

関連サイト

The Art Story(概要)

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エドゥアール・マネ(1832年1月23日-1883年4月30日)は、フランスの画家。19世紀パリのモダニズムな生活風景を描いた最初の画家。写実主義から印象派への移行をうながした重用な人物とみなされている。

 

政界と強い関係を持つ上流階級の家庭で育ったマネだが、将来の約束された裕福な家庭生活を捨て、ボヘミアン的な自由な生活に走り、絵画の世界に夢中になる。

 

1863年にパリの落選展で展示した《草上の昼食》や、1865年にパリ・サロンに展示した《オランピア》は、パリの娼婦の裸体を描いたものだが、これらの作品が一般的に近代美術のはじまりで、マネは近代美術の創始者とみなされている。

 

両作品ともに大きなスキャンダラスを起こし、のちに印象派を創始する若い画家たちに多大な影響を与えた。

 

晩年のマネの生活は、同時代のほかの偉大な芸術家たちと絆を深めながら、革新的であり、また独自のスタイルは将来の美術家たちに影響をあたえた。

重要ポイント

  • 19世紀パリのモダニズムな生活風景を描いた
  • 近代美術の創始者とみなされている
  • 印象派の創設に影響を与えている

略歴


幼少期


少年時代のマネ
少年時代のマネ

エドゥアール・マネは、1832年1月23日、パリのプティ=ゾーギュスタン通り(現在のボナパルト通り)にある古来からの大邸宅に住むブルジョア家庭で生まれた。

 

母ユージニ・デジレ・フルニエは、外交官フルニエ家の娘で、またスウェーデン王子カール14世ヨハンから洗礼を受けている。父オーギュスタ・マネはフランスの裁判官だった。

 

父は息子エドゥアールに法務関係の仕事に就くことを期待していたが、母方の叔父のエドモンド・フルニエは幼少のころからエドゥアールに絵描きの道をすすめ、エドゥアールをよくルーブル美術館に連れて行った。

 

1841年に、エドゥアールはカレッジ・リセ・ジャック・ドクール中等学校に入学する。1845年に叔父の助言で、マネは特別クラスに進む。そこで、のちに芸術大臣となり生涯の友人となるアントナン・プルーストと出会う。

 

1848年に父のすすめで、リオデジャネイロへ航海練習船でわたる。海軍の入隊試験を受けるも二度失敗したため、父親は芸術方面に進みたいというマネの希望を受け入れるようになった。

 

1850年から1856年まで、マネはアカデミズムの画家トマ・クチュールのもとで絵を学ぶ。また空いている時間にルーブル美術館に通い、古典巨匠たちの絵画の模写を行った。

 

1853年から1856年までマネは、ドイツ、イタリア、オランダを旅する。滞在中にオランダの画家フランス・ハルスやスペインの画家ディエゴ・ベラスケス、フランシスコ・ゴヤに影響を受ける。

パリ・サロンに入選して本格的に画家の道へ


1856年にマネはアトリエを開く。この時代のマネのスタイルは、緩やかな筆致、簡略化、階調遷移の抑制が特徴的だった。

 

ギュスターヴ・クールベから始まった写実主義のスタイルを採用して描いたのが1859年制作の《アブサンの酒飲み》である。この時期はほかに乞食、歌手、ジプシー、カフェや闘牛場にいる人々を主題として描いた。

 

初期作品以降、マネは現在シカゴ美術館にある1865年の《キリストの嘲笑》やメトロポリタン美術館にある1864年の《天使とキリスト》などの宗教、神話、歴史を主題とした絵画はほとんど描かなくなった。

 

1861年にマネはパリ・サロンで2点の作品が審査に受かる。1点は母と父の肖像画《オーギュスト・マネ夫妻の肖像》だが、批評家から両親の間に奇妙な冷たさが流れていることを批判された。

 

もう1点の作品《スペインの歌手》はテオフィル・ゴーティエが絶賛し、また会場を行き来する人たちにも人気があったため、会場の人目の付きやすい場所に置き直された。

 

マネの作品はほかのサロンで展示された緻密なスタイルの絵画と比較すると、やや大雑把なのが特徴で、若い芸術家たちがその表現方法に関心を持ちはじめた。

《スペインの歌手》1860年
《スペインの歌手》1860年
《オーギュスト・マネ夫妻の肖像》1860年
《オーギュスト・マネ夫妻の肖像》1860年

パリジアンの余暇《チュイリーの音楽》


《チュイリーの音楽》はマネの初期の絵画スタイルの代表的な作品である。ハルズとベラスケスに影響を受けたもので、また生涯にわたってマネの関心事となる「余暇」という主題の前兆的な作品である。

 

作品は未完成とみなされたが、当時のチュイリー庭園の雰囲気を伝えており、音楽や会話の声が聞こえてくるようである。この絵でマネは友人、芸術家、作家、音楽家、さらに自分自身を描いている。

《チュイリーの音楽》1862年
《チュイリーの音楽》1862年

近代美術の始まり《草上の昼食》


マネの初期の代表は1863年に制作した《草上の昼食》である。本作は1863年のパリ・サロンでの展示を拒否されたため、代わりに落選展で展示された。

 

モデルとしてヴィクトリーヌ・ムーラン、妻のスザンヌ、のちに義兄弟となるフェルディナンド・リーンホフ、マネの兄弟の一人が描かれている。中央の裸の女性はムーラン、当時のフランスで著名なモデルであり、女流画家だった。また彼女はマネの《オランピア》のモデルでもある。

 

本作は着衣男性と対照的なヌード女性が並置して描かれたことで論議を呼び起こしたが、マネとクールベの裸体画の作風を明確に区別する作品である。構成は古典巨匠の作品を下敷きにしており、たとえば中央の男女のポーズはラファエルのドローイング作品《パリスの審判》を下敷きにしたマルカントニオ・ライモンディの版画作品からの引用である。

 

本作品が、美術史では近代美術の始まりと見なされている。裸の女性の周りに、果物などの食べ物や、脱いだ後の流行のドレスが描かれることによって、裸婦が現実(現代)の女性であることが強調されている 。

 

また《草上の昼食》の制作に影響を与えていると思われる重要な前例的作品として、ティッツァーノの《牧歌的コンサート》やジョルジョーネの《テンペスタ》を挙げている。

 

《テンペスタ》は全裸の農村の女性と着衣した男性が描かれた謎めいた絵画である。男は画面左にたって、画面右にいる女性を見つめているように見える。女性は座って赤ちゃんに乳をあげているが下半身まで裸である。両者の関係はよく分かっていない。

 

《田園の奏楽》では、着衣した二人の男性と裸の女性が草の上に座って音楽制作をしており、もう一人の裸の女性が画面左に立っている。

《草上の昼食》1863年
《草上の昼食》1863年

当時のパリの現実の女性を描いた《オランピア》


マネは1863年に、《草上の昼食》に続き、ルネッサンスの巨匠画家の作品を引用した絵画《オランピア》を制作する。1865年にパリ・サロンに出品して審査に通ったものの、展示でスキャンダラスを引き起こした。

 

《オランピア》は、初期のスタジオ写真を連想させる構図で描かれたヌード絵画であるが、モデルのポーズはティッツァーノの《ウルビーノのヴィーナス》を基盤にしている。またフランシスコ・デ・ゴヤ《裸のマハ》を連想させ、当時、流行したポルノ写真の構図とよく似ていると言われる。

 

この作品では、裸体の女性の頭に蘭が付いていたり、首にリボンがかけられていたり、つっかけのスリッパを履いていたりと、ところどころに小道具が描かれ物議をおこした。

 

蘭、上向きの髪、足元にいる黒猫、花束は当時、すべてセックスの象徴とみなされていた。ちなみに、ティッツァーノの《ウルビーノのヴィーナス》では足元に犬が描かれており、犬は貞節や忠誠の象徴だった。

 

この近代的なヴィーナスの表現は、当時の美術の基準に明らかに反するものであり、理想主義の欠落した娼婦の率直な描写は鑑賞者を激怒させた。

 

この作品の平面的な表現は日本の浮世絵から影響を受けているという。実際にマネは浮世絵を蒐集していた。表題の「オランピア」とは、娼婦の源氏名として広く使われる名前で、黒人のメイドは当時の娼館に多かった。メイドが運ぶ花束は、前夜の客から贈られたものである。

 

身体の描き方だけでなく、彼女の視線も伝統的な絵画から逸脱している。召使が求婚者から送られてきた花束を彼女に渡そうとし、彼女は挑発的に視線を鑑賞者に向けている。

 

彼女の手は足にのせ、陰部を隠しているが、それは伝統的な女性理想像に言及した皮肉に見える。謙虚さという考えは本作品においてまったくといっていいほど不在である。批評家たちはティッツァーノのヴィーナスを嘲笑しているように見えたという。

 

しかし、《オリンピア》はフランスの前衛的なコミュニティに支持され、その絵画の重要性は、ギュスターヴ・クールベポール・セザンヌクロード・モネポール・ゴーギャンらが高く評価した。

《オランピア》1863年
《オランピア》1863年

マネと女性たち


1862年マネの父が亡くなると、マネは1863年にスザンヌ・リーンホフと結婚。リーンホフはオランダ生まれのマネより2歳年上のピアノ教師で約10年ほど恋愛していたという。マネは《読書》などさまざまな作品で彼女をモデルに絵を描いている。

 

リーンホフはもともとマネの父オーギュスタがマネやマネの弟のピアノの教師と雇っていた。また彼女は父の愛人でもあった。1852年にリーンホフは未婚の状態で、息子のレオン・コエラ・リーンホフを出産。レオンの父親はマネかマネの父のどちらか分からなかった。

 

結婚時に11歳だったレオン・リーンホフは、マネの絵画のモデルとしてよく描かれている。1861年作の《剣を持つ少年》のモデルはレオンである。また1868年作の《バルコニー》で背景に描かれているトレイを手にしている少年はレオンであるという。

 

マネは印象派エドガー・ドガクロード・モネピエール・オーギュスタ・ルノワールアルフレッド・シスレーポール・セザンヌカミーユ・ピサロらと知り合う。

 

また、1868年にマネの絵画のモデルで女流画家のベルト・モリゾと出会う。マネに絵画を学びながら、彼のモデルを多く務め、マネとの恋仲を噂されることもあった。1874年、モリゾはマネの弟ウジェーヌ・マネと結婚した。

 

1880年代初頭にマネのモデルの一人としてよく描かれたメリー・ローランは、ほかのさまざまな印象派の画家のモデルとしても登場する。

《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》1872年
《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》1872年

印象派とパリ・サロンの間で揺れ動く


マネは印象派と深い関わりを持ちながらも印象派の中心的なグループと距離を置いていた。マネは独立した展示会に賛同してパリ・サロンをないがしろのにするのではなく、むしろ近代美術家は、パリ・サロンで展示できるよう努めるべきという主張をしていた。マネは基本的に保守主義であった。

 

それにもかかわらず、マネは1867年のパリ万博で自身の作品が展示されなかったとき、彼は展示会場から遠くないアルマ橋附近で、多額の費用をかけて個展を開催する。

 

それは、マネの母がこの展示企画で全財産を喪失するのではないかというほどの多額な費用だった。批評家たちのマネの個展の感想は辛辣なもので社会的評価は高まることがなかったものの、この個展がきっかけで、ドガをはじめ、後に印象派として活躍する画家たちと出会う機会を得ることができた。

 

モネやフレデリック・バジールが、パリ・サロンに頼らずに自分たちの独立した展覧会を開催するきっかけになったのである。

19世紀のパリの人々の日常風景を描いた


マネのカフェを主題とした絵画シリーズは、19世紀のパリの日常生活を描写したものである。パリの人々はカフェでビールを飲み、音楽を聴き、いちゃつき、読書をし、待ち合いをしていた。これらの絵画の多くは現場で行われたスケッチに基いて描かれている。

 

マネはよくロシュシュアール通りにあるレッシュショフェン・ブラッスリーに通っていた。1878年に制作された《カフェにて》は、この店を基盤にしている。バーに数人の人々がいて、正面の女性が鑑賞者の方を向いているが、ほかの人達は注文を待っている構図である。

 

これらの作品はハルスやベラスケスを参照して、ゆるやかなスタイルで描かれているが、当時のパリの夜の生活のムードや感情をうまく捉えて描写されている。ボヘミアン、都市労働者、ブルジョアジーが一緒になって描かれている。

 

《カフェ演奏会の隅で》は、煙草をくわえた男性と、その後ろで飲み物を手に給仕している女性を描いた作品である。《カフェ演奏会》では、バーに座っている教養のある紳士に光があたり、その一方、紳士の背景でウェイトレスが立って飲み物を運んでいる作品である。

 

《ウェイトレス》では、席に座って煙草を吸っている客の背景に給仕している女性がたち、また背景にはステージで背中を向けて腕を伸ばしているバレエダンサーが描かれている。

 

マネはクシリー通りにあるペレ・ラテュイルというレストランによく通っていた。このレストランは、食事場に加えて庭があった。このレストランを基盤にした有名な作品が《ラテュイルおやじの店で》である。

《カフェ演奏会の隅で》1880年
《カフェ演奏会の隅で》1880年
《ラテュイルおやじの店で》1879年
《ラテュイルおやじの店で》1879年

特に上流階級の生活を描いた


マネはパリジアンでも、特に儀礼的な社会生活を楽しむ上流階級の描くことを好んでいた。マネ自身が上流階級出身であり、絵画においても基本は伝統主義の姿勢だったからであることは大きい。貧困層出身で貧しい農民の姿を描き、明らかに伝統主義と対立しようとしていたクールベとの差異がある。

 

《オペラ座の仮面舞踏会》で、マネはパーティを楽しんでいる生き生きとした人々を描いている。男性はハットと黒スーツで身にまとい、マスクと衣装を身に着けた女性をと話している。この絵画にはマネの友人の肖像画も含まれている。

 

1868年作の《スタジオでのランチョン》は、マネの家のダイニングルームでポーズを取っている人の絵である。

 

《ロンシャンのレース》では、競技馬が鑑賞者の方へ向かってくるありえない視点を採用することで、競馬が発する激しいエネルギーをうまく引き立ている。

 

《スケート》では、前景にきれいな衣装を身にまとった着た女性を大きく描き、背景にはさまざまな人がスケートしている。マネの絵画はいつも主題の背景にパリのアーバンライフの姿があった。

 

《万博の鑑賞者》では、座ったり談笑をしたりしている兵士のリラックスした姿や仲の良いカップルの姿が描かれている。ほかに庭師、犬を連れた少年、乗馬している女性など、当時のパリの人々のクラスや年齢がまんべんなく描かれ、パリジアンを凝縮したような絵になっている。

《オペラ座の仮面舞踏会》1873年
《オペラ座の仮面舞踏会》1873年
《万博の鑑賞者》1867年
《万博の鑑賞者》1867年

自然の景色よりも都市の風景を


《鉄道》では、戸外制作時における伝統的な自然景色を選択せず、マネは大胆にもキャンバスに大きく鉄柵を描いた。鉄柵の向こう側で白い蒸気に覆われた列車はほとんど見えていない。

 

遠くには近代的なアパートが見える。この構図は前景に焦点が行くようになっており、奥行きを重視する伝統的な絵画の構図を無視したものとなっている。

 

美術史家のイサベル・デルヴォーは、1874年のパリ・サロンで初めて本作が展示されたときに「鑑賞者や批評家は、その主題に困惑し、その構図が支離滅裂で、スケッチのような未完成作品だと感じた。カリチュアリストたちはマネの作品を馬鹿にしたが、数人のみ本作を現代の象徴とみなした」と話している。現在この絵画はナショナル・ギャラリーに所蔵されている。

《鉄道》1873年
《鉄道》1873年

戦争画・歴史画としてのマネ評価


戦争画まで手を広げた現代生活へのマネの幅広い対応は、「歴史画」というジャンルで解釈されることもある。

 

マネの最初の戦争画は1864年に制作した《キアサージ号とアラバマ号の海戦》である。また、フランス海岸で発生したアメリカ南北戦争と関わりのある《シェルブールの戦い》の線画もマネが描いた作品としてよく知られている。

 

次のマネの関心はメキシコへのフランスの介入だった。1867年から1869年にかけてマネは、フランスの国内外の政策に対して憂慮を募らせた出来事《皇帝マキシミリアンの処刑》を複数のバージョンで描いている。

 

当時、メキシコに債権を有していたフランスが、メキシコ政府の負債棚上げに激怒し、メキシコ本土に出兵して首都メキシコシティを占領する。その後、フランスは、1864年4月10日よりハプスブルク家でオーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世の弟であるマキシミリアンを「メキシコ皇帝」に即位させた。

 

しかし、先住民出身のメキシコ大統領ベニート・フアレスらが巻き返し、1867年5月15日にマキシミリアンは逮捕されて帝位が取り消され、同年6月19日に側近の将軍2名とともに銃殺刑に処せられた。この作品はマキシミリアンが処刑される瞬間を描いている。

 

複数のバージョンが存在する本作(油絵2枚、小型の油絵1枚、リトグラフ1枚)は、マネの最も大きな絵画であり、マネが最も重要と考えていた作品の1つであるとされる。

 

なお、構図はフランシスコ・デ・ゴヤが描いた《マドリード、1808年5月3日》を下敷きにしており、またマネやゴヤの処刑図を下敷きにして後にピカソが制作したのが《朝鮮虐殺》である。

《皇帝マキシミリアンの処刑》1868-1869年
《皇帝マキシミリアンの処刑》1868-1869年

1870年7月、普仏戦争が勃発し、ナポレオン3世は9月にスダンでプロイセン軍に降伏した。マネは、プロイセン軍のパリ侵攻が始まると、1871年1月にマネはピレネーのオロロン=サント=マリーへ移る。

 

2月、先に疎開していた家族と合流し、パリに帰ろうとしたが、3月のパリ蜂起、パリ・コミューン成立と引き続く内戦によって足止めされる。パリ不在時にマネの友人はパリ・コミューンにおける「芸術家連盟」にマネを加えた。

 

5月の「血の一週間」でパリ・コミューンが鎮圧されたころにパリに戻ったと思われる。マネはパリから離れていたので「血の一週間」に巻き込まれなかった。

 

1871年6月10付けのシェルブール=オクトヴィルにいるモリゾへの手紙には「私たちは数日前にパリに戻った」と記載されている。「血の一週間」が終わったのは5月28日だった。

 

ブダペスト国立西洋美術館にある版画やドローイングには、マネの水彩画やガッシュ作品も含まれているが、その中の《市民》は、《皇帝マキシミリアンの処刑》を基盤に、ベルサイユ兵によるパリ・コミューン関係者の処刑を描写したものである。

《市民戦争》1871年
《市民戦争》1871年

普仏戦争とパリ・コミューン混乱以後


普仏戦争とパリ・コミューンの混乱が終わるとマネは、モネ、ルノワール、シスレーらとパリ共同制作をするようになる。マネはモネら若い画家から敬愛される一方、モネら若い画家たちの手法に影響を受けるようになった。

 

第三共和政の下で最初に行われた1872年のパリ・サロンに、マネは1864年制作の《キアサージ号とアラバマ号の海戦》を出品して、入選する。1873年のパリ・サロンには、《ル・ボン・ボック》と《休息(ベルト・モリゾの肖像)》が入選。

 

1874年4月、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、ドガ、ベルト・モリゾなど30人らがパリ・サロンから独立したグループ展を開催する。これが、のちに第一回印象派展と呼ばれる画期的な展覧会であったが、マネは2年前からパリ・サロンで好評だったこともあって、パリ・サロンと対立関係にあったグループ展の参加を断った

 

なおマネは、第一回印象派展が開催された1874年のパリ・サロンに《鉄道》を出品している。深い愛情で結ばれた理想的な母子像ではなく、読書に熱中する母親と、退屈そうにサン・ラザール駅の構内を眺める娘を冷ややかに描きだした作品である。マネは、こうした現代都市の人間像に関心を寄せていた点でも、戸外制作による風景画を主にしたモネら印象派とは方向性が違っていた点も、印象派展に参加しなかった理由の1つとして挙げられる。

 

しかしながら、マネはグループ展に参加しなかったにもかかわらず、批評家たちはマネは印象派のメンバーと認識していたという。

 

その後も、印象派グループともパリ・サロンとも仲違いすることなく、マネは両者と親しい関係が続いた。

 

マネは、印象派の技法をとりいれた《アルジャントゥイユ》を1875年のサロンに出品していおり、これはマネの印象派に対する支持表明だった。しかし、パリ・サロンから背景のセーヌ川の描き方が青い壁のようだなどと酷評を浴びた。

晩年のマスターピース《フォリー・ベルジェールのバー》


 1875年にマルラメ翻訳、マネのリトグラフ入りのエドガー・アラン・ポーの小説『大鴉』のフランス語版が出版される。

 

1881年に友人のアントニオ・プルーストの推薦で、フランス政府はマネにレジオンドヌール勲章を授与。

 

40代半ばからマネの健康状態は悪化。足に重度の痛みと部分的に麻痺症状が発生する。1879年にマネはムードン付近の温泉で、循環器系の改善を目的とした温泉治療を始める。しかし、実際は梅毒が原因の歩行運動失調で苦しんでいたと考えられている。

 

1880年にマネはオペラ歌手でパトロンのエミリー・アンブルの肖像画を描く。アンブルと彼女の愛人のガストン・デ・ボープランは、1879年12月ニューヨークで、マネの作品《マクシミリアン皇帝の処刑》を初めて展示する企画を開催。

 

晩年のマネはたくさんの小サイズの果物や野菜の静物画を描いた。1880年に制作した《アスパラガスの束》や《レモン》が代表的な作品である。

 

亡くなる前年の1882年には、マネの最後のマスターピースで、マネの代表作品の1つ《フォリー・ベルジェールのバー》を完成させる。パリの最初のミュージックホール『フォリー・ベルジェール』の中にあるバーを描いたものである。モデルはフォリー・ベルジェールのバーで実際に働いていたシュゾンというウェイトレスだという。完成した作品はその年のパリ・サロンで展示された。 

 

1883年4月、マネの左足は壊疽で切断され、11日後の4月30日、51歳で死去。パリのパッシー墓地に埋葬された。

《レモン》1880年
《レモン》1880年
《フォリー・ベルジェールのバー》1882年
《フォリー・ベルジェールのバー》1882年