【美術解説】ニコラス・セロータ「テート・モダンの立役者」

Nicholas Serota / ニコラス・セロータ

テイト館長で美術館マネジメントの第一人者


テート・モダン
テート・モダン

概要


サー・ニコラス・セロータ(1946年4月27日-)はイギリス国立美術施設のテイト館長。現在のヨーロッパの現代美術システムを確立させたことで知られる。

 

1988年にテイトの館長に就任する以前は、チャペル・ギャラリー館長、オックスフォード近代美術館の館長を務めて、これらの経営を見事に成功させる。その後、現在のテイトのマネジメントを任されることになる。

 

ほかにターナー賞審査委員長、森美術館インターナショナル・アドバイザリー・コミッティーでもある。2014年の「Art Power 100」でランキング1位に輝いた。


セローターは1999年に「ナイト」の称号を得る。2013年には、科学、芸術、文学等の文化の振興へ貢献があった人物に贈られる「名誉勲位」が約束された。


略歴


若齢期


オックスフォード近代美術
オックスフォード近代美術

ニコラス・セロータの祖父母はロシアとポーランドからのユダヤ系移民。父はエンジニア。母は公務員でのちに貴族となり、ハロルド・ウィルソン労働党政府時代に健康省大臣や地方政府のオンブズマンに就任したベアトリス・セロータ。


セロータはアスクの男子校で学び、ケンブリッジ大学のクライスツ・カレッジで、美術史を学ぶ前に経済学を学んでいた。


ケンブリッジ大学卒業後、ロンドン大学のコートールド美術大学で美術史家のマイケル・キットソンやアニータ・ブルックナーの指導を受けながら、美術修士号を取得して卒業。論文はターナーの作品に関することだった。


1969年、セロータは750人で構成されるテイト委員会「ヤング・フレンド」の委員長となり、地域の子どもたちのために土曜日の絵画教室を開いた。「ヤング・フレンド」は彼ら自身で芸術活動を行い、文化振興会の助成金を申請したが、テイト委員長や管財人から注意を受けた。その後、セロータは「ヤング・フレンド」を辞任する。


1970年、セロータはイギリス芸術協議会の視覚美術部門で地域の展示キュレーターとして活動を始める。


1973年にオックスフォード近代美術館の館長に就任。この時代にセロータはヨーゼフ・ボイス作品の展覧会の企画を行い、またキュレーターのサンディー·ネアーンと出会い、共同で重要な展覧会の企画を行った。

ホワイトチャペル・ギャラリー時代


ホワイトチャペル・ギャラリー
ホワイトチャペル・ギャラリー

1976年にセロータはロンドンのホワイトチャペル・ギャラリーの館長に任命される。


当時ホワイトチャペルは人材に欠乏して苦しんでいたので、セロータは、まずジェニ・ロマックス(後のカムデン・アートセンターのディレクター)や、シーナ・ワグスタフ(後のテイトのチーフ)をホワイトチャペルに呼び寄せた。


次にカール・アンドレやエヴァ・へッサやゲルハルト・リヒターといった影響力のあるアーティストの展示を行い、またアントニー·ゴームリーのような期待の若手作家の展示などを積極的に行いイギリス現代美術を育てた。


1980年に、サンディー·ネアーンの助けを借りて、20世紀のイギリス彫刻の展覧会を二部構成で開催。これまでのイギリスでは見られなかった大規模な彫刻展として話題を集めた。


1981年に、王立芸術院でノーマン・ローゼンタールやクリストズ・ヨーアーイムアイドズらと「絵画における新しい精神」を企画し、国際的に高い評価を得るようになった。しかしアート・ワールドにおいて国際的な評判が高まっていたけれども、イギリス本国においてはセロータの評判はいまいちで、距離を置かれたままだった。


1984から1985年にかけてセロータは、ホワイトチャペルの大規模な改装をするために12ヶ月以上閉館する大胆な一歩を踏み出した。建築家のコルクホーンとミラーがデザインを行い、ギャラリー、レストラン、講義室、そのほかさまざまな部屋をギャラリー内に併設した。多くの賛同を得たが赤字となったたため、1987年にセロータはアーティストに作品の寄付を頼み込んでオークションで1.4ミリオンポンドを調達し、借金を支払った。


このようなセロータの美術館経営の成功は、1988年にテート・ギャラリーのディレクターに任命される布石となった。(続く)