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【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」

モナ・リザ / Mona Lisa

世界で最も有名で価値のあるレオナルドの絵画


レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》1503-1506年ころ。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》1503-1506年ころ。Wikipediaより。

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1503-1506年頃 
メディア 油彩、ポプラパネル
サイズ 77 cm × 53 cm
ムーブメント 盛期ルネサンス
所蔵者 ルーブル美術館

《モナ・リザ》、または別名《ラ・ジャコンダ》はレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された上半身が描かれた半身肖像画。盛期イタリア・ルネサンスの傑作の1つと評価されている。「世界で最も有名で、多くの人に鑑賞され、書かれ、歌にされ、パロディ化された」芸術作品と言われている。77 cm × 53 cm。パリのルーブル美術館が所蔵している。

 

また、《モナ・リザ》は世界で最も高額の絵画である。1962年1億ドルという史上最高の保険金が設定されている(ルーブルは実際には保険を購入してはいない)。これを現在の価格(2020年)に換算すると約6億5000万ドル相当の保険価格に相当する。

 

絵画のモデルは、多くの批評家たちによりフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻であるリザ・デル・ジョコンドの肖像とみなされており、白いロンバルディアのポプラのパネルに油彩で描かれている。

 

おもな制作時期は1503年から1506年と推定されているが、1517年遅くまで制作し続けてた可能性がある。また、最近の研究では1513年以前はまだ制作していないという研究報告もされている。

 

フランス王フランシス1世が購入してから、その後、フランス共和国の所有物となり、1797年から現在までパリのルーブル美術館に常設展示されている。

 

しばしば「謎めいた」と言及されるスマフート技法を用いて描かれた口もとの微笑表現、堂々とした構図、形態における緻密な造形、だまし絵めいた雰囲気など、さまざまな点において斬新であったこの作品は、現在に至るまで人々を魅了し続け、研究の対象となってきた。 

重要ポイント


  • 盛期イタリア・ルネサンスの傑作の1つ
  • 世界で最も高額な絵画の1つ(約6億5000万ドル相当)
  • 世界で最も有名な美術作品

タイトルと主題


「モナ・リザ」とは「リザ奥さん」


絵画のタイトルは、英語では「モナ・リザ」として知られているが、これはルネサンスの美術史家ジョルジオ・ヴァサリが記載した名称が由来となっている。レオナルドが付けたものではない。ヴァサリによればレオナルドはフランチェスコ・デル・ジョコンドの依頼で、彼の妻リザ・デル・ジョコンドの肖像を描いたと記している。

 

イタリア語で「モナ」は「マドンナ」の丁寧語で、よく似た言葉に「マダム」や「マアム」があり、英語では「マイ・レディ」、日本語では「奥さん、お嬢さん」に相当する。つまり「リザ奥さん」という意味である。

 

発見前、学者は絵画の主題に対していくつかの代替的な見解を有していた。リザ・デル・ジョコンドという名前は別のレオナルドの肖像画作品のもので、リザ・デル・ジョコンドは異なる絵画の主題であり、ヴァサリが言及している《モナ・リザ》作品はほかに少なくとも4点候補があると主張するものもいる。

 

『モナ・リザ』のモデルの候補として、リザ・デル・ジョコンドのほかに何人かの女性が挙げられている。たとえば、イザベラ・ダラゴナ、チェチーリア・ガッレラーニ、フランカヴィッラ公爵夫人のコスタンツァ・ダヴァロス、イザベラ・エステ、イザベラ・グアランダ、カテリーナ・スフォルツァ、ビアンカ・ジョヴァンナ・スフォルツァなどである。また、弟子のサライやレオナルド自身が絵画の肖像画のモデルという説もある。

 

いろいろ意見はあるけれども、21世紀の美術史家たちの総意としては、作品に描かれている女性はリザ・デル・ジョコンドであるという長年の伝統的な意見を採用している

別タイトル「ラ・ジョコンダ」


ヴァサリのモナ・リザに関する記述は、芸術家が死去してから31年後の1550年に出版されたレオナルドの伝記『画家・彫刻家・建築家列伝』を由来としている。レオナルドの助手サライは、1524年に亡くなった際、レオナルドから遺贈された《ラ・ジョコンダ》と名付けられた肖像画を所有していた。

 

レオナルドが《モナ・リザ》の作者であり、またその制作時期の根拠は、2005年にハイデルベルク大学の学者が、大学の蔵書である発見した1477年に出版された古代ローマの哲学者キケロの本に付けられた傍注である。

 

この傍注は1503年10月に、アゴスティーノ・ヴェスプッチが付けたもので、彼はレオナルドを有名なギリシャの画家アペレスにたとえて言及しており、当時、レオナルドはリザ・デル・ジョコンドの絵画制作に取り組んでいると述べている。

 

この傍注の発見の告知に対してルーブル美術館の代表であるフィンセント・デリウビンは、「レオナルド・ダ・ヴィンチは1503年にリザ・デル・ジョコンドという名前のフィレンツェの女性の肖像画を描いていた。これについては確実ですしかし 残念ながら、ここに記載されいてるリザ・デル・ジョコンドの肖像画のことがルーヴル美術館にある絵画のことであると完全に証明することはできません」と述べた。

 

リザ・デル・ジョコンドは、フィレンツェとトスカーナに起源を持つゲラルディーニ家の1人で、裕福なフィレンツェの絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻だった。この作品は2人の新居祝いに依頼を受けたもので、また2人の次男アンドレアの誕生を祝祭記念に描かれたと考えられている。

 

絵画のイタリア名『ラ・ジョコンダ』は、 イタリア語で「jocund(陽気な、幸せな)、または文字とおり「the jocund one」を意味している。リザの既婚名であるジョコンドとイタリア語で「幸せな人」を意味する「La jocund」のしゃれになっている。フランス語では、ラ・ジョコンダはイタリア語と同じ意味である。

ハイデルベルク大学の本で発見されたアゴスティーノ・ヴェスプッチによる注釈ノート
ハイデルベルク大学の本で発見されたアゴスティーノ・ヴェスプッチによる注釈ノート

技術・構図


レオナルド特有の輪郭を描かないスフマート方法


《モナ・リザ》は、当時の女性の理想として考えられていた聖母マリアの多くのルネサンス描写と強い類似点がある。女性は腕を組んで「ポゼット」アームチェアに背筋を伸ばして座っており、寡黙に見える。彼女の視線は鑑賞者に固定されている。

 

レオナルド特有の輪郭を描かないスフマート方法が使われており、女性はまるで生きているように見える。ソフトブレンドは、おもに口角と目尻の二箇所であいまいな雰囲気を生成している。

 

モデルの描写は、15世紀後半のロレンツォ・ディ・クレディアニョーロ・ディ・ドメニコ・デル・マッツィエールの作品と似ている。美術史家のフランク・ツェルナーは、モデルの構図はフランドル絵画までさかのぼることができる。特にパネルの両側に円柱の柱の基部はフランドル肖像画において前例がある。

 

ウッズ・マースデンは、ハンス・メムリンクの《ベネデット・ポルティナリ三連画》(1487年)、または、ロッジアを使用して描かれたセバスティーノ・マイナルディのペンダント肖像画のようなイタリアの模倣品をあげている。これはモデルと遠景の間に円柱を描きこむことで仲人的な効果をもたらしている。レオナルドの以前の作品《ジネヴラ・デ・ベンチの肖像》にはない特徴である。

 

この絵は、架空の風景の前に座っているモデルを描いた最初の肖像画作品の1つであり、また、レオナルドは空気遠近を使用した最初の画家の1人とみなされている。謎めいた女性は、両側に黒い円柱の基盤がある開けたロッジアのようなところに座っている。彼女の背後には、うっすらとした凍てついた山並みなど広大な風景が描かれている。曲がりくねった小路と遠景の橋には人影は見えない。

 

レオナルドは、《ジネヴラ・デ・ベンチの肖像》の肖像と同じように、水平線を首では目と同じ位置に配置する選択をした。それゆえ、人物と風景が結び付けられ、絵画全体にの神秘的な性質を与えている。

幾度も修正されている


《モナ・リザ》にははっきりとした眉毛やまつげが描かれていない。研究者たちではこの時期は上流家庭において毛は見苦しいものであり剃られるのが一般的だったと述べている。

 

2007年、フランスのエンジニアのパスカル・コッテは、超高解像度絵画スキャンの解析結果《モナ・リザ》にはもともとまつげや眉毛が描かれていた証拠を提示すると発表したが、これはおそらく修復を繰り返しているうちに、徐々に消えていったと思われる。

 

また、コッテはモナリザの顔の輪郭や視線に変更が加えられていることを解析し、絵画が何度も作り直されていることを発見した。彼はデジタル技術でオリジナルの《モナ・リザ》を再現してみせた。報告によれば、オリジナルの《モナ・リザ》は依頼者の夫に受け取らなかったため、作り直したか、もう一点オリジナルがあるとされている。

 

また、ある層に多数のヘアピンと真珠で装飾された頭飾りを身に着けて描かれ、のちに消され重ね塗りしている部分があることも発見した。

ルーブルにある《モナ・リザ》はオリジナルではないかもしれない証拠。

モナ・リザ絵画を徹底研究したドキュメンタリー番組「モナ・リザの謎」,2015年12月配信。

絵画のモデルや風景に関して多くの憶測があった。たとえば、レオナルドや当時の社会の美的観点では(現在でも)、彼女はそれほど美人ととみなされなかったが、そのため、おそらくレオナルドはモデルを忠実に描いているという。

 

矢代幸雄をはじめ東洋美術専門家の中には、背景の風景は中国の山水画から影響を受けていると主張するものも多いが、この批評はレオナルドが東洋美術に影響を受けていたかを示すはっきりした証拠が欠けている。

 

ハーバード大学のマーガレット・リビングストン教授による2003年の研究では、中心窩として知られる直接視力で観察すると、モナリザの笑顔が消えると述べている。正面から口元を注意深く見つめると、決して笑っているようには見えないが、視点を口元からほかの部分へ移したり、全体を眺めたりするようにすると途端に微笑が浮かび上がる。

 

2008年、ウルビーノ大学の地形学の教授とアーティスト写真家による研究で、モナリザの風景がイタリアのペザロとウルビーノ、リミニのモンテフェルトロ地域の景色に似ていることが明らかになった。

背景


レオナルド・ダ・ヴィンチは、《モナ・リザ》のモデルであるリザ・デル・ジョコンドの肖像画の制作を1503年10月までに始めている。フィレンツェでは1503年もしくは1504年に始まったと主張するものもいる。

 

ルーブル美術館は「1503年から1506年の間に間違いなく絵が描かれた」と発表しているが、美術史家のマーティン・ケンプは、確実な日付を証明するのは難しいと話している。

 

また、カルロ・ペドレッティやアレッサンドロ・ヴェッツォシのような多くのレオナルドの専門家たちは、この絵画は1513年以降の晩年のレオナルドのスタイルの特徴であると主張している。

 

ほかの学者の中には歴史記録を考慮すると、レオナルドは1513年から作品を描きはじめたと主張している。ヴァサリによれば「レオナルドは4年越しで制作したが、結局未完成のままだった」と記述している。

 

1516年、レオナルドはフランシスコ1世に招待され、アンボワーズ城近くのクロルセで作業をしていた。レオナルドは《モナ・リザ》の作品を持ちはこび、フランスに移ったあとも作品制作を続けていたと考えられている。

 

美術史家のカルメン・C・バンバッハは、レオナルドがおそらく1516年または1517年まで作品を洗練し続けたと結論をくだしている。レオナルドの右手は1517年頃に麻痺して絵が描けなくなっていた。これがモナ・リザが未完成のままになってしまった理由の可能性として考えられている。

 

1505年頃、ラフェエロはペンとインクで1枚のスケッチ画を制作しているが、このスケッチ画はレオナルドの《モナ・リザ》を基盤にしたものと考えられている。主題の側面には円柱がよりはっきり描かれている。

 

また、オスロ国立美術館やウォルターズ美術館にあるようなほかの《モナ・リザ》の模倣作品も側面に大きな円柱が描かれている。そうしたことから、レオナルドの《モナ・リザ》も当初は円柱が描かれていたが最終的にトリミングされたと考えられていた。しかし、1993年までに、美術史家のフランク・ツェルナーはレオナルドの《モナ・リザ》は決してトリミングされていないと主張した。この主張は2004年の一連の検証で確認された。

 

トリミングされていない事実を考慮して、ルーブルの16世紀イタリア絵画のキュレーターのバンサン・ドリュバンは、ラファエロのスケッチ画やほかの模倣作品は、別のレオナルドの《モナ・リザ》作品に触発されたにちがいないと述べた。

 

ルイ・ダラゴンによる1517年10月の記録では、モナ・リザは1513年から1516年の間、ベルヴェデーレ宮殿でレオナルドのパトロンだったジュリアーノ・デ・メディチの依頼で描かれたとされている。しかし、これは間違いだろう。ヴァサリによると、《モナ・リザ》はモデルの夫フランチェスコ・デル・ジョコンドの依頼で制作されている。

 

多くの専門家たちは、日付、依頼人に関する不確定さ、1519年のレオナルド死後の行方、ラファエルのスケッチ画における微細な差異などから、レオナルドが2つのバージョンの《モナ・リザ》を制作していると主張している。

 

柱の絵が書かれた架空の最初の《モナ・リザ》は、1503年にジョコンドから依頼され、未完成のままレオナルドの弟子であり、死ぬまで助手だったサライの手元にあった。これが、ラファエルのスケッチ画やほかの画家の模倣作品に使われている。

 

1513年頃、ジュリアーノ・メディチの依頼により制作された2つ目の《モナ・リザ》は、1518年にサライからフランシス1世に売却された。これが今日、ルーブル美術館に展示されている作品である。この有名な絵画は、フォンテーヌブロー宮殿に保管され、その後、ルイ14世がベルサイユ宮殿に移し、フランス革命まで保管されていた。フランス革命が勃発すると1797年に、ルーヴル美術館に常設展示されるようになった。

ラファエルによるスケッチ画(1505年頃)。両端に大きな円柱が描かれており、《モナ・リザ》のもう1つのバージョンを基盤にしたものとみなされている。
ラファエルによるスケッチ画(1505年頃)。両端に大きな円柱が描かれており、《モナ・リザ》のもう1つのバージョンを基盤にしたものとみなされている。

避難、盗難、破壊行為


戦禍からの避難


フランス革命後、絵画はルーブル美術館に移されたが、一時的に、チュイルリー宮殿のナポレオン1世の寝室に架けられていた。《モナ・リザ》は、それまでアート・ワールドの外部ではあまり知られていなかったが、1860年代にフランスの知識人の一部がルネサンス絵画の傑作として評価を始めるようになった。

 

普仏戦争(1870-1871)の間、戦禍を避けるため絵画は一時ルーブル美術館からブレスト・アーセナルに移された。第二次世界大戦中もルーブル美術館から再び撤去され、最初にアンボワーズ城、ロクデュー修道院、シャンボール城、最後にモントーバンのアングル美術館に運ばれた。

 

1911年まで、この作品は一部の知識人のみで一般大衆の間にはまだ人気がなかった。

ピカソも巻き込まれた盗難事件


 1911年8月21日、ルーブル美術館から絵画が盗まれた。絵が盗まれたことは、翌日、画家ルイ・ペローが最初に気づいたことだった。絵画が館内のどこかで撮影されているかどうか調査した後、ルーブル美術館は調査のために1週間閉鎖した。

 

その後、フランスの詩人ギヨーム・アポリネームが疑われ逮捕された。アポリネールは尋問のために連れてこられた友人のパブロ・ピカソを事件に巻き込んだ。

 

結局、二人とも免罪され、真の犯人には、ルーブル美術館の従業員のヴィンチェンツォ・ペルッジャであり、彼は絵画のガラスケースの組み立てを手伝っていた。

 

彼は開館時間に建物に入り、清掃器具のクローゼットの中に隠れ、美術館が閉館したあと、コートの下に絵を隠して歩いて持ち出したという。

 

ペルッジャは、レオナルドの絵画はイタリアの美術館に戻されるべきであると考えていたイタリア愛国者だった。ペルッジャは、絵画の盗難後にオリジナルの模倣作品の価値が大幅に上昇すると同僚に話をもちかけられた可能性がある。《モナ・リザ》を自宅のアパートに2年間保管した後、イライラしてフィレンツェのウフィツィ美術館の館長であるジョヴァンニ・ポッジに売却しようとして捕まった。

 

ウフィツィ美術館で2週間以上展示されたあと、1914年1月4日にルーヴル美術館に返却された。ペルッジャは6か月間投獄されたあと、イタリアでその愛国心を讃えられ、歓迎された。

 

盗難事件から1年後、サタデー・イブニング・ポストのジャーナリスト、カール・デッカーは、盗難を首謀したと主張するエドゥアルド・デ・フィエルノという共犯者と出会っている。オリジナル作品を隠しながら、贋作作家イブス・ショードロンと共同で、米国で《モナ・リザ》の贋作を販売するため6点の贋作を制作したという。デッカーは、1932年にこの盗難事件の報告を発表した。

1911年の盗難事件時、ルーブル美術館の《モナ・リザ》が架けられていた壁。
1911年の盗難事件時、ルーブル美術館の《モナ・リザ》が架けられていた壁。
1913年にイタリアのウフィツィ美術館で展示された盗難された《モナ・リザ》
1913年にイタリアのウフィツィ美術館で展示された盗難された《モナ・リザ》
1913年12月13日、《モナ・リザ》が発見されたときの新聞記事。
1913年12月13日、《モナ・リザ》が発見されたときの新聞記事。

破壊行為事件


1956年には観客から酸を浴びせられ、画面下部に大きな損傷を受けたことがあった。また、同年12月30日、ボリビア人の男ウゴ・ウンガザ・ビルガスは、ルーブル美術館に展示されていた《モナ・リザ》に岩を投げつけた。ガラスケースが粉砕され、左肘近くの顔料が少し破損した。

 

絵がガラスケースで保護されはじめたのは、数年前、絵に恋をしたと訴える男がカミソリの刃で切り抜いて盗もうとしたためである。

 

損壊事件が相次いだことから、『モナ・リザ』は防弾ガラスのケースに収められた。1974年4月21日には、東京国立博物館に貸し出し展示されていた『モナ・リザ』が、美術館の身体障害者への対応に憤った「足の不自由な女性」に赤色のスプレー塗料を吹き付けられたが、『モナ・リザ』は無事だった。

 

2009年8月2日、フランス市民権を否定されたことに対して取り乱したロシア人女性が、ルーブル美術館で購入したセラミックティーカップを投げつけたが、損傷はうけなかった。

 

ここ数十年、絵画は、1992年から1995年の間、2001年から2005年の間、そして再び2019年の3回、ルーブル美術館の改修に対応するため一時的に移動されている。2019年に導入された新しいキューシステムにより、訪問者が絵を鑑賞するために待つ時間が短縮されるようになった。現在は順番待ちを終えると、訪問グループは約30秒だけ絵を鑑賞することができる。

 

2019年10月に絵画を保護する防弾のガラスケースが新調された。

新調された防弾ガラスケース。
新調された防弾ガラスケース。

評価


19世紀半ばからフランス知識人で評価が高まる


今日、《モナ・リザ》は世界で最も有名な絵画としてみなされているが、20世紀までは単純に多くの高評価を得た作品群の1枚だった。かつて、フランスののフランシス1世のコレクションの一部であった《モナ・リザ》は、フランス革命後に国立博物館となったルーヴル美術館に展示された最初の作品の1つだった。

 

フランス革命後、19世紀半ばごろからレオナルドの天才性がフランスの知識人たちの話題になり、神秘的でファム・ファタールの代表的な美術作品として評価が高まっていった。

 

1878年のベデカーガイドでは、「ルーブル美術館が所蔵するレオナルド作品で最も有名な作品」とキャッチを付けていたが、当時は一般大衆よりも知識人によく知られていた。

 

1911年のモナ・リザ盗難事件が世界中で報じられると、絵画に対する関心が一般大衆の間でも大幅に高まりはじめた。それ以前は、単なるレオナルドの作品の1つとしてみなされていた。それ以前は《最後の晩餐》のほうが有名だった。

 

20世紀には大量のレプリカ作品、グッズ、モナ・リザを使った風刺作品、憶測が行われ「300の絵画と2000の広告」が複製されたと言われている。

 

1962年12月から1963年3月まで、フランス政府は《モナ・リザ》を米国に貸し出し、ニューヨークのメトロポリタン美術館とワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーで展示した。1961年に就航したフランス (SS France)号で運ばれた。ニューヨークでは、推定170万人が「モナ・リザを20秒ぐらい見つめるためだけに」列に並んだという。

 

1974年には東京とモスクワでも公開されている。2014年には930万人がルーヴル美術館を訪れた。元ディレクターのアンリ・ロイレットは、「80%の人々はルーブル美術館にモナリザを見たいだけに来ている」と述べた。

 

現在、ツーリストがあまりにも増えたこと。国連世界観光機関(UNWTO)によると、世界各地への国際観光客(その国に最低でも1泊する訪問者)の数は2018年に14億人に達した。フランスは外国人訪問者が多い国のリストの最上位に再び躍り出た。ルーブル美術館が1月に発表したところによると、同館への昨年の訪問者はどこの美術館よりも多く、1020万人と記録的な数字になった。

《モナ・リザ》を鑑賞するために並ぶ人々。1963年メトロポリタン美術館の外。
《モナ・リザ》を鑑賞するために並ぶ人々。1963年メトロポリタン美術館の外。

1962年から1963年の海外巡遊の前に、絵画は1億ドル(2018年で6億5,000万ドルに相当)の保険評価がされ、事実上世界で最も価値のある絵画になった。なお、ルーブルは保険に入っていない。代わりにセキュリティ費に保険以上の負担を行っているという。

 

2014年、『France 24』は記事で《モナ・リザ》の販売は国債を緩和するだろうと示唆したが、現在、《モナ・リザ》をはじめ他の国宝級の芸術作品はフランスの遺産法で販売が禁止されており、また、公共団体に属する美術館で展示されるものは公共財産とみなされ、それ以外の目的で利用できない。

影響


《モナ・リザ》は、完成する前からフィレンツェの現代絵画に影響を与えはじめた。レオナルドの工房に何度かおもむいたラファエロは、《ユニコーンと若い女性》や《マッダレーナドニの肖像》といった作品で何度か、レオナルドの肖像画の構図や形式の要素を真似ている。また、《ラベレタ》や《バルダッサー・カスティリオーネの肖像》のようなラファエルの後の作品にもレオナルドの絵画の影響が見て取れる。

 

美術史家のゾナーは「モナ・リザよりもジャンルの発展に大きな影響を与えたレオナルドの作品はないだろう。ルネサンス肖像画の決定的な代表作となり、おそらくその理由のため、実在の人物の肖像画だけでなく、理想の具現化した絵としても見られるようになった」と話している。

初期作品とコピー版


マドリードのプラド美術館で開催された「レオナルド・ダ・ヴィンチの手による女性」展で展示されたモナ・リザ作品は、何世紀にもわたってレオナルドの作品と見なされていた。

 

しかし、2012年の修復時を機にレオナルドの工房内の弟子の誰かが描いたものではないかと見なされるようになった。プラド美術館はおそらくサライかメルツィによる作品であるという見解を出したが、他の多くの専門家から疑問視されている。

 

復元された絵画はオリジナルのモナ・リザとは少し異なる視点で、世界初の3次元映像的な作品の一部と推測された。オリジナルのモナ・リザと並べ、2つの絵画を左右の目から見たモナ・リザと見立てて像を結ぶと、なんと立体的な画像が浮かび上がってくるという。さらに研究者たちは「このふたつ(の絵画)を合体させると、世界の歴史において初めての立体像になるかもしれない」と指摘している。

 

しかし、最近の報告では、この3次元的作品は実際には信頼できる立体視深度がともなってないことが実証されている。

 

《アイルワースのモナ・リザ》、また《初期モナ・リザ》として有名なバージョンは、1778年に英国の貴族がはじめて購入し、1913年に美術愛好家のヒュー・ブレイカーが再発見した。この作品は2012年にモナ・リザ財団によってメディアに発表された。レオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザと同じ主題の絵画である。本作品は、多くの専門家たちが16世紀初頭のレオナルドのオリジナル作品であると主張しているが、フランク・ツェルナーやマーティン・ケンプなど否定する専門家も多い。

《プラド美術館のモナ・リザ》
《プラド美術館のモナ・リザ》
《アイルワースのモナ・リザ》
《アイルワースのモナ・リザ》