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【美術解説】アンリ・エドモン・クロス「フォービスムの発展を助けた新印象派」

アンリ・エドモン・クロス / Henri-Edmond Cross

フォービスムの発展を助けた新印象派

《Madame Hector France》1891年
《Madame Hector France》1891年

概要


 

生年月日 1856年5月20日
死没月日 1910年5月6日
国籍 フランス
表現形式 画家、版画家
ムーブメント 新印象派
関連サイト

WikiArt(作品)

アンリ・エドモン・クロス(1856年5月20日-1910年5月16日)はフランスの画家、版画家。

 

ジョルジュ・スーラポール・シニャックらとともに新印象派の巨匠として評価され、運動の第二段階を形作る上で重要な役割を果たす。

 

初期は写実主義的な暗い色味だったが、クロード・モネやカミーユ・ピサロら印象派作家の影響を受けて、戸外制作を行い明るい色彩に変化する。

 

クロスはアナーキズム思想を信じており、作品にはユートピア社会が反映されている。

 

アンデパンダン展の創設メンバーの1人であり、アンリ・マティスをはじめ多くの芸術家に大きな役割を与え、フォービスムの発展の助けとなった。

略歴


幼少期


アンリ・エドモンド・ジョゼフ・ドラクロワは1856年5月20日、フランス北部ノール県にあるコミューン、ドゥエーで生まれた。アンリの兄弟はみんな、生後まもなく亡くなっている。両親は金物店を経営しており、父アルサイド・ドラクロワはフランスの冒険家だった。

 

1865年家族はベルギー国境沿いの北フランスの町リール近郊に移る。アルサイドのいとこオーギュスト・ソワン医師はアンリの芸術的才能を見出し、画家への方向性の良き理解者であり、翌年には画家のカロリュス・デュランのもとでドローイングの指導を受けるため、経済的な援助さえもしてくれた。アンリは1年間デュランの被保護者となった。

 

リールに戻る前、1875年にパリで短い間だが、アンリは画家のフランソワ・ボンビンのもとで絵を学んだ。またエコール・デ・ボザールに入学し、1878年に建築デザインのエコール・アカデミックへ進み、3年間アルフォンス・コーラのもとで学んだ。

 

その後も勉学は続けられ、同じドゥエー出身の画家エミーユ・デュポン・ジプシーのもとで学んだ。

新印象派のメンバーとして活躍


クロスの初期作品は、肖像画と静物画が中心で写実主義的な暗い色味だった。ロマン主義の画家ウジェーヌ・ドラクロワと自身を区別するため、1881年に名前を「アンリ・クロス」とした。

 

同年、パリ・サロンで初めて作品が展示される。1883年にアルプス・マリティームの家族付き添いの旅行で多くの風景画を描いた。ソワン医師はもまた旅に付き添い、その年の後半にニースで開催された国際博覧会で展示されたクロスの絵画の主題ともなった。

 

地中海旅行の間、クロスはポール・シニャックと出会う。彼は親友となり、彼から芸術的な影響を受けた。

 

1884年にクロスは、パリ・サロンの審査に不満を持っていた芸術家たちから構成されたアンデパンダン展の共同設立者となり、賞や審査のない展覧会の主催者となった。そこで、クロスは、ジョルジュ・スーラやアルバート・デュボイス・ピレットやシャルル・アングランや新印象派の画家たちと親しくなった。

 

新印象派のメンバーにも関わらず、クロスは彼らのスタイルをほとんど採用していなかった。クロスの作品はジュール・バスティアン=ルパージュやエドゥアール・マネなど印象派の作家から影響を受けていた。初期の暗い写実主義的な作風から徐々に変化していき、カラーパレットは明るくなり、印象派の輝かしい色になった。クロスは印象派と同じく戸外制作を行なった。

 

1880年代後半には、クロード・モネやカミーユ・ピサロの影響を受けた純粋な風景画を描くようになった。1886年に再び名前を変えて、「アンリ・クロス」から「アンリ・エドモンド・クロス」になった。

 

1891年にクロスは新印象派スタイルで絵を描きはじめ、点描を使って最初の大サイズの作品をアンデパンダン展で展示した。イルマ・クレア夫人の肖像画《Madame Hector France》という作品である。彼女とは1888年に出会い、1893年に結婚した。

《Madame Hector France》1891年
《Madame Hector France》1891年
《農場の夜》1893年
《農場の夜》1893年

アナーキズム思想


1883年以降、クロスはリウマチの療養のためフランス南部でたびたび移動するようになり、ついに、1891年に完全に住居を南部へ移す。作品自体はパリで展示されていた。フランス南部の最初の居住地はル・ラヴァンドゥー近郊のカバッソンで、その後、ル・ラヴァンドー付近へ移っていった。

 

1903年と1908年にイタリア旅行をしただけで、残りの生涯のほとんどのセント・クレアの小さな村で過ごし、年に1度パリのアンデパンダン展で作品を展示した。1892年にクロスの親友ポール・シニャックはサントロペ近郊に移ると、彼らはよくクロスの家に集まった。シニャックのほかに、アンリ・マティス、アンドレ・ドラン、アルベール・マルケらもクロスの家に集まった。

 

新印象派運動とクロスの親和性は、政治哲学を含め絵画スタイルを超えて広がった。シニャック、ピサロ、ほかの新印象主義作家のように、クロスはアナーキズム思想を信じており、ユートピア社会を築こうとしていた

 

1896年にクロスは《放浪者》というリトグラフ作品を制作した。これははじめて出版社と仕事をした作品で、この作品は『Les Temps Nouveaux』でアナーキスト記者のジャン・グラーヴに紹介された。クロスのアナーキズム思想は主題の選択に影響を与えた。彼はアナーキズムを通じて存在するであろうユートピアの世界を示す景色を描いた。

《放浪者》1896年
《放浪者》1896年
《L'air du soir》1893年
《L'air du soir》1893年

晩年


1890年代初頭から中頃のクロスの絵画は、密接また規則的に配置された小さな点描が特徴である。1895年のはじめごろ、彼は徐々に小さな点描から、幅広い塊状になったブラシストロークに変化し、ストローク間にキャンバス状に露出した小さなエリアを残した。その結果、表面はモザイク画によく似たものとなり、フォーヴィスムやキュビスムの先駆的作品として評価することも可能である。

 

初期新印象派の点描方法は、隣り合わせの細かい点描を網膜上で混合させることによって調和させていたが、対照的に「第2世代の新印象派」では、色を混合させず別々に独立させた。クロスは「特定の風景や自然の風景の色を調和させることよりも、純粋色の調和を生成することに興味がある」と新印象派の理論について説明している。

 

マティスやほかの画家は、後期のクロスの絵画手法に大きな影響を受け、それはフォーヴィスムの原理を形成する助けとなった。クロスの影響を受けたほかの画家には、アンドレ・ドラン、アンリ・マンガン、シャルル・カモワン、アルベール・マルケ、ジャン・ピュイ、ルイ・ヴァルタなどがいる。

 

1905年にパリのドゥルエ画廊はクロスの初個展を開催し、絵画と水彩画をあわせて30点を展示した。個展は大成功をおさめ、批評家から賞賛され、作品はほぼ完売だった。ベルギーの象徴主義の詩人エミール・ヴェルハーレンは、自国の新印象派の熱狂的な支持者で、クロス個展のカタログで序文を執筆した。

 

1880年代初頭、クロスは目の病気を患い、1900年代にはさらに深刻化した。また関節炎にも苦しんだ。長年にわたり彼を悩ませた健康問題のため、クロスの作品のサイズは比較的小さい。しかし、最晩年には彼は非常に生産的で、創造的であり、個展は大成功をおさめ、批評家から高い評価を受け、商業的にも成功をおさめた。

 

1909年クロスはがんでパリの病院へ入院。1910年1月セント・クレアに戻り、1910年5月16日、54歳の誕生日の4日前にがんで死去。ル・ラヴァンドゥーの墓地に埋葬された。