アンリ・ルソー / Henri Rousseau
素朴派の代表で元祖ヘタウマ芸術家
概要
アンリ・ルソー(1844年5月21日-1910年9月2日)はフランスの後期印象派画家。税関職員。独学の日曜画家であり、プリミティブィスム、ナイーブ・アート(素朴派)の祖として位置づけられている。
普段は「ル・ドゥアニエ」(税関職員)として生活をしている。ルソーの作品は、パブロ・ピカソやカンディンスキーなどの前衛芸術家に影響を与えた。
絵画における「素朴派」とは、プロのうまい絵に対するアマチュアや素人のへたな、稚拙な絵であるが、同時にそのへたさ加減や、稚拙さが魅力になっているような絵である。日本では「ヘタウマ」ともいわれることがある(ただし、ルソーはうまい)。
素朴絵画が近代に始まるのは、市民が初めて余暇に恵まれ、趣味で描く画家、いわゆる日曜画家が急増したことと無関係ではない。その近代の素朴絵画の元祖かつ第一人者がアンリ・ルソーである。彼は40代前半から本格的に絵を描き始め、49歳までには仕事を退職して本格的に絵を描くようになった。
批評家からは生前に嘲笑されていたが、彼の作品は芸術性の高い独学の天才として認められるようになった。単なる稚拙に終わらないルソーの型破りな芸術の真価をいち早く見抜いたその一人がピカソで、まだ無名だったルソーの作品をパリの骨董屋で二束三文で買っている。
抽象絵画の元祖カンディンスキーも、ルソーのように対象を「徹底的に単純に描くこと自体、その内面にあるものを響かせることである」として、彼を現代美術の先駆者の一人に数えている。
重要ポイント
- 素朴派(ナイーブ・アート)の始祖
- 日本の「ヘタウマ」のルーツ
- ピカソやカンディンスキーや近代美術家に大きな影響
略歴
幼少期
アンリ・ルソーは1844年、フランスのラヴァルの配管工の家庭で生まれた。貧しい家庭だったためルソーは幼少時から働くことを与儀なくされていた。その後ルソーの父は借金を背負い、家を差し押さえられたため一家はラヴァルを去ることになる。
高校の成績は平凡だったが、美術や音楽は得意だった。高校卒業後、ルソーは弁護士になるため法律の勉強をするが、ささいな偽証がきっかけで軍隊に入る。兵役を終えて父親が死去すると1868年にパリへ移動。公務員として働き、未亡人となった母親の生活を支援。
1868年に、地主の15歳の娘、クレメンス・ボイタードと結婚。彼女との間に6人の子どもをもうけた(生き残ったのは1人)。1871年にルソーはパリの物品関税の取り立て人となり、パリに輸入されてくる商品の関税検査の職務に就く。ボイダードが1888年に死去し、1898年にジョセフィン・ヌリーと再婚する。
40代前半に絵画に目覚め絵を描きはじめる。49歳で退職すると、一日中絵を描くことに没頭しはじめた。
ルソーは絵は独学だと主張していたが、フェリックス・オーギュスト・クレマンとジャン=レオン・ジェロームといったアカデミック美術の画家から“いくらか助言”をもらっていることをあとで認めている。美術史の位置づけとして、基本的にはルソーは独学であり素朴派、もしくはプリミティヴィズムの画家とみなされている。
絵の源泉
ルソー作品の大半はジャングルが描かれているが、ルソーはフランスを離れてジャングルに行った経験は一度もない。
ルソー研究者の間では、軍役時代にメキシコのフランス遠征軍に参加してジャングルに入っている可能性があるとされている。
しかし、もっぱらルソーの絵の源泉は、児童本の中に描かれているイラストレーションやパリの植物園だと考えられている。ジャングル内に描かれている野生動物も同様に考えられる。美術批評家のアーセン・アレクサンドルによれば、ルソーはよくパリ植物園に通っていたという。
ほかに、メキシコへフランス遠征軍として渡ったさいに兵士と出会い、兵士から亜熱帯の国に関する話を聞いたのが絵のきっかけだとも考えられている。
また、ルソーはポートレイト絵画に新しい要素をもたらした。まず自分の好きな都市の風景を描き、その後、前景に好きな人物を描いているという。そのため背景の建物や人物に比べると、前景の人物があまりにも巨大化したおかしな絵になってしまっている。画業の当初は批評家たちの嘲笑の的となっていたものの、晩年には独創的な絵画として高評価へと一変した。
サロン・ド・アンデパンダンに参加
ルソーの平面的で稚拙な絵画は多くの批評家から見くびられた。しかし彼の極端な無邪気さや虚栄心や絵画に対する熱意は多くの鑑賞者をひきつけた。
1886年からルソーは定期的にサロン・ド・アンデパンダンに参加したが、彼の作品はあまり目立つように配置されることはなかった。が、毎年参加しているうちにファンを増やしていった。1891年に展示された《熱帯雨林の中の虎》でルソーは初めて評価を上げる。1893年にルソーはモンパルナスにスタジオを移し、そこで1910年に死去するまで絵を描きつづけた。
1893 年、ルソーはモンパルナスのアトリエに移り住み、1910 年に亡くなるまで活動を続けた。1897年には代表作である《眠るジプシー女》を制作。1905年にルソーは巨大なジャングル風景画《飢えたライオン》をサロン・ド・アンデパンダンで展示。当時、アンリ・マティスのような前衛若手作家が参加しており、フォービスム作品が初めて展示されていた。ルソーの絵はフォービスムというネーミングに影響を与えていた可能性もある。
1907年にルソーは芸術家のロバート・ドローネーの母ベルトの会社「コンテス・ド・ドローネー」と契約を結び《蛇使い》を制作。
ピカソ主宰のルソー祭り
ピカソは路上販売されていたルソーの絵に出会い驚く。瞬時にルソーの才能を理解したピカソはルソーに会いに行く。1908年、ピカソはルソーを賛美するためのイベント『ルソーの宴』を企画し、当時、ピカソのスタジオがあったアパート「洗濯船」で開催。
ゲストにギヨーム・アポリネール、ジャン・メッツァンジェ、ファン・グリス、マックス・ジャコブ、マリー・ローサンサン、アンドレ・サルモン、モーリス・レイナル、ダニエル・ヘンリー・カーンワイラー、レオ・ステイン、ガートルード・ステインなどが招待された。こうして、ルソーの名前は美術業界の間に広まっていった。
アメリカの詩人で文芸評論家のジョン・マルコム・ブリニンは、「ルソーの宴は、20世紀の最も注目すべき社交的なイベントのひとつである」と書いているが、「華やかなイベントではなかったし、豪華なイベントでもなかった。
その後の名声は、革命的な芸術運動の中で、その運動が最も早く成功を収めた時期のカラフルな出来事であったという事実と、それぞれの影響力が何世代にもわたって芸術界に創造的な光のスポークのように放たれた個人が参加していたという事実に由来している。
晩年
1893年にルソーは退職した後、パートタイムの仕事とわずかな年金収入で生活を行いながら、路上で絵を販売していた。ほかにフランスの新聞『ル・プチ・ジャーナル』でイラストレーションの仕事をしたこともある。
ルソーは1910年3月に、サロン・ド・アンデパンダンで最後の作品《夢》を展示し、同月に放置していた脚の蜂窩織炎に苦しみ始める。8月にルソーはパリのネカー病院で脚の壊疽が原因で入院。1910年9月2日、手術後に死去。葬儀にはポール・シニャック、マヌエル・オルティス・デ・サラテ、ロバート・ドローネー、ソニア・ドローネー、ブランクシー、家主のアルマン・クエヴァル、ギヨーム・アポリネールら7人が出席し、ブランクシーは墓石の碑文が書かれた。
ルソーさん、聞こえていますか?
ドロネー、奥様、ムッシュー・ケヴァル、そして私です
私たちの荷物は天国の門を通って 免税で通過させてください
筆と絵の具とキャンバスを持ってきます
神聖な余暇を過ごせるように
絵画の光と真実。
かつてあなたが星とライオンとジプシーに面した私の肖像画を描いたように
注釈
ルソーの作品は、パブロ・ピカソ、ジャン・ユーゴー、フェルナン・レジェ、ジャン・メツィンガー、マックス・ベックマン、シュルレアリスムなど、前衛芸術家の数世代に多大な影響を与えた。
ニューヨーク・タイムズ紙に書いた美術評論家ロベルタ・スミスによると、「驚くべきのは自画像で、例えばピエール・ロティの肖像画もルソーにかかれば、ぶっきらぼうに集中して描かれている」という。
1911年には、ルソーの作品の回顧展がサロン・デ・アンデパンダンで開催された。彼の絵画は、第1回ブラウ・ライター展にも出品された。批評家は、ルソーがウォレス・スティーブンスの詩に与えた影響を指摘している。例えば、『ハルモニウム』というコレクションの中のスティーブンスの「バナナのための花飾り」を参照している。
アメリカの詩人シルヴィア・プラースは、ルソーの偉大な崇拝者であり、ルソーの芸術に言及し、詩の中で彼の作品からインスピレーションを得ていたた。詩「ユリの中の赤いソファの上のヤドウィガ」(1958年)はルソーの絵「夢」に基づいており、詩「蛇使い」(1957年)はルソーの絵「蛇使い」に基づいている。
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Henri_Rousseau、2020年5月26日