【美術解説】ヘンリー・ピーチ・ロビンソン「芸術的合成写真の先駆者」

ヘンリー・ピーチ・ロビンソン / Henry Peach Robinson

芸術的合成写真の先駆者


《色褪せ》1858年
《色褪せ》1858年

概要


生年月日 1830年7月9日
死没月日 1901年2月21日
国籍 イギリス
表現媒体 写真
ムーブメント ピクトリアリズム

ヘンリー・ピーチ・ロビンソン(1830年7月9日-1901年2月21日)はイギリスの写真家。

 

複数のネガや印刷物を結合して1つにする合成印画法の先駆者として知られており、ファインアートでは初期モンタージュの代表と評価されることもある。ロビンソンは写真や芸術として扱う問題に精力的に参加した。

 

ロビンソンは19世紀なかばのイギリスにおいて、最も有名な写真家の一人である。イギリスの芸術写真を探求する団体「王立写真協会」の副会長であり名誉会員であり、そのライバルグループで、のちにアメリカの写真グループ「フォト・セセッション」に影響を与えた「リンクト・リング協会」の初期会員でもある。

 

最も有名な写真作品である1858年の《色褪せ》。陰鬱さや病的なイメージをオシャレな雰囲気にした合成写真である。なお、ロビンソンは絵画ではラファエル前派や美術批評家ジョン・ラスキンの信者であったため、彼の写真にはそのような影響が表れている。

《ロビンソンの一日のしごとが終わったとき》1877年
《ロビンソンの一日のしごとが終わったとき》1877年

略歴


ロビンソンは、父ジョン・ロビンと妻エリザの長男として生まれた。13歳までラドローにあるホレイショ・ラッセル・アカデミーで学ぶ。その後、リチャード・ペンワーンのもとで1年間ドローイングを学び、ララドローの本屋で印刷屋だったリチャード・ジョーンズのもとに見習いとして弟子入りする。

 

1852年にロイヤル・アカデミーで油彩の絵画作品を展示したあと、同年に写真を撮り始める。5年後に写真家のヒュー・ウェルチ・ダイアモンドと出会い、本格的に写真に専念するようになった。1855年にロイヤル・レミントン・スパに写真スタジオをかまえ、肖像写真の仕事を始めた。

 

1856年に写真家のオスカー・ギュスターヴ・レイランダーとともにバーミンガム写真協会の設立メンバーとなる。1859年に化学者ジョン・エドワード・グリーブスの娘セリーナ・フリーブスと結婚。1864年、34歳のロビンソンは、写真現像の際に発する有毒性の高い化学物質が原因で健康を害し、仕事を中止する。その後、暗室での過酷な現像作業はやめて、ネガをハサミを使って切りて合成写真を作るようになった。

 

ロンドンに移ると、ロビンソンは撮影よりも写真の理論的な側面を研究するようになる。そうして、1868年にエッセイ『写真の絵画効果、写真の構図と明暗のヒント』を出版すると、写真業界に大きな影響を与えることになった。

 

この頃になると、健康は回復しはじめ、ネルソン・キング・チェリーズとともにロイヤルタンブリッジウェルズ新しい仕事場を開設する。1870年にロビンソンはロイヤル写真協会の副会長になり、その後、写真を絵画や彫刻と同じく"芸術"として扱うよう強く主張し始めるようになる。芸術写真運動の始まりである。

 

1875年にチェリーズとのビジネス関係を解消するが、ロビンソンは1888年に退職するまで仕事を続ける。写真協会内で内部紛争があったあと、ロビンソンはロイヤル写真協会を辞任し、ライバル関係にあった写真グループのリンクト・リング協会の初期会員の一人となり、1897年まで活動を続けるが、一方でロイヤル写真協会の名誉会員にも選ばれた。

 

ロビンソンはイギリス写真コンベンションの初期サポーターとなり、芸術としての写真を扱う問題について長期的な議論に参加するようになる。1891年にPCUKの会長に就任する要請を受ける。

 

1901年に死去。