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【美術解説】ヨハネス・フェルメール「光による巧みな表現が特徴のバロック画家」

ヨハネス・フェルメール / Johannes Vermeer

光による巧みな表現が特徴のバロック画家


《真珠の耳飾りの少女》1665年頃
《真珠の耳飾りの少女》1665年頃

概要


生年月日 1632年10月
死没月日 1675年12月
国籍 オランダ
表現媒体 絵画
ムーブメント バロック

 

代表作

・《真珠の耳飾りの少女》

・《牛乳を注ぐ女》

ヨハネス・フェルメール(1632年10月-1675年12月)はオランダのバロック時代の画家。本名ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト。当時のオランダの中産階級の家庭内の風景画に特化した作風で知られる。

 

生前はデルフトやハーグで認められた地方の風俗画家としてそこそこ成功をおさめていたが、作品数が相対的に少なかったため裕福ではなく、死の際には妻と子どもに借金を残していたという。

 

フェルメールはゆっくりと細心の注意を払って制作を行い、非常に高価な顔料を頻繁に使用していた。フェルメール作品で極めて評価が高い点は光に対する扱い方や描きかただろう。

 

ハンス・コーニングスベルガーは、「彼の絵画のほとんどすべては、デルフトの彼の家の2つの小さな部屋にあるものだが、同じ家具や装飾品を工夫して配置し、また同じ人々、おもに女性を描いていることが多い」と書いている。

 

死後、フェルメールの名声はほとんど無名状態になる。アーノルド・ホウブラケンの17世紀オランダ絵画に関する主要な資料集『オランダ画家と女性芸術家の大劇場』では、フェルメールの名前はほとんど言及されず、その後の約2世紀にわたってオランダ美術調査ではフェルメールの名前は省かれていた。

 

19世紀になって、フェルメールはグスタフ・フリードリヒ・ヴァーゲンやテオフィレ・トーレ=ビュルガーによって再発見される。2人は彼はフェルメールに帰属する66枚の作品をに関する論文を発表した。なお今日、普遍的にフェルメールの作品と認定されているのは34枚である。

 

この頃からフェルメールの評価がヨーロッパで高まりはじめ、現在ではオランダ黄金時代の偉大な画家の一人として認識されている。

 

フランツ・ハルスやレンブラントのようなオランダの黄金時代を代表する芸術家たちと同様に、フェルメールも海外では有名になることはなかった。レンブラントと同じくフェルメールは画家でありながら、熱心な美術品の収集家であり、ディーラーでもあった。

略歴


フェルメールの生涯については、最近までほとんどしられていなかったが、デルフトの街で生涯を過ごし、芸術に専念していたといわれている。

 

19世紀までのフェルメールに関する情報源は、いくつかの登記簿、古文書、他の芸術家の記述しかなかった。このため、美術批評家のトレ=ビュルガーは彼を「デルフトのスフィンクス」と名付けている。

幼少期と祖先


ヨハネス・フェルメールは1632年10月31日、改革派教会の洗礼を受けている。彼の父はレイエニ・ヤンズーンという名前で、絹やカファ(絹と綿や羊毛の混合物)を作る中産階級の労働者だったという。

 

アムステルダムで見習い職人をしていた父レイニエは、当時多くの画家が住んでいたファッショナブルなシント・アントニースブレストラートに住んでいた。1615年、レイニエはディグナ・バルテュスと結婚。夫婦はデルフトに移り住み、1620年に洗礼を受けた娘ガートルイを授かる。

 

1625年、レイエニはウィレム・ファン・ヴァイラントという兵士との喧嘩に巻き込まれている。この兵士は5ヵ月後に傷口が元で亡くなったが、その頃にレイエニは絵画のディーラーを始めるようになる。

 

1631年、レイエニは「フライング・フォックス」と呼ばれる宿を借りて経営する。1635年頃、レイエニはVoldersgracht25番地か26番地に住んでいた。1641年、レイエニは青空市場にフランドルの町の「メルヘン」にちなんで、より大きな宿を購入しているが、この宿代はかなりの経済負担となった。レイエニが1652年10月に死去すると、フェルメールが一族の美術事業経営を引き継ぐことになった。

結婚と改宗


1653年4月、ヨハネス・レイニエルツ・フェルメールはカトリックの女性、カタリーナ・ボレーネス(ボレーネス)と結婚。祝祭は近くの静かなシプルイデン村で行われた。フェルメールの新しい義母マリア・ティンズは彼よりもかなり裕福だった。

 

4月5日の結婚を前にプロテスタントだったフェルメールにカトリックに改宗するよう主張したのは義母だったかもしれない。画業では生活できなかったため、裕福な義母でカトリックのマーリアに頼らざるを得なかったと思われる。

 

美術史家のヴァルター・リートケによれば、フェルメールのカトリックの改宗は確固たる信念のもと行われたという。その根拠として、1670年から1672年にかけて制作された彼の絵画《信仰の寓話》は、画家のこれまでの自然主義的な関心事よりも、聖体の秘跡を含む象徴的な宗教的規則により重点を置いている。

 

しかし、メトロポリタン美術館のオランダ絵画研究家のウォルター・リートケは、この絵は、おそらく敬虔なカトリックのパトロンのために描かれたのではないかとも推測している。フェルメールがカトリックに改宗したのかどうかはいまいちよくわからない。

 

ある時点から、2人はカタリーナの母親と同居する。カタリーナの母親は、秘密教会のすぐ隣、オーデ・ランゲンダイクにあるかなり広い家に住んでいた。ここでフェルメールは終生を過ごし、2階の前室で絵画を制作した。妻は15人の子供を産み、そのうち4人は洗礼を受ける前に亡くなっているが、「ヨハネス・フェルメールの子供」として記録されている。

 

フェルメールの子供のうち10人の名前は、親戚が書いた遺言書から判明している。これらの名前のいくつかは宗教的な意味合いを持っており、末っ子(イグナチオス)はイエズス会の創始者にちなんで名づけられた可能性が高い。

キャリア


フェルメールがどこで誰に弟子入りしたのかは明らかになっていない。1668年に印刷家のアーノルド・ボンが書いた文章の論争となった解釈を基にすれば、カレル・ファブリトゥスがフェルメールの師匠だったのではないかという憶測もある。

 

美術史家はこれを裏付ける確固たる証拠を見つけていない。地元の権威的画家のレオナート・ブレイマーとフェルメールは知り合いだったもの、二人の画風はかなり異なっている。

 

美術史家のリートケは、フェルメールが父親の人伝てから得た情報をもとに独学で学んだと提案している。

 

フェルメールはカトリックの画家アブラハム・ブルーマートのもとで学んだと考えるものもいる。フェルメールの作風は、ユトレヒト・カラヴァッジョ派の作風に似ており、その作品はいくつかの作品の背景に「絵画中絵画」として描かれている。

 

1653年12月29日、フェルメールは画家たちの組合「聖ルカ」のギルドの会員になった。ギルドの記録によると、フェルメールは通常の入会金を払っていなかったことが明らかになっている。

 

この年はペスト、戦争、経済危機の年であり、フェルメールだけが財政難に陥ったわけではなかった。1654年、デルフトは「デルフト雷鳴」と呼ばれる火薬庫の大爆発事件に見舞われ、100人以上が死亡し、数千人が負傷し、街の大部分が破壊された。

 

1657年、フェルメールは地元の美術コレクター、ピーター・ファン・ルイベンをパトロンとして見つけ、彼にお金を借りたかもしれない。フェルメールは、ライデン出身の美術家たちにインスピレーションを得たと言われている。

エフベルト・ファン・デル=プール《1654年の爆発後のデルフトの眺め》
エフベルト・ファン・デル=プール《1654年の爆発後のデルフトの眺め》

左からの光、大理石の床など、ヨハネス・フェルメールがメッツに与えた影響は明らかである。また、フェルメールは、同じようなスタイルのジャンルの作品を制作したニコラエス・メースと競合していたかもしれない。

 

1662年、フェルメールはギルドの長に選出され、1663年、1670年、1671年に再選した。

 

フェルメールはゆっくりと仕事をしており、おそらく年に3枚の絵画を注文で制作していたと思われる。1663年にバルタザール・デ・モンコニスが彼の作品の一部を見ようと訪れたが、フェルメールには見せるべき絵がなかった。

《小さな路地》1657-1658年
《小さな路地》1657-1658年
《デルフトの風景》1660-1661年
《デルフトの風景》1660-1661年

戦争と死


1672年、ルイ14世とフランス軍が南方からオランダ共和国に侵攻したため、オランダは深刻な経済不況に見舞われまた(「災厄の年」と呼ばれている)。第三次アングロ・オランダ戦争では、イギリス艦隊と2つのドイツ連合軍が東からオランダを攻撃し、さらなる破壊をもたらした。

 

多くの人々がパニックに陥り、裁判所、劇場、商店、学校が閉鎖された。状況が好転するまでに5年がかかった。1674年、フェルメールは市民衛兵の一員に就く。

 

1675年の夏、フェルメールは義母の財産を担保に、アムステルダムの絹織物商ヤコブ・ロンバウツからアムステルダムで1,000ギルダーを借りている。

 

1675年12月、フェルメールは短い闘病生活の末に死去。1675年12月15日にプロテスタントの旧教会に埋葬された。後に妻が債権者への嘆願書の中で、フェルメールの死について次のように述べている。

 

「フランスとの破滅的な戦争の間、彼は自分の作品を売買できなかっただけでなく、経済不況により、彼が取り扱っていた他の巨匠の絵画と一緒に置き去りにされていた。その結果、また、子供たちが収入源を持たない重荷もあり狂乱と化し、一日半で健康な状態から死に至るほどの腐敗と退廃に陥った」。

 

妻キャサリナ・ボーンズは、フェルメールの死因は経済的なプレッシャーによるストレスだと話している。美術市場の崩壊は、画家として、また美術商としてのフェルメールのビジネスに大きな損害を与えた。彼女は11人の子供を育てなければならなかったため、高等裁判所にフェルメールの債権者に対する債務の免除を求めた。

 

フェルメールの家には8つの部屋があり、彼のアトリエには、椅子2脚、画家のイーゼル2台、パレット3台、キャンバス10枚、机、オーク材のプルテーブル、引き出し付きの小さな木製食器棚、そして「箇条書きにするに値しない粗品」があった。

 

フェルメールの絵画のうち19点は、カタリーナと母親に遺贈された。未亡人となった妻は、多額の借金を返済するために、さらに2つの絵画をヘンドリック・ファン・バイテンに売却した。

 

フェルメールはデルフトでは有名な芸術家だったが、故郷以外ではほとんど無名だった。フェルメールの作品の多くを購入していたのは、地元のパトロンであったピーテル・ファン・ルイヴンで、海外にコレクターはいなかったため名声が広まる可能性は低かった。

 

フェルメールはデルフトでは有名な芸術家だったが、故郷以外ではほとんど無名だった。フェルメールの作品の多くを購入していたのは、地元のパトロンであったピーテル・ファン・ルイヴンで、海外にコレクターはいなかったため名声が広まる可能性は低かった。

 

フェルメールの作品が少ないのは、いくつかの要因がる。弟子がいなかったこと、長女のマリアに絵を教えていたこと、子どもが多く育児が忙しく絵を描く時間がなかったこと、美術家と同時に宿屋の経営もしていたことなどが挙げられている。

オランダのデルフトのヨハネス・フェルメール記念碑。
オランダのデルフトのヨハネス・フェルメール記念碑。

スタイル


フェルメールは、同時代の多くの画家と同様に、最初にグレーのモノクローム(グリザイユ)、または限られたブラウンとグレーのパレット(デッドカラーリング)を使用し、その上に透明な釉薬の形でより彩度の高い色(赤、黄、青)を塗っているかもしれない。

 

フェルメールが描いたと断定されたドローイングはなく、彼の絵からは準備の方法についての手がかりはほとんど得られていない。

 

17世紀の画家の中で、これほどたくさん、あるいはキャリアの早い時期に、法外に高価なラピスラズリ(天然ウルトラマリン)を使用した画家は他にいないだろう。フェルメールは、この色を単純に自然なまま使うだけで終わっていない。地球の色である黃茶色と黄土色は、壁に複数の色を反射させ、強く照らされた絵画の内部の暖かい光として理解されるべきであろう。

 

このような方法で、彼は自分が見たものをどのようなものよりも完璧な形で描くことに成功した。この作業方法は、すべての物体の表面が隣接する物体の色の一部を占めるというレオナルドの観察に対するフェルメールの理解に触発されたものと思われる。これは、どの物体も完全にその自然な色では見られないことを意味する。

 

天然ウルトラマリンを効果的に使った作品は《ワイングラスと少女》である。赤いサテンのドレスの影は天然のウルトラマリンで下塗りされており、その上に塗られた下地の青絵具層のおかげで、赤の湖と朱色の混合物は、わずかに紫がかった涼しげで鮮明な色を出している。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Johannes_Vermeer、2020年4月22日アクセス