· 

【映画解説】スタンリー・キューブリック「映画史において最も偉大であり後世に影響を与えた監督」前半

スタンリー・キューブリック / Stanley Kubrick

映画史において最も偉大であり後世に影響を与えた監督


映画『2001年宇宙の旅』より。
映画『2001年宇宙の旅』より。

概要


生年月日 1928年7月26日
死没月日 1999年3月7日
国籍 アメリカ
表現媒体 映画
代表作

・『突撃』

・『スパルタカス』

・『ロリータ』

・『博士の異常な愛情』

・『2001年宇宙の旅』

・『時計じかけのオレンジ』

・『バリー・リンドン』

・『シャイニング』

・『フルメタル・ジャケット』

・『アイズ・ワイドシャット』

スタンリー・キューブリック(1928年7月26日-1999年3月7日)はアメリカの映画監督、映画脚本家、プロデューサー。映画史において最も偉大で、また後世に影響を与えた映画制作者として評価されている。

 

キューブリックの映画の多くは長編小説また短編小説の改案で、幅広いのジャンルの横断、ダークユーモア、現実主義、独特な撮影技法、広大なセット、刺激的な音楽が特徴的である。

 

キューブリックはニューヨークのブロンクスで育ち、1941年から1945年までウィリアム H. タフト高校で学んだ。高校ではごく平均的な成績だったが、学生時代から文学、哲学、映画に強い関心を示し、高校卒業後は映画における制作や演出など制作に必要な全過程を独学で学んだ。

 

1940年代後半から1950年代初頭にかけて『Look』誌で写真家として働いたあと、低予算で短編映画の制作をはじめ、その後、メジャーなハリウッド映画の制作に着手する。

 

ハリウッド映画第一作は、1956年にユナイテッド・アーティスツで制作した『現金に体を張れ』である。これはのちにカーク・ダグラスとコラボレーションをするきっかけとなった。2人は1957年に『突撃』、続いて1960年に歴史スペクタル映画『スパルタカス』を制作する。このころからハリウッド映画制作者としてのキューブリックの評判は高くなる

 

しかし、ダグラスとの協働や制作スタジオで生じる創作性の違い、またハリウッド産業への嫌悪感やアメリカでの治安悪化などの理由で、1961年からキューブリックはイギリスへ移り住む。以後、生涯の大半をキューブリックはイギリスで過ごすことになった。

 

キューブリックは、ハートフォードシャーにあるチルドウィックベリー・マナーという邸宅で妻のクリスチアーネと同居し、執筆や調査、編集、そして制作の細部における管理などの仕事を行う。

 

イギリスに移ってからキューブリックは映画製作における自身の芸術性をほぼ完全に自身でコントロールできるようになり、同時に有名なハリウッドのスタジオからも財政的支援を受けることもできた。

 

イギリスで最初に制作した映画作品は1962年の『ロリータ』である。次いで1964年に『博士の異常な愛情』を制作する。

 

完璧主義者だったキューブリックは、スタッフに厳しい要求を突きつけていたことはよく知られている。キューブリックは演出から脚本、編集、映画制作プロダクションにいたるまでのほとんどを自ら管理し、また俳優やほかの共同制作者と緊密な繋がりを保ち、自身の作品や演出シーンに細心の注意を払っていた。

 

キューブリックはよく映画で同じシーンを数十回も撮り直しをしたので、俳優たちと多数の衝突を起こしている。たとえば『シャイニング』では2秒程度の撮影に2週間かけ、190以上のテイクを費やしたこともある。そのため、俳優の間では極めて評判が悪かったが、キューブリックの映画の多くは映画史において新しい境地を切り開いた。

 

1968年の『2001年宇宙の旅』におけるイノベーティブな特殊効果や科学的実在論は映画史において前例のないもので、1969年にキューブリックにとって唯一のオスカー視覚効果賞をもたらす作品となった。スティーブン・スピルバーグは『2001年宇宙の旅』について自分の世代における「ビッグバン」と言及し、映画史上最も偉大な映画の1つと評価した。

 

18世紀時代を描いた1975年の映画『バリー・リンドン』でキューブリックはカール ツァイスプラナー50mm f/0.7を使って、蝋燭の明かりだけで室内を撮影した。

 

1980年の映画『シャイニング』では、カメラ技術者のギャレット・ブラウンが開発したステディカム(カメラ安定支持機材)を使い、低いアングルで固定して追跡撮影したことで評価された。

 

キューブリックの映画の多くは物議をかもし、公開時にはさまざまな議論が生じた。なかでも1971年の『時計じかけのオレンジ』は社会問題にまで発展。映画から影響を受けて殺害事件を起こした少年たちと『時計じかけのオレンジ』との関連性が取り沙汰され、キューブリックのもとには多数の脅迫状が寄せられた。

 

自身と家族の安全を危惧したキューブリックの要請により1973年全ての上映が禁止された。英国での再上映が始まったのは、ビデオが発売されキューブリックが他界した後の1999年になってからである。

 

しかし、後に本作はアカデミー賞、ゴールデングローブ賞、英国映画テレビ芸術アカデミーなど多数の賞にノミネートされ、高い再評価を受けた。

 

キューブリックの遺作は1990年、70歳で亡くなる直前に制作された『アイズ・ワイド・シャット』である。

重要ポイント

  • 映画史で最も偉大であり最も後世に影響を与えた
  • 監督、撮影、脚本、編集など映画製作全般にわたり自身で細かく管理した
  • 完璧主義者のため多くのスタッフと制作中にもめた

略歴(前半)


幼少期


スタンリー・キューブリックはニューヨークのマンハッタン、307・2番通りにあった産婦人科医院で生まれた。

 

キューブリックは、「ジャック」または「ジャックス」の愛称のユダヤ系の父ヤコブ・レオナルド・キューブリック(1902年5月21日-1985年10月10日)と、「ゲルト」の愛称のユダヤ系の母サディ・ガートルード・キューブリック(1903年10月28日-1985年4月23日)の長男として生まれた。

 

また、キューブリックにはバーバラ・メアリー・キューブリック(1934年5月生まれ)という妹がいる。

 

父ジャック・キューブリックは、ポーランド系ユダヤ人、オーストリア系ユダヤ人、ルーマニア系ユダヤ人の祖先をルーツに持つ医者で、1927年にニューヨーク医科大学を卒業、同年、オーストリア系ユダヤ人移民の子どものキューブリックの母と結婚、翌年1928年にキューブリックが生まれる。

 

キューブリックの曾祖父ハーシュ・キューブリックは、1899年12月27日、47歳のときに妻と2人の息子を残してイギリスのリバプールからエリス島へ船で移っている。

 

ハーシュの2人の息子の1人、キューブリック祖父にあたるイライアスも若い女性と新しい生活をはじめるため、1902年にアメリカへ移り住む。同年キューブリックの父ジャック・キューブリックが生まれる。

 

キューブリックが生まれたとき、一家はブロンクスの2160クリントン通りにあるアパートに住んでいた。両親はユダヤ形式の婚姻関係にあったが、キューブリック自身はユダヤ教の形式に従った育て方はされなかったため、のちに無神論的な思想を持つようになった。

 

西ブロンクス地区の基準では、当時のキューブリック一家はかなり裕福な部類にあり、父親は開業医として高収入を得ていたという。

 

妹の誕生後まもなく、キューブリックはブロンクスの第3公立学校に入学し、1938年6月に第90公立学校に転校した。キューブリックのIQは平均以上だったが、欠席が多く一学期だけで出席数と同じくらいの56日も欠席した。

 

キューブリックは幼少期から文学に関心を持ち、ギリシャ・ローマ神話やグリム兄弟の寓話を読みふけり、それらは生涯においてキューブリックとヨーロッパとの親密性を大脳に刻み込んだ

 

キューブリックは夏の土曜日の多くはニューヨーク・ヤンキースの試合を鑑賞した。のちに自身の子ども時代における野球に対する情熱を再現するため、『Look』誌上で試合を観戦している2人の少年を撮影した。

 

12歳のときキューブリックは父親にチェスを教わったが、チェスはその後の彼の映画で頻繁に登場することからもわかるように生涯の関心事となった。

 

のちに米国チェス連盟の会員となったキューブリックは、決断をくだすのに重要となる「忍耐力」や「自制心」はチェスゲーム通じて磨け上げたと話している。

 

13歳のときキューブリックは父親にグラフレックス社のカメラを買ってもらい、これを機に写真撮影にのめりこみ、写真に対して熱い情熱を共有していた隣人のマーヴィン・トラヴィルと親しくなった。

 

トラヴィルは自前の暗室を所有しており、若いころのキューブリックとトラヴィルは2人で何時間も写真や化学薬品を研究し、「印画紙に魔法のようなイメージ」を創造することに熱中した。2人は何か面白そうなものを撮影するため町を歩き回り、また地元の映画館で映画撮影も学びはじめた。

 

フリーランスの写真家ウィージー(アシェル・フェリグ)は写真家としてのキューブリックの成長に多大な影響を与えている。キューブリックはのちに『博士の異常な愛情』(1964年)で写真効果コンサルタントとしてウィージーを雇っている。

 

10代のころキューブリックはジャズにも関心を持っており、またドラマーとして数々のオーケストラやダンスパーティーなどで演奏していた。

 

キューブリックは1941年から1945年まで、ウィリアム・ハワード・タフト高等学校に通った。クラスメートの1人にのちに歌手イーディ・ゴーメとなるイーディス・ゴーメザーノがいた。

 

スタンリーは学内の写真部に入部し、写真部内の雑誌で学校内のイベントを撮影し掲載した。高校時代のキューブリックの成績は平凡で平均点は67点と低めだった。内向的でシャイだったキューブリックは、学校にあまり出席せず、2本立て映画を見るために授業をよくさぽっていたという。

 

1945年に卒業するものの成績は悪く、また第二次世界対戦から帰還した兵士たち大学入学需要とあいまったこともあり、大学への進学は諦めた。こうした背景もあってか、その後、キューブリックはよく現代アメリカの学校教育全般に関して軽蔑的な態度をしめす事が多く、学校には批判的思考や学生の興味を刺激する要素はなかったと話している。

 

キューブリックの父は息子の学校の成績がよくないことに失望していたが、スタンリーは非常に有能であると感じていた。

 

父はスタンリーが写真に対してどっぷりとのめり込むことを許容しつつ、図書館から本を借りて自宅で読書に励むことをすすめた。

写真家時代


高校時代にキューブリックは学校の公式写真家に選ばれている。1940年代なかばころキューブリックは普通大学入学できなかったので、ニューヨーク市立大学シティカレッジの夜間授業に短期間だけ出席した。

 

その後、キューブリックは『Look』誌に写真を売ることで収入を得ている。同誌の写真部長のヘレン・オブライアンはキューブリックの才能をいち早く見出し、彼が撮影した写真を25ポンドで買い取っている。それらの写真作品は1945年6月26日に掲載された。

 

写真のほかに、キューブリックはワシントン・スクエア・パークやさまざまなマンハッタン・チェスクラブでチェスゲームで、日々の収入を補っていた。

 

1946年、キューブリックは『Look』誌の写真家見習いスタッフになり、のちに同誌の専従の写真家になる。

 

当時、雑誌で新進気鋭の写真家として活躍していたG・ウォーレン・シュロートは、のちにキューブリックがハリウッドの映画監督になるような個性はまったくなかったと回想しており、「スタンリーは物静かな同僚だった。彼はほとんど話さない。私をはじめ多くの同僚は彼に対して、貧相で痩せこけた貧しい若者だと思っていた」と話している。

 

しかし、専従写真家となったあとすぐに才能を現するようになり、ストーリーテリングを行う写真家として認知されるようになる。

 

キューブリックの初期写真作品集

 

1946年4月16日に初写真作品集『映画のバルコニーから短編小説』を出版。男女間の喧嘩を描写した写真シリーズだった。

 

また、別の写真シリーズに歯医者で待っているさまざまな人々を撮影した18枚の写真シリーズがある。この写真シリーズは日常における個人の感情を撮影することに関心があったキューブリックの初期作品として評価されている。

 

1948年、キューブリックは旅行作品を制作するためポルトガルに派遣され、フロリダ州を拠点とするリングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカス団の撮影を行った。

 

ボクシングファンだったキューブリックは、ボクシングの試合の写真撮影をはじめた。彼の初期作品『プロボクサー』は1949年1月18日出版されたが、それはボクシングの試合を撮影したもので、ウォルター・カルティエに焦点を当てたものだった。

※1:『プロボクサー:ウォルター・カルティエ』 1948年 (Look Magazine).
※1:『プロボクサー:ウォルター・カルティエ』 1948年 (Look Magazine).

1949年4月2日、キューブリックは『Look』誌で『極端なシカゴ市』という写真エッセイを掲載した。それは車が混雑した夜のシカゴの通りを撮影したものだが、その写真から漂う独特な雰囲気は彼の才能をいち早く示したものとなった。

1949年に『Look』誌に掲載されたシカゴの道路を撮影した写真。(Stanley Kubrick: Visual Poet 1928-1999より)
1949年に『Look』誌に掲載されたシカゴの道路を撮影した写真。(Stanley Kubrick: Visual Poet 1928-1999より)

翌年、1950年7月18日、『働く少女-ベッツィーフォンフォンテンベルク』というタイトルの写真エッセイを雑誌で発表。背景にパブロ・ピカソによるアンヘル・フェルナンデス・デソト氏の肖像画が飾られている写真で話題になった。

 

キューブリックはほかにフランク・シナトラ、エロール・ガーナー、ジョージ・ルイス、エディ・コンドン、フィル・ナポレオン、パパ・セレスタン、アルフォンス・ピコー、シャーキー・ボナノなど、数多くのジャズ・ミュージシャンの写真を撮影の仕事をした。

『働く少女-ベッツィーフォンフォンテンベルク』(1950年)(Stanley Kubrick: Visual Poet 1928-1999より)
『働く少女-ベッツィーフォンフォンテンベルク』(1950年)(Stanley Kubrick: Visual Poet 1928-1999より)

キューブリックは1948年5月28日、高校時代からの恋人トバ・メッツと結婚。2人はグリニッジ・ビレッジ北6番街そばの36西16番通りにある小さなアパートで暮らしはじめた。

 

この時期、キューブリックは頻繁にニューヨーク市内の映画館や近代美術館へ映画を観にでかけていた。特にマックス・オフュルス監督の複雑で滑らかなフレームワークに影響を受け、彼の映画はのちにキューブリックのビジュアルスタイルに影響を与えている。

 

演技面ではエリア・カザン監督から多大な影響を受けており、当時のアメリカ映画で一番の演技力を持った俳優かつ監督と称賛している。

 

キューブリックはただ映画を見るだけでなく映画理論書をたくさん読み、独学で映画制作を学び、メモを取ることに多くの時間を費やした。キューブリックは『Look』誌の写真技術ディレクター、アーサー・ロスシュタインの書斎で多くの本を読み漁り、メモを取った。

 

なかでも、セルゲイ・エイゼンシュテインの理論書はキューブリックに衝撃的な影響を与えた。

短編映画(1951-1953)


キューブリックは高校時代からの友人アレクサンダー・シンガーと映画に対する熱を共有し、高校卒業後にには2人でホメロス『イリアス』を映画を制作しようと話し合っていた。

 

ニュース映画の制作会社で短編映画『ザ・マーチ・オブ・タイム』の制作に携わってたシンガーを通じて、キューブリックはきちんとした短編映画制作をするだけでも約4万ドルの制作費がかかることがわかったが、当時のキューブリックにはそんな制作資金を持ち合わす余裕はなかった。

 

しかし、1500ドルしかない貯蓄とシンガーの励ましを原動力に短編ドキュメンタリー映画の制作に着手。キューブリックは配給、編集、製作における全行程を独学で学んで、ひとりでこなすことにした。

 

キューブリックは前年に自ら撮影し記事を書いていたボクサーのウォルター・カルティエの短編ドキュメンタリー映画の制作を決める。カメラを借り、16分のモノクロドキュメンタリー映画『拳闘試合の日』となった。独自に資金調達を行い、制作費は3,900ドルまで抑えることができた。

 

『Look』誌の写真部に滞在時、キューブリックはモンゴメリー・クリフトに映画の構想を話してみようと考えたが、結局、CBSニュースのベテラン、ダグラス・エドワードに話すことにした。

 

ポール・ダンカンによれば、その映画は「初の映画にして目覚ましい成果を得た」と評している。冒頭のカルティエと彼の双子の兄がカメラの方向へ向かって歩くシーンを撮影するため、後ろ向きに歩きながらの撮影(バックワード・トラッキング撮影)を使い、そのカメラワークはのちにキューブリック独特のカメラワークとなった。 

ウォルターの兄でありマネージャーのヴィンセント・カルティエは、のちに撮影中のキューブリックについて「スタンリーは非常にストイックで、憮然なかんじだったが、非常に想像力豊かな人物であるとわかった」と話している。キューブリックは物静かに尻込みするように、スタッフに指示をしていたという。

 

キューブリックが望むことならスタッフも何でもこたえた。キューブリックはスタッフから信頼を得ていた。スタンリーと仕事をしていた人はまさにスタンリーが要求するものを共有していた。

 

シンガーの友人のジェラルド・フリードなどからお金を借りて、総制作費は3,900ドルとなり、RKO映画制作会社に4,000ドルで売却した。100ドルしか利益は出なかったが当時に同社が支払った短編映画では最高額だった。

 

キューブリックは映画制作の大半をやむなく自分自身ですることになったこともあり、初めての映画制作苦労は大変価値があったと感じており、のちに「映画制作における最も良い勉強とは映画を作ることである」と断言している。

 

初作品で商業的に成功したこともあり、キューブリックは『Look』誌の写真の仕事を辞め、映画制作に本格的にとりかかる。ニューヨークにいるさまざまなプロの映画監督に会いに行き、映画制作における技術的な側面に関して多くの具体的な質問をしてまわった。

 

また、キューブリックはこの時期に上映されていた多くのアメリカの粗悪な映画を見て、逆に良質な映画が作れる自信を得たという。「映画のどこがダメかはわからないが、それらの映画よりも良いもの自分が作ることはできる」と話している。

 

キューブリックは、11の教会を訪れるのにプロペラ経飛行機に乗って4,000マイルの旅をしたニューメキシコ州に住むカトリックの僧侶フレッド・スタットミュラー神父の9分のモノクロドキュメンタリー映画『空飛ぶ牧師』(1951年)の制作に着手する。

 

もともとは僧侶の俗語の駄洒落をかけあわせた『スカイ・パイロット』というタイトルだった。

 

映画で牧師は、教会で司祭の役目を演じたかと思えば病気の子どもとその母親を病院へ引き渡す救急飛行機のパイロットとして活躍する。劇中の飛行機からのさまざまな視点は、のちに『2001年宇宙の旅』に反映されている。

なお、劇中の葬儀のシーンで葬儀に出席している人々の顔のクローズアップ演出は、セルゲイ・アイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』(1925年)や『イヴァン4世』(1944年/1958年)に触発された可能性が非常に高い。

 

『空飛ぶ牧師』のあと、1953年に初のカラー映画『海の旅人たち』を制作。これは1953年6月の北アメリカ国際船員労働組合の状況を撮影したものである。『空飛ぶ牧師』のあと、1953年に初のカラー映画『海の旅人たち』を制作。これは1953年6月の北アメリカ国際船員労働組合の状況を撮影したものである。

 

船舶、機械、船員食堂、労働組合の会議の場面を撮影している。カフェテリアのシーンでは、キューブリックは船員のコミュニティ生活をわかりやすく伝えるため、横長のトラッキング・ショット撮影を行った。

このトラッキング・ショットは、のちの数々のキューブリック作品で見られるトラッキング・ショットのデモンストレーションとなった。

キューブリック作品で見られるトラッキング・ショットシーン。

初期長編映画(1953-1955年)


友人や家族から1000ドルの制作資金を出資してもらい、キューブリックは最初の長編映画で、高校時代からの友人だったハワード・サックラーが脚本をつとめた『恐怖と欲望』(1953年)の制作をはじめる。

 

しかし、制作資金が足りず、ロサンゼルスで薬局を営んでいたキューブリックの伯父マーティン・プレヴァーに頼みこみ、映画のエグゼクティブ・プロデューサーとしてクレジットすることを条件に9,000ドルを出資してもらう。

 

キューブリックは数人の俳優を含めた14人のスタッフのみ(俳優5人、スタッフ5人、機材運搬助手4人)で、カリフォルニア州サン・ガブリエル山地で5週間撮影の低予算映画の制作を行う。この映画は軍用機が敵の攻撃で墜落しするものの無傷で助かった4人の兵士が、敵の味との背後を奇襲し、敵機を奪って脱出するという内容である。

 

劇中、地元の少女に姿を見られた4人は彼女を木に縛り付ける。4人のうちの1人が欲望にかられて彼女を犯そうと縛り付けたベルトを外す。このシーンは女優の顔のクローズアップでよく知られている。

キューブリックは制作費を抑えるため、『恐怖と欲望』を無声映画にする予定だったが、結局、サウンドやエフェクトなど音声が追加され、最終的に制作費は53,000ドルまで膨れ上がり、予算を大幅にオーバーしてしまった。

 

しかし、プロデューサーだったリチャード・デ・ロッチモントが、ロッチモント・プロダクションが手がけている5部構成のテレビシリーズの制作を手伝うことを条件にオーバーした資金を提供した。

 

『恐怖と欲望』は商業的には失敗したが、上映時には肯定的な評価も集めた。『ニューヨーク・タイムズ』紙は映画を通じて写真家としてのキューブリックのプロ意識がよく反映された作品で、「死に対するグロテスクな姿勢、飢餓状態の男の獰猛さ、残忍性、またあるシーンでは、縛り付けられた少女に対する欲望を芸術的に映し出した」と評した。

 

コロンビア大学の研究者マーク・バン・ドーレンは、木に縛り付けれた少女のシーンが大変印象深く、「美しさ」と「恐怖」と「不可思議」が連鎖するキューブリックの計り知れない才能が描写されており、将来の成功を保証した作品と評価している。

 

その一方、キューブリック自身は『恐怖と欲望』に対して駄作と感じ、長年にわたり映画フィルムが外部に流れないようにしていた。

 

『恐怖と欲望』の後、キューブリックは新しいボクシング映画の構想をたてる。初めての映画は商業的に失敗したため、今回は他人からのファイナンスを避け、個人的にキューブリックの家族や親友たちから制作資金約40,000万ドルを調達する。

 

『恐怖と欲望』と同じく脚本家にはハワード・サクラーを起用し、1955年に『非常の罠』を完成させ公開。大物ギャングの情婦でハラスメント行為に苦しんでいる女性とそれを救い出そうとする若いヘビー級ボクサーの物語で、67分のフィルム・ノワールである。

 

ニューヨークのタイムズスクエアで撮影を行ったが、キューブリックは撮影過程において、これまでの映画の型にはまらないアングルや表現兵法を実験的に試みた。

 

また当初、ロケーション地で直接録音する予定だったが、大きく映り込んでしまうマイクロフォンブームの影のせいで、カメラワークが制限されるというトラブルに遭遇する。

 

結局、キューブリックは音声より映像を優先することにし現地での録音はあきらめめ、12〜14週間にわたる撮影後、別途サウンド制作に7ヶ月と新たに35,000ドルの制作費を費やすことになった。

 

アルフレッド・ヒッチコックの『ブラックメール』(1929年)から大きく影響を受けた作品だが、劇中のキューブリックの革新的なアングルや雰囲気は、のちにマーティン・スコセッシに影響を与え、彼のボクシング映画『レイジング・ブル』に反映されている。

 

『非常の罠』でグロリアを演じた女優のアイリーン・ケインはキューブリックについて「彼は魅力的な人です。映画はセリフをできるだけ廃し動きで表現するものだと考えており、また、彼の映画はすべてセックスやサディズムが反映されている」と話している。

 

『非常の罠』は商業的に成功したものの、制作費に75,000ドルもかかってしまったため、利益はほとんど出なかったという。

 

映画批評家たちは、本作品におけるカメラワークに関しては絶賛したが、演技や物語の面においてはごく一般的で平凡的と評価している。

ニューヨークからハリウッドへ


ワシンストン・スクエアでチェスをしている時期に、キューブリックを「今まで会った人物で最も知的でクリエティブ」とみなしたプロデューサーのジェームズ・B・ハリスと出会った。

 

2人は1955年にハリス=キューブリック・ピクチャーズ・コーポレーションを設立する。ハリスがライオネル・ホワイトの小説『クリーン・ブレイク』の映画化の権利を10,000ドルで購入した。

 

当初、キューブリックは脚本を書く予定だったが、キューブリックの提案で2人はフィルム・ノワール作家のジム・トンプソンをダイアローグを依頼した。

 

こうして製作されたのが『現金に体を張れ』(1956年)である。主演はキューブリックが感銘を受けたという『アスファルト・ジャングル』で主演をつとめたスターリング・ヘイドンに打診した。

 

キューブリックとハリスはニューヨークからロサンゼルスへ移り、映画製作のためジャッフェ・エージェンシーと契約を結ぶ。本作品はプロのキャストとクルーで撮影したキューブリック初の長編映画となった。

 

ハリウッドの映画組合は、キューブリックが総監督と撮影監督を兼務することを許さず、ベテランのルシアン・バラードを撮影監督として起用すると話した。キューブリックは同意し、わずか制作費330,000ドル、24日間で撮影が行われた。

 

しかし、当時キューブリックは27歳でバラードよりも20歳も若年だったが、撮影中にキューブリックはバラードと頻繁にもめ、あるときはキューブリックは撮影に関する論争後、解雇すると脅迫したこともあった。それから、バラードはキューブリックに従うようになった。

 

当時のキューブリックについてヘイドンは「クールで寄り付きがたい雰囲気。非常に機械的でいつも自信に満ちあふれていた。彼のような素晴らしい監督との仕事は今までほとんどなかった」と話している。

『現金に体を張れ』は全米公開することになったが、適切な上映スケジュールを確保できなかったこともあり興行としては失敗。利益はほとんどなく、土壇場で西部劇映画『Bandido』(1956年)の同時上映作品として公開された。

 

ただ、『タイム』紙の批評家など、何人かはオーソン・ウェルズのカメラワークと比較してキューブリックの作品を評価した。今日、批評家たちは『現金に体を張れ』をキューブリックの初期作品におけるベスト映画として認識している者が多い。

 

映画における同時に起きている出来事を時間を繰り返して順列で描くという非線形的な物語は、のちにクエンティン・タランティーノをはじめとするクライム映画の監督たちに多大な影響を与えた。

 

この作品を観たメトロ・ゴールドウィン・メイヤーのドア・シャリーは大変感銘し、キューブリックとハリスには映画の脚本、監督、製作のために75,000ドルの制作資金をファイナンスすることになり、それは『突撃』の製作へとつながった。

映画監督としての地位を確立した『突撃』


 第一次世界大戦を舞台とした『突撃』は、父のオフィスにいるときに読んだハンフリー・コブの1935年の反戦小説が基盤となっている。

 

1967年1月からミュンヘンで撮影がはじまったこの映画は、無謀な任務を命じられたフランス軍部隊が、のちに命令不服従として三人の兵士を形ばかりの軍法会議にかけ、見せしめとして銃殺するという軍隊という組織の非常を描いた作品である。

 

戦闘シーンでキューブリックは、最新の注意を払い、無人地帯の境界線に沿いに6台のカメラを設置する。各カメラが映し出す場所に番号を割り振り、何百人と参加するエキストラたち一人ひとりにどの番号の場所で死ぬかを指定した。

 

また、キューブリック自身は戦闘シーンでアーノルド&リヒター製カメラでダグラスを撮影した。

『突撃』はキューブリックの長編映画での初めての商業的成功作品となり、また、新進気鋭の若手映画製作者として評価を確立する映画となった。

 

映画批評家たちは、映画における感傷性がなく、労を惜しまず、ありのままの戦闘シーンとそこから醸し出される生々しさ、また生々しさを出すためモノクロ映画に設定したこと称賛した。

 

多数の称賛にもかかわらずクリスマスの時期に公開されたこともあり、生々しいフランス軍の描写と主題のためフランスでは1974年まで上映禁止された。また、1970年までスイス軍に検閲された。

マーロン・ブランドとの幻の共同作品


マーロン・ブランドがキューブリックに接触し、彼にアメリカ西部開拓時代のガンマン、パット・ギャレットやアウトローで強盗のビリー・ザ・キッドに焦点を当てたチャールズ・ネイダーの西部劇小説『拳銃王の死』の改作映画の監督の依頼を行う。

 

ブランドはキューブリックに感銘し「スタンリーは異常な知覚力や人たちとの同調能力がある。彼は大変な知性を持ち、創造的な思想家である。彼は自身が学んだことをよく噛み砕き消化し、それを新しいプロジェクトに独自の視点で持ち込む情熱のある人間だ」と話している。

 

キューブリックとブランドは半年間、当時まだ無名のサム・ペキンパーが書いていた新しい映画の脚本の手直しをしながら、新しい映画の製作を進めていた。

 

 

しかし、プロジェクトをめぐって2人の間で意見の対立がたびたび起こり、結局、ブランドがキューブリックを解雇し、彼自身が監督する事となった。そうして製作されたのが『片目のジャック』(1961年)である。

『スパルタカス』:ハリウッド映画大物監督の地位を確立


1959年2月、キューブリックはカーク・ダグラスから電話で直接、紀元前73年から紀元前71年にかけて共和制ローマ期に起きたローマ軍と剣闘士・奴隷の反乱を指導したスパルタカスの伝記映画『スパルタカス』(1960年)の製作における監督就任の依頼を受ける。

 

ダグラスはハワード・ファスト原作の小説の権利を取得し、ハリウッド・ブラックリストに名前が上がっていた脚本家ダルトン・トランボが脚本を進めていた。ダグラスは映画のプロデューサーで、同時に主人公スパルタカスを演じ、ローレンス・オリヴィエがスパルタカスの敵でローマ将軍で政治家だったマルクス・リキニウス・クラッススを演じた。

 

ダグラスは当初監督だったアンソニー・マンを解任し、監引き継ぎとして15万ドルの報酬でキューブリックに依頼したといわれている。

 

当時キューブリックは31歳、すでに、4本の長編映画を監督しており『スパルタカス』は彼にとって過去最大となる1万人以上のキャストの雇用、600万ドルの予算をともなって製作することになった。また、当時のハリウッドにおいて最年少で大作を製作する監督となった。

 

この映画でキューブリックは超高精度映像を実現するため35mmの水平アナモルフィックスーパーテクニラマレンズを初めて使っている。このレンズのおかげで、8,000人の鍛錬されたスペイン兵で構成されるローマ軍を一望する巨大なパノラマシーンの撮影ができた。

 

しかし、撮影中に問題が発生した。キューブリックは芸術的側面に対するコントロールが完全にできないと不満をもらし、制作中、大規模にわたって即興的に自由に作ろうとした。

 

また、キューブリットは脚本面でもダグラスともめた。30分からなるオープニングシーンで、キューブリックはダグラスの2本のセリフを完全にカットしたためダグラスを怒らせたという。

 

こうした多数のトラブルがあったものの、実際に映画が封切られると『スパルタカス』は興行収入1,460万ドルの大成功となった。『スパルタカス』の成功のおかげでキューブリックは、ハリウッドにけるメジャーな監督としての地位を確立し、また1960年に6つのアカデミー賞にノミネートされ、4つの賞を受賞した。

 

 

しかし、『スパルタカス』はキューブリックとダグラスの協働関係を終焉させる映画ともなった。