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【美術解説】ウォルフガング・パーレーン「芸術雑誌『DYN』の編集者」

ウォルフガング・パーレーン / Wolfgang Paalen

芸術雑誌『DYN』の編集者


『DYN』創刊号
『DYN』創刊号

概要


生年月日 1905年7月22日
死没月日 1959年9月24日
国籍 オーストリア、メキシコ
ムーブメント シュルレアリスム
表現媒体 絵画、彫刻、美術理論

ヴォルフガング・ロバート・パーレン(1905年7月22日-1959年9月24日、メキシコ・タスコ)は、オーストリア系メキシコ人の画家、彫刻家、美術理論家。

 

1934年から1935年まで「抽象-クレアション」グループのメンバーとして活動し、1935年にシュルレアリスム運動参加。1942年までその主要メンバーの一人として活動した。

 

メキシコに亡命中に、ブルトン主導のシュルレアリスム理論に対抗する芸術雑誌『DYN』を創刊し、編集者および芸術哲学者としての才能を発揮する。

 

シュルレアリスムにおけるラディカルな主観主義とフロイト・マルクス主義に対する批判的態度を、偶然性の芸術哲学としてまとめ、ブルトンもパーレンの批判を認めた。

 

1951年から1954年にかけて、パリ滞在中に再びシュルレアリスムグループに参加。

略歴


家族と子ども時代


パーレン生誕地の玄関。
パーレン生誕地の玄関。

ヴォルフガング・パーレンは、オーストリアのウィーンにあるオットー・ワーグナーが設計した有名なウィーンツェイレンホイザー(ケストラーガッセ1番地/リンケ・ウィーンツェイレ40番)の一角で生まれた。

 

オーストリア系ユダヤ人の商人で発明家の父グスタフ・ロベルト・パーレンと、ドイツ人で女優の母クロチルデ・エミリー・グンケルの4人兄弟の長男だった。

 

ポーランド系アシュケナージとスペイン系セファルディの出自を持つ父グスタフ・ロベルトは、1900年にプロテスタントに改宗し、同年にポラックからパーレンに改名している。

 

父グスタフの経済的成功は、掃除機、サーモスボトルの名で知られる魔法瓶、初のフロー式ヒーター(ユンカース社製)など、モダニズムの発明や特許に基づくものだった。父グスタフ・R・パーレンは、比較的短期間で、オーストリア・ハンガリー帝国のウィーンの上流階級の名士になった。

 

ルドルフはアートコレクターとしても有名で古典巨匠フランシスコ・ゴヤの《セニョーラ・サバサ・ガルシア》を購入している。これは現在、ワシントン国立美術館のハイライトの1つとなっている。

 

ヴォルフガング・パーレンは、最初の数年間をウィーンとシュタイヤーマークで過ごした。シュタイヤーマークでは、父親が流行のリゾト地トーベルバードを開拓し、オーストリア王フランツ・ヨーゼフ1世の前で、現在も見られる記念碑を奉納した。

 

1912年、パーレン一家はベルリンに移り、ザンクト・ロクスブルク城を購入し再建したシレジアの都市ザガン(現在のジーガン)に移り住んだ。

 

第一次世界大戦中、父グスタフはオーストリアとドイツの両帝国のために食糧供給の組織化を行い、ワルター・ラテナウやアルベルト・バリンの第一次世界大戦の食品局である央購買会社と密接に連携した。

 

ヴォルフガングはザガンのいろいろな学校に通ったが、戦時中は家庭教師から教育を受けていた。家庭教師の先生はヨハン・セバスティアン・バッハを専門とするオルガニストでもあり、その影響でバッハはヴォルフガングのお気に入りの作曲家になった。

若齢期


1919年、一家はローマに移り住り、ジャニコロのカエターニ荘で豪華な生活を送る。そこでは、ヴォルフガングの最初の美術教師となったドイツ人画家レオ・フォン・ケーニヒ(1871-1944)をはじめ、多くの賓客を迎えた。

 

ローマでは、父の友人である考古学者ルートヴィヒ・ポラックの指導のもと、ギリシャ・ローマ考古学の教育を受けた。

 

1923年、パーレンは単身ベルリンに戻り、大学受験する。落ちたものの、生涯の友であり、仲間であり、パトロンでもあったスイス人ヴァイオリニスト、収集家、映画監督、写真家のエヴァ・スルツァーに出会う。

 

1925年、ベルリン・セセッションに出品し、さらに美学を学び、ユリウス・マイヤー=グレーフェ、ニーチェ、ショーペンハウアー、マックス・ヴェルトハイマーのゲシュタルト理論に深い影響を受けた。

 

サガンの城で催眠術のような幻覚を体験するが、パーレンはそれをきっかけに、視覚と外界の深いもつれという、後の彼のアイデアの基礎を見つけた

 

さらに1年間、パリとカシスで学び(1925-26年)、そこでローラン・ペンローズ、ジャン・ヴァルダ(ジャンコ)、ジョルジュ・ブラックと出会い、ミュンヘンのハンス・ホフマン芸術学校、1928年にはサントロペを訪問する。その後、パリに定住することを決意する。

 

1928年、オーストリア・ハンガリー帝国の家父長制の上に成り立っていたパーレン一族の栄華が衰退し始めた。

 

弟のハンス=ペーターが、精神科医とのホモセクシュアルな関係の後、ベルリンの精神病院で自殺と思われる突然の死を遂げる。その影響で、両親は別居、母親の双極性障害は激化し、1929年の「ウォール街大暴落」以降、グスタフ・パーレンの財産は打ち切られることになった。

 

この後、パーレンの成長に欠かせない悲劇が起こる。最愛の弟ライナーがピストルで自分の頭を撃ち抜いたのだ。

 

ライナーはベルリンの病院で治療を受けて一命を取り留め、1933年にベルリンから脱出したが、ヴォルフガングはこの出来事を目撃している。弟は1942年、チェコスロバキアの精神病院で死去した。

パリとシュルレアリスム


パリでフェルナン・レジェに短期間師事し、1933年に「抽象・クレアシオン」グループの一員となる。1935年、ハンス・アルプ、ジャン・エリオンらとともにグループを脱退。

 

この頃の作品は、ポール・ヴァレリーの『ユーパリノス』に影響されたものや、シュルレアリスムに関して抽象主義を深く探求していた。

 

絵の出来あがりは、具体的な形がどこまで潜伏し、どこまで複数の意味を伝えることができるかを試す、言語ゲームと見ることもできるだろうと考えていた。

 

パーレンは、ある意味で、のちのマーク・ロスコ(マルチフォーム)やアルシール・ゴーリキーなどの抽象画家の実験を先行している。人間の知覚を、あらゆる生物が織り成す潜在的あるいは可能な内容の宇宙の質感と深く結びついているという彼の考えを視覚化する実験をしていた。

 

1934年、フランスの詩人アリス・フィリポ(後のアリス・ラホン)と結婚。ローラン・ペンローズとその妻ヴァレンティーヌ・ブエと親交を深めたのをきっかけに、ポール・エリュアールとも親交を持つようになる。

 

翌、1935年夏に、リズ・ドゥダルメの城館に滞在し、パリのシュルレアリストやアンドレ・ブルトンと出会うとすぐに濃密な友情が芽生える。

 

ブルトンは、1936年にギャラリー・シャルル・ラットンで開かれた「シュールレアリスト・オブジェ展」など、シュールレアリスムの活動にパーレンを招待して参加させた。この展覧会でアルフレッド・ジャコメッティの《Boule suspendue》と並んで、ガラスの目と羽の針を持つ時計《L´heure exacte》が展示された。

《L´heure exacte》,1936年
《L´heure exacte》,1936年

同年、パリのギャルリー・ピエール(ブルトンの友人ピエール・ローブ経営)で個展を開催した。

 

ブルトンとペンローズは、ロンドンでの国際シュルレアリスム展にパレーンを参加させ、そこで、12点の油彩、グワッシュ、オブジェと、幽霊の手が絵を描いている様子を表した最初のフマージュ技法を使った作品《Dictated by a Candle》を発表した。

《Dictated by a Candle》,1936年
《Dictated by a Candle》,1936年

この間、ブルトンとの交流は深まり、パーレンはブルトンのギャラリー・グラディヴァのデザインにも参加した。また、そこでマルセル・デュシャンと出会ったり、自身のオブジェ作品《Chaise envahie de lierre》を発表した。

 

この作品は、マリー=ロール・ド・ノアイユがギャラリーで購入し、彼女の有名な浴室に設置され、また、1938年4月の『ハーパーズ・バザー』に紹介された。

《Chaise envahie de lierre》,1938年
《Chaise envahie de lierre》,1938年

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Wolfgang_Paalen、2021年12月24日アクセス