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【美術解説】ジャポニズム

ジャポニズム /Japonisme

19世紀に日本美術に影響を受けたことを表現するフランス語


1869年に画家ジェームス・ティソが描いた「Young Ladies Looking at Japanese Objects」は、1860年代の日本開国後に始まった日本のあらゆるものに対する西洋人の好奇心を表現している。
1869年に画家ジェームス・ティソが描いた「Young Ladies Looking at Japanese Objects」は、1860年代の日本開国後に始まった日本のあらゆるものに対する西洋人の好奇心を表現している。

概要


ジャポニスムとは、1858年に日本の鎖国政策が解除された後、19世紀に西ヨーロッパの多くの芸術家が日本の美術やデザインの人気と影響を受けたことを表すフランス語

 

ジャポニスムは1872年にフランスの美術評論家で収集家のフィリップ・ブルティによって初めて解説された。

 

その影響は視覚芸術が最も顕著であったと思われるが、建築、造園、園芸、衣服などにも及び、舞台芸術にも影響を与えた。ギルバート&サリバンの『ミカド』はジャポニズムの代表的な例とみなされる。

 

1860年代以降、もともとは、日本国内の商業市場向けに制作された木版画である浮世絵は、多くの西洋人芸術家のインスピレーションの源となった。

 

オランダの貿易商を通じて西洋に渡った版画もあるが、ヨーロッパで浮世絵が人気を博したのは1860年代に入ってからである。

 

西洋の芸術家たちは、浮世絵の独創的な色使いと構図に興味を抱いた。浮世絵は、大胆な遠近法や左右非対称の構図が特徴である。

 

浮世絵以外では、陶磁器、エナメル、金工、漆器などの日本の装飾芸術が、グラフィックアートと同様に西洋に影響を与えた。 明治時代(1868-1912)には、日本の陶器は世界中に輸出された。

 

武士の武器を作ってきた日本の金属工芸家は、合金の組み合わせや仕上げによって、表情豊かな色彩を獲得してきた。

 

日本のクロワゾネエナメルは1890年から1910年にかけて黄金期を迎え、かつてないほど高度な製品が生み出した。

 

19世紀のヨーロッパでは、日本の工芸品が次々と万国博覧会で展示され、ギまた、ャラリーやファッショナブルなショップで取り上げられ、広く目にする機会ができた。

 

当時の批評家、コレクター、アーティストは、この「新しい」芸術に対してかなりの興奮を表していた。

 

ジークフリート・ビンやクリストファー・ドレッサーなどのコレクターは、これらの作品を展示し、それについて執筆している。こうして、日本のスタイルやテーマは、西洋の芸術家や職人の作品に再び登場することになった。

歴史


鎖国時代(1639年〜1858年)


江戸時代の大半、日本は鎖国をしており、国際的な貿易港は1つに制限されていた。徳川家光の命により、長崎沖に出島が造られ、そこから日本と海外の輸出入が行われるようになった。

 

西洋人で日本人と交易できたのはオランダ人だけだったが、そのわずかな接触だけでも、日本の美術は西洋に影響を与えた。オランダ人は毎年、貿易のために西洋の品々を満載した船団を率いて日本にやってきた。積荷には、オランダの絵画に関する多くの論説やオランダ版画が含まれていた。

 

司馬江漢(1747-1818)は、舶来品から西洋美術を学んだ日本画家の一人である。江漢は、西洋美術の線遠近法の技法を、自身の浮世絵風の絵画と組み合わせた日本初の銅版画の一つを制作した。

司馬江漢『相州鎌倉七里浜図』 1796年
司馬江漢『相州鎌倉七里浜図』 1796年

初期の輸出


日本の主な輸出品は、当初は1668年以降禁止された銀と、1763年以降禁止された楕円形の硬貨を中心とした金、その後棒状の銅であった。

 

やがてこれらの金属資源の輸出品は減少し、陶磁器、手扇、紙、家具、刀剣、甲冑、螺鈿細工、屏風、漆器などの工芸品に移行していった。

 

鎖国時代、日本製品はヨーロッパのエリートが求める贅沢品であった。17世紀に朝鮮人陶工が九州地方に渡来してからは、日本の磁器の生産が増加した。

 

挑戦移民とその子孫、そして日本人は、カオリン粘土の鉱山を発掘し、質の高い陶器を作り始めた。そして、伊万里焼や柿右衛門など、日本独自の伝統産業へと発展し、その後、ヨーロッパや中国の陶芸家にも影響を与えることになった。

 

また、当時、中国では明清遷都の影響で、中国磁器生産の中心地であった景徳鎮が数十年間停滞したことも、日本製の磁器の輸出に拍車をかけた。日本の陶工たちは、その穴を埋めるようにヨーロッパ向けの磁器を作り始めた。

 

日本からヨーロッパへは、磁器や漆器がおもな輸出品となった。ヨーロッパの富裕層の家庭では磁器を飾る贅沢な方法として、磁器専用の部屋が作られ、棚を設け、異国情緒あふれる磁器を展示するようになった。

 

マリー・アントワネットやマリア・テレジアは日本の漆器のコレクターとして知られ、そのコレクションはルーヴル美術館やヴェルサイユ宮殿でしばしば展示されている。

 

ヨーロッパでアジアの漆工芸を模倣したものをジャパニングと呼んだ。

日本とフランス製漆パネル付き箪笥(commode à vantaux)、1790年頃、メトロポリタン美術館蔵
日本とフランス製漆パネル付き箪笥(commode à vantaux)、1790年頃、メトロポリタン美術館蔵
竹と杏と二羽の鳥が描かれたシャンティイ磁器の壺 1730-1735年 アムステルダム国立美術館蔵
竹と杏と二羽の鳥が描かれたシャンティイ磁器の壺 1730-1735年 アムステルダム国立美術館蔵

開国(19世紀)


嘉永年間(1848-1854)、200年以上の鎖国を経て、さまざまな国籍の外国商船が来航するようになった。1868年の明治維新を経て、日本は長い鎖国を解き、写真や印刷技術など、西洋からの輸入に門戸を開いた。

 

この新しい貿易の幕開けに伴い、パリやロンドンの小さな珍品店にも日本の美術品や工芸品が並び始めたジャポニスムは、日本の美術品、特に浮世絵の収集ブームとして始まった。浮世絵の最初の見本は、パリで見られた。

 

この頃、ヨーロッパの芸術家たちは、ヨーロッパの厳格なアカデミックな方法論に代わるものを求めていた

 

1856年頃、フランスの画家フェリックス・ブラクモンは、印刷業者オーギュスト・ドラトルの工房で『北斎漫画』の写生帖に出会った。

 

この発見から数年後、日本の版画への関心が高まった。珍品店、茶店、大型店などで売られるようになった。ラ・ポルト・シノワーズ(La Porte Chinoise)のような日本や中国の輸入品を専門に扱う店では、日本や中国からの輸入品を販売していた。

 

特にラ・ポルト・シノワーズには、ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー、エドゥアール・マネ、エドガー・ドガなどの芸術家が集まり、版画からインスピレーションを受けたという。また、同店を中心に、日本の美術や技術に関する情報交換の場が設けられていた。

芸術家とジャポニスム


浮世絵は、日本が西洋美術に与えた主な影響の一つである。西洋の芸術家たちは、構図空間のさまざまな使い方、平面化、色彩への抽象的なアプローチからインスピレーションを得た。浮世絵の影響を受けた西洋の画家たちの作品には、対角線、非対称、負の空間が強調されているのがわかる。

フィンセント・ファン・ゴッホ


ゴッホが日本の版画に興味を持ったのは、『The Illustrated London News』や『Le Monde Illustré』に掲載されたフェリックス・レガメの挿絵を見たことがきっかけだった。レガメは日本の技法を用いて木版画を制作し、日本の生活風景を描くことが多かったという。

 

ゴッホはレガメを、日本人の芸術的実践や日常生活の情景を知るための信頼できる資料として活用した。1885年以降、これまでのゴッホはレガメーなどの雑誌挿絵の収集から、パリの小さな店で購入できる浮世絵の収集に切り替えた。

 

これらの浮世絵を同時代の人々と共有し、1887年にはパリで日本の版画展を企画した。

 

ファン・ゴッホの《ペール・タンギーの肖像》(1887年)は、画商ジュリアン・タンギの肖像画で、ゴッホはこの肖像画を2つのバージョンで制作している。

 

どちらのバージョンも、広重や国貞といった特定可能な画家による日本の版画が背景に描かれている。

 

ゴッホは、日本の木版画のカラフルな色彩に触発され、自らの作品にも同様の鮮やかさを取り入れた。

 

ゴッホは、グレートーンのオランダ絵画の人気が低下し、多くの色を使った絵画がモダンで好ましいと見なされるだろうと思い、タンギーの肖像画を鮮やかな色彩で満たすように描いた。

西洋美術における浮世絵の影響を示すゴッホの『ペール・タンギの肖像』(1887年)
西洋美術における浮世絵の影響を示すゴッホの『ペール・タンギの肖像』(1887年)

アルフレッド・スティーブンス


ベルギー人画家アルフレッド・スティーブンスは、パリで最も早くから日本美術を収集し、愛好した一人である。

 

スティーブンスのアトリエからは、日本や異国の小物や家具に魅了された彼の様子がうかがえる。

 

スティーブンスはマネやホイッスラーと親交があり、早くからこの関心を共有していた。特に1862年のロンドン万国博覧会と1867年のパリ万国博覧会で、日本の美術品やオブジェが初めて登場すると、同時代の多くの人々が同じように熱狂的になった。

 

1860年代半ばから、ジャポニスムはスティーブンスの多くの絵画の基本的な要素となった。ジャポニスムの影響を受けた代表的な作品に『La parisienne japonaise』(1872年)がある。

 

着物を着た若い女性の肖像画を数点制作したほか、室内のおしゃれな女性の姿と日本の品々を詳細に観察した初期の《薔薇の女》(1866年)や、椅子に日本の版画が置かれた《サイケ》(1871年)など、彼の絵画には日本の要素が多く見られ、芸術への情熱がうかがえる。

アルフレッド・スティーブンス「La parisienne japonaise」(1872年)
アルフレッド・スティーブンス「La parisienne japonaise」(1872年)

エドガー・ドガ


1860年代、エドガー・ドガは、ラ・ポルト・シノワーズやパリの小さな版画店から日本の版画を集め始めた。 同時代の人々も版画を集め始めていたため、さまざまなインスピレーションを得ることができた。

 

ドガに見た版画の中には、ブラクモンがドラトルの工房で見て購入した『北斎漫画』の複製もあった。

 

ドガがジャポニスムを取り入れたのは1875年と推定され、縦・斜め・横の境界で個々の場面を区切る手法に見られるようになった。

 

ドガの版画は、多くの日本人画家と同様に、女性とその日常生活に焦点を当てたものだった。女性像の非定型的な配置や、リアリティを追求した版画は、北斎、歌麿、助信といった日本の版画家たちと肩を並べるものだった。

 

ドガの版画『ルーヴル美術館のメアリー・カサット:エトルリア美術館」(1879-80)では、日本の版画でよく見られる座像と立像の2人組の構図が用いられている。

 

ドガはまた、線を使って奥行きを出し、空間を区切っている。ドガの最も明確な流用は、閉じた傘に寄りかかる女性で、これは『北斎漫画』から直接借用したものである。

エドガー・ドガ『ルーブル美術館のメアリー・カサットメアリー・カサット:エトルリア美術館》 1879-1880. アクアチント、ドライポイント、ソフトグラウンド・エッチング、バニシング付きエッチング 26.8 × 23.6 cm.
エドガー・ドガ『ルーブル美術館のメアリー・カサットメアリー・カサット:エトルリア美術館》 1879-1880. アクアチント、ドライポイント、ソフトグラウンド・エッチング、バニシング付きエッチング 26.8 × 23.6 cm.

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー


日本美術は1850年代初頭から英国で展示された。これらの展覧会では、地図、手紙、織物、日常生活の品々など、様々な日本の物が紹介された。

 

展覧会は、イギリスにとって国家的プライドの源となり、一般的な「東洋」文化のアイデンティティとは別に、別の日本人のアイデンティティを作り出すのに役立った。

 

ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラーは、おもにイギリスで活躍したアメリカ人画家である。19世紀後半、ホイッスラーは、同時代の画家たちが好んだリアリズム絵画を否定するようになる。

 

ホイッスラーは同時代の画家たちが好んだリアリズム絵画を否定し、日本の美意識に素朴さと技術性を見いだした。ホイッスラーは、特定の作家や作品を模倣するのではなく、日本の一般的な表現方法、構図に影響を受け、それを作品に取り込んでいった。

日本文化に影響を受けた西洋芸術一覧


アルフレッド・スティーブンス

ジェームズ・ティソ

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー

エドゥアール・マネ

クロード・モネ

フィンセント・ヴァン・ゴッホ

エドガー・ドガ

ピエール・オーギュスト・ルノワール

カミーユ・ピサロ

ポール・ゴーギャン

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック

メアリー・カサット

ジョージ・ヘンドリック・ブライトナー

バーサ・ラム

ウィリアム・ブラッドリー

オーブリー・ビアズリー

アーサー・ウェズリー・ダウ

アルフォンス・ミュシャ

グスタフ・クリムト

ピエール・ボナール

フランク・ロイドライト

チャールズ・レニー・マッキントッシュ

ルイス・コンフォート・ティファニー

ヘレンハイド

ジョルジュ・フェルディナンド・ビゴット

日本庭園


日本庭園の美学は、ジョサイア・コンドルの『Landscape Gardening in Japan』(Kelly & Walsh, 1893)によって英語圏に紹介され、西洋で最初の日本庭園が作られるきっかけとなった。1912年に第2版が出版された。

 

英田多作は、1910年にロンドンで開催された日英博覧会のために2つの庭園を、また、ウォーバリー男爵のために4年の歳月をかけて庭園を造っている。ウォーバリーの庭園は現在もアイルランドナショナルスタッドで見ることができる。

 

サミュエル・ニューサム著『日本庭園建設』(1939年)は、ロックガーデンの建設に日本の美学を取り入れた。ロックガーデンの起源は、19世紀半ばにアルプスの渓谷に近い場所で高山植物を栽培しようとした西洋とは全く別のものである。

 

庭園史学会によると、日本の造園家・楠本清右衛門は、英国で約200の庭園の造成に携わったという。1937年にはチェルシー・フラワー・ショーにロックガーデンを出展し、ボグナー・リージスのバーングリーヴ・エステート、ハートフォードシャーのコッタードの日本庭園、ロンドンのデュケイン・コートの中庭などを手掛けた。

 

印象派の画家クロード・モネは、ジヴェルニーの庭の一部を、百合の池に架かる橋など、日本の要素をモデルに何度も描いている。

 

このシリーズでは、橋や百合の花など、いくつかのポイントだけを詳細に描くことで、モネが数多くコレクションしていた浮世絵に見られる日本の伝統的な視覚手法に影響を受けている。また、日本の在来種を多く植えることで、よりエキゾチックな雰囲気を演出している。

クロード・モネのジヴェルニーの庭『日本の橋と睡蓮の池』1899年
クロード・モネのジヴェルニーの庭『日本の橋と睡蓮の池』1899年

美術館


アメリカでは、日本美術の魅力に取り付かれ、コレクターや美術館が大規模なコレクションを作り、それが現存し、多くの世代のアーティストに影響を与えている。

 

その中心はボストンで、アジア美術の先駆的なコレクターであったイザベラ・スチュワート・ガードナー(Isabella Stewart Gardner)がその中心であったと思われる。

 

その結果、ボストン美術館は、日本国外では最も優れた日本美術のコレクションを所蔵していると自負している。

 

また、フリーア美術館とアーサー・M・サックラー美術館は、米国最大のアジア美術研究図書館であり、日本美術と日本の影響を受けたホイッスラーの作品を一緒に展示している。

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー《磁器の国から来たお姫様》1863-1865年
ジェームズ・マクニール・ホイッスラー《磁器の国から来たお姫様》1863-1865年

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Japonisme、2022年7月7日アクセス