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【作品解説】クロード・モネ「ラ・ジャポネーズ」

ラ・ジャポネーズ / La Japonaise

日本文化と西洋のアイデンティティの融合


概要


作者 クロード・モネ
制作年 1876年
サイズ 231cm×142cm
メディウム 油彩
所蔵 ボストン美術館

《ラ・ジャポネース(日本の女性)》は、1876年にクロード・モネによって制作された油彩作品。231cm×142cm。ボストン美術館所蔵。クロード・モネの日本趣味とモネ自身の西洋美術のアイデンティティが融合された作品

 

描かれている女性は、モネの妻であるカミーユ・ドンシューである。カミーユは武者の姿が刺繍された真っ赤な日本の着物を着て、畳の上に立ち、手にはフランスの三色旗と同じ青・白・赤の扇を持たせ、西洋世界イコンである金髪のカツラ(カミーユは黒髪)を被っている。

 

 

解説


 

 描かれている女性は、モネの妻であるカミーユ・ドンシューである。カミーユは武者の姿が刺繍された真っ赤な日本の着物を着て、畳の上に立ち、手にはフランスの三色旗と同じ青・白・赤の扇を持たせ、西洋世界イコンである金髪のカツラ(カミーユは黒髪)を被っている。

 

そして、挑発するかのごとく、笑みを浮かべこちらを見つめている。しかし、、これは日本舞踊の所作からヒントを得たものと思われる。当時ヨーロッパでは、シャルル・ワーグマン「日本人の晩餐会」のような日本舞踊を描いた絵が流行っており、モネもそこから着想を得たと思われる。

 

この絵に描かれているものは、本物の日本文化ではなく、日本文化のパフォーマンスと引用であることを示している。 

 

モネは、カミーユの衣に施された侍の刺繍の絵を特に重要視し、侍の顔をキャンバスのほぼ中央に配置している。カミーユが右手を挙げているのは、ルノワールの絵にも登場するフランス国旗の色をした扇子である。

 

黒髪で厳しい表情を浮かべ、帯の刀を強く握る侍と、金髪で扇子を繊細に持ち微笑むカミーユの描写は、「日本」というセットとそのセット中のヨーロッパ女性との違いに改めて注目させられる。

 

なお、妻のカミーユの本来の髪の色は黒色である。日本文化を象徴するオブジェクトで妻を取り囲みながら、わざわざ金髪のかつらを被らせているところに、日本美術への賛美と同時に西洋人である自身のアイデンティティを強調している。

 

しかし描かれている女性は、モネ自身ではなく妻であることから、彼女のアイデンティティは偽装されたものになっている。

 

カミーユと絵の中の偽文化の設定は、うちわを背景にしてさらにコントラストを強めている。うちわに絵が変えている絵は印象派の風景画が多く、左側には丹頂鶴が描かれているが、カミーユが右手を挙げている右側の扇には、バラ色の背景に着物姿の日本女性が描かれており、伝統的な髪型が施されている。

 

他の作品とは対照的な背景で区切られ、女性の顔がカミーユとは反対方向に傾き、もう一人の女性と呼応している。カミーユが笑顔でこちらを向いているのに対し、うちわの日本女性はヨーロッパの女性を見て驚いているような表情をしている。

背景


ジャポニズムの影響


1860年代から1870年代にかけてヨーロッパでは日本の芸術や文化への情熱が高まっている時期でこれを「ジャポニズム」と呼んだ。モネもジャポニズムに影響を受けた作家の1人だったことは間違いない

 

1854年の日米和親条約締結後、日本とヨーロッパで貿易が始まり、これ以降、ヨーロッパに日本の繊維品や磁器などさまざまな高級品がヨーロッパ市場に浸透し、その中に日本の日常生活を描いた独特の明るい色味の浮世絵が入っていた。

 

 

モネは早くから浮世絵のコレクターであり、また日本の演劇用衣装を所有していた。その中の一着をカミーユにまとわせ、ポーズをとらせていたと思われる。

 

初めて展示されたのは、1876年に開催された第2回印象派展。そのときにこの2メートルを超える巨大な絵画は大きな注目を集め、賛美と嘲りがほぼ同じ割合で起きた。

 

保守派の批評家からは「人間味のない表情の大きな人形」「デミモンドイン(高級売春婦の嘲りの意味)」「二人の中国人」「赤色の機械」などの批判を浴びた。

 

 

特に偏見のない一般的な鑑賞者からは、モネの大体な色使い、自信に満ちた筆使い、そしてモネの日本画への遊び心を賞賛した。

経済的困窮と市場需要


1860年代、モネにとって最大の悩みの種となったのがお金だった。国主催のサロン展にふさわしくない作品を出品したというモネの反抗的な態度に、父親が小遣いを減らしたのだった。

 

1870年代初頭、モネの作品が認められると、画商ポール・デュラン=リュエルに定期的に買い上げられるようになり、経済状況は改善されつつあった。

 

しかし、デュラン=リュエルがなかなか作品を売らないため、経済的には再び悪くなっていった。

 

1874年からは新居への引っ越し費用などで再び財政難に陥っていくことになる。

 

お金がなくて困っていたモネは、友人から借りた赤い着物を着た妻を描き、デュラン=リュエルの画廊に送り、1876年の第2回印象派展に出品した。

 

この頃、フランスではジャポニスムが流行っていたため、モネは《ラ・ジャポニスム》を高値で売り、経済的困窮を解消しようと考えた

 

40年後の1918年、画商のジョルジュ・ベルナイムとルネ・ジンペルがモネを訪ね、《ラ・ジャポネーズ》がそこそこの値段で売れたことを伝えると、モネは「ただ市場を喜ばせるためにこの作品を描いたことを恥じている」「この作品は 「汚物」」と述べたという。

 

しかし、本人のコメントから想像される以上に、モネはジャポニズムに傾倒していたのではないかと考える学者もいる。

 

作品が完成していた頃、モネは有名な美術評論家で日本美術品のコレクターでもあるフィリップ・ブルティに手紙を書き、重厚な細部の着物を描くことは「見事」だとコメントしている。

 

また、このコメントはモネの本音ではなく「宣伝」であり、ビュルティやマリー・アントワネットなど、ジャポニスムに関心を持つ著名な批評家に影響を与えようとしたものではないかと指摘する学者もいる。

 

もうひとつの制作動機は、モネが1873年に友人エドゥアール・マネがニナ・ド・カリアスをモデルに制作した『扇を持つ女』に対抗しようとしたことだろう。

 

モネが《ラ・ジャポネーズ》を描く前にこの作品を実際に見たという確かな証拠はないが、1874年2月に『Revue du monde nouveau』という本に掲載されたマネのスケッチの版画から、この作品を知っていたようである。

 

 1876年の雑誌『ル・ソレイユ』の批評では、モネの作品を「後追い」と表現しているほどである

エドゥアール・マネ《扇子を持つ女》,1973年
エドゥアール・マネ《扇子を持つ女》,1973年

批評


1876年の第2回印象派展に出品された後、この絵は美術評論家から、必ずしも肯定的ではないものの、注目を浴びるようになった。

 

批評家のエミール・ゾラとアレクサンドル・ポテイは、この作品の革新性と大胆な色使いを賞賛したが、多くの批評家はこの作品を「奇怪」で性的な暗示作品と評した。

 

批評家シモン・ブーベは、その批評の中でこう書いている。「赤い衣を着た中国人に二つの頭をつけている。一つは肩の上に描かれている遊女で、もう一つはどこに描かれたかはあえて言わないが怪物的である」。

 

また別の批評家は、侍の頭が着物に描かれる、刀を抜く描写と相まって、示唆に富むものであると指摘した。カミーユの「コケティッシュ」な表情も、エロティックな象徴の一部と批評された。