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【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)」

アルルの跳ね橋(ラングロワ橋) / Langlois Bridge at Arles

日本の木版画の影響を受けて描かれた風景画


《アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)》1885年
《アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)》1885年

概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1888年 
サイズ 49.5 cm × 64.5 cm
メディウム キャンバスに油彩
所蔵者 ヴァルラフ・リヒャルツ美術館

《アルルの架け橋》は、フィンセント・ファン・ゴッホが制作した4点の油彩画、1点の水彩画、4点のドローイング作品の主題である。

 

ゴッホが南仏のアルルに住んでいた1888年に制作されたこれらの作品は、形式と創作の側面が融合している。

 

ゴッホは、遠近法で描写する際に正確な線と角度を作り出すために、ハーグで製作し使用した透視図法フレームを使用している。

 

ゴッホは日本の木版画に影響を受け、色彩を簡略化して調和と統一感のあるイメージを作り出したことがわかる。

 

青や黄色などの対照的な補色を使い、作品に躍動感を持たせた。また、絵の具を厚く塗るインパストという手法で、光の反射を色で表現していた。

 

運河にかかる跳ね橋という題材は、彼の故郷であるオランダを思い起こさせるものだった。彼は弟のテオに頼んで、この絵の1枚を額装してオランダの画商に送った。再建されたラングロワ橋は、現在ポン・ヴァン・ゴッホと名付けられている。

背景


アルル


ゴッホがラングロワ橋の絵画とドローイングを制作したのは35歳のとき。南仏のアルルに住み、最高の作品を生み出していたころで、キャリアの絶頂期を迎えていた。

 

アルル、ニーム、アヴィニョン地域のひまわり、畑、農家、人々などを主題にした作品で、この時期はゴッホにとって多作で、15ヶ月足らずで約100点のデッサンを描き、200点以上の絵を描き、200通以上の手紙を書いた。

 

運河、跳ね橋、風車、茅葺き屋根のコテージ、広大な畑など、アルルの田園風景は、ゴッホにオランダでの生活を思い起こさせた。

 

アルルは、ゴッホが自分自身に求めていた安らぎと明るい太陽をもたらし、より鮮やかな色彩、強烈な色のコントラスト、変化に富んだ筆致による絵画を探求するための条件を整えたのである。

 

また、オランダでの芸術教育の原点に立ち返り、特にリードペンを使ってのデッサンを得意とした。

ラングロワ橋


ラングロワ橋は、アルルからブークへの運河にかかる橋の一つである。19世紀前半、地中海への運河網を拡大するために建設された。水上交通や道路交通を管理するために、閘門や橋も建設された。

 

アルル郊外にある最初の橋は、正式には 「Pont de Réginel」だが、管理人の名前では「Pont de Langlois」としてよく知られている。

 

1930年、当初の跳ね橋は鉄筋コンクリート製のものに建て替えられたが、1944年、退却するドイツ軍によって、地中海の港、フォス・シュル・メールにある橋を除く運河沿いの橋はすべて爆破された。

 

1959年、フォス橋はラングロワ橋の跡地に移設することを前提に解体されたが、構造上の問題から、最終的には元の場所から数キロメートル離れたモンカルドロックで再度、組み立てされた。

 

弟テオに宛てた手紙によると、ゴッホは1888年3月中旬頃にラングロワ橋の近くで洗濯をする女性の習作を始め、4月2日頃には橋の別の絵に取り掛かっていたようである。これが、彼がアルル運河に架かるラングロワ橋を描いたいくつかのバージョンのうちの最初のものである。

 

ゴッホのラングロワ橋の作品について、『ゴッホとゴーギャン』の著者であるデボラ・シルヴァーマンは、次のように語っている。

 

「ゴッホが描いた橋は、ノスタルジアとジャポニズムを織り交ぜた風変わりな作品と見なされてきた。ゴッホは、橋に関する絵画やデッサンの制作時「風景の中にあるこの工芸品の機構の構造、機能、構成要素」に注意を払いながら制作した」。

遠近法


アルルでゴッホは、ハーグで作った透視図法を再び使い始めた。この装置は、屋外の光景を見るときに、近くにあるものと遠くにあるものの比率を比較するために使用された。

 

ラングロワ橋の作品のいくつかは、このフレームを使用して制作されている。その使用により「メカニズムとしての跳ね橋の探求」を深めた。

日本の影響


ラングロワ橋は、ゴッホに広重の版画「すみだ大橋にかかる大橋の夏のにわか雨」を思い起こさせた。日本の木版画に触発されたゴッホは、日本の芸術作品の技法を自分の作品に取り入れようとした。ラングロワ橋についてエミール・ベルナールに宛てた手紙の中で、彼は次のように書いている。

 

「日本人が自分の国で何の進歩もないとしても、それでも彼らの芸術はフランスで影響を与え続けていることは疑いようがない」。ゴッホのラングロワ橋の絵は、日本的な美意識から、色彩を簡略化し、調和と統一感のあるイメージを表現している。

 

アウトラインは動きを表現するために使用された。色彩の濃淡は少なく、複数の微妙な色彩のバリエーションを好んだ。ラングロワ橋は、ゴッホに広重の「すみだ大橋にかかる大橋の夏のにわか雨」を思い出させ、青空に黄色の模様など、日本の版画の活力と南仏の光の活力を感じさせる色彩を選ぶようになった。

 

これらのアプローチは、より強いインパクトを与え、田舎のライフスタイルのシンプルでプリミティブな質を描き出している

同じような構図で描かれた3枚の絵


《洗濯する女性とアルルのラングロワ橋》 1888年 クレラー・ミュラー美術館(オッテルロー、オランダ) (F397)
《洗濯する女性とアルルのラングロワ橋》 1888年 クレラー・ミュラー美術館(オッテルロー、オランダ) (F397)

《アルルのラングロワ橋と洗濯する女性たち》は、ゴッホの最も象徴的で最も愛されている絵の一つであり、アルル時代の最初の傑作として認められている。

 

この絵には、運河沿いでよく行われる日常が描かれている。黄色い小さな荷車が橋を渡り、スモックに色とりどりの帽子をかぶった女性たちが岸辺で麻布を洗っている。

 

ゴッホはこの作品において、色彩理論や「同時対比の法則」の知識を巧みに利用している。

 

草原は赤橙と緑の交互の筆致で描かれている。橋、空、川には、黄色と青の補色が使われている。補色を使うことで、それぞれの色のインパクトが強まり、鮮やかで色彩的に統一された全体 を作り出している。

 

『ファン・ゴッホとポール・ゴーギャンの思想と芸術』の著者であるナオミ・マウアーは、この絵におけるゴッホの技術的・芸術的な完成度について述べている。

 

「構図的には、橋の垂直方向と水平方向の幾何学模様と水面への反射が、キャンバスに古典的な対称性と均衡を与える大きな中央の十字架を作り出しています。この中央の幾何学的な枠組みは、上方の空と下方の堤防に反響し囲まれているが、丘と海岸の大きな起伏、円形の波紋に囲まれた洗濯婦の丸い結び目、右側の柔軟でわずかに曲がった草によって緩和され活気を帯びている。ラングロワの橋は、形式的にも色彩的にも、ヴィンセントが自然を色彩的・形式的な本質的要素にまで抽象化し、これらの要素から、人間とその作品が完全に統合された、調和のとれた織りなす統一体を創造していることを示しています」。

 

《アルルのラングロワ橋》(水彩画)では、金具、鉄の支え、ブレース、鎖の滑車など、橋の細部を水彩画で精密に描き込んでいる。

《アルルのラングロワ橋》 水彩画 1888年 個人蔵 (F1480)
《アルルのラングロワ橋》 水彩画 1888年 個人蔵 (F1480)

その他の絵画


アルルのラングロワ橋と運河沿いの道


《アルルのラングロワ橋と運河沿いの道》1888年、アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館(F400)
《アルルのラングロワ橋と運河沿いの道》1888年、アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館(F400)

ゴッホはこの絵を描くとき、対象や伝えたいことに応じて、さまざまな技法を用いた。前景の草や小道は素早く描かれた。しかし、橋はより詳細に描かれ、石の橋脚や木の梁がはっきりと描かれている。

 

車道を持ち上げるためのロープの細部には、それが木製の吊り具に取り付けられていることが示されている。ゴッホは、水面に映る橋の姿にも細心の注意を払っている。遠くには別の跳ね橋がある。

 

ゴッホはこの絵について「何か変だ...」とはなしている。この絵の舞台には、彼の故郷を思い出させる何かがあった。

 

弟のテオに頼んで、この絵の初期バージョンを青と金(表が青、裏が金)の額に入れて、オランダの美術商テルステーグに提供するよう依頼した。

 

テルステーグクは、ゴッホとその弟テオがハーグに住んでいたころに知り合った。彼はゴッホの初期の芸術的関心を育てたが、ゴッホがシエンという娼婦と同棲した後、二人の関係は悪化した。

 

ゴッホ美術館は、この絵が3枚組の最後の作品であると主張しているが、シルバーマンは、この記事にあるように、4枚の油絵と5枚の水彩画を確認している。

アルルのラングロワ橋



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Langlois_Bridge_at_Arles、2022年6月27日アクセス