· 

【作品解説】エドヴァルド・ムンク「フリードリヒ・ニーチェの肖像」

フリードリヒ・ニーチェの肖像 / Porträt Friedrich Nietzsche

偉大なる哲学者の精神と思考を完全に視覚化


エドヴァルド・ムンク《フリードリヒ・ニーチェの肖像》,1906年
エドヴァルド・ムンク《フリードリヒ・ニーチェの肖像》,1906年

概要


作者 エドヴァルド・ムンク
制作年 1906年 
サイズ 201 × 160 cm
所蔵者 ティールスカ・ギャレリー

《フリードリヒ・ニーチェの肖像》は、1906年にエドヴァルド・ムンクによって制作された油彩作品。201 × 160 cm。ストックホルムのティールスカ・ギャレリーが所蔵している。

 

本作品は、ニーチェの死から6年後、本作品は1905年に、スウェーデンの著名な銀行家、実業家、芸術のパトロンであったアーネスト・ティールに依頼され、またエリザベート・フェルスター・ニーチェにインスピレーションを得て制作されたものである。

 

アーネスト・ティールはフリードリヒ・ニーチェの熱烈なファンであり、また、エドヴァルド・ムンクをニーチェの精神と思想を最も視覚化した芸術的解釈者と考えていた。また、ムンクもまた熱心なニーチェの崇拝者であり、彼は積極的にニーチェの精神を描こうとしていた

 

表現主義の芸術様式で19世紀の偉大な哲学者フリード・ニーチェの肖像が描かれている。背景は、《叫び》とよく似た構図だが、場所は家のバルコニーの可能性がある。

 

ムンクは、ニーチェの特徴的なセイウチの口ひげとふさふさした眉毛に至るまで、男性の肉体的本質をみごとにとらえている。山と鮮やかな空に面したバルコニーまたは橋の上に立ち、右腕で手すりにもたれかけ手を交差させ、ムンクは風景を見下ろしている。ウエストコート、ネクタイ、ロングコートを着用しており、すべてダークブルーの色合いである。

 

ムンクの有名なモチーフ「叫び」を彷彿とさせるが、黄色と白の色調が支配的であり、赤色はちらつくだけになっている。

 

なお、ムンクとニーチェは会ったことはない。ムンクは最初にコペンハーゲンでニーチェを学び、次にニーチェ、ストリンドバーグ、シェリング、ヘッケルなどのドイツの哲学を広めたスウェーデンの詩人で批評家のオラハンソンを通じてよりニーチェを学んだ。

 

また、同年、ムンクは2枚目の細長いニーチェの肖像画をいており、こちらはオスロのムンク美術館が所蔵している。

《フリードリヒ・ニーチェの肖像》,1906年,200 × 130 cm,オスロ・ムンク美術館所蔵
《フリードリヒ・ニーチェの肖像》,1906年,200 × 130 cm,オスロ・ムンク美術館所蔵

ムンク美術館が所蔵しているバージョンは、ティールスカ・ギャレリートと同じくらいの大きさだが、窮屈で落ち着きなく感じ、背景が少ない。いずれにしても、ハンス・ディーター・フーバーによれば、風景や人物は「非常に無駄のない画風で、図式化された」スケッチであるという。

 

緑の野原の色は差別化はされていないが、山のように線形化されて、城がうっすらと描かれている。

ニーチェの思想の影響


1888年春、コペンハーゲン大学で文化史家ゲオルグ・ブランデスの講義を受けたドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは、スカンジナビアでその名を知られるようになり、瞬く間に人気を博していた。

 

1892年以降にムンクは、行きつけのベルリンの芸術家レストラン「ツム・シュヴァルツェン・フェルケル」で、ポーランドの詩人スタニスワフ・プルジシェフスキといったニーチェファンと会合し、ニーチェ思想の影響を受けるようになった。

 

ムンクは絵のついて次のように書いている。「私は彼(ニーチェ)を洞窟にいるツァラトゥストラの詩人として描いた。彼はバルコニーに立ち、深い谷間を見下ろしている。山の上には明るい太陽が昇っている。

 

ニーチェが光の中にいるが、暗闇を渇望している。ムンクはツァラトゥストラが語った『夜の歌』の一節を参照してる。「わたしは光なのだ。夜であればいいのに!この身が光を放ち、光をめぐらしているということ、これがわたしの孤独なのだ」

 

デトレフ・ブレネッケによると、これはムンクが好んだニーチェの作品の中の一節で、絵のニーチェの肩の部分には翼が生えているように背景が描かれている。ニーチェにおけるツァラトゥストラの性質にある対立を表現したものであるという。

 

人間は動物と超人の間に立つ正午であるが、ムンクはニーチェを希望の象徴として夕方を描いている。これは偉大な正午でもある。それが新しい朝への道だからである。その時、下に降りた者は、自分が過ぎ去った者であることを祝福し、次の正午にはその知識の太陽がかれの真上に立つ。

 

ただし、この絵は哲学者の教条主義(象徴主義の拒否など)と画家の美学(「私は見るものを描くのではなく、見たものを描く」というモットーなど)の両方に矛盾しており、ブレネッケは「偽ムンク」であり「反ニーチェ」であると批評している。

 

また、ムンクの芸術スタイルの変化もうかがえる。当初彼の芸術は、哲学的・宗教的・神秘主義的なドイツ絵画の影響から始まったが、最後にはノルウェーでの友人たちの肖像画制作への移行が見える

 

実際、この後ムンクは1908年の秋に、過度の飲酒や喧嘩などが重なってムンクの憂鬱は急に深め精神病院へ入院する。

 

1909年に退院してノルウェーに戻って創作活動を再開すると、作品の色合いは以前と異なりカラフルになり、悲観性はなくなっていた。医者のアドバイスに従い、友人やパトロンたちの質の高い複数のポートレイト作品を制作をするようになった


■参考文献

https://de.wikipedia.org/wiki/Portr%C3%A4t_Friedrich_Nietzsche、2020年11月27日アクセス