アルフレッド・スティーグリッツ / Alfred Stieglitz
近代芸術写真のパイオニア
概要
生年月日 | 1864年1月1日 |
死没月日 | 1946年7月13日 |
国籍 | アメリカ |
活動 | 写真、画廊経営、編集、批評 |
配偶者 | ジョージア・オキーフ |
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・The Art Story(概要) |
アルフレッド・スティーグリッツ(1864年1月1日-1946年7月13日)はアメリカの写真家、編集者、批評家、近代美術のプロモーター、ギャラリスト。
芸術写真のパイオニアでもあり、これまでの記録メディアとして「写真」から、絵画や彫刻と同じく表現としての「写真」へ高めることに尽力。ニューヨーク在住の芸術志向のある写真家たちを集めてグループ「フォト・セセッション」を結成した。
また、スティーグリッツはニューヨークでいち早くヨーロッパの前衛芸術を紹介したギャラリー291のオーナーでもある。パブロ・ピカソやアンリ・マティスをはじめ多くのヨーロッパの前衛芸術家を紹介。ギャラリー291は、マルセル・デュシャン、フランシス・ピカビアなどのニューヨーク・ダダの活動拠点ともなった。
父親はドイツ系ユダヤ人の移民でアメリカで起業して成功。学生時代にアドルフ・フォン・メンツェルやウィルヘルム・ハセマンに出会い写真に興味を持つ。1887年にアマチュアカメラ雑誌に写真に関する論文を投稿し、採用されたのをきっかけに、写真の本格的な批評と活動を始める。
1897年に写真雑誌『カメラ・ノート』の編集に携わり、その写真グラビアの質の高さや高度な技術解説などで、世界中から注目を集めるようになる。
妻はジョージア・オキーフ。
重要ポイント
- 写真を絵画や彫刻と同じ「芸術」レベルまで高めた
- 前衛画廊ギャラリー291の経営者
- 写真雑誌「カメラ・ノート」の編集者でグラビア写真の印刷技術を発展させた
関連書籍
略歴
若齢期
スティーグリッツは1864年、ニュージャージー州ホーボーケンで、ドイツ系ユダヤ人の移民の父エドワード・スティーグリッツ(1833-1909)と母ハーディング・アン・ワーナー(1845-1890)の長男として生まれた。非常に裕福な家庭だったという。
父は南北戦争時に北軍の中尉だった。スティーグリッツにはほかに5人の兄妹、フローラ(1865-1952)、ジュリアス(1867-1937)、レオポルド(1867-1956)、アグネス(1869-1952)、セルマ(1871-1957)がいた。なかでも、ジュリアス&レオポルドの双子の兄弟ととくに親密だったという。
スティーグリッツは、1871年にニューヨークにある私立学校で最も優秀なチャーリー・インスティチュートに入学する。この頃から、毎夏を家族でアディロンダック山地のジョージ・レイクで過ごすようになり、その生活はスティーグリッツが大人になるまで続いたという。
ニューヨーク市立大学シティカレッジへの入学資格を得るため、スティーグリッツは公立高等学校の上等部へ入学したが、入学資格が不十分なのが明らかになる。1881年に父エドワード・スティーグリッツは会社を売り払い、そのお金で家族とともに数年間ヨーロッパに移り、子どもたちはヨーロッパで教育を受けることになる。
スティーグリッツは、ドイツのカールスルーエにあるレアルギムナジウムに入学する。翌年、ベルリンの技術高等学校で機械工学科へ入り、科学者で研究者のヘルマン・フォーゲルのもとで化学を学んだ。
ヘルマン・フォーゲルは写真を現像する化学的プロセスを研究する人であり、フォーゲルのもとでスティーグリッツはアカデミックな研究と芸術的な関心の両方を満たすことができたという。
ドイツ人芸術家のアドルフ・フォン・メンツェルやウィルヘルム・ヘイスマンはスティーグリッツのクラスメートだった。この頃にスティーグリッツは初めてカメラを購入し、ヨーロッパの田舎、特にドイツとオランダを旅して風景や農民たちを撮影してまわった。
1884年に両親はアメリカに戻ったが、当時20歳のスティーグリッツはドイツに残り、ヨーロッパやアメリカの写真集や写真家の本を収集する。このような独学で資料収集と研究を積み重ね、ついには写真が絵画や彫刻と同じぐらい芸術表現ができるものだとみなすようになる。
1887年にスティーグリッツは、新雑誌『アマチュア写真』へドイツのアマチュア写真に関する論考「ドイツのアマチュア写真家についての一言二言」を投稿する。その後、イギリスやドイツの雑誌を中心に、定期的に写真の芸術的側面や技術に関する論考記事を投稿するようになった。
写真家として名声を得はじめたのは、1887年に雑誌『アマチュア写真』のコンテンストで受賞した写真作品《ラストジョーク・ベラジオ》からと言われている。翌年でも、同雑誌のコンテンストでも1位と2位の賞を受賞、また、イギリスとドイツのさまざまな写真誌に彼の作品が掲載されるようになり、スティーグリッツの名前は世界的に知られるようになる。
1890年、妹のフローラが出産時に死亡したのをきっかけに、スティーグリッツはニューヨークへ戻る。
ニューヨーク時代(1891-1901)
スティーグリッツは自身を芸術家だとみなしていが、彼は自身の写真を作品を売らなかった。スティーグリッツの父は彼が生計を立てられるように、彼のために小さな写真製版会社「フォトクロム彫刻会社」を買い取り、仕事をする環境を整える。
この会社は高品質の写真を現像するため、また高給料を従業員に支払っていたので、ほとんど利益が出なかったという。この頃のスティーグリッツのおもな収入は写真製版業となる。
写真製版業のかたわらスティーグリッツは、定期的に雑誌『アメリカンのアマチュア写真家』に記事を投稿する。また、ニューヨークにあるボストン・カメラ・クラブ、フィラデルフィア写真学会、ニューヨークのアマチュア写真家協会など、さまざまな写真クラブの展示会に参加し、賞を得ている。
1892年後半、スティーグリッツは最初の携帯用カメラを購入。Folmer & Schwing製の4×5プレートフィルムカメラだった。このカメラで彼の最もよく知られている写真作品《冬》《五番街》《ターミナル》が撮影されている。これ以前のスティーグリッツは、三脚を必要とする8×10プレートフィルムカメラを利用していた。
雑誌へ投稿した記事の評価も高まりはじめる。1893年の春、スティーグリッツは、雑誌『アメリカのアマチュア写真家』の共同編集者となったが、自身の主張に偏りが現れるのを避けるため、会社から給料を受けるとらないようにしていた。また、フォトクロム社が雑誌のグラビア印刷を担っているのも問題だった。スティーグリッツは、雑誌に膨大な数の技術解説や写真批評の記事を書いた。
1893年11月16日、29歳でスティーグリッツは20歳のエマニュエル・オーバーマイヤー(エミリー)と結婚。彼女はスティーグリッツの親友でビジネス仲間のジョン・オーバーマイヤーの妹だった。しかし、スティーグリッツはのちに、エミリーをもともと愛しておらず、結婚後、少なくとも一年間は同じベッドで寝ていなかったと話している。
彼女と結婚した理由は、当時スティーグリッツの父が事業に失敗して経済面が危うかったことと、彼女が富豪の父親の遺産を受け継いでいたためだという。実際に結婚後、スティーグリッツは彼女の遺産の多くを自分の事業につぎ込んでいる。スティーグリッツは、エミリーとは芸術的また文化的価値観を共有できなかったので、彼女との結婚を後悔していたという。
1894年初頭、スティーグリッツとエミリーは新婚旅行に出る。フランス、イタリア、スイスなどを回り、写真をたくさん撮ったが、このとき撮影した写真は、彼の初期の代表的な写真作品となった。
パリ滞在中にスティーグリッツはフランスの写真家ロバート・デーマキーと出会い、生涯を通じた仲となる。また、ロンドン滞在中に出会った写真家ジョージ・デイヴィスやアルフレッド・ホースレイ・ヒントンとも生涯を通じた友人となった。
写真専門誌「カメラ・ノート」を創刊
その年の後半、スティーグリッツがアメリカに帰国した後、彼はロンドンの写真グループ「リンクト・リング」の全米で最初の2人の会員として選ばれた。スティーグリッツは、リンクト・リングの会員になることは、アメリカで芸術的な写真を宣伝するのに必要な原動力となると考えてた。
当時、ニューヨークには「アマチュア写真家協会」と「ニューヨーク・カメラ・クラブ」の2つの写真クラブが存在していたが、両クラブとも保守的で、経営状態は悪かった。
そこで、スティーグリッツは、フォトクロム社を辞職し、また『アメリカのアマチュア写真家』の編集者も辞職し、1895年の大半を「アマチュア写真家協会」と「ニューヨーク・カメラ・クラブ」の合併交渉に費やす。結果、1896年に2つの組織を統合して、新しく「ザ・カメラ・クラブ・オブ・ニューヨーク」という写真クラブを設立。スティーグリッツは副会長職に就いた。
スティーグリッツは、カメラ・クラブの現在のニュースレター形式での情報発信を、雑誌『カメラ・ノート』へと切り替えることにする。『カメラ・ノート』は1897年7月に創刊され、またたく間に世界中で最も素晴らしい写真雑誌と評価されるようになった。
その後4年でスティーグリッツは、『カメラ・ノート』を媒体にし、アメリカやヨーロッパで活躍するさまざまな写真家たちの作品を紹介するとともに、芸術や美学に関する論考記事を寄せて、写真における芸術性という自分の信念を推進した。批評家のサダキチ・ハートマンは「"芸術写真"、"カメラ・クラブ"、"スティーグリッツ"という3つの言葉は同じ意味であるように思えた」と話している。
スティーグリッツはまた写真作品を撮り続けてもいた。1897年後半スティーグリッツは自分の作品の最初のポートフォリオ集『Picturesque Bits of New York And Other Studies』のフォトグラビアを制作。彼の作品はアメリカやヨーロッパで展示され、1898年までに写真家として絶大な評判を得るようになった。
最初の「フェラデルフェア写真サロン」での展示でスティーグリッツの写真が10枚選ばれる。このサロンで写真家のガートゥルード・カスバーやクラレンス・H・ホワイトらと出会うきっかけともなり、以後彼らと親交を深めるようになる。
1898年11月、ミュンヘンの写真家のグループが、ムンクやロートレックなどの芸術家作品のグラフィック印刷の展示を行われたが、この展示では写真の展示も行われた。彼らは自分たちを「セセッション(分離派)」と呼んでいたが、スティーグリッツはこの言葉を芸術的な意味と社会的な意味の両方で解釈し、4年後にニューヨークで新しく成形される芸術的写真家のグループ「フォト・セセッション」で引用する。
1899年5月、スティーグリッツはカメラ・クラブで個展を開催し、87枚の写真作品を展示。この個展の準備の緊張と雑誌『カメラ・ノート』の編集業務の過労が相まって、スティーグリッツは健康を損ねる。
スティーグリッツの負担を軽くするため、友人のジョゼフ・ケイリーなどが編集に参加するようになるが、参加したメンバーの多くは、カメラ・クラブの会員ではなかったため、クラブの古参会員から強い反発を買った。スティーグリッツは1900年の大半を、これら反対勢力を抑えることに注力したが、結果として長年にわたる編集権を争う事態となった。
同年のいくつかのハイライトの1つとして、スティーグリッツが新しい写真家エドワード・スタイケンを、第一回シカゴ写真サロンで紹介したことがある。もともと画家だったスタイケンは写真に絵画的要素を持ち込んだ。2人は良い友人関係であり仕事仲間となった。1902年には、アルフレッド・スティーグリッツらとともに、フォト・セセッションを結成し、ピクトリアリスム作品で名を成した。
写真グループ「フォト・セセッション」の結成
写真家のエバ・ワトソン・シュッツェは、写真や技術の特性を熟知した写真家だけで審査する展覧会を行うべきだとスティーグリッツに要請する。
1901年12月、スティーグリッツは美術愛好クラブ「ナショナル・アーツ・クラブ」のチャールズ・ディケイから招かれ、スティーグリッツ主催の展示を同クラブで開催する提案がもちかけられる。
これを機にスティーグリッツは、ニューヨークに存在していた美術志向のある写真家たちを集めてグループを結成、ミュンヘンの写真家に敬意を表して、「フォト・セセッション」と名付けた。グループには友好関係のあったエドワード・スタイケン、アルヴィン・ラングダン・コバーン、フランク・ユージン、クラレンス・H・ホワイト、ガートルード・ケーゼビアらが参加。
1902年3月初頭に、フォト・セセッションの展示がアーツ・クラブで開催され、大変な盛況のうちに終了した。
スティーグリッツは、フォト・セセッションの芸術的評価をさらに高めるため、完全に独立したピクトリカル・フォトグラフィー(絵画的写真)専門の雑誌の創刊計画を立て始める。7月までに『カメラ・ノート』の編集を完全に辞め、一ヶ月後に『カメラ・ワーク』という新しいジャーナルの設立趣意書を発表する。「写真刊行物で最も素晴しく豪華になる」という断固とした意志を表明した。
『カメラ・ワーク』の創刊号は4ヶ月後の1902年12月に刊行される。内容は写真グラビア、写真、美学と芸術に関する重要な批評、展覧会や写真作家の批評や解説など。年4回刊行を基本として、1917年まで全50号を刊行された。「視覚に焦点を置いた最初の写真ジャーナル誌」だったという。
『カメラ・ワーク』誌上のあらゆる面で、スティーグリッツの完璧主義者的な性格が現れている。スティーグリッツは誌上のグラビア印刷の質をこれ以上にないレベルにまで高め、グラビア印刷技術の発展に大きく貢献したという。ブリュッセルでのフォト・セセッションの展示で作品の到着が遅れた際に、急遽、雑誌からグラビア写真を切り抜いて展示したが、ほとんどの鑑賞者がオリジナルの写真だと間違えるほどの印刷技術の高さだった。
フォト・セセッションの小さなギャラリー設立
1904年にスティーグリッツは再び過労気味となり、5月に家族とともにヨーロッパ旅行に休養旅行に出かけることにする。旅行前にスティーグリッスは展覧会鑑賞、会合、行楽の細かなスケジュールを計画していたが、ベルリンに到着すると同時に体調を崩し、一ヶ月以上ベルリンで休養を取ることになる。スティーグリッツは1904年の残りの大半をドイツで写真を撮影して過ごすことになった。
ヨーロッパからアメリカへ戻る途中、スティーグリッツはロンドンへ立ち寄り、ロンドンの写真グループ「リンクト・リング」のリーダーたちと会合する。アメリカに彼らの組織の支部を創設を提案したが、実現は難しかった。
1905年11月25日、「フォト・セセッションの小さなギャラリー」がニューヨーク五番街291にオープン。のち1908年にギャラリー291に改称される。
1906年10月に発行された「カメラ・ワーク」では、友人のジョゼフ・ケイリーが「今日、アメリカにおけるフォト・セセッションの本当の戦いは、絵画表現における新しいメディウムの可能性として、写真を芸術として広く認知させることにある」と、フォト・セセッションのミッションについて話している。
2ヶ月後、当時42歳のスティーグリッツは、28歳の画家パメラ・コールマン・スミスと出会う。彼女は自身の絵画や水彩画をスティーグリッツのギャラリーで展示したいと思っていた。スティーグリッツは「写真の可能性や限界を判断するために、絵画と写真と比較するのは非常に有益なこと」と考えたので、彼女の展示を開催を決める。
1907年1月に展示が行われ、これまでの写真展示のいずれよりも遥かに多くの人がギャラリーに押し寄せ、すぐに彼女の作品は売り切れた。スティーグリッツは展示の人気を利用しようと、彼女の作品を写真撮影してプラチナ印刷のポートフォリオを発行する。
また、これを機にスティーグリッツは、写真のみならずヨーロッパの近代絵画や前衛美術を紹介しその普及に努めるようになった。
運命
1907年の春、スティーグリッツは友人のクラレンス・H・ホワイトと実験写真シリーズのコラボレーションを始める。彼らは着衣モデルとヌードモデルの写真を数十枚撮影し、着色したり、プラチナプリント上にドローイングをするなど、実験的な技術で写真を制作した。スティーグリッツによれば、「カメラではできないこと」をしたという。
その後、スティーグリッツ一家は再びヨーロッパ旅行に出る。この旅行中にスティーグリッツは、彼の代表作でありまた20世紀の最も重要な写真作品の1つと評価されている撮影する。
船の船首に下層階級の客を撮影した1907年作《運命》である。撮影後、彼は4年間公表も展示もしなかったという。これは、ニューヨークからブレーメンに出発する蒸気船の下層階級スペースにいるさまざまな男性や女性を撮影したものである。
ギャラリー291の設立
スティーグリッツはカメラ・クラブから辞任を求められが、他の会員による反対で終身会員として復帰することになる。オーギュスト・ロダンの革新的な展示を行った直後、金銭的問題が発生し、短期間「フォト・セセッションの小さなギャラリー」閉鎖することになった。1908年2月にギャラリーは名称を「291」に改名。
スティーグリッツは、ロダンの露骨な性描写のドローイング作品など、意識的に論争になるであろう芸術を展示していた。スティーグリッツのギャラリーの意図は「ギャラリー291に訪れる人が、あらゆる種類やランクの芸術(画家、彫刻家、素描作家、ヨーロッパの芸術家、アメリカ芸術家、巨匠、新人作家、実験的な作品など)を比較し、類似点や異なる点を見出し、思考し、討論する場所にする」というものだった。
同時期にナショナル・アーツ・クラブでは、スティーグリッツらフォト・セセッションの写真作品を中心に、メアリー・カサット、ウィリアム・グラッケンズ、ロバート・ヘンライなどのアメリカの画家たちも参加した「特別現代美術展」という展覧会を開催。この展覧会は、写真家が画家と同等の芸術的価値にあることを証明するアメリカではじめての大きな展覧会となった。
1909年5月、スティーグリッツの父のエドワードは死去し、スティーグリッツは1万ドル(2現在の約27万ドル)の遺産を受ぐ。スティーグリッツはこの遺産を数年間にわたってギャラリーと「カメラ・ワーク」の運営を維持するために使った。
次第にヨーロッパの近代美術のプロモーターとして、スティーグリッツの評判が高まり出すと、彼に作品を見てもらい、また291ギャラリーで展示してもらいたいという新人のアメリカ人芸術家が増え始めた。
1911年から1912年初頭にかけて、スティーグリッツは、ギャラリー291で革新的な近代美術の展覧会を企画し、『カメラ・ワーク』の紙上で写真とともに新しい芸術をプロモートした。1912年の夏までに、ステイーグリッツは非写真芸術に夢中になりはじめ、もっぱらマティスやピカソに焦点を当てた『カメラ・ワーク』の号を発刊した。
1912年待つ、画家のウォルター・パック、アーサー・ボウウェン・デイビーズ、ウォルト・クーンらが近代美術の展覧会を企画し、スティーグリッツは企画のために291からいくつかの作品を貸した。彼はまた、クロード・モネ、マベル・ドッヂ、イザベラ・スチュワート・ガードナーらともに展示の名誉副会長として名前を参列することに合意。
1913年2月、ニューヨークでアーモリー・ショーが開催されるとすぐに近代美術はニューヨーク中で話題の的になった。過去5年間にギャラリー291で取り扱っていた作品を弁明するものとして、ショーの人気を間のあたりにする。
また、アーモリー・ショー開催期間にギャラリー291でスティーグリッツ自身の写真を同時に展示する。のちにスティーグリッツは「同じ場所で写真と近代美術の両方を見せることで「学生や一般大衆に2つのメディアや場所と目的を明確に意識させるには最高の機会だった」と話している。
ジョージア・オキーフとの出会い
1916年1月、スティーグリッツはジョージア・オキーフという新人画家の木炭ドローイング画のポートフォリオを見て、彼女に興味を持つ。
スティーグリッツはオキーフの作品に魅了され、オキーフに一度も会うことなく、また彼女から展示許可を得ないままギャラリー291で彼女の作品の展示企画を立て始めた。
オキーフがこのことを初めて知ったのは、その年の5月下旬にギャラリーでオキーフのドローイングを見た他の知り合いからだった。オキーフは、その後291に直接行き、自身の許可なしに作品を展示したことに対してクレームを行う。その後、1917年の夏までにスティーグリッツとオキーフは、手紙でやり取りするようになった。
1918年6月上旬、オキーフはテキサスからニューヨークへ移り、スティーグリッツは彼女の活動を支援するためアトリエを貸し出した。
1ヶ月後、スティーグリッツは妻のエミリーが外出中に自宅のアパートにオキーフを招き入れ、彼女のヌードを撮影する。しかし、撮影中にエミリーが帰宅してトラブルが生じる。エミリーはスティーグリッツに対して今後オキーフと会うのを止めるか、この家を出ていくよう忠告した。
スティーグリッツは家を出るやいなや、ニューヨークでオキーフと同棲するための場所を探し、2人は同棲を始める。2人の生活はまるでティーンエイジャーのような恋愛で、一日に何度もベッドに駆け込んで、セックスに励んでいたという。
法手続きの遅れのため、スティーグリッツの離婚が確定するには6年以上かかった。この時期スティーグリッツとオキーフは同棲していたけれども、彼女は芸術制作のため、ときどき一人になることがあった。スティーグリッツの方も自身の写真に集中したり近代美術のプロモートに専念するのに一人時間を費やすことが多かった。
オキーフはスティーグリッツが欲しがっていたミューズだった。彼は1918年から1925年にかけてオキーフをたくさん撮影している。この期間にスティーグリッツは、350枚以上のオキーフのキャラクター、ムード、美しさなどを描写ポートレイト写真を制作。
また、身体の各部位(特に手や顔や髪)をクローズアップする写真も撮影している。オキーフの伝記作家ロクサナ・ロビンソンは「彼女の個性はこれらの写真上ですばらしく表現されている」批評している。
1920年にスティーグリッツは、ニューヨークのアンドレソン・ギャラリーズのミッチェル・ケナーリーに招かれ、大規模な写真個展の話をもちかけられる。1921年初頭に1913年以来のスティーグリッツの個展が開催されることになった。146作品が展示されたが、以前に展示されたものは17枚だけで、あとはすべて新作となった。
新作の内46枚はオキーフのポートレイトで、その多くはヌード写真だったが、いずれもオキーフと特定できない構図のものだった。この個展のカタログでスティーグリッツは有名な宣言「私はホーボーケンで生まれた。私はアメリカ人です。写真は私の情熱です。心理の探求は私の強迫観念です」を残している。
1922年、スティーグリッツは、ジョン・マーリンの大規模な個展を企画し、彼の絵画やエッチング作品をアンドレソン・ギャラリーで展示し、続いてオキーフを含む40人以上のアメリカの芸術家たちの約200点の絵画の大規模なオークションを開催。この活動に励み、彼は最も創造的で斬新な取り組む。それが雲の形態と美をシンプルに探求した写真シリーズである。
1922年11月にスティーグリッツの母のヘディングが死亡。
1924年、スティーグリッツの離婚は最終的に裁判官によって承認され、4ヶ月以内にオキーフと小さな結婚式を挙げ、レセプションや新婚旅行なしで家に帰った。オキーフはのちにスティーグリッツの娘キティの問題を和らげるために結婚したと話している。娘キティは当時、うつ病や幻覚症状を患い精神病院で治療を受けていたという。
次の年にオキーフはニューメキシコで大半を絵画制作に費やし、一方でスティーグリッツはほとんどニューヨークから離れなかった。オキーフによれば、スティーグリッツは医者から50マイル以上離れた場所に住めないほどの神経症だったという。
1924年の終わりに、スティーグリッツは、ボストン美術館に27枚の写真作品を寄付。大きな美術館が写真をコレクションしたのは初めてだった。
晩年
1925年、スティーグリッツはアンドレソン・ギャラリーに招かれ、共同でアメリカ芸術の展覧会『アルフレッド・スティーグリッツ企画 7人のアメリカ人』を開催することになえう。展覧会では、アーサー・ダヴ、マーズデン・ハートレイ、ジョン・マリン、チャールズ・デムス、ポール・スタンド、ジョージア・オキーフ、アルフレッド・スティーグリッツの7人の作家が参加。絵画、写真を中心に159の作品が展示され、3週間にわたる展示で、作品はすべて売り切れるほどの盛況となった。
この展示後すぐにスティーグリッツは、アンドレソン・ギャラリーの一部屋を使って、「7人のアメリカ人」に参加した個々の美術家たちの展示の続編企画の依頼を受ける。1925年12月、スティーグリッツは新たに「イヌティメイト・ギャラリー」というギャラリーを開廊。小さな部屋だったので通称「ザ・ルーム」と呼ばれるようになった。
その後4年間、ジョン・マリン、アーサー・ダヴ、マーズデン・ハートレイ、ジョージア・オキーフ、ポール・スタンドなど「7人のアメリカ人」に参加した美術家の作品16点を展示し、その後は、ガストン・ラシェーズ、オスカー・フロリアヌス・ブルーマナー、フランシス・ピカビアらの個展を開催した。
この時代にスティーグリッツは影響力の新しいコレクターのダンカン・フィリップスと関係を築く。彼はイヌティメイト・ギャラリーを通じて、さまざまな作品を購入した。
1927年、スティーグリッツは、ボランティアでギャラリーのアシスタントをしていた22歳のドロシー・ノーマンに夢中になり、二人は恋に落ちる。ノーマンは既婚者であり、子どももいたが、彼女はほとんど毎日ギャラリーに手伝いに来ていた。
オキーフはメーブル・ダッジから夏にニューメキシコに来るよう招待されて、毎年夏にニューメキシコに滞在することになった。スティーグリッツはオキーフがいない間に、ノーマンの写真を撮り始め、また彼女に印刷技術を教えたりしていた。
1929年初頭、スティーグリッツはイヌティメイト・ギャラリーが入居しているビルが年末に解体する通知を受ける。その年の5月にチャールズ・デムスの個展を開催したあと、憔悴と憂鬱で夏にジョージ湖に療養に出かける。
その年の秋、スティーグリッツはニューヨークに戻る。2週間後の12月15日に65歳の誕生日を迎え、次のギャラリー「アメリカン・プレイス」を開設する。そこで友人のマリン、デムス、ハートレイ、ダブ、スタンドなどの個展やグループ展を以後16年にわたって開催する。オキーフも少なくとも1回以上は個展を開催している。
スティーグリッツは他人がオキーフの作品に近づくこと規制し、また批評家が好意的でない批評をしたときでさえも彼女を絶え間なくプロモートし続けた。この時期、二人はときどき夏の間のみ、ニューメキシコの彼女の家で会っており、普段は熱いソウルメイトとしてほとんど毎週のように手紙を交わしていたという。
1932年、スティーグリッツは「ザ・プレイス」で写真家生活40周年を解雇する個展を開催。127作品を展示した。回顧展は彼の代表作の多くが展示されたが、若い愛人ノーマンのポートレイトの隣に45歳になるオキーフの近影ポートレイトも展示された。
1937年、クリーブランド美術館はスティーグッツの大規模な個展を開催する。
1938年初頭、スティーグリッツは深刻な心臓発作起こす。以後、今後8年間にわたって彼を苦しめることになった。スティーグリッツの体調が悪くなる。ギャラリーを不在にしている間は、愛人のドロシー・ノーマンがギャラリー管理をした。
1946年夏、スティーグリッツは深刻な脳卒中を起こし、昏睡状態に陥る。オキーフがニューヨーク戻り、病院に駆けつけるとドロシー・ノーマンと鉢合わせする。ノーマンは部屋を出て行き、スティーグリッツが死ぬ際にはそばにオキーフがいた。スティーグリッツの意向により、友人や家族の20人だけで簡単な葬儀を済ませることになった。
スティーグリッツは火葬され、姪のエリザベス・デイビッドソンとオキーフは彼の灰をジョージ湖に持ち帰り「彼が水の音が聞こえる場所に」と湖に灰はまかれた。