【作品解説】 カラヴァッジオ「ホロフェルネスの首を斬るユディト」

ホロフェルネスの首を斬るユディト / Judith Beheading Holofernes

カラヴァッジオ版ユディト


《ホロフェルネスの首を斬るユディト》1598年から1599年。Wikipediaより。
《ホロフェルネスの首を斬るユディト》1598年から1599年。Wikipediaより。

概要


作者 カラヴァッジオ
制作年 1598年から1599年、または1602年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 145 cm × 195 cm
コレクション ローマ国立古代美術館

《ホロフェルネスの首を斬るユディト》は1598年から1599年にカラヴァッジオによって制作された油彩作品。

 

聖書のエピソードを元にした作品で、未亡人ユディトがシリアの将軍ホロフェルネスを誘惑し、呼び寄せられた彼のテント内で首をはねる場面を描写している。本作品は1950年に再発見され、現在はローマ国立古代美術館が所蔵している。

 

最近開催された「Dentro Caravaggio」展(2017年9月~2018年1月)で、カラヴァッジョの初期作品には見られない後期作品の特徴的な光が描かれていることから、制作年は1602年ではないかと示唆されている。

 

展覧会カタログ(Skira, 2018, p88)には、ジェノヴァの銀行家オッタヴィオ・コスタの依頼により制作されたものであるという伝記作家ジョヴァンニ・バグリオーネの記述が引用されている。

 

全く同じタイトルで1607年に描かれた2枚目の絵(下記参照)は、複数の専門家からカラヴァッジョ作と認定されているが、いまだに別人の作品かどうか論争の的となっている。2014年に民家の屋根裏で偶然に再発見され、《ユディトとホロフェルネス》というタイトルで2019年6月に個人間売買されている。

主題


カラヴァッジョの題材への取り組みは、通常、最もドラマティックでインパクトを与える瞬間、つまり首を切る瞬間をピックアップすることだった。

 

人物たちは奥行きのない舞台に配置され、側面から光が照らされ、真っ黒な背景の中で孤立している。ユディトの隣に立っているのはユディトのメイドのアブラである。彼女は高度な甲状腺腫に苦しんでいる。

 

X線解析から、カラヴァッジョはホロフェルネスの頭部の配置の調整に苦慮しており、胴体からわずかに離すように右に微妙に移動させていることが明らかになっている。

 

3人の登場人物の顔は、カラヴァッジョの感情表現の巧みさを表しており、特にユディトの表情は、決意と反発が入り混じったものとなっている。

 

ユディトのモデルはおそらくローマの宮廷女官フィライド・メランドローニで、この頃にカラヴァッジョの他の作品のモデルをしている。この場面、特に血と断頭台の描写は、1599年に行われたベアトリス・バレンシアの公開処刑時の観察をもとに描いていると思われる。

2014年に発見されたセカンドバージョン


《ホロフェルネスの首を斬るユディト Ⅱ》1606年から1607年。Wikipediaより。
《ホロフェルネスの首を斬るユディト Ⅱ》1606年から1607年。Wikipediaより。
作者 カラヴァッジオ
制作年 1606年から1607年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 144 cm × 173.5 cm
コレクション 個人蔵(J・トミルソン・ヒル)

《ホロフェルネスの首を斬るユディト Ⅱ》は1606年から1607年にカラヴァッジオによって制作された油彩作品。2014年にフランスのトゥールーズで1870年から所有していた民家の屋根裏でカラヴァッジオの《ホロフェルネスの首を斬るユディト》のセカンドバージョンが発見された。《ユディトとホロフェルネス》ともいう。

 

作品状態は比較的良好だった。その後、5年に及ぶ長い真贋の検証が行われる一方で、フランス政府は作品の海外流出を防ごうとしていた。

 

2019年2月、ルーブル美術館は1億ユーロ(約1億1200万ドル)で本作品を購入する意向があることを告知したが、2019年6月27日にトゥールーズで開催される民間オークションで競売にかけられることが発表された。

 

驚くべきことにカラヴァッジョの作品は40年以上も市場に出回っておらず、最後にクリスティーズ・ロンドンのオークションに出品された時には、落札されなかった。なお、カラヴァッジョの作品は世界に68点しか現存していないという。

 

2019年6月25日、アメリカの投資家J.トミウソン・ヒルがこの作品、フランスのトゥールーズのオークションで競売にかけられる2日前に直接購入している。彼はメトロポリタン美術館の役員でもあるので、近々同館で公開されるかもしれない。

 

個人売買の際には秘密保持契約が締結されていたため、実際の売買価格は公表されていない。なお、ルーヴル美術館が1億ユーロ(約1億2,000万ドル)で購入するつもりだったが、絵は1億1,000万ドルから1億7,000万ドルと見積もられ販売を断られている。

由来


1607年6月14日にナポリを出発したカラヴァッジョは、《ロザリオの聖母》と《ホロフェルネスの首をはねるユディト》の2枚の絵をナポリのアトリエに残した。その絵画はフランドル地方の画家で美術商のルイ・フィンソンとアブラハム・ヴィンクが共有することになった。

 

フィンソンは、ナポリを離れて1609年頃にアムステルダムに定住した際に、この2枚の絵を持ち運んだという。後にフィンソンもアムステルダムに移り住んだ。この二枚の絵に関しては、フィンソンがアムステルダムで作成した1617年9月19日付の遺言書に再び書かれている。

 

フィンソンの遺言でヴィンクがナポリ時代から共有していた2つのカラヴァッジョの絵画を所有することになった。フィンソンは遺言書を作成した直後に亡くなり、相続人のヴィンクはその2年後に亡くなった。

 

ヴィンクの死後、彼の相続人が、少なくとも1619年以降に《ロザリオの聖母》を1800フロランでアントワープのドミニコ会の聖パウロ教会のために、ペーター・ポール・ルーベンス率いるフランドルの画家とアマチュア委員会に売却した。

 

1786年、オーストリア皇帝ヨーゼフ2世は、役に立たない修道院の閉鎖を命じ、カラヴァッジョのもう1枚の絵《ホロフェルネスの首をはねるユディト》をコレクションに加えた。

 

この作品はアントワープを代表する芸術家たちが贈ったものであり、その深い宗教的な献身を表現したものであったため、フランドルのオーストリア支配者たちの略奪の対象となった。

 

《ホロフェルネスの首をはねるユディトⅡ》は、メトロポリタン美術館の学芸員ケビン・クリスチャンセンをはじめ、イタリアのバロック芸術の著名な専門家であるデビッド・ストーンなどなどその信憑性に関して複数の権威から裏付けされているが、16〜17世紀のフランドルの画家でカラヴァッジョの仲間であるルイ・フィンソンによるコピー作品、もしくはオリジナル作品であると主張するものもいる。