【美術解説】キース・ヘリング「80年代NYストリート・アートの代表」

キース・ヘリング / Keith Haring

80年代NYストリート・アートの代表


《Radiant Baby》
《Radiant Baby》

概要


 

生年月日 1958年5月4日
死没月日 1990年2月16日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画、グラフィティ
ムーブメント ポップ・アートストリート・アート、彫刻
関連人物 アンディ・ウォーホルジャン・ミシェル・バスキア、マドンナ
公式サイト

http://www.haring.com/

キース・アレン・ヘリング(1958年5月-1990年2月16日)はアメリカの芸術家。おもに1980年代のニューヨークのストリート・カルチャーから発生したポップ・アートやグラフィティ・アート運動活躍したことで知られる。

 

ヘリングはニューヨークの地下鉄内で自発的に描いたグラフィティ作品を通じて人気を集めた。

 

チョーク・アウトライン形式(犯罪現場で被害者の位置を書き記しするための線)でシンプルな絵画が特徴で、活動初期は地下鉄の広告板に黒いシートを貼って描いていた。

 

ヘリングがよく描いたモチーフは「Radiant Baby(光輝く赤ん坊)」「円盤」「犬を象徴するもの」などである。

 

ヘリングの絵画は「多くの人が認知しやすいビジュアル言語」の要素があり、また後期作品においては政治的、社会的なテーマ、特にホモセクシャルAIDSなどのテーマが含まれるようになった。ホモセクシャルやエイズはヘリング自身の象徴でもあった。

重要ポイント

  • ストリート・アートやグラフィティの先駆け
  • 同性愛やAIDSを主題とした作品
  • チョーク・アウトライン形式のシンプルで大胆な線

略歴


幼少期


キース・ヘリングは1958年5月4日、ペンシルバニア州レディングで生まれた。母はジョアン・ヘーリング、父アレン・ヘーリング。父アレンはエンジニアでアマチュアの漫画家だった。また、ケイ、カレン、クリステンの3人の妹がいた。

 

キース一家はキリスト教の一宗派「ゴッド・オブ・ユナイテッド・チャーチ」に入信していたといわれる。

 

高い技術のドローイングを制作していた父の影響で、キースは幼少期から芸術に関心があった。子どものころは、ウォルト・ディズニーの漫画や絵本作家のドクター・スース、『ピーナッツ』の作者チャールズ・M・シュルツ、アニメシリーズ『ルーニー・テューンズ』などが好きだったという。

 

10代初頭、ヘリングはキリスト教会の中におけるヒッピー的な要素である「ジーザス・ムーブメント」に出会い影響を受ける。自身の宗教的背景を捨て、ヒッピー文化の影響でヘリングは全国へヒッチハイクの旅に出た。

 

旅では自身で制作したグレイトフル・デッドやアンチ・ニクソンTシャツを売って日銭を稼いでいたという。またこのころにドラッグを試みるようになった。

 

1976年から1978年までピッツバーグにあるアイビー・プロフェッショナル芸術学校に通び商業藝術を学ぶが、あまりおもしろくなく興味をを失う。

 

1923年のロバート・ヘンライの著作『アート・スピリット』を読み影響を受け、自分自身の芸術を追求することを決心する。

 

ヘリングはピッツバーグ芸術センターでメンテナンスの仕事をしながら、ジャン・デビュッフェジャクソン・ポロック、マーク・トビーらの美術を研究する。

 

このとき、ヘリングが受けた最も重要な出来事は、1977年のピエール・アレンスキーの回顧展と1978年の彫刻家クリストの講義だったという。

 

国際表現主義グループ「コブラ」と連動したアレンスキーの作品は、ヘリングに大きなカリグラフィー作品を創作することに対して自信を与えた。また、クリストからは芸術を通じて公衆を巻き込む可能性を学んだ。

 

ヘリングの最初の重要な個展は、1978年にピッツバーグにあるアート・センターで開催された。

 

ヘリングは1978年にニューヨークへ移り、スクール・オブ・ビジュアル・アーツで絵画を学ぶ。ビデオやパフォーマンとアートの可能性を探求するとともにビル・ベックリーから記号学も学んだ。

 

この時期にヘリングはDanceteriaというナイトクラブで皿洗いや給仕のアルバイトをしていたという。

 

また、ウィリアム・S・バロウズの著作物から多大な影響を受け、イメージの相互参照や相互接続を行う実験からインスピレーションを受けた。

芸術家キャリア


ヘリングは最初、地下鉄の駅にあった未使用の広告板に黒い背景の紙を貼ってチョークでドローイングを描くパブリック・アートで、一般の人から注目を集めるようになった。

 

キースは地下鉄を実験作品を制作するための「実験室」と見なしていたという。

 

1980年代初頭、ヘリングはクラブ57で個展を開催。その様子は写真家の曾廣智が撮影している。この時代に「ラディアント・ベイビー」は彼のシンボルとなった。ヘリングの太い線、鮮やかな色彩、動きのある造形は生命と結束の強いメッセージ性を掲げている。

『ラディアント・ベイビー』
『ラディアント・ベイビー』

また、ヘリングはタイムズ・スクエア・エキシビジョンに参加し、はじめて動物や人間の顔を描いた。同年、ヘリングはコピー機で複写したテキストをカットアップして『ニューヨーク・ポスト』風の挑発的なコラージュを作ったことで話題になった。

 

1982年までにヘリングは、グラフィティ・アーティストのフーツラ、ケニー・シャーフ、マドンナ、ジャン・ミシェル・バスキアといった同世代の新興アーティストたちを友好関係を築く。1982年から1989年の間にヘリングは世界中の都市で50以上の公共作品を制作した。

 

ヘリングはよく運動性や活力、ハッピーな状態を強調表現するために力強い大胆な線を利用して絵を描いた。輝く愛を抱いた2人の人物像を描いた1982年の初期作品の1つ『無題』は、批評家らに同性愛と彼らの文化を大胆に表現したもの解釈されている。

ヘリングはアンディ・ウォーホルとも親交を持つようになり、『アンディ・マウス』をはじめさまざまなウォーホルをテーマにした作品を制作している。ウォーホルとの友好関係はヘリングがアーティストとして成功する決定的な要素となった。

『アンディ・マウス』
『アンディ・マウス』

国際的なアーティストに


1984年にヘリングはオーストラリアを訪問し、メルボルンやシドニーで壁画を描いた。

 

メルボルンにあるビクトリア国立美術館やオーストラリア現代美術センターからの依頼で、国立美術館のウォーター・カーテンを一時的にヘリングの壁画に置き換えた。

 

ほかにヘリングは、リオデジャネイロやパリ市立近代美術館、ミネアポリス、マンハッタンで絵画制作を行っている。

 

また、このころからヘリングは政治と連動した芸術制作をはじめるようになる。1985年には南アフリカを解放を啓発するポスターを制作している。

 

1986年春、ヘリングはアムステルダムのアムステルダム市立美術館で最初の美術館での個展を開催し、当時の美術館の収容施設大の壁画を描いた。

 

1986年10月23日、ヘリングはドイツのチェックポイント・チャーリー博物館からの依頼でベルリンの壁に絵を描いた。そのときの壁画は300メートルの長さにおよび、黄色を背景にして赤と黒で連結された人物造形の絵が描かれた。その色はドイツの国旗や東西ドイツ間の統一を象徴をあらわすものだった。

 

ヘリングは子どもたちと作業することに関心を持ちはじめる。これは、のちに自由の女神像100周年を記念したプロジェクトで1000人の子どもたちと協力して制作した作品『Citykids Speak on Liberty』の創作のインスピレーション元になったという。

 

1986年4月、ソーホーにヘリングがデザインした店「ポップ・ショップ」がオープン。ここでは、リーズナブルな価格で購入可能なキースの作品が販売された。

 

作品の商業販売についてたずねられた際、ヘリングは「少し絵を描くだけで価格が上がるが、この店は私が地下鉄で絵を描いていたことの延長線上であり、ハイアートとロウアートの境界線を破壊しているとおもう」と話している。 

政治・社会活動家として


ポップ・ショップが現れたころ、彼の作品には反アパルトヘイト、エイズの啓発、コカインの蔓延といった社会的・政治的テーマが反映された作品がより強くなっていった。アブソルート 、コカ・コーラ、ラッキー・ストライクといった商品から影響を受けたポップ・アート作品もいくつか制作している。

 

1987年にヘリングはアントワープやヘルシンキをはじめ世界中で個展を開催。同年、10月12日にリリースされたマドンナらが参加したクリスマス音楽アルバム『クリスマス・エイドI』のカバーワークを手がけている。

 

1988年にはシャトー・ムートン・ロートシルトのワインラベルのデザインを手がけた。

 

ヘリングは公共用の壁画も制作している。たとえば、ブルックリンのフラッシング・アベニューにあるウッドフル病院の外来診療のロビーで壁画を制作している。現場で撮影された珍しいヒーリングの映像では、彼のエネルギッシュな動きとスタイルが見られる。

 

キースは「私は動くことを重要し始めている。動きの重要性は絵画がパフォーマンスになることを深める。同時にパフォーマンス(絵を描く行為)は出来あがる絵において重要な要素になる」と話している。

ウッドフル病院の外来診療のロビー
ウッドフル病院の外来診療のロビー

友人バスキアとの関係


キースの友人であるジャン・ミシェル・バスキアは、1988年にニューヨークでオーバードーズで亡くなり、キースは彼に敬意を表した作品『A Pile of Crowns, for Jean-Michel Basquiat』を制作した。

バスキアとヘリング
バスキアとヘリング
『A Pile of Crowns, for Jean-Michel Basquiat』
『A Pile of Crowns, for Jean-Michel Basquiat』

ゲイとAIDS啓発


ヘリングはゲイであることをカミングアウトしており、安全な性行為を強く主張していた。しかしながら、1988年、彼はエイズを患う。1982年から1989年までヘリングは100以上の個展やグループ展に参加し、また数多くの慈善団体、病院、デイケアセンター、孤児院のために50以上の公共芸術作品を制作した。

 

ヘリングは晩年、自身の病気エイズ問題に関して話し、予防啓発のために自身のイメージをおおいに活用した。

 

1989年にヘリングは「見ざる、聞かざる、言わざる」というテーマを中心に、「多くの動機をともなう反抗」というキャッチを通じてAIDSのような社会的問題の回避を批判しはじめる。

 

1989年にはレズビアン・ゲイ・コミュニティ・サービス・センターの招待を受け、ニューヨーク13番通り西208にある建物で開催されたショーでヘリングは、とのコミュニティ特有の作品を制作。ヘリングは壁画『Once Upon a Time keith』を建物の二階の壁に描いている。

 

6月、イタリアのピサにあるサンタントーニオ教会修道院の後壁に、彼の人生最後の公共作品となった壁画『Tuttomondo』を描いた。

『Once Upon a Time keith』
『Once Upon a Time keith』
人生最後の公共作品となった壁画『Tuttomondo』
人生最後の公共作品となった壁画『Tuttomondo』

キース・ヘリング財団


1989年、ヘリングはAIDS団体と子どもの教育プログラムへの資金提供を目的とした「キース・ヘリング財団」を創設する。

 

財団の目的は彼の遺産、工芸、芸術を引き継ぐことだけでなく、恵まれない青少年を教育し、またHIVやAIDSに関して個々に知らせることを目標とした非営利団体に対して、助成金と資金を提供をすることでもあった。

 

財団は、展覧会、出版物、イメージ・ライセンス事業に積極的に参加し、一般層に対するヘリングの認知拡大を試みた。

コラボレーション活動


ヘリングはアンディ・ウォーホルを通じて出会った歌手で女優のグレイス・ジョーンズとコラボレーションを行っている。

 

1985年、ヒーリングとジョーンのふたりは、ニューヨークにあるパラダイス・ガレージでツーマン・ライブパフォーマンスを行っている。その公演についてロバート・ファリスは「ブラックダンスの震源地」と評している。また、何度かヒーリングはジョーンズのボディ・ペインティングも行っている。

 

ほかに、ヒリングはファッション・デザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッドやマルコム・マクラーレンらと1983年と1984年のウィッチズ・コレクションでコラボレーションを行っており、ヘリングがデザインしたファッションはマドンナがよく着用していたことで知られている

 

たとえば、イギリスのポップ・ミュージック番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」やアメリカのTVダンス番組「ソリッド・ア・ゴールド」で、マドンナはヘリングがデザインしたピンクの衣装とピンクのウィッグを着け、「ライク・ア・バージョン」を歌っていた。

死去


1990年2月16日、へリングはAIDSに関連した合併症で死去。ヘリングはエイズ・メモリアル・キルトに記念されている。

 

マドンナは1990年に開催したブロンド・アンビジョン・ツアーのニューヨーク公演でヘリングの生涯を讃え、ヘリングの追悼コンサートで得た収益をアルファ・ヘルスやamfARなどのAIDS慈善団体に寄付した。

 

その様子は1991年のマドンナのドキュメンタリー映画『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ』に記録されている。