ジャクソン・ポロック / Jackson Pollock
アクション・ペインティングの旗手
アメリカの美術家であるポール・ジャクソン・ポロックは、抽象表現主義ムーブメントを先導し、独自のスタイルであるドリップ・ペインティングを開発しました。彼の作品は、「アクション・ペインティング」として広く知られています。本記事では、ポール・ジャクソン・ポロックの生涯や作品を解説し、彼が美術界にもたらした影響について詳しく解説します。また、彼の作品を評価するための視点を提示し、ポール・ジャクソン・ポロックが美術界に与えた価値を考察します。
目次
1.概要
2.作品解説
3.略歴
3-1.若齢期
3-2.初期キャリア
3-3.アクションペインティングの発明
3-4.第二次世界大戦期
3-5.ドリッピングと絶頂期
3-6.リー・クラスナー
3-7.ブラック・ポーリング
3-8.晩年
4.市場
概要
生年月日 | 1912年1月28日 |
死没月日 | 1956年8月11日 |
国籍 | アメリカ |
表現形式 | 絵画 |
ムーブメント | 抽象表現主義 |
代表作 |
・Number 17A (1948年) ・No. 5, 1948 (1948年) ・Mural on Indian Red Ground (1950年) ・Autumn Rhythm (1950年) ・Convergence (1952年) ・Blue Poles (Number 11, 1952) (1952年) ・The Deep (1953年) |
ポール・ジャクソン・ポロック(1912年1月28日-1956年8月11日)はアメリカの美術家。抽象表現主義ムーブメントを先導した代表的な人物で、キャンバスを床に置いて、絵具缶から直接絵具を滴らせるドリップ・ペインティングという独自のスタイルを展開。
シュルレアリスムの「無意識」と「オートマティスム」の概念に関心を示し、そこから絵具間缶から絵具を直接滴らせる「ドリッピング」(したたらせ技法)や、絵具を垂らす「ポーリング」(流しこみ技法)を発明。
キャンバス全体を使って、全身の力を使って描くことから、オールオーバー・ペインティング、アクション・ペインティングと呼ばれ、しばしば熱狂的なダンスをしながら描かれていた。
ポロックは、キャンバスの周辺を動きまわりながら描いたため、伝統的な意味での構図的な軸や中心を欠いた無指向性の作品になっていたことにおいても、美術史において革新的だった。それは、アナーキーな混沌や無秩序ではなく、画家の全身を使ったアクション・ジェスチャーといえる。
この極端な抽象形態の作品は批評家たちの間で二分した。創作の即時性を賞賛する者もいれば、ランダムな仕上がりを揶揄する者もいた。
ポロックは引きこもりで気まぐれな性格で、生涯の大半をアルコール依存症と闘い続けた。1945年に画家のリー・クラズナーと結婚し、彼のキャリアと遺産に重要な影響を与えることになった。
1956年、44歳のときに酒飲運転が原因で事故死。数カ月後、抽象表現主義の代表者で、またアメリカの現代美術の開拓者として、ニューヨーク近代美術館で回顧展が開催され、その後もより大きなスケールの回顧展が何度も開催されている。
2016年、『Number 17A』と題されたポロックの絵画は、個人購入で2億米ドルの値をつけたと報じられた。
重要ポイント
- 抽象表現主義の代表的人物
- 踊りながら絵の具を垂らして作品を作るアクションペインティングを発明
- 生涯の大半がアルコール依存症の状態だった
作品解説
略歴
若齢期
ポール・ジャクソン・ポロックは1912年、ワイオミング州コーディで5人息子の末っ子として生まれた。母ステラ・メイと父リロイ・ポロックで、ともにアイオワ州のティングリーで生まれ育った。
ステラとルロイ・ポロックは長老派教会で、それぞれアイルランド系とスコットランド・アイリッシュ系の血を引いている。
母親はかつて芸術家を志していたこともあり、母の影響でフロイト、ストラヴィンスキー、ダダの文芸や芸術に囲まれた環境で育つ。ステラは、織物職人であった家系に誇りを持ち、10代の頃はドレスを作って売っていた。
父親は農夫だったが、のちに土地測量士となる。土地測量士はアメリカ中を移動する仕事だったため、幼いころのジャクソンは、アリゾナ、チコ、カリフォルニアなどさまざまな地域を父親とともに移動しながら育った。
高校では抽象美術の基礎や彫刻、ルドルフ・シュタイナーの神智学を学んだ。ロサンゼルスのバーモント・スクエア周辺に住んでいたとき、マニュアル・アート高校に入学したが、退学させられた。1928年にすでに別の高校でも退学になっていた。
この頃、メキシコの壁画家、特にホセ・クレメンテ・オロスコの影響を強く受けており、その壁画「プロメテウス」は後に「北米最大の絵画」と呼ばれることになる。
1930年に兄のチャールズ・ポロックを追うようにニューヨークへ移る。アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークでポロック兄弟はトーマス・ハート・ベントンのもとで学ぶ。
ベントンが描く主題は、おもにアメリカの田舎の風景画だったが、ポロックにほとんど影響を与えることはなかった。しかし、絵具のリズミカルな使い方やベントンの強い自立心は強く影響を受けたという。
1930年代初頭、ポロックはグレンラウンドとともに西アメリカを旅行して過ごす。
初期キャリア
ポロックは1936年、メキシコの壁画家ダビド・アルファロ・シケイロスのニューヨークの実験工房で液体絵の具の使い方を学んだ。これをきっかけにのちに1940年代初頭、「ポーリング」という液体を流しこんで線を描く手法を使いはじめる。
1936年夏にはダートマス大学に行き、ホセ・クレメンテ・オロスコの3,200平方フィートの壁画 『アメリカ文明の叙事詩』 を研究する。
アクションペインティングの発明
また、第二次世界大戦中に戦禍を避けてアメリカに避難していたシュルレアリスト達との交流や、かねてから尊敬していたパブロ・ピカソやジョアン・ミロ、アンドレ・マッソンらの影響により、しだいに無意識的なイメージを重視するスタイルになる。
トーマス・ハート・ベントン、パブロ・ピカソ、ジョアン・ミロらの作品に影響を受けたポロックは、アルキド・エナメルという合成樹脂を主成分とする絵具を使い始めた。
これは当時としては斬新なメディアだった。ポロックは、芸術家用の絵の具ではなく、家庭用の絵の具を使うことを、「必要性からくる自然な成長」と表現している。
また、ニューヨークのスプリングスに移ってからはキャンバスをスタジオの床に置いて、顔料をはねちらし、したたらせる「ドリッピング」という手法を開発する。代表作品として《男と女》(1942年)や、《Composition with Pouring 》(1943年)がある。
彼は絵の具を塗る道具として、固めた筆や棒、さらにはたれ流しの注射器などを使った。ポロックの絵の具を流し込んで垂らす技法は、アクション・ペインティングという言葉の起源のひとつと考えられている。
この技法によって、ポロックは、選んだ道具からキャンバスに絵の具が流れ出すという、彼独自のスタイルのパリンプス・ペインティングを実現することができた。
ポロックのドリッピングやポーリングによる方法は「アクションペインティング」という言葉の起源となった。
この方法でポロックはキャンバスを直立させて表面に絵を塗るというこれまでの慣習を否定。キャンバスを床に寝かせて描くという新たな芸術手法を打ち立てた。
また、アクションペインティングはあらゆる角度から描けるという点も大きな特徴だった。
第二次世界大戦期
1938年から1942年の世界大恐慌の間、ポロックは連邦美術計画に参加して過ごす。
1また、938年から1941年にかけてポロックはアルコール依存を治すためジョセフ・ヘンダーソン博士のもとでユングの心理療法を受ける。
ヘンダーソンは、ポロックにドローイングを描くことを勧め、彼の芸術を通して彼とコミュニケーションを築いた。ユングの概念と原型は彼の絵画の中で表現された。
最近の研究ではポロックは、双極性障害を患わっていた可能性もあり、ほかに起立性調節障害だったともいわれる。
ポロックは1943年7月にペギー・グッゲンハイムの画廊と契約を結ぶ。彼女の新しい別荘の入口に飾る絵として横20フィート、高さ8フィートの壁画《Mural》(1943年)の制作依頼を受けた。
彼女の親友でアドバイザーのマルセル・デュシャンの提案で、ポロックは壁に直接絵を描くのではなく、あとで、持ち運びできるようにキャンバスに絵を描くことにした。巨大な壁画を見た美術批評家のクレメント・グリーンバーグはこう評している。
『ジャクソンはアメリカが生み出した最も素晴らしい画家だ。』
また、ポロックの初個展のカタログでグリーンバーグは以下のように評している。
『火山のよう。彼はマグマを宿している。それはいつ噴火するか予測できないが、規律がある。鉱物を豊富に含み外部へ溢れでるが、まだ結晶化していない』。
1945年10月に、ポロックはアメリカ人画家で、同じ抽象表現主義スタイルのリー・クラスナーと結婚する。11月に彼らはニューヨーク州南東部にあるロングアイランドのイースト・ハンプトンに移る。彼女はポロックの作品に重要な影響を与え、ポロックの死後は彼の遺産を管理した。
二人はペギー・グッゲンハイムからローンの頭金を借り、木造の家と納屋を購入。納屋をアトリエとして利用した。
ドリッピングと絶頂期
ポロックのドリッピングに影響を与えたものとしてウクライナ系アメリカ人アーティストのジャネット・ソベルがいる。
ペギー・グッゲンハイムは1945年、ソベルの作品を「The Art of This Century Gallery」に展示した。ジャクソン・ポロックと美術評論家のクレメント・グリーンバーグは1946年にそこでソベルの作品を目にし、後にグリーンバーグはソベルが「ジャクソン・ポロックのドリップペインティング技法に直接影響を与えた」ことを指摘する。
ペギー・グッゲンハイムは1945年に自身が運営する「今世紀芸術画廊」で、ソベルの作品をコレクションしており、彼女がドリッピングを発明したとされており、現在は「忘れられた女性抽象表現主義画家」として紹介されることがある。
ジャクソン・ポロックとクレメント・グリーンバーグは1946年に画廊でソベルの作品を鑑賞する。クレメントバーグのエッセイで「ポロックはソベルの絵画が自身に影響を与えていることを認めていた」と書いている。
ポロックの最も有名な絵画は、1947年から1950年にかけてのドリップ時代に描かれたものである。
1949年8月8日、『ライフ』誌の見開き4ページで 「彼は米国に住む最も偉大な画家か?」と問われ、一躍有名になった。
ポロックの親友アルフォンソ・オッソリオと美術史家ミシェル・タピエの仲介により、1952年3月7日から、若き画廊経営者ポール・ファケッティは、パリとヨーロッパにある彼のスタジオ・ポール・ファケッティで1948年から1951年のポロック作品の最初の展覧会を実現させることができた。
ポロックは全身を使って、床に置いた巨大なキャンバスに絵を描きはじめた。
「私の絵画はイーゼルから生まれるのではない。絵を描く前にキャンバスを張ることはめったにない。枠に張っていないキャンバスを、硬い壁や床に鋲で留めるほうがいい。
私には硬い表面の抵抗が必要なのだ。床の上では、私はより気楽でいられる。より絵に近くに、より絵の一部であるように感じられるのである。
絵の中にいるとき、私は自分が何をしているのかわからなかった。一種の「なじむ」時期を過ごして、自分がしてきたことを理解する。私は変化したりイメージを破壊したりすることを恐れない。なぜなら絵画はそれ自身で生命を持っているからだ。
私はそれを全うさせてやろうと思う。結果がめちゃくちゃになるのは、絵とのコンタクトを失ったときだけである。そうでなければ、純粋な調和、楽々としたやりとりがあり、絵はうまくゆく。(マイ・ペインティング)」
1950年にヴェネツィア・ビエンナーレに出品し、コレール博物館で個展を開催。翌51年、ベティ・パーソンズで大個展。写真家ハンス・ネイムスによるポロックのフィルムが初上映され、国際的な人気が絶頂となる。
この時期、ポロックはより商業的なギャラリーであるシドニー・ジャニス・ギャラリーに移っており、コレクターからの作品に対する要求は大きかった。このプレッシャーと個人的なフラストレーションから、彼のアルコール依存症は深まった。
リー・クラスナー
二人の出会いは、1942年にマクミレン・ギャラリーに出展したときである。
リー・クラスナーはポロックの作品をよく知らなかったが興味を持ち、画廊での展覧会の後、アポなしで彼のアパートに会いに行った。
1945年10月、ポロックとクラスナーは、教会で2人の証人を立てて結婚式を挙げ、11月には、ロングアイランドの南岸にあるイーストハンプトンのスプリングス地区に引っ越しをした。
ペギー・グッゲンハイムからの頭金融資を受け、スプリングス・ファイアプレイス通り830番地に木造家屋と納屋を購入した。ポロックは納屋をスタジオに改装する。
そのスペースで、彼は絵の具を使った大きな「ドリップ」技法を完成させ、この技法は彼の名を永久に残すことになった。
仕事のない日は、料理やお菓子作り、家や庭の手入れ、友人との団らんを楽しんだ。
クラスナーが夫ポロックの作品に与えた影響は、1960年代後半、フェミニズムの台頭が起きはじめたころである。批評家たちが再評価し始めた。
クラスナーは、現代美術の幅広い知識と技術を身につけ、ポロックに現代美術のあるべき姿を提示した。
クラスナーは、夫に近代絵画の教則を教えたとされることが多い。
ポロックはその後、より組織的で国際的な現代美術のジャンルに合うように自分のスタイルを変えることができ、クラスナーは彼が信頼できる唯一の判断材料となった。
二人の結婚当初、ポロックは自分の作品の出来不出来について、同業者の意見を信じていた。
また、クラスナーは、ポロックにハーバート・マターら多くのコレクターや批評家、アーティストを紹介し、彼の新進アーティストとしてのキャリアを促進させる役割を果たした。
画商のジョン・バーナード・マイヤーズは「リー・ポロックなくしてジャクソン・ポロックはあり得なかった」と言い、画家仲間のフリッツ・ブルトマンはポロックをクラスナーの「創造、彼女のフランケンシュタイン」と呼び、クラスナーがポロックのキャリアに多大な影響を与えたことを認めている。
ジャクソン・ポロックが妻の作品に与えた影響については、美術史家によってしばしば議論される。クラスナーは夫の混沌とした絵の具の飛沫を自分の作品に再現し、再解釈し始めたと考える人が多い。
クラスナーは自分の直感を利用して、ポロックのI am natureの手法に近づき、自分の作品に自然を再現しようとした、という説もいくつかある。
ブラック・ポーリング
ポロックは名声の絶頂期に突然ドリップスタイルを放棄した。
ポロックの作品は1951年以後、初期作品のように白と黒のみの暗い色使いと形象性(感覚でとらえたものや心に浮かぶ観念などを具象化すること)の高い作品に変化する。
これらの作品は一般的に「ブラック・ペインティング」と呼ばれる時代のもので、これらの作品をニューヨークのベティパーソンズ・ギャラリーで展示する。
しかし、ブラック・ペインティングは不評でまったく売れなかった。パーソンはのちに半額で友達に1つだけ販売した程度の失敗だとはなしている。初期作品に近いブラック・ペインティングはコレクターが望んでいるものではなかったという。
これらの作品でポロック自身は、抽象と形象性との間のバランスを探求しようとしたという。
晩年
1955年にポロックは《香気》と《検索》を制作。これが彼の最後の2作品となった。
1956年に彼は絵をまったく描くかなくなり、トニー・スミスの家でワイヤー、ガーゼ、石膏を使って彫刻の制作を始めた。砂型鋳造でかたどられたこれらは、ポロックが制作した作品とよく似た質感をしている。
ポロックとクラスナーとの関係はアルコール依存症とルース・クリグマンとの不倫問題などで1956年には崩れはじめた。1956年8月11日午後10時15分、ポロックは飲酒運転が原因で自動車事故を起こして死亡。
当時、クラスナーは友達とヨーロッパ旅行に出かけており、知り合いから事故の知らせを聞き、急いで戻ったという。乗り合わせていたエディス・メッツガーも死亡。ほかに乗り合わせていたポロックの愛人で芸術家のルス・クリーグマンは助かった。
市場
1973年、《Number 11, 1952》(通称:ブルーポールズ)は、オーストラリアのウィットラム政権により、オーストラリア国立美術館に200万米ドル(支払い時130万豪ドル)で購入された。
これは当時、近代絵画の最高額であった。現在では、同ギャラリーで最も人気のある展示品の一つとなっている。
《Number 11, 1952》は1998年にニューヨーク近代美術館で開催された回顧展の目玉作品であり、購入後初めてアメリカで公開された作品である。
2006年11月、ポロックの《No.5, 1948》は、非公開のバイヤーに1億4千万ドルで売却され、世界で最も高価な絵画となった。
また、2004年には、1950年のベネチア・ビエンナーレのアメリカ館に展示された中型のドリップペインティング《No.12》(1949年)が、ニューヨークのクリスティーズで1170万ドルの値を付け、作家記録を更新している。
2012年、ニューヨークのクリスティーズで、銀灰色に赤、黄色、青と白のショットで描かれた、滴と筆の組み合わせの作品《Number 28》が、推定2000万ドルから3000万ドルの範囲内で、2050万ドル(手数料込み2300万米ドル)で落札された。
2013年、ポロックの《Number 19》(1948年)は、最終的に一晩で売上総額4億9500万米ドルに達したオークションにおいて、5836万3750米ドルで落札され、クリスティーズによれば、現代美術のオークションとして現在までに最も高額な記録となった。
2016年2月、ブルームバーグ・ニュースは、ケネス・C・グリフィンがジャクソン・ポロックが1948年に描いた《Number 17A》を、デヴィッド・ゲフィンから2億米ドルで購入したと報じた。