マルク・シャガール / Marc Chagall
ロシア系ユダヤ人の土着文化と前衛芸術の融合
マルク・シャガールの生涯と作品について興味がある方は、この記事をご覧ください。この記事では、シャガールの前衛芸術運動への関わり、彼のスタイルとその要素、そしてナチス政権からどのように扱われたかを見ていきます。さらに、戦後、再び脚光を浴びることになった彼の作品についてお話しします。20世紀を代表するユダヤ人画家について、ぜひご一読ください。
概要
生年月日 | 1887年7月6日 |
死没月日 | 1985年3月28日 |
国籍 | ロシア、のちにフランス |
ムーブメント | エコール・ド・パリ、キュビスム、シュルレアリスム |
表現形式 | 絵画、ステンドグラス、壁画、舞台デザイン、舞台衣装、タペストリー |
配偶者 |
・ベラ・ローゼンフェルド(1915-1944) ・ヴァンレンティーナ・ブロウドスキー(1952-1985) |
関連サイト |
・The Art Story(略歴) ・WikiArt(作品) |
マルク・ザロヴィッチ・シャガール(1887年7月6日-1985年3月28日)はロシア出身のユダヤ系フランス人画家。初期前衛芸術運動の代表的な画家であり、また、エコール・ド・パリの中心的な人物である。
キュビスム、フォーヴィズム、表現主義、シュルレアリスム、象徴主義などさまざまな前衛芸術スタイルと土着のユダヤ文化を融合した。また絵画、本、イラストレーション、ステンドグラス、舞台デザイン、陶芸、タペストリー、版画など、さまざまなジャンルで活動を行っている。
シャガールは、一般的に“モダニズムの開拓者”と“主要なユダヤ人画家”の2つの美術評価がなされている。美術批評家のロバート・ヒューズは、シャガールを“20世紀を代表するユダヤ人画家”と評し、美術史家のミシェル・J・ルイズは、シャガールを“ヨーロッパ初期モダニストの最後の生存者”と評している。
数十年間、シャガールは世界有数のユダヤ人芸術家として尊敬されていた。ステンドグラス作品の評価も高く、シャガールの作品は、イスラエルのハダーサ病院、国際連合本部、ノートルダム大聖堂、メス大聖堂のステンドグラスなどで採用されている。
第一次世界大戦前、シャガールはサンクトペテルブルグ、パリ、ベルリン間を移動しながら活動をしていた。この時代にシャガールは、東ヨーロッパの土着ユダヤ人文化を基盤として多種多様なアヴァンギャルド様式を融合させていった。
第二次世界大戦が始まり、ナチスのユダヤ人迫害が始まると、シャガールはアメリカへ移る。アメリカで絵画の展示を行いつつ、メキシコでも舞台デザインを手がけ、話題を集めた。
戦争が終わるとシャガールはパリへ戻る。戦時中に起きたユダヤ人虐殺や妻ベラの死の悲しみを乗り越えつつ、シャガールは自身がパリの雰囲気だけでなく、街や建物や風景そのものが深く結びついていると気づき、あらためてパリに活動拠点を置く。
戦後になると絵画制作は少なくなり、彫刻、セラミック、大規模な壁画、ステンドグラス・ウィンドウ、モザイク、タペストリーなどの制作が中心となった。晩年は壮大な19世紀の建築と国の記念碑でもあるパリ・オペラの新しい天井画制作の依頼を受け、話題を集めた。
重要ポイント
- ロシア系ユダヤ人の土着文化と前衛芸術を融合した
- エコール・ド・パリの中心的な人物
- 戦後はタペストリー、天井画、舞台デザインなど多彩な活動
作品解説
シャガールの芸術スタイルや技術とは
色
シャガールすべての作品において、鑑賞者の注目を集めた大きな要素は色使いである。シャガールの色は生き生きしている。決して受身的で平面的ではなく、また後付けしたかのように塗った陳腐な色使いではなかった。
彫刻的であり、ダイナミズムに溢れ、彼の作品を目の当たりにするとボリュームを感じるものである。ありのままの自然を写し取る自然主義的な色使いではなく、「運動」「面」「リズム」などの印象を鑑賞者に与えた。
シャガールは、シンプルな色使いで爆発的な印象を鑑賞者に与える天才的な画家だった。シャガールは、人生を通して「自分自身の個人的なビジョン」に基づいた「活気のある雰囲気」を創出したという。ピカソはシャガールについてこのように話している。
「マティス亡きあと、シャガールのみが色が何であるかを理解している最後のモダニストだった。シャガールにあった光の感覚はルノワール以来誰も持っていなかった」
描かれる主題の大半幼少期の風景
シャガールの幼少期の体験は、彼に強力な視覚記憶と絵画的知性を植え付けた。ベラルーシからフランスに移り住んで芸術的自由の雰囲気を体験したあと、シャガールの絵画様式は、それ以前とくらべて急激に変化する。内面性と外部の現実の両方で描いた新しい現実世界を築き上げた。
シャガールは決して純粋な現実を描こうとせず、常に現実の中にファンタジー的な要素を混合させた。シャガールにとって最も永続的な主題となったのは、彼の人生そのものだった。そのシンプルな日常生活のなかに隠された複雑性が存在した。彼は絵の中に、彼自身の人生で体験したオブジェクト、人物、場所を表現したのだった。
しかし、やはり彼の70年に及ぶ芸術人生におけるイメージの源泉となったのは、幼少期のベラルーシの記憶であろう。
シャガールの画業人生を通して見られる要素としては、「主題の選択」と「描写方法」がある。最も不変的な要素は、「幸福」と「慈悲心」である。最も悲惨な主題でさえも、シャガールは劇的に描くのを抑えようとしていた。
ユダヤ人文化とシャガールの作品
フォーヴィスムやキュビスムの技術を身につけたあと、シャガールはこれら前衛芸術の技術と彼自身のロシアの土着美術の様式を融合させていった。
シャガールは、ハシディズムの敬虔なユダヤ教の宗教生活に魅惑的でファンタジーな世界観を含ませるように描いた。前衛芸術のテクニックにシャガール独自の芸術言語を結合させ、シャガールはヨーロッパ中の美術批評家やコレクターから注目を集めるようになった。ベラルーシの田舎の町に住んでいたときの少年時代の風景は、特に創作の源泉として常にシャガールに影響を与えた。
1918年に終了した第一世界大戦はユダヤ人の生活に大きな変化を促した。約百万人のユダヤ人が追い立てられ、何世紀にもわたって多くの東欧ユダヤ人の生活の礎になっていたシュテットル文化は破壊された。伝統的なユダヤ社会の衰退は、シャガールのような芸術家に強烈なトラウマを与えた。一方で、破壊されたシュテットル文化は、シャガールの記憶と想像の世界だけに存在する感情的で芸術の源泉にもなった。
1948年にアメリカからフランスへ戻ると、シャガールは戦争で破壊されたヨーロッパの街や激減したユダヤ人の人口に衝撃を受ける。フランスでナチスに殺害された84人のユダヤ人芸術家へ哀悼の意を込めて、シャガールは『虐殺された芸術家たちへ:1950年』という詩集を出版した。
シャガールは東ヨーロッパのユダヤ人世界を目の当たりにした最も重要な視覚芸術家であり続け、また、今や消滅した文明の目撃者でもあった。
略歴
幼少期のハシディズム文化から多大な影響
マルク・シャガールは1887年、ヴィーツェプスク近郊のリオスナで、ユダヤ系リトアニア人として生まれた。当時のヴィーツェプスクの人口はおよそ6万6000人で半分はユダヤ人だった。
絵のように美しい教会やシナゴーグが立ち並び、人々はその町をスペイン帝国時代の世界観になぞらえて「ロシアのトレド」と呼んだ。
しかし、町に立ち並んでいた木製の家屋は、第二次世界大戦時にナチスドイツとソビエト軍との戦闘による破壊と占領で、ほとんどが消失してしまった。
シャガールは9人兄弟の長男として生まれた。家族の姓であるシャガールは英語でシーガルと呼び、ユダヤコミュニティにおいてはレヴ族出身であることを意味していた。父ザハール・シャガールは魚売りで、母フィーギャ・イティは自宅で食料を売っていた。
父は重い樽を持ち運ぶ重労働者だったが、月の稼ぎはたった20ルーブルだった(当時のロシア帝国時代の平均月収は13ルーブル)。シャガールは魚をモチーフにした作品を描く事が多いが、その源泉は幼少の頃に見た働く父に対する敬意にあるという。
シャガールの幼少期について知られている事の多くは、自伝『マイライフ』で語られているように、ハシディズム文化から多大な影響を受けている。実際にヴィーツェプスクという町は、1730年代からユダヤ教正統派から異端とみなされていたカバラ教義から、派生したハシディズム文化の中心地だった。
絵描きになる決心をする
当時のロシアでは、ユダヤ人の子どもたちは、ロシアの学校や大学への入学に規制がかけられていた。そのため、シャガールは地方のユダヤ教徒の学校に通い、ヘブライ語や聖書の勉強をしていたという。
13歳のとき、シャガールの母はシャガールをロシアの高等学校に入学させようとした。当時についてシャガールは、「その学校は本来ユダヤ人を受けれてくれないところだったが、母は躊躇せず、勇気をもって教師にかけあってくれた。そして入学のため、学長に50ルーブルを手渡した」と話している。
シャガールが芸術家になるきっかけとなったのは、同級生のドローイングにある。シャガールは同級生に絵の描き方を尋ねると「図書館にいって本を探してこい。お前が好きな写真がのっている本を選んで、あとはそれを模写するだけだ」と返答され、シャガールは模写を始めた。
模写を続けていると楽しくなり、ついには、芸術家になる決心をする。シャガールは母親に絵描きになることを打ち明ける。母親は当時、シャガールの急激な美術への目覚めと使命感に、非現実的な感覚がして理解できなかったという。
1906年にシャガールは写実主義の画家イェフダペンの小さな美術学校がヴィーツェプスクにあることがわかり通うようになる。この学校にはエル・リシツキーやオシップ・ザッキンも通っていた。シャガールは当時、貧しかったため無料で授業を受けていたという。しかし、数カ月後にシャガールは、アカデミックな芸術が自身には合わないことに気づきはじめる。
当時のロシアにおけるユダヤ人芸術家たちは、一般的に2つの芸術的な方向性を選択した。1つはユダヤ人であることを隠すこと。もう1つはユダヤ人というアイデンティティを大切にして、芸術でそのユダヤ性を積極的に表現する方向である。シャガールは後者を選択した。シャガールにとって芸術とは「自己主張と原理の表現」なのであった。シャガールにはハシディズム精神が根本にあり、それが彼の創作の源泉であるという。
サンクトペテルブルクへ移る(1906−1910)
1906年にシャガールはサンクトペテルブルクへ移る。当時、ユダヤ人は国内のパスポートなしで町を出入りすることはできなかったが、シャガールは一時的に友達からパスポートを借りてサンクトペテルブルクへ移った。
そこでシャガールは一流美術学校に入学し、2年間学ぶ。1907年までにシャガールは、自然主義のセルフポートレイトや風景画を描き始めた。
1908年から1910年までの間、シャガールはズバントセバ美術学校でレオン・バクストのもとで学ぶ。サンクトペテルブルクに滞在中、シャガールはポール・ゴーギャンのような印象派作品や実験映画に出会い影響を受ける。バクストもユダヤ人で装飾芸術のデザイナーであり、またロシアバレエ団の舞台衣装やファッションデザイナーとして活躍していた。ここで、伝説のダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーと知り合う。
1909年の秋には、のちに妻となるベラ・ローゼンフェルトと出会っている。1910年までシャガールはサンクトペテルブルクに滞在していたが、よくヴィーツェプスクにいるベラ・ローゼンフェルトに会いにでかけたという。
アヴァンギャルドの中心パリへ(1910-1914)
1910年、シャガールはパリへ移り、さらに画業に磨きをかける。美術史家でキュレーターのジェームズ・スウィーニーは、シャガールがパリに初めて来たとき、美術界ではキュビスムがトレンドで、フランス芸術全体が19世紀の唯物主義的な世界観で覆われていた。
そのため、シャガールの新鮮で率直な感情表現、シンプルで詩的でユーモア感覚のある絵画は、パリの美術界では異端的であり、最初は画家たちからは無視されていた。
代わりにブレーズ・サンドラールやギヨーム・アポリネールといった詩人たちから注目を集めるようになる。シャガールの表現は、キュビストの方法、対象物を外から複数の視点で描く方法とは真逆で、外に向かって出て行くさまざまな内面感情を情熱的に表現していた。
23歳当時のシャガールのパリの最初の日々は、フランス語を話せないこともあり、人生の中でも非常に孤独で、つらい時期だったといわれる。そうした孤独な環境が、自然と故郷に対する哀愁の感情が芽生えさせ、ロシア民謡や、ハシディズム経験、家族、恋人ベラのことなど、故郷ロシア時代の楽しい空想にふけるようになったとう。
この時代の代表作は《私と村》である。これは1911年に制作された。キュビスムの絵画理論を応用する形で、シャガールの内面に眠る故郷ロシアに関するさまざまな感情やシーンを、夢のように同時に描いている。
前景の帽子をかぶっている緑顔の男が、ヤギや羊を見つめている。ヤギの頬には乳搾りのイメージが重なっている。また前景の男の手には、成長している木が描かれている。背景にはロシアのギリシア正教会と庶民の住宅、草刈鎌を持つ男や逆さまの女などが描かれている。これらはすべて、シャガールの故郷ヴィーツェプスクの記憶が融合して視覚化したものである。
また、画面中央の大小の円は、太陽と月を表わしている。キュビズムの理論に影響を受けているシャガールは、さまざまな意味を込めた象徴的なモティーフを、平面的な色彩と円、三角形と対角線を基本とする幾何学的構成のなかに配置している。キュビズムの理論とシャガール独自の土着的な世界観が融合された作品で評価が高い。
パリでシャガールは、前衛芸術の学校「アカデミー・デ・ラ・パレット」に入学する。そこではジャン・メッツァンジェ、アンドレ・デュノアイエデスゴンザック、アンリ・ルフォコニエらが教師をしていた。暇なときにシャガールは、ギャラリーやサロンで過ごす事が多かった。なかでもルーブル美術館はよく通った。
シャガールは、レンブラントやル・ナン兄弟、ジャン・シメオン・シャルダン、ゴッホ、ルノワール、ピサロ、マティス、ゴーギャン、クーベレ、ミレー、モネ、ドラクロワといった画家に関心があった。パリでシャガールはガッシュ絵具の技法を学び、ベラルーシの風景画をよく描いた。
パリには絵描き、作家、詩人、作曲家、ダンサー、ロシア帝国からの移民などさまざまな人達が集まって賑やかだったが、シャガールは大都市の多くの誘惑にはのることはなく、毎日、数時間しか眠らず絵を描き続けた。「私のホームランドは私の魂にある」と語っている。
ベラとの結婚、ドイツやロシアでの成功(1914-1922)
パリ滞在中、シャガールはヴィーツェプスクにいる婚約者のベラが、自分に関心を失うのをおそれて結婚を決断する。
ちょうど、ベルリンの有名画商から個展を打診されていたので、個展でドイツへ行ったときに、近くのヴィーツェプスクに立ち寄ってそのまま結婚して、個展終了後、彼女をともなってパリに引き返す予定を立てることにした。
シャガールは40枚ものキャンバスやガッシュ水彩、ドローイングを持ち運んでドイツで個展を開催する。個展はヘルヴァルト・ヴァルデンのシュトゥルムギャラリーで開催し、大成功をおさめた。当時のドイツの批評家たちは皆シャガールを絶賛した。
展示後、シャガールはベラと結婚式を挙げる期間のみ、ヴィーツェプスクに滞在する予定だったが、途中で第一次世界大戦が勃発してしまう。無期限にロシア国境線が封鎖されることになり、一年遅れてシャガールはベラと結婚し、子どもを出産した。
結婚前、シャガールはベラの両親を説得するのに苦労した。ベラの両親は貧しい家庭の出身の画家の経済面が心配だったという。しかし、シャガールはドイツの個展で大成功し、有名画家になりかけていたので、この経済問題は解消されたという。
1915年、シャガールはモスクワで作品を展示。1916年にはサンクトペテルブルクで作品を展示。この頃から多くの富裕層コレクターがシャガールの作品をこぞって購入し始め、シャガールの家計は安定しはじめる。
また絵画だけでなく、多くのイディッシュ語書籍のイラストレーション仕事も始める。有名な作品では1917年に刊行されたイツホク・レイブシュ・ペレツの『魔術師』などがある。30歳になる頃にはシャガールはロシアで有名人になっていた。
ベラルーシの美術学校で教鞭をとるも孤立
1917年発生したロシア革命はシャガールに新しい仕事をもたらした。シャガールはロシアで最も優れた芸術家の一人で前衛芸術家の一人とみなされていたため、ソ連の視覚美術人民委員の推薦を受けたが、政治的な仕事を好まなかったので断る。代わりにヴィーツェプスクに創立予定の美術大学「人民美術学校」で教鞭をとることにした。
この美術学校はシャガールだけでなく、エル・リシツキーやカジミール・マレーヴィチなど当時のロシアで最も重要な芸術家たちが招集された。また、シャガールは過去の自分の教師だったイェフダ・ペンを学校に招いた。
シャガールは大学内で、各自が独立した芸術スタイルを持つ熱心な芸術家たちの集合的な雰囲気を作ろうとしたが失敗する。マレーヴィチやリシツキーなど抽象性の高いシュープレマティスムを好む教授たちが、“ブルジョア個人主義”的としてシャガールの思想に難色を示した。その後、シャガールは学校を退職して、モスクワへ移動する。
学校を退職してモスクワで舞台デザインを行なう
モスクワでシャガールは、新しく設立するユダヤ人商工会議劇場の舞台デザインの仕事に就く。1921年初頭に、ショーレム・アレイヘムによるさまざまな演劇を中心にした劇場がオープン。シャガールはレオン・バクストに学んだ技術で、舞台の巨大な背景画(縦2.7m✕横7.3m)を多数制作する。
1918年に第一次世界大戦が終了すると飢饉が広まったため、シャガールは食料の物価高騰を避けて、モスクワ近くの小さな村へ移る。ただ、シャガールはモスクワで仕事をしていたため、毎日混雑した電車に乗って通勤しなければならなかった。
1921年にマラホフカ郊外にあるユダヤ人少年シェルター内の芸術劇場で働く。ここはウクライナのユダヤ人迫害(ポグロム)から孤立した難民を収容する場所だった。
フランスに戻りようやくブレイク(1923−1941)
1923年にシャガールはモスクワを去り、フランスに戻る。パリへ戻る途中、ベルリンに約10年ほど放置したままになっていた多くの絵画を引き取るためにベルリンに立ち寄るが、すべて引き取ることはできず、シャガールの初期作品の多くは紛失状態となった。しかし、シャガールは、ヴィーツェプスクで過ごした幼年期の記憶をもとに再び絵画制作を始める。
シャガールはフランスの画商アンブロワーズ・ヴォラールと契約を結び、ニコライ・ゴーゴリの小説『死せる魂』や、聖書、『ラ・フォンテーヌの寓話』といった本のイラストレーションのために銅版画制作を始める。画商経由で受けたこのイラストレーションの仕事は、のちにシャガールの版画の才能を開花されることになった。
1926年までに、アメリカのニューヨークにあるラインハルトギャラリーで個展を開催。約100点の作品を展示した。美術批評家で美術史家のモーリス・レイナルによれば、彼の著書『近代フランス画家』でシャガールの名前を記す1927年まで、フランスの芸術界においてシャガールの名前は、ほとんど無名に近かったという。著書でもレイナルは、本当のところシャガールの作品について、読者にどう解説すればよいか困っていたようである。
この時代にシャガールは旅行に夢中になる。特に、フランスやコート・ダジュールが好きで、そこで風景や豊かな自然、青い地中海、マイルドな天候を楽しみ、スケッチブックを持って何度も田舎へ旅行をした。ほかにも、オランダ、スペイン、エジプトなどヨーロッパと地中海を中心に、さまざまな場所を旅している。
ナチスのフランス占領で迫る危機
シャガールが『聖書』の仕事を取りかかり始めたころ、ドイツではアドルフ・ヒトラーが権力を握る。反ユダヤ法が制定され、ダッハウに最初の強制収容所が設立された。
ナチスは権力を奪うとすぐに、表現主義、抽象芸術、キュビスム、シュルレアリスムといった近代美術を弾圧しはじめた。代わりに愛国的に解釈された伝統的なドイツ具象絵画はナチスに賞賛された。
1937年からドイツ美術館に収蔵されていた約2万点の作品は、「退廃芸術」としてヨーゼフ・ゲッベルスが監督する委員会に押収されることになった。ドイツ当局はシャガールの芸術も嘲笑した。
ドイツ軍がフランスを占領したあと、シャガールはフランスにとどまっていた。ヴィシー政権が、フランスにいるユダヤ人をドイツの収容所に送ろうとしていたにも関わらず、何も知らないシャガールはヴィシー政権下のフランスに居残っていたという。
ナチス占領下でヴィシー政権が反ユダヤ法を承認しはじめると、シャガールはようやく事の重大さを理解し、フランスで生活している自分自身が危険な状況であることを悟る。
多くのロシア系ユダヤ人は、ナチス占領圏からの脱出を模索していた。これらの中には、マックス・エルンスト、シャイム・スーティン、マックス・ベックマン、ルートヴィヒ・フルダ、ヴィクトル・セルジュ、ウラジミール・ナボコフなど非ユダヤ人ではあるが、ユダヤ人女性と結婚したものも含まれていた。多くはアメリカへの移動待ちのために、一時的にフランス南部のマルセイユ港へ滞在していたという。
アメリカへ亡命(1941-1948年)
1941年にアメリカに移ってシャガールは、『婚約者』で1939年に3回目のカーネギー賞を受賞。アメリカに入国した後、シャガールはすでに国際的な有名人になっていることを実感する。
自分と同じようにナチス・ドイツの侵略でヨーロッパから逃れてきた著述家、画家、作曲家らと同じように、シャガールもニューヨークで生活を始める。アメリカ滞在中、シャガールはギャラリーや美術館、またモンドリアンやアンドレ・ブルトンといった友人アーティストたちのもとを訪れて、時間を過ごした。
特に、ローワー・イースト・サイドに多数居住しているユダヤ人地区に訪れることを好んだ。そこで彼はユダヤ文化の食事を楽しみ、ユダヤ人用の新聞を読んで過ごした。当時、シャガールはまだ英語が話せなかったので、ユダヤ人地区は重要な情報源になった。
ニューヨークの近代美術家らは、当時、まだシャガールの芸術は理解できず好みではなかった。神秘主義的な傾向を持った古典的な物語スタイルのロシア系ユダヤ芸術に対して、共通した理解はほとんどなかった。
しかしながら、アンリ・マティスの息子でニューヨークで画商をしていたピエール・マティスが、シャガールの芸術を賞賛し、ニューヨークやシカゴでのシャガールの個展のマネジメントを始める。1910年から1941年にかけるマスターピース21点を含む個展を開催した。
メキシコでバレエの舞台デザインで大成功
シャガールは、ニューヨーク・バレエ・シアターの振付師レオニード・マシーンからの依頼で、彼の新しいバレエ「アレコ」のために、舞台や衣装の制作を担当する。このバレエはアレクサンドル・プーシキンの詩「ジプシー」とチャイコフスキーの音楽を基盤にしたものだった。
シャガールはロシアに滞在していたときから舞台デザインの仕事をしていたが、これが初めてのバレエの仕事となり、メキシコを訪問する機会となった。また、メキシコで土着の芸術に出会うと、シャガールはすぐにメキシコ芸術を賞賛し「メキシコ的なプリミティブ性とカラフルな芸術」と感動し、また「自分自身の性質と非常に密接した何か」を感じたという。
結局にシャガールは4つの大きな背景を制作し、またデザインしたバレエの衣装をメキシコ人の裁縫師が縫うことになった。
この舞台は大成功し、訪れた聴衆の中にはディエゴ・リベラやホセ・オロスコといった著名な壁画画家もいた。バアル・テシュワによれば、音楽の最後の小節が終わったとき、シャガールが何度も何度もステージに呼び戻されて、盛大な拍車と19回のカーテンコールが起こったという。
4週間後にこのバレエはニューヨークのメトロポリタン・オペラで開かれることになり、同じような騒ぎになる。「再びシャガールは夜の英雄になった」と美術批評家のエドウィン・デビナーは、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙で批評を行った。
ユダヤ人の虐殺とベラの死
1943年にニューヨークに戻ったあと、シャガールはキリストの「磔刑」や戦争を主題とした絵を描き始める。シャガールはニューヨークで自分の故郷であるヴィーツェプスクがドイツ人に破壊され、ユダヤ人が悲惨な状況であることを知る。ユダヤ人の強制収容所の存在も知った。
1944年9月2日、ベラがウイルス感染により急死。戦時中で薬が不足し、治療が遅れたのが原因だった。気落ちしたシャガールは数ヶ月間制作を停止する。絵を再開するとシャガールはベラの記憶を留める絵画を描き始めた。
1945年にナチスの強制収容所で進行していたホロコーストの報道を聞いて、ベラは数百万のユダヤ人犠牲者とともにシャガールの心の中にとどまることになった。ヨーロッパからの亡命がベラの死へ帰結した可能性があるとみなした。
娘のイーダと娘婿のミシェル・ゴルディと一年間過ごしたあと、シャガールは外交官の娘で、ヘンリー・ライダー・ハガードの姪であるヴァージニア・ハガードと出会い、新しい恋が始まる。彼らの関係は7年続いた。1946年6月22日に二人の間にデイビット・マクニールが生まれた。ハガードは彼女の著書『シャガールと私の人生』で、シャガールとの7年の恋愛を綴っている。
同盟国がナチスの占領地からパリを解放するのに成功して数ヶ月後に、シャガールは『パリの芸術家へ』という手紙を連合軍の援助のもと出版した。
1946年までにシャガールの作品はアメリカ中で有名になり始めた。ニューヨーク近代美術館は40年に渡るシャガールの作品を集めた回顧展を開催。戦争が終わるとシャガールはパリへ戻る準備を始めた。
コニーニャによれば「シャガールは、自身がパリの雰囲気だけでなく、街自体、建物や風景そのものが深く結びついていると気づいた」という。1947年の秋にパリへ戻ると、シャガールはまずパリ国立近代美術館での展示のオープニングに参加した。
戦後パリへ戻る
フランスに戻ると、シャガールはヨーロッパ旅行に出かけ、当時、芸術家たちが集まっていたフランス南部のコート・ダジュールに住むことに決める。マティスはニースから西へ約7マイル離れたあるサン・ポール・デ・ヴェニスに住んでおり、ピカソはヴァロリスに住んでいた。彼らは近くに住んでいたので、ときどき一緒に制作を行った。
しかし、彼らとははっきりと画風が異なっていたので芸術的なライバル心が強く、関係は長続きすることはなかった。ピカソの愛人であるフランソワーズ・ジローによれば、ピカソはまだシャガールに敬意を払っていた。ピカソはシャガールについてこのように話している。
「マティス亡きあと、シャガールのみが色が何であるかを理解している最後の絵描きだった。シャガールにあった光の感覚はルノワール以来誰も持っていなかった。」
1952年4月に、ヴァージニア・ハガードはシャガールのもとを去り、写真家のチャールズ・ローレンのもとへ行った。彼女はプロの写真家になりたかったという。
シャガールの娘のイーダは、1952年に美術史家のフランツ・メイヤーと結婚する。イーダは恋人がいなくなった父に同じロシア系ユダヤ人を背景に持ち、ロンドンでビジネスで成功していた女性ヴァレンタイン・ブロドスキー(バーバ)を紹介。1952年に2人は結婚。しかし6年後、イーダとバーバの間で喧嘩が発生。マルクとバーバは離婚するが、すぐにバーバにとって有利な条件で再婚した。
その後、シャガールは絵画制作はやめて、彫刻やセラミック、壁タイル、塗装花瓶、ジャグ、プレートといった作品を制作し始めた。ほかに大規模な壁画、ステンドグラス・ウインドウ、モザイク、タペストリーを制作している。
70代でパリ・オペラの天井画制作
1963年、シャガールは壮大な19世紀の建築と国の記念碑でもあるパリ・オペラの新しい天井画制作の依頼を受ける。フランスの文化大臣であったアンドレ・マルトーは、シャガールこそ理想的な芸術家であり何かユニークな作品を制作してくれるだろうと考えていた。
しかしこの人選は論議を引き起こした。ロシア系ユダヤ人にフランス国民の記念碑の装飾に反対する人々が現れたためだ。また近代美術家によって描かれた歴史的建造物の天井画が嫌いな人もいた。
それにも関わらずシャガールは77歳でこのプロジェクトを遂行し続けた。キャンバスに描かかれたイメージは、作曲家のモーツァルト、ワーグナー、ムソルグスキー、ベルリオーズ、ラヴェルをはじめほかに著名な俳優やダンサーに敬意を表したものであった。
1964年9月23日に天井画は一般公開され、「ニューヨーク・タイムズ」紙のパリ特派員は「一番よい席は一番上のサークル」と書いた。
シャガールの死
シャガールは1985年3月28日にフランスで死去。2年前にジョアン・ミロが亡くなり、最後に生き残ったモダニストの巨匠だった。
シャガールはまずロシア革命への大きな期待と失望を経験し、ユダヤ人の歴史における「薄い定住時代」の最後を目撃した。ヨーロッパにおけるユダヤ人の消滅、そしてシャガールの故郷であるヴィーツェプスクの消滅である。第二次世界大戦後にヴィーツェプスクのユダヤ人は、24万人からたった118人になった。
シャガールの最後の作品はシカゴ・リハビリテーション・インスティチュートから依頼を受けた作品だった。「ジョブ」と名付けられたマケット・ペインティングを完成させたが、タペストリーが完成する直前に亡くなった。
ヤヴェット・カウキル・ピアスは、シャガールの監督のもとタペストリーを織り、シャガールと仕事をした最後の人物だった。彼女は3月28日の午後4時に、バーバとシャガールのもとを去り、その夜にシャガールは亡くなった。
シャガールは、フランスのプロヴァンス地方にある伝統的な町サン・ポール・デ・ヴァンスの多民族墓地に、最後の妻のヴァンレンティーナ(バーバー)とともに埋葬されている。