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【美術解説】奈良美智「ロックと純粋性を兼ね備えた少女」

奈良美智 / Yoshitomo Nara

ロックと純粋性を兼ね備えた少女


《春少女》2012年
《春少女》2012年

現代アート界のトップアーティスト、奈良美智。彼のユニークな作品世界は、多くの人々から熱狂的な支持を集めています。彼の作品には、少女たちや動物たち、そして夢や幻想的な要素が多数取り入れられており、深い感情やメッセージが込められています。また、彼自身の芸術にかける情熱や苦悩、そしてアーティストとしての軌跡にも注目が集まっています。この記事では、奈良美智の魅力的な作品と、彼の人生や芸術にかける情熱に迫り、その深い世界観と魅力を詳しく解説していきます。芸術初心者からファンまで、誰でも楽しめる内容となっていますので、ぜひご覧ください。

概要


生年月日 1959年12月5日
国籍 日本
居住地 那須
職業 画家・彫刻家
ムーブメント ネオ・ポップ

概要


奈良美智(1959年12月5日、青森県生まれ)は、日本の画家、彫刻家、ドローイング作家。1990年代に発生した日本のネオ・ポップムーブメントの時期にアートワールドで注目されるようになる。

 

無垢で目を大きく見開いた子どもや犬がモチーフの作品が特徴で、トレードマークともなっている。こうした彼らの作風は、幼少期から感じている退屈と孤独だった子ども時代の感覚をすくい上げ、また同時に退屈と孤独から自然と発生する激しい独立心を取り戻そうようとする試みであると言われている。

 

奈良は武蔵野美術大学を1年で中退して、1981年に愛知県立芸術大学美術学部美術科油画専攻に編入し、1985年に卒業、1987年に同大学大学院修士課程を修了。1988年にドイツ留学して2000年に日本に帰国。

 

現在は日本の栃木在住で日々制作をしているが、作品発表は日本のみならず世界中で展開している。1984年から40以上の個展を開催しており、作品はニューヨーク近代美術館(MoMA)をはじめ、世界中の美術館に所蔵されている。

 

2010年から翌年にかけて、ニューヨークのアジア・ソサエティー美術館で行われた大規模な個展「Nobody’s Fool」も好評を得て、同館での過去最多の入場者数を記録。2010年に奈良は、米文化に貢献した外国出身者をたたえるニューヨーク国際センター賞を受賞。

更新履歴


表現特徴


奈良の絵画やドローイングは、一見すると絵本を彷彿させるシンプルでかわいらしい造形であるものの、実際には奈良の愛するパンク・ロック文化に影響された部分が見られる。

 

ロックやパンクにおける人間の潜在的な純粋性の怒りと幼児の純粋性が並列されれた状態が奈良作品の特徴でもある。そのため作品制作も音楽を流しながら行う。

 

少年ナイフ、bloodthirsty butchers、THE STAR CLUB、マシュー・スウィート、R.E.M.のCDジャケットを手がけており、ニルヴァーナのカート・コバーンを模したと思われるキャラクターやthee michelle gun elephantのCDジャケットをパロディー化した作品を描いたりしている。

 

手作りの小屋の内側を中学、高校時代に聴いていたレコードジャケットで埋めた作品もある。現在はラジオで「奈良美智の親父ロック部」という音楽番組を配信している。

 また、奈良は戦後の近代的なサブカルチャーの代表であるパンク・ロックに影響を受けてはいるものの、ルネッサンス絵画や戦前の近代美術、古典文学、浮世絵など少し古めの伝統文化から影響を受けている。

 

おそらく、戦後から現代にいたる日本社会や教育に対する反発心があり、それが「子ども」と「古典(祖父世代)」という一世代をまたいだ要素を融合させているのかもしれない。

 

絵画や彫刻に加えて、奈良は多くのドローイング作品を制作するのが特徴で、それらはいつもポストカードの裏側や封筒、紙切れなどに描かれ、英語やドイツ語や日本のテキストが添えられる。何度も描き直したり、時間をかける絵画と異なり、ドローイングは即興的に描く。 

重要ポイント

  • 日本のネオ・ポップムーブメントの作家の1人として位置づけられている
  • かわいらしい造形だが相反するような純粋な怒りを内在している
  • 前近代的な美術や伝統文化からも影響を受けている

作品解説


The Girl with the Knife in Her Hand
The Girl with the Knife in Her Hand

1991年に奈良美智によって制作されたアクリル絵画作品。この作品は、奈良美智の代表的なシリーズである「頭の大きな女の子」の絵画の最初期の画期的な作品である。平面的なドローイング、イラストやマンガの世界のように見えるが、絵画の物質的な質感が見られる。(続きを読む


Hot House Doll,In the White Room III
Hot House Doll,In the White Room III

1995年の作品は、奈良がドイツに滞在していたころに制作した初期作品で、奈良の特徴的な子どもを主題としている。この年、奈良はラム・アンド・ポーギャラリーで初個展を開催し、また、東京のSCAIザ・バスハウスでも個展を開催して、国際的な注目を集めはじめた。(続きを読む


Knife Behind Back
Knife Behind Back

ドイツ留学から帰国した2000年という分岐点の年に制作されたものである。2019年にサザビーズが香港で開催したオークションで、当時の自身の作品の最高額である約2,500万ドルで落札された。(続きを読む


略歴


幼少期


奈良美智は1959年、青森県弘前市の小さな城下町に生まれた。7歳と9歳年上の2人の兄弟を持つ3人の末っ子として生まれた。

 

日本のほかの家族と同様に、奈良一家も戦後の急速な社会経済の変化の中で、伝統的な役割を再定義し、近代的核家族が確立しはじめた社会環境に適応しなければならない状況にあった。

 

近代核家族への変化、奈良一家において両親の共働きは影響を与えた。孤独の感情を生み、奈良は自身の空想世界や漫画、ペットとともに一人で自分の時間を過ごすことが多くなった。丘の上にポツンと立っていた実家の周囲に隣家が急速に増えはじめたときに最も鮮明に孤独感を感じたという。

 

1960年代の弘前は、戦後の教育改革の一環として1949年に地元の大学が設立され、りんご農家の事業化が進み、近代的な町としてゆっくりと発展していたが、それでも舗装されていない道を馬や犬が行き交う半田園地帯の町としてのんびりとした生活が続いていた。

 

また、中世にまで遡る神道の鬼や神の物語が色濃く残る岩木山の影に抱かれた土地も、この地の静けさを物語っている。創始者や教義を持たない神道が信者の生活形態に深く溶け込んでいた。神道は土着の宗教として記述されることがあるが、宗教よりむしろ生活形態であり、結婚式、出産、また七五三などあらゆる重要な通過儀礼の儀式を形作っている。

 

特に岩木山は子供のための神聖な力を持つことで知られており、寺社には子供や胎児の守護神である地蔵菩薩が祀られていることが多い。現代の地蔵は子供のような姿の地蔵が描かれることが多く、参拝者は赤い前掛けやよだれかけ、帽子などをまとい、子供たちの守護、幸運、水子供養を行っている。 

後間もない母と奈良の写真。弘前 1959年
後間もない母と奈良の写真。弘前 1959年
奈良の母。1955年
奈良の母。1955年

地元の神社は弘前のコミュニティの重要な要素であり、特に奈良にとっては重要なものであった。彼の祖父は神道の僧侶であり、彼の父も一時は同じ道を歩んでいたが、後に公務員の仕事に就くために神職を断念した。

 

こうした地緣関係のため、奈良の一家は比較的に裕福で、地域の人々からも尊敬されていたが、父親は仕事や友人との付き合いでほとんど不在で、奈良が生まれたときには、幼い息子に時間を割くことを嫌がっていた。

 

対照的に、母親は貧しい農家の出身だった。奈良が生まれてからも、副収入が必要になると仕事をしていた。家にいても家事をしていて、奈良は黙々と家事をしている母の姿を見ていた。

 

奈良は少なくとも5歳の頃から、父と祖父が働いていた神社の裏山で多くの時間を過ごしていた。鬱蒼と茂った森の中を足で駆け抜ける彼の姿は、大人の目が行き届かない幼少期を物語っている。

 

彼は非常に自由で、結果としてそれが彼に孤独をもたらしたが、彼が不幸になることはほとんどなかった。早熟で用心深い彼は、自分のゲームを発明し、隣家のと仲間を見つけた

 

6歳の時、友達と一緒に線路の行き止まりを見ようと電車に飛び乗ったが、無謀なことはほとんどなく、トラブルに巻き込まれることも少なかった。 

奈良美智と猫のチャコ。1966年
奈良美智と猫のチャコ。1966年

比較的自由な環境は、音楽への愛と同様に日常生活の束縛から逃れることを可能にした。8歳の時、自分のラジオを手にし、そのラジオは大切な仲間となり、自分はもっと大きな世界に属していることを理解する助けとなった。

 

ある夜、半分眠っていた状態のとき、家庭用ラジオから流れてくる予期せぬ音楽に目を覚ました。彼には理解できない言語だったが、奈良は三沢の米軍基地の近くにあるミュージックステーションで、知らず知らずのうちに洋楽を聴いていた。以後、深夜になると必死に曲を聴き、アメリカのロックやカントリーミュージックのスリルに浸っていた。

 

奈良が初めて音楽を購入したのは8歳の時で、「寺内タケシとバニーズ」のファーストシングルだった。弘前から遠い最新の音楽を入手するのが困難だったことを考えれば、彼はわずか8歳の時に、その偉業を成し遂げた。弘前は東京から700キロも離れていた最寄りの青森から約1時間の移動時間が必要だった。

 

また、1979年まで、東京と青森は高速道路と細道で結ばれていただけで、最新のファッションや流行の到来にはタイムラグがあった。このことは、北は日本のコスモポリタンな中心地の東京とは対照的に、僻地で素朴な土地であるという認識を強めた。

 

奈良にとって、新しくリリースされたレコードや入手困難なレコードを見つけることは、そのような地理的境界線を越えた興奮の一部であった。寺内からジャニス・ジョプリン、ビートルズ、ジョニー・キャッシュまで、現代音楽を好きなだけ聴いていた。

 

地元の大学のカフェに足繁く通い、新しい音楽を聴き、音楽カタログを何時間もかけて読み漁り、購入したアルバムのジャケットを描いたり、好きな曲に合わせてドローイングしていたという。

 

アルバムのスリーブの視覚的なエネルギー、色、グラフィック、海外のバンドのエキゾチシズムは、大きなインスピレーションを与えた

奈良のレコードコレクション。
奈良のレコードコレクション。

カウンターカルチャーと新左翼の事件


1970年代初頭、奈良にとって音楽は、新世代の精神を再定義する人々と繋がるものとなり、ますます重要なものとなっていった。

 

1960年代後半から1970年代前半にかけて、ベトナム戦争に反対する大規模な抗議行動や公民権を求める集会とともにアメリカでカウンター・カルチャーが発生した。この文化はロック音楽、ジャズ、ビート詩、左翼のヒーローたちの反抗的で若々しいエネルギーで作られた時代であるとみなされている。

 

しかし、日本の左翼運動とその文化的実践は、1960年代のカウンターカルチャーの一般的なアングロサクソン的な文化的価値観とは異なっていた

 

例えば、ある種のフォークやロック音楽の反抗的な性質は、当時の急進的な政治的運動と同義と連携していることが多いが、日本ではロック音楽は西洋の消費主義と結びついており、政治的や反抗的というよりはむしろ快楽主義的なものだった。同様のことは日本における「サブカルチャー」「アート」でも起きている。

 

学生運動が強まるにつれ、抗議者と警察の間の暴力がこのエスカレートを象徴する出来事がある。最も衝撃的だったのは、1972年2月19日、過激派革命左派のメンバーを含む小さな分裂左派集団・連合赤軍(連合関軍)の重武装メンバー5人が、浅間山麓の観光宿「あさま山荘」で女性を人質にして、警察と10日間に及ぶ包囲戦を繰り広げた「あさま山荘事件」である。

 

この包囲戦の終盤はテレビで生中継され、国内のほぼ9割の世帯が視聴した。その後の警察の取り調べで、分裂したグループの29人のうち14人が暴力的に殺害されるという衝撃的な内部粛清が行われていたことが明らかになった。悲劇的なあさま山荘事件は、学生の過激主義の死の鐘を鳴らした。

 

奈良は12歳の時、テレビでこの事件を目にした。当時大学に通っていた次兄が水俣湾の水銀汚染を告発する集会に参加していたこともあり、学生の抗議運動を強く意識していたが、浅間山荘事件はそれとは異なり、奈良を含む多くの人々にとって、日本では集団的な左派過激派への警戒感を強めるきっかけとなった。

 

このあさま山荘の内部粛清事件は、奈良に政治的イデオロギーを超えたもの、個性、自由、癒しのフーテン的な態度を好み、内部分裂的な政治事件に慎重に向き合う理由の1つになったかもしれない。

奈良は早くからフーテンの態度を取りはじめ、高校生の頃には年上の友人たちに混じり、ロックの話を楽しみ、また、彼らは奈良に美術に真剣に取り組むように勧めてくれたという。

 

幼い頃から描いていたフリップブックや、お気に入りのアルバムのスリーブやブックカバー、雑誌などからインスピレーションを得て描いたスケッチは、美術のために真面目に描いていたというよりも、気軽にドローイングしてものであり、自分の想像力を失っていた少年の気楽な性格が反映されていると言えるだろう。

 

奈良がアーティストになる大きな転機となったのは、高校時代に友人がロックカフェ「33 1/3」を開くことになり、奈良も参加したことだった。

 

奈良はカフェの設営、清掃、DJなどを行い、また、初の大規模なアート作品を制作した場所でもある。窓のシャッターにはラモーンズのバンドロゴをイメージしたアメリカ国旗が描かれ、カフェの奥の壁にはギターを弾くペアの猫の大きな壁画が飾られていた。

 

ある夏、大学進学のために上京していた奈良は、一人の青年に声をかけられ、ライフ・ドローイング授業というチケットを売りつけられた。奈良にとっては、通常の夏期講習よりも楽しそうだと思い、快く引き受けた。

 

美術教室の軽薄さに関する彼の素朴な考えはすぐに払拭され、彼はデッサンや美術全般に関して必死に学び始めた。そして何より、ここで美大受験の種が蒔かれた。以後、高校の学期休みを利用して上京して美術の授業を受け、油絵や木炭画などの絵画のレパートリーを広げていった。

戦前美術家たちへの関心と投影した初期作品


1979年、東京の武蔵野美術大学に入学し、麻生三郎(1913-2010)に師事した後、井上長三郎(1906-1995)と出会う。両者ともシュルレアリスムのスタイルと人物像への関心で知られる画家であった。

 

2人は戦時中の日本で、内面的な絵画を制作していた芸術家たちのグループにいた。1980年代には、このスタイルの芸術と日本の過去との関連性のあるものは流行らなかったが、奈良が2人の作品に興味を持ったのは、まさにこの歴史と、戦争の人間的な側面を捉える鋭い能力があったからである。

 

奈良は、特に麻生の作品の生々しさと即時性に惹かれている。例えば、麻生の1937年の自画像では、麻生は、両義的な横目の視線とらえられた痛みと不確実性を、焦げた赤や黒くなった色相の彩度の高いパレットで表現している。奈良の1979年の《19歳の自画像》は麻生の影響やムンクの《19歳の自画像》の影響が見られる。

奈良美智《19歳の自画像》,1979年
奈良美智《19歳の自画像》,1979年
麻生三郎《自画像》,1937年
麻生三郎《自画像》,1937年
エドヴァルド・ムンク《自画像》,1882年
エドヴァルド・ムンク《自画像》,1882年

 奈良は、こうした戦前の美術家たちの芸術に興味を持つだけなく、戦時中の日本の話や、日常生活を生き抜くためのありふれた、あるいは特殊な行為にも心を奪われたという。

 

戦時下における彼らの常識にとらわれないライフスタイルは、奈良にとって、人工的、捏造的、技術的な未来を追求する戦後の東京よりも、より意味のあるものだった。彼らの長老芸術家の話は、奈良が自分自身の新しい体験を求めるきっかけにもなったのかもしれない。

 

1980年2月、奈良は学費を利用して3ヶ月間の夏休みの間、パキスタンを経由してヨーロッパへ旅に出る。バックパッカーとしての活動はまだ同世代の中では比較的珍しいものだったが、それは予想外の結果をもたらすものだった。

 

ヨーロッパで奈良は美術の教科書に掲載されている偉大な名画をたくさん鑑賞した。しかし、見れば見るほど、彼の心は離れていった。それまで最も尊重していた技術的熟練は感情を伝えるのに重要ではないことに気がついたのである。

 

そして、このヨーロッパの旅の中で近現代美術への理解が深まり、特にモディリアーニマティスシャガールなどの作品の情緒的な力に影響を受けたという。

 

ヨーロッパ旅行での近代美術の発見をきっかけに、日本のモダニストたちの作品をもっとよく研究したいと思うようになる。奈良は、麻生の同級生である寄留哲五郎(1885-1927)、神田日章(1937-1970)、松本俊輔(1912-1948)らの作品をより詳しく研究するようになった。

 

これら戦時中の芸術家たちは、国家が近代国家建設の一形態としてプロパガンダとして芸術を利用することに大きく関与していた時代に、芸術の自律性を主張することに貢献していた。たとえば、松本俊輔は、戦時中の政府のプロパガンダ美術に反対の声を上げた数少ない異色の芸術家であった。

 

2016年に奈良は東京国立近代美術館(MOMAT)が所蔵する作品の中から、お気に入りをセレクトした企画展をしており、松本や麻生がセレクトされている。

 

また、奈良が尊敬した戦時中の芸術家の中で、おそらく最も影響を受けていたのは、イラストレーターの茂田井武(1908-1956)で、彼が担当した宮沢賢治(1896-1933)にも影響を受けている。宮沢の宗教的信念、自然の偉大さ、農業、音楽蒐集、動物への関心、国境や政治を超えたコスモポリタニズム的な思想と奈良は通じるところがある。

 

宮沢のダークなユーモア性は、若い読者にとっては境界線を破ることの楽しさを伝え、年配の読者にとっては、現代の物質主義的以前のシンプルな時代のノスタルジックな魅力があった。

 

奈良は2017年に長野・安曇野ちひろ美術館で、『奈良美智がつくる 茂田井武展 夢の旅人』展のキュレーションをしている。20代の茂田井が欧州放浪中に描いた画帳『Parisの破片』『続・白い十字架』や、『退屈画帳』『幼年画帳』、宮沢賢治作『セロひきのゴーシュ』の挿絵、戦時中の日記などで構成されていた。奈良は展示に対して以下のようなコメントをしている。

 

「学校で習う美術のつまらなさは、それが自分の生活からかけ離れていたことだ。僕は絵を描いたりしているが、実を言うといわゆる名画よりも生活する中で出会ったもの、たとえば絵本から学ばせてもらったほうが多い。そして僕の好きな日本の絵本作家たちは、どこかしら茂田井武にその源流をみる気がする。果たして僕もそのひとりに違いない。彼の美意識は生活の中に息づき、それゆえ逆説的に崇高だ。彼の絵の中には西洋も東洋もなく、ただ純粋な魂だけがある。」

 

 

奈良は、戦時中の芸術家や作家たちの歴史や独立の精神、経験を自身の芸術に投影する方法に興味を持っていた。若き日の奈良は、こうした戦前の芸術家たちの作品を通して、自分のスタイルを開発した。

松本俊輔《都会》, 1939年,愛知県美術館蔵
松本俊輔《都会》, 1939年,愛知県美術館蔵
茂田井武 画帳『続・白い十字架』より 1931-35年
茂田井武 画帳『続・白い十字架』より 1931-35年

愛知時代:自分の表現に自信を持ちはじめる


ヨーロッパ旅行中に資金を使い果たした奈良は、武蔵野の学費を払えなくなり、1981年春に帰国して間もない頃に退学する。

 

その後、学費の安い公立学校を受験し、愛知県立芸術大学美術学部に編入。この時代、愛知の河合塾の予備校教師のアルバイトで、お金を貯めてはヨーロッパを旅をした。その間に、アーティストとしての自信を深め、自分の情熱を臆することなく、大胆に表現するようになった。

 

愛知では、作品を制作し、歴史を学び、友人や非常勤の美術教師の生徒たちと知的な会話を交わしていた。しかし、愛知での時間は刺激的なアイデアを育てるだけではなかった。当時の生徒には、杉戸洋、森北伸、福井篤、今井トゥーンズなど現在活躍している作家も多い。

 

愛知時代は、奈良の天性のカリスマ性が存分に発揮された時期であり、その遊び心、社交性、冒険心で多くの友人を惹きつけていた。今もなお、みんなで遊びながら仕事をする美術学校の環境は、彼のお気に入りの空間のひとつであり、よく奈良が帰ってくる場所でもある。

 

1984年、岐阜県立第一女子高校で教育実習。卒業後まもなく名古屋市のSpace to Spaceで初個展。名古屋芸大の先生たちが運営する貸し画廊だった。その画廊の動員記録を作る。その4年後の1988年には、名古屋と東京に拠点があったギャルリー東京ユマニテで個展を開催している。同年、デュッセルドルフのゲーテ・インスティテュートで初の海外展が開催された。

 

1990年代の日本の美術界もまた、それまでのコンセプチュアルな手法から絵画への回帰と物質性への関心の高まりが見られた。このようにして、アーティストたちは欧米の現代美術と共鳴するモードで現在を語ることができるようになった。

 

絵画への回帰とその情緒的な力は、奈良と当時の作家の共通点であるが、奈良は子供のような世界を創造し、また、戦後の日本の芸術家たちに魅了されたことが、同世代の作家たちとの決定的な違いである。 

河合塾で講師アルバイトをしていた頃の奈良と生徒。1985-1987
河合塾で講師アルバイトをしていた頃の奈良と生徒。1985-1987

ドイツでA.R.ペンクに師事する


翌88年から93年までよりドイツ国立デュッセルドルフ芸術アカデミーに留学。ドイツを選んだ理由は、美大の選択のときと同じくお金がかからないため。当初はイギリスのほうが自分にあっていたため、イギリスに行きたかったがお金がかかるのでドイツにしたという。結果的に、ドイツでよかったという。

 

欲にまかせてイギリスに行っていたら、お金はなくなるし、楽しいだけで、何も身につけずに帰国していたかもしれないと奈良は話している。奈良の「本当は楽しい場所をあえて避ける」という禁欲的な姿勢は、現在の那須の在住まで続く。

 

ドイツ留学は幼少時とは異なる孤独を奈良に与えることになる。つまり、言葉もうまく通じない孤独は、結果としてより集中した制作行為を保証することになった。考えることが孤独を望み、孤独であることが描くことへ向かわせた生活を思うとき、奈良が抱いて不安は消え去ったという。

 

ドイツでは、A.R.ペンク(1939-2017)に師事した。当初はフリッツ・シュヴェグラー( 1935-2014)に師事することを希望していたが、クラスが満員になってしまったため、シュヴェグラーは奈良に「新しいことを探求することを奨励してくれる先生を探したほうがいい」「少しクレイジーになったほうがいい」とアドバイスしたという。大胆な性格の芸術家であったペンクは、ほとんど生徒たち自身に作品の発展を任せていた。

 

ペンクの作品に見られる爆発的なエネルギーは、彼の故郷であるドレスデンの破壊をはじめとする第二次世界大戦のトラウマのような作品で、奈良はまたしても戦争の影響を深く受けた作家から方向性やインスピレーションを得ることになった。

 

しかし、ペンクは日本の奈良の師匠たちとはずっと異なる過去に対するアプローチをしていた。ペンクは偽のアルファベットや棒状の図形や人間を用いた表現を好んでいた。それらはグラフィティのようなもので、当時流行していたストリート・アートへの反応だったが、戦前のドイツ表現主義、特にエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー(1880-1938)の作品への反応もあった。

 

ペンクの絵画はキルヒナーの作品と同様に、社会に対する批評的な反映である。戦時中の侵略の象徴を記号にしてキャンバスに表現することで、具象と抽象、捏造と想像力の間の緊張感を力強く表現しており、そうした表現は奈良自身の作品にも間接的に影響を与えている。

ペンクは、多忙なために欠席することも多かったが、生徒たちに広い独立したアトリエのスペースを惜しみなく提供してくれた。そして、ペンクは奈良に、長期的に影響を与えるであろうシンプルなアドバイスをした。それは、ペインティングとドローイングを組み合わせることである。

 

アクリル絵の具で描かれた異色のドローイングで、奈良は銃や有刺鉄線のフェンスを持つ人物たちの顔を描いたシリーズを制作している。これらはペンクの作品と似たような暴力的な生々しさがあるが、ペンクのドローイングが抽象化やパターン化につながるのに対し、奈良のドローイングは決して具象化を失うことはない

 

太い黒の線、黄色の塗り、身体を覆う赤の筋の繰り返しは、描かれた線の偶発性とその暴力的な不完全性を可能にする統合された言語を生み出している。

 

謎に満ちた物語をシンプルで具象的に大胆な形に落とし込むことで、奈良はドローイングと絵画という二つの行為を結びつけることに成功した。奈良は、現在も大胆な輪郭線の効果を探求し続けている。

 

そのドローイングをもとにした《Irrlichter》(1989年)で、大胆な輪郭線の効果を探求し続けた。また、《般若猫》(1989年)では、人間と猫の顔に黄色の歯、ピンクとクリーム色の肉肌的な色調、そして長くくねくねしている赤い舌が、威嚇的な不安感を呼び起こしている。

 

これらの作品は、現在の頭の大きな女の子の肖像画のように、グリッド状のパーツを合成した構成から、統一感のある比較的平面的な背景へと移行し、モチーフがより存在感を増し、前景に押し出されるという奈良の大きな変化を示している。このような構図の変化の直接的な効果としては、色に対する自信が増したことが挙げられる。

 

この時期のもう一つの注目すべき特徴は、奈良が以前から興味を持っていた重力に由来するもので、密度や透明度の変化による軽さや重さの感覚を探求したことである。つまり、キャンバスの表面を縦横に移動するのではなく、形が浮かび上がってくるような、あるいは後退していくような感覚の表現を追求していた。

《無題》,1989年,アクリル絵画
《無題》,1989年,アクリル絵画
《Irrlichter》,1989年/《般若猫》,1989年
《Irrlichter》,1989年/《般若猫》,1989年

1989年、ファイン・アートのクラスでh,次第にエリート主義の学生となじめなくなり、一人格闘する日々が始まる。日本食堂でアルバイトをしながらライブに通う。アカデミーの学内展示を見たロックバンド「THE BIRDY NUMNUMS」からレコード・ジャケットの作品を依頼される。

 

2000年の帰国まで続くケルン時代は多作な時期で、代表的な奈良のイメージとして知られる挑戦的な眼差しの子どもの絵もこの頃頻繁に描かれた。また、この間、日本やヨーロッパでの個展の機会が増え、しだいにその活動に注目が集まる。

日本へ帰国


2000年、12年間におよぶドイツでの生活に終止符を打ち、日本へ帰国。

 

翌年、新作の絵画やドローイング、立体作品による国内初の本格的な個展「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」が横浜美術館を皮切りに国内5ヵ所を巡回した。いずれの会場でも驚異的な入場者数を記録し、美術界の話題をさらった。

 

特に作家の出身地である弘前市の吉井酒造煉瓦倉庫で行われた同展は、延べ4600名にのぼるボランティアにより運営されたもので、市民の主体的な関わりと参画の規模の大きさにおいて、展覧会の歴史上画期的なものとなった。

 

2003年、クリーブランド現代美術館など米国内5ヵ所で1997年以後の作品による個展「Nothing Ever Happens」が開催される。この頃に出会った大阪のクリエイティブ・ユニットgrafとの協働により、廃材を用いた小屋を中心に展示空間を構成するインスタレーション的な性格の強い作品が増え始める。

 

2006年に青森県弘前市の吉井酒造煉瓦倉庫で開催された「A to Z」展は、そのシリーズの集大成といえるもので、大小約30軒の小屋の内外に奈良自身や彼と交遊のあるアーティストたちの作品を点在させた会場は、さながら一つの街並みのような様相を呈した。

最近の活動


奈良は2017年の春にニューヨークのペースギャラリーで個展を開催。2013年のニューヨークでの初個展以来の個展だった。「考える人」と名付けられた作品は、以前よりも内省で瞑想的な作風への移行を表している。

 

この作風の移行に関して奈良は「過去に自分が作りたかったイメージがあり、それに取り組み、完成せただけ。今僕は時間をかけてゆっくりと作業をし、これらすべてのレイヤーを構築するベストな方法を探している。料理する際どうすれば最も美味しくなるか探るように、自分もまたどうすれば最も良い芸術になるか探っている」と話している。

 

2017年7月には、豊田市美術館で回顧展を開催。

 

2018年には香港のペースギャラリーで個展「Ceramic Works and…」を開催。この個展では奈良のアイコンとしてお馴染みの少女のキャラクターを用いた12体のセラミックスカルプチャー(陶製彫刻)を中心とした作品が展示された。奈良は2007年に信楽町の陶芸の森に滞在してから本格的に陶芸に取り組み始めている。

 

2019年9月から奈良は「旅する山子」シリーズに取り組んでいる。これは支持体に市販のキャンバスや木枠を使わず、身辺にある身近な素材を使って制作した作品である。

 

「旅する山子」はギャラリーや美術館ではなく誰でも鑑賞できる屋外に設置されることが多く、また都市中心のストリート・アートと異なり、海辺、駅、畑、カフェなど田舎の公共空間に設置される事が多い。

2018年香港ペースギャラリーでの個展「Ceramic Works and…」
2018年香港ペースギャラリーでの個展「Ceramic Works and…」
「旅する山子」シリーズ,2019年
「旅する山子」シリーズ,2019年

個展


2018年 奈良美智個展「Ceramic Works and…」(香港・ペースギャラリー)

2018年 奈良美智回顧展「ドローイング作品:1988−2018」(東京・カイカイキキ)

2017年 奈良美智回顧展「for better or worse」(愛知・豊田市美術館)

2017年 奈良美智個展「Thinker」(ニューヨーク・ペースギャラリー)

2016年 奈良美智個展「新作」(ロンドン・ステファン・フリードマンギャラリー)

2015年 奈良美智個展「Shallow Puddles」(東京・Blum & Poe)

2015年 奈良美智個展「タイトル不明」(ベルリン・Johnen Galerie)

2015年 奈良美智個展「Life is Only One」(香港・アジア・ソサエティ香港)

2015年 奈良美智個展「stars」(香港・ペースギャラリー香港)

2014年 奈良美智個展「Greetings from a Place in My Heart」(ロンドン・デアリー・アート・センター)

2014年 奈良美智個展「個展-Blum & Poe」(ロサンゼルス・Blum & Poe)

2013年 奈良美智個展「個展-Pace Gallery」(ニューヨーク・ペースギャラリー)

2012年 奈良美智個展「The Little Little House in The Blue Woods」(青森・十和田市現代美術館)

2012年 奈良美智個展「君や 僕に ちょっと似ている」(横浜・横浜美術館)

2011年 奈良美智個展「PRINT WORKS」(東京・六本木ヒルズ アート&デザインストア)

2010年 奈良美智個展「New Editions」(ニューヨーク・ペース・プリンツ)

2010年 奈良美智個展「Nobody's Fool」(ニューヨーク・アジア・ソサエティ・ミュージアム)

2010年 奈良美智個展「陶芸作品」(東京・小山登美夫ギャラリー)

1989年 奈良美智個展「Irrlichttheater」(シュトゥットガルト)

1988年 奈良美智個展「Goethe-Institut」(デュッセルドルフ)

1988年 奈良美智個展「Innocent Being」(名古屋 / ギャラリーユマニテ名古屋・東京 / ギャラリーユマニテ東京)

1985年 奈良美智個展「近作」(名古屋 / Gallery Space to Space)

1984年 奈良美智個展「It's a Little Wonderful House」(名古屋 /ラブコレクションギャラリー)

1984年 奈良美智個展「Wonder Room」(名古屋 / Gallery Space to Space)

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