【美術解説】アルノルト・ベックリン「死の島」

死の島 / Isle of the Dead

娘マリアのための葬儀の絵


アルノルト・ベックリン「死の島」(1880年)
アルノルト・ベックリン「死の島」(1880年)

概要


作者 アルノルト・ベックリン
制作年 1880-1888年
メディウム 油彩
サイズ 111 x 155 cm(バージョン1)
ムーブメント 象徴主義

「死の島」は、ベックリンが1880年から1886年にかけて制作した油彩作品。いくつかのバージョンを制作しており、現在は5作品が確認されている

 

最も有名なのはスイスのバーゼル美術館が所蔵する1880年の最初のバージョン。ほかにメトロポリタン美術館、ベルリン美術館、ライプツィヒ造形美術館が別バージョンを所蔵しており、1点は第二次世界大戦中に消失している。

 

すべてのバージョンは共通して、暗く広い水辺に浮かぶ荒れ果てた岩の島に、小さな船が到着したところが描かれている。船上には船尾で船を操縦する人物と白いフードで全身が覆われた人物が立っている。白フードの男の前には棺桶のようなものがある。小さな岩の島には背の高い暗いイトスギの樹木が茂っており、祭壇のような建築が見られる。

 

このような要素から主題は絵画の「葬儀」であり、岩の島は墓地であり、船の上の人物は葬儀を行っていると思ってよい。

ニューヨーク版(1880年)
ニューヨーク版(1880年)
1883年に描かれた3枚目の「死の島」
1883年に描かれた3枚目の「死の島」
5枚目の「死の島」(1886年)
5枚目の「死の島」(1886年)

フィレンツェのイギリス人墓地


もともとは、ベックリンのパトロンだったアレクサンダー・ギュンターの依頼で制作された作品である。ベックリン自身は「死の島」の絵画の意味について公的に詳しく説明はしていないが、「夢の絵」と話している。

 

タイトルはベックリンが付けたわけではなく、1880年にアレクサンダー・ギュンターに宛てた手手紙の中に書かれていたフレーズから派生して、1883年に画商のフリッツ・グリッチが付けたとされている。

 

多くの観賞者は、船を漕ぐ人についてギリシア神話で冥界に魂を運渡し船のカロンだと解釈している。水はハーデースの川(日本でいう三途の川)かアケローン川で、白いフードを着た人物は亡くなった人の魂をあの世へ葬礼している葬儀者であると解釈されている。

 

「死の島」は、部分的にイタリアのフィレンツェにあるイギリス人墓地に似ていると指摘されている。その墓地はベックリンのアトリエの近くにあり、ベックリンの幼い娘マリアが埋葬されている場所でもあった。なおベックリンは14人子どもがいて8人を亡くしている。そうした背景から「死の島」は、ベックリンの子どもの葬儀と関わりが深いと考えられている。

A 19th-century interpretation of Charon's crossing by Alexander Litovchenko
A 19th-century interpretation of Charon's crossing by Alexander Litovchenko
フィレンツェのイギリス人墓地
フィレンツェのイギリス人墓地

ギリシアの島と岩山の組み合わせ


島のモデルはおそらくギリシアのケルキラ島の近くにある小さな島のポンディコニッシ島である。この島にはイトスギの茂みの中に小さな礼拝堂が立っている。また、岩山はストロンボリ火山近くにある岩の島ストロンボリッキオ島と似ており、この岩山と組み合わせ作った想像の島であると見られている。

ギリシアのコルフ島にほど近いポンディコニッシ
ギリシアのコルフ島にほど近いポンディコニッシ
ストロンボリ火山近くにある岩の島ストロンボリッキオ島
ストロンボリ火山近くにある岩の島ストロンボリッキオ島