パブロ・ピカソ / Pablo Picasso
20世紀最大の芸術家
皆さんはパブロ・ピカソをご存知でしょうか?この記事は、20世紀最大の芸術家を紹介するために書かれたものです。20世紀初頭の視覚芸術の革命に貢献した彼の業績と、その素晴らしい功績を紹介します。また、「アヴィニョンの娘たち」や「ゲルニカ」といった彼の最も有名な作品にも触れます。最後に、彼の多才な芸術スタイルと、彼の作品がいかに多くの視覚芸術の分野に影響を与えたかを紹介します。パブロ・ピカソについてもっと知りたい方は、ぜひご一読ください。
目次
1.概要
2.マーケット情報
3.作品解説
5.略歴
5-1.幼少期
5-3.青の時代
5-4.ばら色の時代
5-5.アフリカ彫刻の時代
5-6.キュビスム
5-7.新古典主義
5-8.シュルレアリスム
5-9.ナチス占領時代
5-10.戦後
5-11.晩年
5-12.ピカソの死
6.政治
7.スタイルと技術
8.評価と所蔵
概要
生年月日 |
1881年10月25日、スペイン、マラガ |
死去日 |
1973年4月8日(91歳)、フランス、ムージャン |
国籍 |
スペイン |
表現媒体 |
絵画、ドローイング、彫刻、版画、陶芸、舞台芸術、著述 |
代表作 |
・ゲルニカ ・泣く女 |
ムーブメント | |
関連人物 | |
関連サイト |
・WikiArt(作品) ・The Art Story(略歴・作品) |
パブロ・ピカソ(1881年10月25日 - 1973年4月8日)は、スペイン生まれで成年期以降の大半をフランスで過ごした画家、彫刻家、版画家、陶芸家、舞台美術、叙情詩、劇作。
20世紀の芸術家に最も影響を与えた1人で、キュビスム運動の創設者である。ほかにアッサンブラージュ彫刻の発明、コラージュを再発見するなど、ピカソの芸術スタイルは幅広く創造的であったことで知られる。
代表作は、キュビスムを推進した《アヴィニョンの娘たち》(1907年)や、スペイン市民戦争時にスペイン民族主義派の要請でドイツ空軍やイタリア空軍がスペイン市民を爆撃した光景を描いた《ゲルニカ》(1937年)である。
ピカソ、アンリ・マティス、マルセル・デュシャンの3人は、20世紀初頭の視覚美術における革命的な発展を担った芸術家で、絵画だけでなく、彫刻、版画、陶芸など幅広い視覚美術分野に貢献した。
ピカソの美術的評価は、おおよそ20世紀初頭の数十年間とされており、また作品は一般的に『青の時代』(1901-1904)、『ばら色の時代』(1904-1906)、『アフリカ彫刻の時代』(1907-1909)、『分析的キュビスム』(1909-1912)、『総合的キュビスム』(1912-1919)に分類されて解説や議論がおこなわれる。
2015年5月11日にニューヨークのクリスティーズで《アルジェの女たち》が競売にかけられ、約1億7900万ドル(約215億円)で落札され、オークション史上最高価格を記録した。今後もオークションで価格が上昇すると思われる巨匠である。
重要ポイント
- 前衛芸術キュビスムの創設者
- 代表作品は「アヴィニョンの娘たち」と「ゲルニカ」
- 一般的に「青の時代」「ばら色の時代」「アフリカ彫刻の時代」「キュビスムの時代」で解説される
マーケット情報
現在アートシーンで最も高額で販売されているピカソ作品は、2015年5月11日にニューヨークのクリスティーズで競売にかけられ1億7900万ドルという天文学的価格で落札された《アルジェの女たち》である。
2013年には《夢》が1億5500万ドル、《パイプを持つ少年》が2004年にサザビーズ・ニューヨークで1億3000万ドル、《裸婦と観葉植物と胸像》が2010年5月4日にサザビーズ・ニューヨークで1億1550万ドルで競り落とされ、《ドラ・マールと猫》が2006年5月3日にサザビーズで1億1180万ドルという驚異的な値段で落札されている。
2017年5月17日、エルサレム・ポスト紙は、ナチスに略奪されたパブロ・ピカソの名画が、一般販売で4500万ドルという驚異的な価格で購入されたことを公表した。
これはクリスティーズの出品された作品は1939年の『青い服の座っている女性』のことである。
2018年には、1937年作のマリー・テレーズ・ウォルターの肖像画《ベレー帽とチェックドレスの女性》が、ロンドンのサザビーズで4980万ポンドで落札された。
ファッション通販サイトZOZOTOWNを運営する日本の実業家でアートコレクターの前澤友作は《女性の胸(ドラ・マール)》。2016年秋に2230万ドルで購入している。
作品解説
ピカソのモデルたち
略歴
幼少期
ピカソの洗礼時に、さまざまな聖人や親族の名前を取り入れた、パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダードという長い名前を与えられた。
そして、スペインの習慣に従って、両親の名字である父のルイス(Ruiz) と母のピカソ(Picasso) がそれぞれ付けられた。
ピカソは、1881年10月25日、スペインのアンダルシア州マラガで、父親のホセ・ルイス・イ・ブラスコと母親のマリア・ピカソ・イ・ロペスの長男として生まれた。
ピカソはカトリックに入信していたが、後に無神論者であることを宣言した。
ピカソの家庭は中流階級で、父ルイスは、鳥を写実的に描くのが得意な画家で、美術学校の教師で小さな美術館を経営していた。ルイスの先祖は貴族だったと伝えられている。
ピカソは、幼い頃からスケッチに長けていた。ピカソの母によると、ピカソが最初に話した言葉は「ピザ・ピザ」だったという。スペイン語で鉛筆のことを「lápiz(ラピス)」といい、「piz(ピザ)」を短くしたものである。
ピカソは7歳のときから、画家の父ルイスからデッサンや油絵の専門的な手ほどきを受けた。
芸術家であり、古典絵画の指導者でもあったルイスは、古典の名画のレプリカ、石膏で作った人物の模型、生きたモデルの具象画などを通して、芸術性を磨くことの重要性をピカソに説いた。
1891年にピカソ一家はガリシア州ア・コルーニャに移り、父は美術学校の講師を務めることになった。ア・コルーニャでの生活は4年間であった。
ある時、ピカソの「鳩」の未完成のイラストに出会い、息子の腕前を見たルイスは、自分がすでに13歳の子供に負けていることに気づき、愕然とし、以後絵を描くことをやめてしまった。(作り話といわれてもいる)。
1895年、ピカソは7歳の妹コンチータをジフテリアで失い、大きな悲しみに襲われる。妹の死後、一家はバルセロナに移り、ルイスは美術学校の教職に就いた。
ルイスは、美術大学「ラ・ロンハ校」の職員に、ピカソが高等科の入学試験を受けられるように熱心に訴えた。
当初、入学試験は1カ月に及ぶ長丁場だったが、ピカソはわずか7日間で終了し、評価者を驚かせ、わずか13歳で上級入試に合格する。
この時代のピカソの素行は良くなかったが、その後の人生の中でピカソに影響を与える友情も築いた。
ルイスは家の近くに小さな部屋を借りてピカソに提供、ピカソはそこで1人で絵を描きはじめた。ピカソは日々、数多くの作品を描いては父に提出し、評価を受け、二人は日常的に芸術について熟考していた。
その後、ピカソの親と叔父は、彼をマドリッドのサン・フェルナンド王立アカデミーに入学させることを決め、16歳の時、ピカソは初めて独立するが、彼はその授業を嫌い、入学後まもなくして通わなくなった。
マドリードは教育の場だけではなかった。プラド美術館で、ディエゴ・ベラスケス、フランシスコ・ゴヤ、フランシスコ・デ・スルバランの名作を鑑賞したのである。
特にエル・グレコの作品の細長い手足、色彩、神秘的な顔立ちに影響を受け、後年、それらグレコの要素はピカソにもあらわれるようになった。
1900年以前ーピカソのモダニズム時代
父親の美術指導は1890年以前に始まっている。
ピカソの絵画の起源は、バルセロナのピカソ美術館に保存されている初期の作品から追うことができる。
コレクションから分析すると、1893年ころの少年期のピカソ作品のクオリティはまだ低かったが、1894年から急激に質が高まり、このことから、1894年に彼が完全に画家としてのキャリアを追求し始めたという事実が示されている。
1890年代半ばからアカデミックに洗練された写実的な技巧は、たとえば、14歳のころにピカソの妹ローラを描いた《初聖体拝領》 (1896年)や、《叔母ペーパの肖像》(1896年)などの作品に顕著に表れている。
美術評論家のファン・エドワード・シロットは、《叔母ペーパの肖像》についてスペイン「全美術史において疑う余地なしに最も優れた作品の1つ」と評価した。
1897年、非自然的な紫や緑の色で描写されるようになった風景画シリーズから、ピカソの絵には象徴主義の影響があらわれるようになる。
このころからピカソのモダニズム時代(1899-1900年)と呼ばれる時代が始まる。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、テオフィル・アレクサンドル・スタンラン、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、といった象徴主義とエル・グレコのようなピカソの好きな古典巨匠を融合させたピカソ独自のモダニズム絵画が制作された。
1900年、ピカソは当時ヨーロッパの芸術の中心地であったパリへ旅立った。そこで、パリの友人でジャーナリストで詩人のマックス・ジャコブに出会う。ピカソはジャコブからフランス語や文学を学んだ。
その後、二人はアパートを同居し、夜、ジャコブが休んでいる間、ピカソは起きて制作し、ジャコブが起きて仕事に行く日中はピカソが休んでいた。
この時期は、厳しい窮乏と霜降りと落胆の時期で、二人が制作した作品のいくつかは、狭い居住空間で暖を取るために燃やされたという。
1901年の最初の5ヶ月間、ピカソはマドリードに滞在し、アナーキストの友人フランシスコ・デ・アシス・ソレルとともに雑誌『Arte Joven』を発刊する。5号まで出版した。
ソレルが記事を書き、ピカソが挿絵を担当するジャーナル雑誌で、貧しい人々の共感を得たリアリズムのイラストを描いていた。
1901年3月31日に創刊され、この頃からピカソは作品に「Pablo Ruiz y Picasso」ではなく、「Picasso」と芸名を付けるようになる。
青の時代
ピカソの『青の時代』(1901-1904年)は、青や緑を基調とし、暖色系の色彩をかすかに加えた、悲痛でくすんだ絵画が特徴で、1901年の初めに滞在していたスペイン、または1901年の後半に移住したパリで始まった。
この時期、バルセロナとパリをつなぐ架け橋として、母親と子どもを描いた作品が多く見られる。
また、娼婦や貧困層が描かれるなど、時に憂鬱な雰囲気を漂わせ、青を基調とした印象的な作品に仕上がっている。
その頃、ピカソはスペイン旅行や友人カルロス・カサヘマスの死去にショックを受けていた時期で、カサヘマスの死後、1901年の晩夏からサジェマスを描いた作品を多数制作している。
1903年、ピカソは青の時代の最後にして最高傑作である《人生(La vie)》を完成させ、次の躍動感あふれる『ばら色の時代』へと力強く踏み出していく。《人生》は現在、アメリカのクリーブランド美術館に所蔵されている。
『青の時代』の代表的な作品は、目の見えない男と目の利く女が食卓を囲む様子を描いた銅版画《貧しき食事》(1904年)、《ラ・レスティーナ》(1903年)、《盲人の食事》(1903年)で、盲目は『青の時代』のピカソ作品で繰り返し現れるモチーフである。
ばら色の時代
『ばら色の時代』(1904-1906年)はオレンジやピンクの明るい色調と、《サルタバンクの一家》に代表されるフランスのサーカス団員、曲芸師、道化師などのイラストが特徴的である。
作品に登場するチェック柄のピエロは、ピカソの個人的なアイコンのような存在となった。
また1904年にパリで、ピカソはボヘミアン・アーティストのフェルナンド・オリヴィエと出会った。
オリヴィエは、『ばら色の時代』の多くの絵画に登場するモチーフで、暖色系のカラーは、フランス絵画の影響に加えてオリヴィエとの関係が影響している。
恋人オリヴィエを伴って滞在したスペイン、カタルーニャ高原の人里離れた村ゴソルで描いた作品では、黄土色系のバラ色を多用し、この色が後に『ばら色の時代』と呼ばれる由来になった。
1905年頃に、ピカソはアメリカのコレクターであるレオ・シュタインとガートルード・スタインの間で特に好まれる作家となった。
それだけでなく、彼らの兄のミヒャエル・スタインと彼の妻のサラもまた、ピカソのコレクターとなった。
さらにピカソは、ガートルード・シュタインと彼女の甥のアラン・シュタインの二人のポートレイトを描いた。
ガートルード・スタインは、ピカソの作品を買い取り、パリのサロンで紹介するなど、ピカソの主な恩人であった。
また、1905年の彼女が主催するパーティで、ピカソの盟友でありライバルでもあったアンリ・マティスを紹介された。さらにスタイン家は、パトロンであるコーン姉妹や、アメリカのパトロンであった妹のエッタにピカソを紹介した。
1907年にピカソは、ダニエル・ヘンリー・カーンワイラーがパリに開設した画廊に所属するようになった。カーンワイラーはドイツ美術史家でコレクターであり、20世紀の主要なフランス人アートコレクターの1人となった。
彼はパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックらが共同発明したキュビスムの最初の最重要支援者であった。
また、アンドレ・ドランやキース・ヴァン・ドンゲン、フェルナン・レジェ、フアン・グリス、モーリス・ブラマンクなど、当時世界中からやってきてモンパルナスに住み着いたさまざまな地域の画家たちのキャリアを発展させた。
アフリカ彫刻の時代
ピカソの「アフリカ彫刻の時代」(1907-1909)は、《アヴィニョンの娘たち》で始まる。作品の右側にはアフリカ彫刻の影響を受けた2人の女性の表情が描かれている。
この時代に生まれた理論は、その後のキュビズムの時代にもそのまま受け継がれている。
キュビスム
分析的キュビスム(1909-1912年)は、ジョルジュ・ブラックともに開発した茶色がかったモノクロと中間色が特徴の絵画様式である。その代表的な作品に《マンドリンを弾く少女》がある。
分析的キュビスムは、物体を分解し、切り抜きや断片として再構成する美術の一種である。「自然の中のすべての形態を円筒、球、円錐で処理する」というポール・セザンヌの言葉に影響を受け、明暗法や遠近法を使わない立体的な表現に発展させた。
キュビスムにより多面的な視覚効果が可能となり、それは万華鏡的をのぞいた時の感じに近いともいえるが、キュビスムにはシンメトリーや幾何学模様のような法則性はない。
総合的キュビズム(1912-1919年)の時代には、文字、新聞の切り抜き、木目を印刷した壁紙、額縁代わりに使われたロープなど、本来の絵とは異質の、それも日常的な、身近な世界にあるものが作品に導入される。
こうした技法はコラージュ、それが紙の場合はパピエ・コレと呼び、まったくそれぞれ関係のなさそうな断片をうまくつなぎあわせて新しい対象を創造した。また、アッサンブラージュの先駆けともいえる。
パリでピカソは、この時期にモントマルテやモンパルナスにいるアンドレ・ブルトンやギョーム・アポリネール、アルフレッド・ジャリ、ガートルードなどの著名な友人グループを楽しませた。
アポリネールは、1911年にルーブル美術館から《モナリザ》を盗んだ疑いで逮捕された。友人のピカソも嫌疑をかけらたものの、後に二人とも無罪として釈放された。
新古典主義
1917年2月に、ピカソはイタリアを初めて旅する。第一次世界大戦の激動の時代下でピカソは多くの新古典主義スタイルの作品を制作した。
この「古典回帰」は、アンドレ・ドラン、ジョルジョ・デ・キリコや新即物主義運動や1920年代に多くのヨーロッパの芸術家の作品において普遍的に見られた傾向である。
ピカソの絵やドローイングはしばしばラファエルやアングルから影響したものが見られた。この時期の代表作に《母と子》がある。
シュルレアリスム
1925年にアンドレ・ブルトンは、シュルレアリスムの雑誌『シュルレアリスム革命』でピカソをシュルレアリストと名付け、また《アヴィニョンの娘たち》という作品を初めてヨーロッパ中に発表した。
1925年に初めて開催されたシュルレアリスム・グループの展覧会にピカソは参加。しかしこの段階では、まだピカソはキュビスム作品だった。
展示された作品は、「シュルレアリスム宣言」にあるように、オートマティズムの概念に支えられ、心の自由な働きを示していたものの、それらは最も正確で優れたレベルにはなかった。ピカソは自分の感情を表現するために新しい様式や図像を発展させている段階だったといえる。
芸術の権威であるメリッサ・マッキランは、「1909年の間、芸術作品は強烈な攻撃性、不安、官能性を反映しているように見えた」と指摘している。
ピカソにとってのシュルレアリスム時代は、古典主義への回帰に続くプリミティヴィズムやエロティシズムへの回帰といっていいだろう。
1930年代、道化師に代わってミノトールを作品のモチーフとして多用するようになる。ミノトールは一部にシュルレアリスムとの接触から由来しており、よく象徴的な意味合いで利用される。このシンボルは、彼の伝説的な作品「ゲルニカ」にも描かれている。
この時代、ミノトールのほかにピカソの愛人マリー・テレーズ・ウォルターが、有名なエッチング作品《ヴォラール・スイート》で描かれている。《ゲルニカ》にはマリー・テレーズ・ウォルターとドラ・マールが描かれている。
1939年から40年にかけてニューヨークの近代美術館で、ピカソ愛好家で知られるアルフレッド・バルの企画のもと、ピカソの主要作品を展示する回顧展がおこなわれた。
おそらくピカソの最も有名な作品は、スペイン市民戦争時におけるドイツ軍のゲルニカ空爆を描いた《ゲルニカ》である。この巨大なキャンバスにピカソは、多くの非人間性、残虐性、戦争の絶望性を体現した。
《ゲルニカ》はニューヨーク近代美術館で長期展示された後、1981年にスペインに返却され、マドリッドのプラド美術館付属のカサ・デル・ブエン・レティーロで展示された。
1992年、ソフィア王妃芸術センターが完成し、《ゲルニカ》はそこに移され展示されることになった。
ナチス占領時代
第二次世界大戦の間、ドイツ軍がパリを占領したときでもピカソはパリに残っていた。
ピカソの美術様式はナチスの芸術的な理想と合わなかったため、この時代、ピカソは展示することができなかった。よくゲシュタポから嫌がらせにあった。
アパートの家宅捜索の際、将官たちは《ゲルニカ》作品の写真を見て、「これはお前が描いたのか?」と質問されたとき、ピカソは「ちがう、お前たちがやった(空爆)」と答えたという。
スタジオを撤収してからもピカソは《Still Life with Guitar》 (1942) や《The Charnel House》(1944–48)といった作品の制作をし続けた。
ドイツ人がパリでブロンズ像制作を非合法化するものの、ピカソはフランス・レジスタンスからブロンズを密輸して彫刻制作を続けた。
この頃ピカソは、芸術の代替的手段として書き物をしていた。1935年から1959年の間に300以上の詩を制作している。
制作日時や制作場所をのぞいて大部分は無題だった。それらの作品内容は、エロティックでときにスカトロジー的なものもあり、《Desire Caught by the Tail》と《The Four Little Girls》のような演劇作品もあった。
戦後
1944年、パリが解放されると、63歳のピカソは40歳年下の画学生フランソワーズ・ジローと情交を持つようになった。彼女はピカソよりも40歳年下だった。
ピカソはすでにドラ・マールと関係が悪くなっていたので、ジローのもとに身を寄せ、1947年にクロード、1949年にパロマという2人の子供をもうける。
ジローが1964年に出版した『ピカソとの人生』で、ジローはピカソの身体的虐待や子どもやパートナーから離れ、別の女性と関係をもっていたピカソの日常生活の実態を暴露した。
たとえば、パロマを出産後、体調を崩したジローに対して、ピカソは「女は子供を産むと魅力を増すものなのに、なんたるざまだ」と突き放し、言い返す気力もない彼女に「怒るか泣くかしてみろ」と罵声をあびせた。
ところが別れ話になると、「私が見出した恩を返せ」と激怒し、ついには「私のような男を捨てる女はいない」とまで言い放ったという。
1953年、ピカソの仕打ちに耐えられなくなったジローは、幼児を連れてパリに移住し、芸術家としての自立への道を歩み始めた。
2年後、彼女が画家のリュック・シモンと結婚して娘を産むと、ピカソは逆上し、画商とギャラリーに彼女との仕事を継続しないよう圧力をかけてきたという。
晩年
ピカソは、1949年半ばにフィラデルフィア美術館で開催された「第三回国際彫刻展」で250の彫刻作品の1つを展示した。
1950年代に入ると、ピカソは再び画風を変え、古い画家の作品を模倣し、敬愛するような作品を制作するようになる。
ベラスケスの「婦人たち」をモチーフにした作品は、ピカソの代表的な作品といえる。
また、ゴヤ、マネ、プッサン、クールベ、ドラクロワなどの作品をモチーフにしたオマージュ作品も制作している。
ピカソは、シカゴに建てる50フィートの巨大な公共彫刻の制作に意欲的に取り組んだ。その作品は一般的に「シカゴ・ピカソ」と呼ばれるようになった。
ピカソは多大な熱意をもってその彫刻プロジェクトの依頼を受けたが、彫刻のデザインは曖昧で論争もあった。しかし、1967年に完成すると、シカゴのダウンタウンで最も有名なアトラクションの1つになった。ピカソは報酬の代わりに10万ドルを放棄し、町に寄贈した。
その後のピカソの作品には、複数の技法が混在し、晩年に至るまで日常的に作風を変化させている。
この間、ピカソはより精魂込めて作品を制作し、大胆で緻密、かつ原始的な作品へと変貌を遂げていった。
1968年から1971年にかけて、ピカソは膨大な量の絵画とエッチングを制作したが、それはしばしば、全盛期を過ぎた老人の猥雑な思索に基づいた疑わしい作品と過小評価されることがあった。
その後、1980年代に新表現主義が流行し始めると、ピカソがこのスタイルを先取りしていたことがわかる。
ピカソの死
パブロ・ピカソは1973年4月8日、フランスのムージャンでで92歳の生涯を閉じた。エクス・アン・プロヴァンス近郊のヴォヴナルグ城に埋葬された。
ヴォヴナルグ城は1958にピカソが購入して、59年からジャクリーヌ・ロックと一時的に住んでいた城だった。ピカソの膨大な作品がここに保管された。何百というピカソの作品と蔵書などがこの城に移され、城はさながらピカソの個人美術館のようなていをなした。
ジャクリーヌ・ロックはピカソの子どもであるクロードやパロマの葬儀への参列をことわった。
ピカソの死後、ジャクリーヌ・ロックは、精神的な荒廃と孤独にむしばまれ、1986年に59歳のとき銃で自殺した。
ピカソの政治観
スペイン人民戦線派(共和国派)
1900年代に表面化したカタルーニャの独立運動について、ピカソは若い頃から独立派と関わり、公然と賛同の意を表明していた。しかし、フランスに住んでいたため、独立運動とは距離を置いていた。
ピカソは第一次世界大戦、スペイン市民戦争、第二次世界大戦のいずれの戦争にも参加していない。当時、ピカソはフランス在住スペイン人だったため、侵略するドイツ軍と戦う義務がなかったのが大きな理由である。
特筆すべきは、1940年にフランス国籍を申請したが、フランス政府から「共産主義の過激な思想を持っている」として危険視され、不許可になったことである。この点は、2003年になってようやく明らかになった。
1936年にスペイン市民戦争が勃発したとき、ピカソは54歳だった。戦争が勃発するやいなや、スペイン人民戦線政府(共和国派)はピカソを「不在ではあるがプラドの館長」に任命する。
ジョン・リチャードソンによれば、政府とピカソの間で、プラド美術館の美術品をジュネーブに避難させるための資金援助計画が立てられた。
スペイン市民戦争はピカソの政治作品における原動力となった。1937年にはフランシスコ・フランコ軍への不快感、怒り、反対を表現するために「フランコの嘘と夢」を制作した。また、この作品は、プロパガンダや人民戦線の運営に使われる資金を得るために、複製されポストカードとして販売された。
1944年、ピカソはフランス共産党に加入し、ポーランドで開催された「世界平和知識人会議」に参加、1950年にはソ連政府からスターリン賞を受賞する。
1953年にはスターリンを描いた絵でソ連の政策に冷淡な態度を示したが、ピカソは最後まで共産党への支持を貫いた。
ピカソの画商で社会主義だったカーンワイラーは、ピカソの共産主義的信念は思想的というより感情的であり、カール・マルクスやエンゲルスの著作は読んでいないと断じた。
1945年のジェローム・セックラーのインタビューで、ピカソは「私は共産主義者であり私の絵画は共産主義的絵画だ。しかし、もし靴屋だったら、私の政治的所属はともかく、王政を支持しようが共産主義を支持しようが、私にはイデオロギーに関係なく同じように正確に靴を作る能力がある」と話している。
ピカソの共産主義を支持する言動は、当時の大陸の知識人や芸術家の間で共有されており、長い間いくつか批判の的になった。その顕著な例は一般にサルバドール・ダリとの関係だろう。
ダリは「ピカソは画家であり、私も画家だ。ピカソはスペイン人であり、私もスペイン人だ。ピカソは共産主義だ、しかし私は共産主義ではない」と話している。
1940年代後半、ピカソの旧友でシュルレアリスムの創始者でトロツキストで反スターリン主義のアンドレ・ブルトンは、ピカソと距離を置き、連携をやめた。ブルトンはピカソに「私はピカソの共産党への入党も、解放運動後の知識人への粛清に対してピカソが取った態度に納得できない」と話している。
ピカソは朝鮮戦争時、国連と米国の介入に反対し、彼らの韓国の大虐殺を主題にした作品《朝鮮虐殺》を制作した。
美術批評家のクリスチャン・ホビング・キーンはこの作品について「アメリカの残虐行為に関するニュースに影響を受けたピカソの共産主義的作品の代表的な1つとして評している。
スタイルと技術
生涯で約5万点の作品を制作
ピカソはほかの画家たちよりも長い生涯を通じて多作だった。ピカソが制作した作品総数は約50,000点と推定されており、1,885点の絵画、1,228点の彫刻、2,880枚の陶器、120,00点のドローイング、そのほか数千点の版画やタペストリー、ラグなどがある。
ピカソが最も重視していたのは絵画である。絵画においてピカソは大胆で感情的な色彩を作品に用いていたが、色彩よりも物理的な特徴や空間の配置を慎重に判断していた。
ピカソはしばしば砂を混ぜて絵の感触を変えていた。2012年にアルゴンヌ国立研究所で物理学者が、1931年作の《赤い肘かけ椅子》をナノプローム分析したところ、ピカソ作品の多くは普通の家の屋内で制作され、また多くは人工光を頼りに夜間に描かれたものだとわかった。
伝統的素材を放棄した革新的な彫刻
ピカソの初期彫刻作品は木、ワックス、粘土だったが、1909年から1928年かけては、さらにさまざまな素材を用いた彫刻を制作している。
たとえば、1912年の《ギター》は金属板やワイヤーを利用しており、ジェーン・フルーゲルは「キュビスム絵画の三次元作品」と規定し、「伝統的な彫刻から外れた革新的な造形であり彫刻である」と評している。
多様な芸術スタイルを使い分けた
キャリア初期からピカソはあらゆる主題に関心を示していた。また、さまざまな芸術様式をいち早く取り入れ、作品に反映させた。
たとえば、1917年の《マンティラの女性》は印象派の点描方法を利用しており、1909年の《アームチェアに座るヌード》はキュビズム、1930年代は《花と女性》で見られるようなフォービスムやシュルレアリスムの影響を色濃く受けた作品を多数制作している。ピカソのスタイルの変化は生涯続いた。
1921年には、さまざまな巨大な新古典主義絵画と2つのバージョンのキュビスム絵画を同時に制作している。
1923年のインタビューでピカソは、「私が芸術制作で利用してきたさまざまな方法は美術史において進歩的な方法、もしくは未知の絵画を探るためのステップであるものと考えるのは間違いだ。もし関心のある主題がこれまでとは異なる表現方法で描きたくなったら、私は躊躇せず新しいスタイルを採用するだけだ」と話している。
ピカソのキュビスム作品は抽象性が高いが、描く対象は絶えず現実に基づいていた。彼のキュビスム絵画で描かれたものはギター、バイオリン、ボトルなどだれでも簡単にわかるものだった。
ピカソが複雑な情景や物語を表現する際はいつも版画、ドローイング、小サイズの絵画だった。《ゲルニカ》は数少ないそうした作品の中でも数少ない巨大絵画作品である。
広大な自伝的絵画
ウィリアム・ルービンによれば、「ピカソは本当に自身と関わりのある主題からのみ作品を作った。マティスの場合はそうではなく、お金を払ってモデルや絵を描いてもらうことが多かった」と話している。
また、アーサー・ダントーは「ピカソの作品は広大な絵による自伝である」と評し、また「ピカソは新しい愛人ができるたびに新しい芸術スタイルを発明した」と評している。
ピカソ芸術における自伝的な性格は、作品に頻繁に書き加えていた制作日時からも理解できる。「私はできる限り完全に記録を残したいと思っている。そのため作品にはいつも日付を入れている」と話している。
記号論の導入
ピカソは絵画や彫刻で当時流行りだした記号論をうまく取り入れて、言葉、形態、オブジェクトの相互作用を拡張した。
彫刻作品《バブーン》では、猿の頭がおもちゃの自動車に変化させ、言葉ではないイメージによる換喩表現をおこなった。
5つの並行的な弦でギターを描いた。またオブジェクトを描く代わりに言葉だけを用いたりもした。たとえば1911年の絵画《パイプラックとテーブル上の静物》では、海を描く代わりに“ocean” と言葉を書いた。
ピカソ作品の評価と所蔵
生存中におけるピカソの芸術の影響は、称賛者と批判者の2つの批評で広く認知されていた。
1939年にMoMAで開催された回顧展で、『Life magazine』は「ピカソは25年間ヨーロッパの近代美術に貢献し、ピカソの批判者たちはピカソを腐敗した影響とみなした。同等の激しさを持つピカソの友人は、彼を生きているなかで最も偉大な芸術家と」評している。
また、1998年に美術批評家のロバート・ヒューズは「パブロ・ピカソが20世紀の西洋芸術に貢献したという評価は単純である。画家も彫刻家もミケランジェロでさえも、芸術家自身が生存中にピカソぐらい広く一般的に有名になることはなかった」と評している。
ピカソがなくなったとき、ピカソは自身で多くの作品を所有していた。理由は売らないことで市場での価格を維持するためだった。追加すると、ピカソほかの多くの有名近代美術の作品を所有するコレクターでもあり、アンリ・マティスとは作品の交換もしていた。
ピカソは遺言を残さなかったので、フランス国家の遺産税は作品で支払われることになった。現在これらの作品の大半は、パリにあるピカソ美術館の核をなす作品群となっている。「青の時代」と呼ばれている初期の代表作『自画像』をはじめとして、『籐椅子のある静物』、『肘掛け椅子に座るオルガの肖像』、『浜辺を駆ける二人の女 (駆けっこ)』、『牧神パンの笛』、『ドラ・マールの肖像』、『接吻』などを収蔵している。
2003年にピカソの親戚がピカソの生誕地であるスペインのマラガに、マラガ・ピカソ美術館博物館を建設した。
バルセロナにあるピカソ美術館が所蔵する作品の多くは初期作品に焦点をおいたもので、こちらはピカソ生存中に建設されている。ピカソ美術館では、伝統的な技術を基盤にしたピカソのしっかりした基礎を鑑賞できる作品を多数鑑賞することができるのが特徴だ。美術館には、父親の指導のもとでピカソが少年時代に制作した緻密な人物画や、ピカソの親友で秘書でもあったジャウマ・サバルテスの広大なコレクションを鑑賞できる。
《ゲルニカ》はニューヨーク近代美術館で長年にわたって展示されていた。1981年にスペインに返却され、マドリードにあるプラド美術館にあるカソン・デル・ブエン・レティロに展示されていた。1992年9月、マドリード市内に国立ソフィア王妃芸術センターが開館すると、《ゲルニカ》はコレクションの目玉としてプラド美術館からソフィア王妃芸術センターに移された。
■参考文献